98 呼び合うものⅤ
壁にかけられた灯が、正面に座る男を浮かび上がらせている。
「こいつは……」
つぶやいたサスのかすれ声に、相手からの返事はなかった。
一階の書斎である。
屋敷の内部は一本の廊下がぐるりと通してある。キーファと別れた食堂から見て、書斎は中庭を挟んだ斜向かい――南東の角部屋に位置していた。
風が窓ガラスを叩き、カタカタと神経質そうな音を立てる。
サスは我に返り、
「ハズク……」
声に出してみる。間違いないと思った。
男は、ハズクだ。
蛇のギルドに捕らえられたサスが、軍港で見た男。
人身売買に深く関わっているであろう人物。
そのハズクが死んでいた。椅子に深く腰かけた姿勢で、両手をひじ掛けの外側にだらりと落とし、虚ろな視線を宙へと投げかけている。
「こいつの屋敷だったのか」
書斎机には呼び鈴が伏せて置かれていた。死体に近づいていくと、腹あたりに短剣が突き刺さっているのが見えた。
「誰が……」
衣服に染み出した血は、いまだ
争った形跡はない。
――犯人は顔見知りか。
もしくは顔見知りに見せかけた偽装工作か。
サスは死体を乗せた椅子を足で押し出すと、机の
――死人に口なし、か。
ハズクが人身売買に関わっていた証拠――蛇のギルドとの取引を示す書類を期待したが、甘い目算だったらしい。
シィルの居場所もわからないままだ。
最後の本を戻し、サスは息を吐く。日に灼けた顔に苛立ちを滲ませながら、それでも、このタイミングでハズクが暗殺されるのは、何かしらの意図を感じずにはいられない。
ウル・エピテスを覆う闇。
サスが秘密を暴こうと近づけば近づくほど、その闇はいよいよ深く、邪悪な意思によってすべてを覆い隠そうとする。
――まったく、俺の手には余るぜ。
冷たい予感に、サスはかすかに身を震わせた。と、その時、サスの服の下で、何かがもぞもぞと動きはじめた。外套の裾がめくれ、白緑の光が宙へと舞い上がってくる。
「カジャか?」
あわててサスが呼びかけると、光はサスの鼻先で止まった。
ちんまりとした少女の風精が、むすりと唇を尖らせている。一目でそれとわかる不機嫌顔だった。
「――なんだ?」
目を寄せ、サスが訝しんで訊くと、
「遅い……」
第一声がこれである。
「おいこら」
たまらずサスは言い返した。
「これでも急いだつもりだぜ」
「……うるさい」
カジャはつんと顎を持ち上げた。風精は小人のような大きさだが、顔立ちは整っている。巻き毛の髪に円らな瞳は可憐と言ってもいい。
だからこそ、いちいちの態度が癪に障って仕方がない。
サスはこめかみに青筋を浮き立たせながら、
「まぁいい――」
自制心を総動員して、言った。
「しかしな、カジャさんよ。肝心のシィルがどこにもいねぇんだ。あんたが言うにゃ、この屋敷にいるってことだったが?」
カジャは、コクリとうなずいた。
「……いる」
「なに?」
「……ここ」
カジャは目の前の本棚を指さした。じっと本棚に顔を向けたまま、
「早く行け……馬鹿サス」
「待てコラァ!」
ダメ押しの罵声に、サスの堪忍袋の尾が切れた。
しめてやる、そのとんぼみたいな羽をむしってやる、とばかりにカジャを掴みかけるも、透明の身体はサスの手をすり抜け、逆に鼻面に蹴りを入れられた。
思わぬ反撃を喰らい、
「くそ! 卑怯じゃねえか」
地味な痛みにサスが鼻を抑えていると、くすくすと笑い声が聞こえてきた。
顔を上げると、目の前に浮かぶカジャが笑っていた。おかしくて我慢できないといった様子で、
「……馬鹿サス、馬鹿サス」
手を叩き、繰り返しては喜んでいる。その笑顔は無邪気そのものだ。人間の子供がはしゃぐのとまったく変わらない。
サスは舌打ちをして、
「サスさん、だろうが」
乱暴に頭を掻いた。憎々しいが、それ以上の怒りが湧いてこない。子供に対して本気で腹を立てる自分はどうなのか、という引け目もあった。
そうしているうちに、カジャは笑い声を残してさっさと消えていく。
「だから、待てっつってんだろうが……」
仏頂面で文句を垂れながら、サスは本棚を見上げた。
「ここにシィルがいるって?」
まさか本に挟まっているわけではないだろう。あの非常識なエルフならあり得なくもないが、すでに本は調べ終えている。
だとすれば……。
サスは本棚の側板を掴むと、試しに左右に揺すってみた。それほどの力を込めたわけでもないのに、思った以上に大きく揺れた。
――なるほどな。
しゃがみ、床の隙間に顔を覗かせた。本棚を支える脚に車輪が取り付けられている。その車輪を受ける床側には前後に動かすためのレールが敷かれていた。
得心し、立ち上がる。本棚を手前に引くと、車輪がスルスルと回り、簡単に半分ほどをズラすことができた。
本棚の裏に回り込み、サスはひとりうなずく。
