Blue Moon
七妥李茶
プロローグ
S県にある大きな大学病院の一室、その部屋は一人の患者が四年もの間入院していた。
無機質な機械の音が真っ白な部屋の中に響き渡る。管に繋がれた一人の少女のベッドの上の方には"上島夏目"と文字が書かれていた。少女の名前だ。当の本人は瞳を閉じ、規則正しく呼吸を繰り返すだけ。その度に機械から無機質な音が鳴り響いた。
「夏目、目を開けておくれ」
優しく彼女の手を握るのは、年老いた一人の老婆。名を上島恵子。夏目の母方の祖母である。
夏目には、母も父もいない。四年前に交通事故で二人を亡くしたのだ。交通事故にあったその日、夏目と母の綾子と父の潤は旅行にいっていた。S県のすぐ隣のM県に。その旅行の帰りに、三人は事故にあったのだ。ブレーキの故障が原因だと、警察での調べもついて居た。
交通事故にあって奇跡的に生き残ったのは夏目一人。しかし、彼女は昏睡状態だ。四年の間一度も目を覚ましていない。
それでも、恵子が治療を続けるのは夏目が目を覚ますと信じているから。医者は目を覚ますことはないと、何度も告げた。このまま生かしておくのは彼女にとって苦痛でしかないと、しかし、恵子はそれを聞き入れなかった。治療を続けてくれ、の一点張り。
「夏目、目を開けておくれ」
恵子は何度も何度も夏目にそう話しかける。それでも、彼女が目を覚ます様子はなかった。
気味が悪いほどの白に包まれた部屋の中、恵子のすすり泣く声と無機質な機械の音が鳴り響いた。
ピッピッと無機質な音は飽きもせず鳴り響く。夏目はまだ目を覚まさない。もう、目を覚ましてもおかしくないはずなのだ。なのに、夏目はそれを拒むかのように眠り続けた。
「恵子さん、何度も言うようですが夏目ちゃんのためにも、治療を続けるのは…」
担当医である東雲春樹が形の良い眉間に皺を寄せながら、そういった。さらりと揺れる赤茶の髪は窓から差し込む光に反射し、黄金色に輝く。少し垂れ目の黒い瞳は諦めの色を示しながら、恵子を見つめて居た。
「お願いです、この子の治療を続けてください。私のたった一人の孫なんです」
「やめてください、頭なんか下げないでください恵子さん」
「お願いです、先生」
目を覚まさない夏目の手を握りしめながら恵子は、頭を下げ何度も懇願する。その強い意志に負けてか、それとも好きにすればいいと呆れたのか春樹は治療を続けましょうと一言。
「よかったね、夏目」
手を握っていた手とは反対の手で優しく夏目の頭を撫でた恵子。春樹が病室を後にしようとしたその時、ピッと機械から希望とも言えるのような音がした。
「夏目!?」
恵子は機械と夏目を交互に見つめ、少しずつ反応を示し始めた彼女の名前を強く呼んだ。
「夏目!私よ、おばあちゃんよ!」
この時しかない、そう思ったのだろう。病室の外にまで聞こえるような声で恵子は叫んだ。春樹は急いで、ナースコールを鳴らす。患者が目を覚ますかもしれない、そう思ったから。
「夏目ちゃん!」
「夏目!」
春樹と恵子の悲痛の叫びが届いたのかうっ、小さく唸るような声が聞こえるとゆっくりと夏目が目を開いた。長く伸びた睫毛に、ショックで少し色の落ちてしまった栗色の髪、淡い茶色い瞳は焦点が合わずゆらゆらと揺れている。
四年ぶりに夏目が目を覚まし、恵子はその場に泣き崩れるようにして夏目の目覚めを喜んだ。春樹は治療をやめずによかった、と心の底から歓喜した。
「夏目ちゃん、自分の名前はわかるかい?」
「かみ、じま…なつめ…」
「そう、上島夏目だよ。じゃあ、この人はわかるかい?」
「おばあちゃん」
「名前は?」
「けいこ…」
脳に異常は見当たらず、記憶障害も起こしていなかった。ぼうっとした目つきで春樹を見つめるその姿に看護師は、幽霊のようだと心の中で密かに呟いた。
長く日を当たらなかったせいか、夏目の肌は異常なほど白く、色素の薄れた髪がそれをさらに際立たせていた。栄養も十分に取れていないせいか、痩せ細った身体は手で触れただけでは折れてしまいそうなほど細くなっていた。
「よかった、よかった…夏目が目を覚まして本当によかった…」
