羊と黒猫の三月、または選択を先延ばした僕に降りかかる災厄のはなし
上田ミツヲ
2月
2月28日 ~羊との遭遇~
「この春卒業する四年生最後の上映会だから必ず来てくださいね」というメッセージを受け取ったので、仕事帰りに出身大学であるN大学映画研究会定期上映会に顔を出した。繁華街はずれの雑居ビルの屋上で開催された。上級生のプログラムは最後の方だから、と終了間際ギリギリに会場に滑り込んだ。早くから行って後輩たちにあまり気を使わせるのも気が引ける。というか、半分以上はもう知らない顔ばかりだ。
同期たちもほとんど顔を見せない。卒業した翌年は全員揃ったが、翌年には半分以下になった。仕方ない、平日の夜だ。皆それぞれ仕事や家庭ががある。今年が4年生の時に入部してきた子たちだから、来年以降現役生は一人も知らない世代になる。こうやってここに顔を出すのも最後かと考えるとなんだか一つの時代が終わった気がてきた。
「なに辛気臭い顔してるんですか、まるで映画の主人公みだいじゃないですか。また何か仕事で失敗したんですか」
顔見知りの後輩たちが気を遣って声をかけてくれる。んなわねーだろ、と答えているうちに四年生の最終上映が始まった。
フレンチポップをBGMに、スクリーンには草原か牧場で、ひたすら羊に向けて一眼レフを向ける、白いふんわりとしたワンピースに身を包んだ乙女が映っていた。時折小首を傾げながら会話しているようにも見える。セリフはないが、フランス語の字幕が入る。読めやしねえ。
シーンが変わって、先ほどの乙女が器用にステンレスのポットからペーパードリッパーに細く長くお湯を注ぎ、くるりくるりと小さな円を描く。珈琲を淹れているようだ。次のシーンでは万年筆でブルーブラックのインクで手紙を書いている。時折、虚空を見つめ物思いに耽るアンニュイな表情が気に入った。
また、シーンがかわり弓道場の様子が映し出される。袴姿の彼女の手から放たれた弓が、的の中央を見事射抜いた。先程までの雰囲気とうってかわり、意思の強そうな目が、別人のように思われた。
小柄で可憐だが品があり、内に秘めた意志の強さを感じる、とても魅力的な乙女であった。
と、ここで唐突に映画が終わった。誰の作品か言われなくてもわかる。彼女にきまっている。入部当初、「わたし、自分の好きなものに囲まれて暮らしたいんです。好きなモノしか撮りません!」と宣言した彼女だ。結局、初志貫徹、四年間貫き通したその意志には敬意すら覚える。
上映が終わると、ショートカットに赤いベレー帽をかぶり、青いボーダーシャツ、細身のジーンズ、茶色い革靴を身につけた、先の映画の監督が拍手のなかペコリペコリと頭を下げている。ふとこちらに気づき、わざわざ挨拶に来てくれた。仏文科の四年生バンビだ。
本名 伴美智子(バンミチコ)だが、当時の部長が、区切る位置を間違えバンビ トモコと名簿に載せてしまい、以来彼女はバンビになった。当初、怒るかと思っていたが、皆が面白がってバンビバンビと呼ぶので、本人も気に入りすっかりアダ名として定着してしまった。ちなみに入力を誤った当時の部長というのが、この僕だ。
「部長見に来てくれてたんですねーありがとうございます。」
引退した今でもバンビは僕のことを部長と呼ぶ。
「ああ、一応な。最後まで君らしい作品だった。子鹿のようだった君が、もう卒業か」
「そうなんです、もう大鹿です。早いですねー、そうだ、紹介します、さっきの主演女優 羊さんです。最近お友達になったばかりです。」
ふと隣を見るとスクリーンからそのまま出てきたような、白いワンピースを重ね着し、黒のワンストラップの靴、革製のポシェットをななめがけにした、ふんわりとした茶色い前髪を斜めに分けた、乙女が恥ずかしそうに立っていた。
「バンビ。お前、お友達になったばかりの人を無理やり映画に出したのか」
「部長だって入部したての嫌がるわたしを出演させたじゃないですかー」
「ごめんなさいね、うちの子鹿がご迷惑を……」
と、謝ろうとしたが、目が合うと小さく「ひっっ」と声を上げ、小柄なバンビの後ろに隠れてしまった。
なんだ、この可愛らしい生き物は。弓をひく意志の強そうな目は何だったんだ。
「部長!羊さんいじめちゃダメですよ」
「何、先々代部長がセクハラだって?」
バンビの声を聞きつけた後輩たちが悪ノリを始めた。「また?」「はい、こちら現場。現在時刻21時15分、セクハラ発言確認しました」
とアルコールにノリを任せた後輩たちに面白がられて連行されていくうちに、遠ざかるうちに子鹿と羊は見えなくなってしまった。
その後のことはあまり良く覚えていないが、一つだけ言えることがある。
この日、僕は羊に恋をした。
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