恋ふる聖夜
大栗もなか
第一章
1.弱気なサンタクロース
「わ、雪だ……。明日は寒くなるだろうな……」
そう言って、
十二月二十三日。クリスマス・イブの前日であった……。
夜になっても暗い空からはチラチラと白い破片が舞い降りて、窓の外に見える、散太の家のレンガ作りの庭の景色は、白く染まり始めていた。
散太はそれを窓の内側から見て、ハァ、とまた両手を温めた。ガラス窓の外がいかにも寒そうだと思ったのだ。
「さっきから何をやってるんだ?」
後ろから、散太にそう話し掛けたのは
馴鹿というより、猫だ。まるで優雅な毛並みの良い飼い猫のようだった。
時雨の片手には図書館から借りたらしき、カバーの取られた生の表紙の文庫本が一冊。それを読み耽る一方で、彼は散太の様子にチラと視線を寄越した。ペラ、とページを捲りながら、再び散太に向かってもう一言言い放つ。
「部屋ん中、全然寒くないだろうが」
そう言われ、散太はムッとする。――実は二人がいる部屋の端には、現代では中々お目にかかることの出来ない、本物の暖炉がある。
その煤で染まったレンガの中では薪がパチパチと爆ぜ、部屋の中をその炎の灯りで照らして、暖めているのだった。よって温度が寒いかと言われたら、全然寒くない。本物の火の威力は凄い。部屋はポカポカに暖まっていた。
しかし、散太は反論する。
「そういうことを言ってるんじゃないんだよ! 解るだろ、気分の問題なんだ。何しろ、明日は仕事だって言ってんのに、今頃雪が降って来たんだぜ!」
「いいじゃん。ホワイトクリスマス。」
「良くない。全っ然良くないよ!」
軽くあしらう時雨に向かって、散太は声を張り上げた。傍に立っていた窓のカーテンをシャッと閉めると、応接セットめいた部屋の中央までつかつかと寄り、寝転んだ時雨を上から見下ろした。
散太より背の高い時雨を見下ろすなんて、こうでもしないと不可能だ。散太はここぞとばかりに勝ち誇ったように、胸を張って腰の横に手を当てていた。だが、そうされた側の時雨はどこか面白そうに、自分の上を覆って影を作る散太の顔を、文庫本で口元を隠しながら見ている。余裕の表情で、使い込んで良い飴色に育ったソファのアームに脚を乗せ、散太の様子を観察する時雨に気づかず、散太は熱弁を振るうのだった。
「……解け始めれば足元はぐちゃぐちゃになるしさ。解けなかったら解けなかったで歩きにくいし。凍るかもしれないし。第一積もったら、明日、街まで出れないかもしれないじゃん!」
「……それはそうだ。」
文庫本を下げて胸の上に置き、間の抜けた返事をした時雨の頭上で、散太は自分で口にした内容にピンと来た。
「――そうだ、そうだよ。それがいい。俺たちも、明日はどこにも行かないでここに居ればいいんだよ。行けなかった、っていうことで。ホワイトクリスマスは、サンタクロースもお休み~ということで……」
「んなわけにはいかないだろ」
手のひらに拳をぽんと鳴らし、さも良いことを思い付いたように散太が言った言葉を、今度はしっかりと時雨が否定した。
「ホワイトクリスマスなんて、ムード満点。サンタも気を引き締めてかからないといけませんね……」
そう、茶化すように笑った時雨に対し、散太は今度こそふてくされた。自分こそソファの上でいかにもだらけた姿勢をしているのに、散太がサボるのは許さない時雨に、散太はイラッとしたのだった。
実は、散太の仕事は本物のサンタクロースなのだ。クリスマス・イブの夜中からクリスマス当日の早朝にかけて、人間たちにクリスマス・プレゼントを贈る。北欧から始まり、世界じゅうに広がった伝説は本物だったのだ。
ただし、伝説と違うところが幾つかある。まず、サンタクロースはこの世に一人ではない。この世に何千人、何万人と居て、願いを叶える地域を振り分けている。それから、プレゼントを与える対象も。
ある者はツリーの下に家人が欲しがっていたプレゼントを置く。またある者は、小さき子供の、形のない願いを叶えてあげたりする。あるいはある者は、老い先が短い者に対し、希望の光をプレゼントすることもある。特に、彼らの力では到底叶いそうにない願いを叶えるのが好ましいとされている。
そして散太の役割と言えば、恋の願いを叶えることであった。
元々クリスマスと言えばキリストの生誕祭で、本来は家族で過ごすものだが、現代では時代と地域とともに風習は変化し、人々の願いは多岐にわたる。散太たち、サンタクロースの心は広く、それらの願いをなるべく多く叶えてあげようという方針に基づいているのだ。
サンタクロースたちは、普段は自らの真の姿を隠している。物心ついた時には不思議な力を持っていて、周囲の人々と違うことに気付き、隠しながらもその力と共に育つのだが、ある時サンタクロースの仲間から啓示が来て、自分がサンタクロースの一員であることを知る。
そして、普段は会社員、公務員、教師、ホームレス、美容師、エステティシャン、占い師など……、それぞれの生活をしながら、クリスマス・イブの夜には、本来の仕事を全うする。それが現代のサンタクロースの生活であった。