恵子は涙ぐみながら、夏目を抱きしめた。夏目はうっと小さく唸ると、ぎこちない笑顔を恵子に向けた。
「おばあちゃん、お母さんたちは…」
そう、夏目は知らないのだ。綾子と潤がこの世にいないことを。恵子はそれを夏目に話さなくてはならない。母親が、父親がこの世に既にいないことを夏目に知らせなくてはならないのだ。
「夏目…よく、お聞き。綾子は、お前のお母さんとお父さんはもうこの世にはいないんだよ。四年前、お前たちが旅行にいったあの帰り事故にあって死んでしまったんだ」
恵子はなるべく、優しい口調で夏目に真実を包み隠さず伝えた。それは、十五である夏目にとったらあまりにも酷なことだとは思ったが、知らせずに嘘をつき続ける覚悟は恵子にはなかった。
「…そう、なんだ」
小さく呟くと夏目は何も言わなかった。予想していたのか、あるいは既に気づいていたのか。それは誰にもわからなかった。
「夏目、これからおばあちゃんの家に来なさい。おばあちゃんと暮らそう」
そういいながら夏目の頭を撫でる恵子。夏目は断る理由もなく静かに頷いた。
それから夏目はあり得ないほどの勢いをつけて、回復していった。退院予定を一ヶ月も早めるほどの早さ。
夏目が退院をしたのは目を覚ましてから半年後、蒸し暑い夏の日のことだった。
「夏目ちゃん、よくがんばったね」
担当医の春樹は優しく目を細め、夏目の頭を撫でながら病院のタクシー乗り場でそういった。夏目は両手いっぱいに花束を抱え、看護婦や医師たちからの色紙を大事そうに見つめながら礼の言葉を述べた。
「もし何かあったら、誰かに頼ってもいいんだからね」
「はい、ありがとうございます」
「じゃあ…夏目、行こうか」
恵子に手を引っ張られ夏目はタクシーに乗り込んだ。春樹を先頭にした今まで世話になった医師や看護師たちに見送られながら、彼女は四年も世話になった病院を後にした。
恵子の住む場所はS県の田舎町で、自然に囲まれた場所だった。高い高層ビルはなく、田園や木々に囲まれた落ち着けるような場所。その場所は夏目の傷ついた心を癒すには十分すぎるところだった。
「夏目、これから私は市役所にいってくるからお前は家に上がってなさい。部屋は、昔泊りにきていた場所でいいかい?」
「うん」
「それなら、荷物を運んで休んでなさい」
そう言い残すと恵子は軽トラックで、家の坂を下っていった。夏目は言われた通りに自分の荷物を持ち、昔泊まっていた場所……家から入ってすぐ横の角を曲がったところにある部屋を目指した。
ギシギシ、と古くなった床が悲鳴をあげていた。夏目は息を切らしながら歩いていた。病院のベッドの上で眠っていることが多かった彼女にとって、少しの距離さえ辛いものに感じてしまっていた。
「っはあ……ついた」
引き戸になっている扉を開けると、畳の独特の香りが鼻をつき夏目は少し顔を引きつらせた。
部屋の中には昔と変わらない、小さな勉強机と棚が一つずつ置いてあるだけで、シンプルなものだった。ベッドではなく敷布団、クローゼットなどなくプラスチックのクリアケースが二、三個置いてあるだけだった。
「……疲れた」
夏目は荷物を放り投げ倒れ込むようにして、畳の上にうつ伏せになって転がった。ざらざらした畳の感触が懐かしくて目を閉じる。
…ーこのまま眠ってしまいそう
夏目は突然襲ってきた眠気に叶わず、そのまま目をゆっくりと閉じた。
目を閉じた夏目が次に目を開けた時、そこには畳のある部屋ではなく白を貴重とした部屋の中には一人ポツンと寝っ転がっていた。慌てて体を起こして辺りを見回して見るが人っ子一人いない。よく、目を凝らして見てみれば目の前には丸い形のテーブルとそれを挟むように置かれた二つの椅子があるだけ。テーブルの上には豪華とも言えないが簡単なお茶菓子と紅茶の入ったティーカップが用意されていた。
「やぁ、お嬢さん」
「ひぃっ!?」
ぽん、と肩を突然叩かれ夏目は悲鳴をあげた。叩かれた方へ顔を向ければ、そこには誰もいなかった。
「い、今誰かに肩を…」
確かに叩かれたのだ。それは間違いない。夏目は頭の中でそう思った。しかし、後ろには誰もいないのだ。そんな中誰が自分の肩を叩くというのだ?
「お嬢さん、こっちこっち」
今度こそ間違いない、と思った夏目は声のした方へ顔を向けた。向けた方向は先ほど見ていたテーブルがある方だった。椅子に優雅に腰掛けティーカップを口にする一人の男が座って、こちらを見ていたのだ。
「だ、誰…なの?」
夏目の質問への答えは無く、男は優雅に紅茶をすする。そして、ふわりと夏目の体は宙に浮き引き寄せられるかのように男の目の前の椅子に座らされた。
「さて、まずは自己紹介をしようか」
にこりと微笑むと男は勝手に話し始めた。突然の事に夏目は状況をうまく読み込めず、言葉を詰まらせるばかりだった。
「私の名前は白うさぎ。よろしくね。君の名前は上島夏目、合ってるね?」
どうして、私の名前を知っているの?と言いたげに夏目は顔をしかめる。それを気にもせずに男……白うさぎは、話しを続けた。
「いきなり本題に入らせてもらうよ。君は生きたいかい?それとも、死にたいかい?」
「え…」
「今君がいるこの場所は生と死の狭間だ。まぁ、簡単に言うと君は生きてもいないし死んでもいない」
ぶっ飛んだ話しだ、と夏目は心の中で思った。そんなはずがない、これは悪い夢なんだ、自分に言い聞かせるように心の中で何度も呟く。
「いや、死んでるのかな?君は上島恵子の家に帰ってきた瞬間、眠るように死んだんだ。まだ、彼女は君を見つけていないようだけどね」
ポチャン、と音を立てて紅茶の入ったティーカップに角砂糖を入れていく白うさぎを夏目は睨みつけるようにして見つめた。
「その話しが本当ならここは…」
そう、白うさぎの言うことが本当の話しならば夏目は既に死んでいて生きているはずがないのだ。それならば、何故ここに自分はいて誰かと話しをできているのか、夏目には不思議で仕方がなかった。
「ここはね、さっきも言った通り生と死の狭間なんだ」
「はざ、ま…」
「そう、狭間。簡単に言うとこういうこと」
白うさぎは角砂糖を手に取るとポチャンと音を立ててティーカップの中に落とした。夏目は意味がわからず首を傾げる。
「この砂糖が落ちるのは一瞬だったろう?」
「え……あ、はい」
「この世界はこの砂糖が落ちる一瞬なんだ。一秒もかからない一瞬の世界…」
「一瞬…の、世界?」
「うん。だから、君はまだ曖昧なんだ。生きてるのか死んでるのから曖昧なんだよ」
笑顔を崩さずに白うさぎは、ティーカップを持ち上げ紅茶を口にする。夏目は今説明されたことを理解しようと必死に、考えた。
「……まぁ、そんなことは置いておいて。君は生きたいかい?それともこのまま死にたいかい?君にはそれを選ぶ権利があるんだ」
いつまでも悩み続ける夏目に痺れを切らした白うさぎが、そう優しく話しかけた。
「……いき、たい」
まだ、死にたくはない。それが夏目が出した答えだった。それもそうだろう。夏目はまだ十五の少女だ。やりたいこともたくさんあるだろうし、ここで死にたいなど思うわけがなかった。
「それじゃあ、話しは簡単だね。これから君はパラレルワールドに行ってもらおうかな」
「パラレルワールドって……よく、漫画や小説とかで出てくるようなパラレルワールドのこと?」
「うーん、似たようなものかな?まぁ、なんでもいいや。とにかく、君にはそのパラレルワールドに行ってもらうよ」
パラレルワールドとは簡単に言えば、この現実とは別に、もう一つの現実が存在するということ。その現実が存在するか否かは誰も検証のしようがなく、真実はわからない。
夏目はもう一つの現実に興味はあったが、それと先ほどの質問はなんの関係があるのだろうと首を捻った。
「あの…その、さっきの質問とそれはなんの関係が…?」
「"五年に一度青い月がのぼり、午前0時に青い月に願いを願えばその願いは叶う"という言い伝えがあるんだ。実際にその願いは叶った人もいるらしい」
「え……あ、のそれが…?」
「君にはその資格がある。白うさぎであるこの私が言うから間違いない」
話しについていけない夏目を置いて、白うさぎは話しを続ける。いつの間にか優しく微笑んでいたはずのその表情は、恐ろしいほど殺気立っている表情になっていた。
「一週間後に青い月がのぼる。そのときに願いを言うんだ。"生きたい"…そう強く望めば、願いは叶う」
なんて無責任な、と言いたげな表情の夏目。白うさぎはにこり、と微笑むと言葉を続ける。
「一週間って、私の体は…」
「大丈夫。さっきも言っただろう?この世界は一瞬なんだ」
何度も大丈夫大丈夫、と呟く白うさぎだったがそれが逆に信用ならなくて嘘臭かった。この男はきっとなにか大事なことを隠してる、夏目は直感的にそう思った。
「案内人を二人送っておいたから、詳しいことは彼らに聞くといい。さあ、もうお行き。君はここにいるべきじゃあない」
「ちょっ、ま、待って…!」
「待て、はないよ。ほら、お行き」
トン、と肩を押され後ろに体が傾く。今まで椅子に座っていたはずなのに、椅子を通り抜けそこの見えない暗い闇に夏目は落ちていく。最後に見たのは、悲しげに微笑む白うさぎの姿だった。
夏目は思ったあまりにも自分勝手すぎる終わり。信じられないような夢物語。そんな始まりで夏目の生きるための一週間が幕を開けた。
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