よって明日、散太には一年に一度の大仕事が待っている。他のサンタクロースたちはここ数か月、プレゼントの確保に勤しんだり、体調を万全に整えたりして明日のために過ごして来た。
それでも散太はいまだ、その素晴らしいはずの仕事に、心から尽力しようという気持ちが芽生えないのだった。
散太には、これまで恋人が居たことがない。テレビで見たり、大学の友人の話を聞いたりする限りでは、恋愛で幸せになった人というのを見たことがない。皆、浮気で悩んだり離婚したりする。愛を経て憎しみが生まれる様子も、テレビのドキュメンタリーやニュースで良く目にする。アイドルのストーカーや、夫婦間のもつれの末の殺傷事件など……。
だから散太には、恋を叶えて欲しい人の気持ちが解らない。皆、自ら不幸になるようなものだと思っている。それを、なぜ自分が叶えなければならないのか、いまだ散太には納得がいかない。恋愛がそんなものなら、せいぜい自身たちで叶えるくらいで良いのではないだろうか。ましてや、散太が苦労して奇跡を起こす必要など。
散太は自分がサンタクロースである啓示を受けた直後の、とある年の冬に、この辺境な地域に建つ家を見つけた。街で不動産屋の張り紙を何となく眺めていたら、その一つにこの家が紹介されていた。
一番近い駅からはバスで数十分かかる上に、その駅さえも都心からは大分離れている。田舎なだけあって一戸当たりの土地は広く、辺りに家はポツポツしかない。
サンタが隠棲生活を送るにはちょうどいいじゃないか――散太はそんな自虐的な気持ちで、十代の若さでありながらここに住みたいと思った。
散太の両親はもとい、祖父母までも全員亡くなってしまっていた。いわば天涯孤独の身ゆえ、散太がここに移り住むことに何も障壁はなかった。
希望の大学もちょうど同じ方面の郊外にあるし、バスで駅まで出れば、時間はかかっても十分通える。郊外の実家から通う友達と同じようなものだ。よって散太はこの辺鄙なところに住んで、そろそろ数年になる。そして冬になると自分の存在意義について、悶々と思いを馳せる生活をしていたのだ。
今年も多分に漏れず。そして、いよいよXデーがやって来る。
これまでのことを回想し、遠くを見ながらぼうっと立ち竦んでいる散太に対し、寝転がっていた時雨は溜め息を吐いた。
それから栞を挟んだ文庫本を胸の上で畳むと、横にある古い大理石のローテーブルに置いた。それから、やっとソファから起き上がった。
床に足を着き、散太の横を素通りして部屋の端まで行くと、コート掛けから濃いブラウンのダッフルコートを取った。時雨は最近、このダッフルコートを愛用している。数年前、散太と出会った頃に着ていたグレーのチェスターコートはどうやらクローゼットに眠っているらしい。そして、彼はダッフルコートに腕を通した。
時雨の動作に驚いた散太は言った。
「ど……どこ行くの?」
そう言葉を漏らすと、時雨は馬鹿にしたようにジロリと散太を見た。
コートを着るということは出かけるということだ。本番は明日だというのに。もしこのまま時雨がどこかへ行ってしまって、明日まで帰って来なかったらどうしよう。
血相を変えた散太に向かって、時雨は呆れたように答えた。コートの上には、昔から使っている紺のチェックのマフラーを巻き付けている。
「今から、街まで行こうじゃないか。明日の予行演習のために」
「え」
そう言うと、時雨はここからでは見えない天候を伺うように、空もとい天井を仰いだ。首を真っ直ぐに伸ばして高い所を見上げる、時雨の涼やかな横顔が散太からは見えた。
「この降り具合だと、まだバスは動いてる。帰りは駅からタクシーに乗ってもいいし。……万が一大雪になっても、カラオケとか漫画喫茶とか、もしくは誰か友人の家とか、泊まれる場所はどこにでもあるだろう。むしろ明日、街に出れない可能性を考えたら、今日一足先に街に出るのもいい」
そう言われても散太が躊躇っていると、時雨は渋面を作り、腰を折ってグッと散太に顔を寄せて来た。彼は綺麗な切れ長の目を細めながら、散太に言い聞かせる。
「弱気になっていてどうする。本番は明日だ」
「し、知ってるけど……」
「ホラ、支度して行くぞ。明日の主役はお前だ」
そう言って大股で移動し、今にも玄関のドアを開けようとする時雨に、散太も急いでコート掛けからコートを取った。それに急いで袖を通す。満足そうに自分を見る時雨に向かって、散太は唇の中でブツブツと呟いた。
(――俺が主役? 俺は主役なんかじゃない。知ってるくせに……)
明日の主役は、恋の一つも知らない自分では決してない。願いを叶えてもらうカップル達の方だ。
時雨の言葉に心の中で意義を唱えながらも、散太は諦めて、玄関前で自分を待つ時雨の元へ足早に向かった。
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