壁に、穴が開けられていた。燭を手に取って照らすと、地下へと下りる階段が続いている。
黴臭い冷気が、穴の奥から流れ出てくる。
「シィルはここか」
サスはためらうことなく秘密の階段へと身を滑らせた。
灯がなければ自分の身体さえ見えない闇のなかを、サスは地下へと下りていく。
二十段ほど下ったところで、底に足がついた。振り返って入口を見上げると、ちょうど一階分ほどの高さがあった。
十歩ほどで扉にぶつかった。重厚な木の扉は鉄で補強がされており、覗き穴が取り付けられている。穴のむこうに光はなく、
「不用心なこった」
意を決して入ると、広間ほどの大きさがあるようだった。扉から通路が真っ直ぐに伸びており、ちょうど室の中央で横の通路と十字路を作っている。四つに区切られた空間は、それぞれが鉄格子を張り巡らせた牢屋になっていた。
灯を掲げ、注意深く暗闇に目を凝らしていると、
「誰です?」
聞き覚えのある声に、サスは眼を見開いた。
「シィルか!」
あわてて声を返すと、「サス?」とやや離れた位置からシィルの声が響いてくる。
まだ暗がりに慣れていない眼で、サスは通路を進んでいく。灯を消さぬよう、一歩一歩、ゆっくりと歩かなければならないのがもどかしかった。
それでも、通路を進むうち、闇のなかにぼんやりと人影が浮かぶのが見えた。近づくにつれ、影が色を帯びはじめる。
闇の中できらめく白金の髪と、光に当たって白々と透き通るような肌は、間違いなくシィルだ。
鉄格子を掴んだシィルが、こちらに濃緑の瞳を向けている。
「よぉ」
なんとなく気恥ずかしさを感じ、サスが手を挙げるも、シィルは何も言わない。じっとサスを見上げてくる。
「その、なんつーか、待たせたな」
シィルの身なりは、人買い船で見たものと同じである。首で留めた袖のない上衣は、
服装自体に乱れはない。が、よくよく見てみると、腿や腕のあちこちに
よほど怖い思いをしたのだろうか。
――もしか。
やはり間に合わなかったのだろうか。
サスの脳裏に不吉な想像がよぎった時――
「遅い!」
突然、シィルの怒声が地下牢に響き渡った。
「今まで何をしていたのですか、あなたは!」
これまでの無反応が嘘のように、猛然と食って掛かってくる。
「いや――」
「なぜ私がこんなところに閉じ込められなければならないのですか! まったくもって意味がわかりませんわ。ええ、意味がわかりませんとも! サス、いいですかサス!」
「いや、だから――」
「サスサスサス! その貧相な小耳をかっぽじってよくお聞きなさい、サス!」
そこで、すぅぅ、とシィルは息を吸い込み、
「遅い! ですわ!」
「だぁ、うるせぇ!」
あまりの理不尽さに、今日二本目の堪忍袋の緒が切れた。
「俺ぁ、忙しいんだ! テメェみたいな間抜けエルフはな、助けに来てもらっただけでもありがたく思いやがれってんだ!」
怒鳴り返してやると、シィルは数秒間、目を白黒させた後、「んまぁ!」と、全身を震わせはじめた。
「信じられませんわ! この男、逆切れしましたわ!」
「逆じゃねぇ! まっとうにキレてんだ、俺は!」
きぃぃ、と怪鳥がするような叫び声を上げ、シィルが詰め寄ってくる。が、ふたりの間を仕切る鉄格子の存在を忘れていたらしく、思いっきり額を打ちつけ、
「ああ!」
ばいーん、といきおいよく弾き返され、シィルは盛大に尻持ちをついた。
「痛ったぁ……」
両手で額を撫でさすりながら、「なんですの、もう!」と、恨めしく鉄格子を蹴りまくっている。
「ぶはっ!」と、たまらずサスは噴き出した。
「ぶははははは! 馬鹿だ、ここに馬鹿がいるぞ!」
「ぬぅぅぅぅ!」
笑いながら、サスは中腰になってシィルを見下ろした。
「おい、思い知ったかエルフの皇女さんよ。これが天罰ってやつだ」
清々しい気持ちで言ってやると、シィルの全身がいっそう激しく震えはじめた。あまりの怒りで物も言えないらしく、ひたすら足をばたつかせている。
――ちと言い過ぎたか。
思いかけたサスだったが、実際、助けに来てやったのだ。これぐらいの憎まれ口を叩いたとしてそれこそ罰は当たるまい。
「ほれ、立ちな」
サスが鉄格子の隙間から手を差し出してやると、シィルは無言のままサスの手を掴み――
「おがぁ!」
サスの絶叫が響き渡った。
シィルが、サスの手に噛みついている。
「痛ってええええ! ふざけんな馬鹿! 信じられねぇ!」
サスは暴れて手を引こうとするも、シィルの怒りは収まらない。逆にサスの手を引っ張り返し、
「ふまぁみろでふわ!」
これでもかと歯を立ててくる。
「離せ、馬鹿! こんなことしている場合じゃねえだろうが!」
「ひっはこっははりまへんは!」
「何言ってるかわかんねえんだよ、馬鹿!」
ぎゃあぎゃあ騒ぎながら、サスが「わかった、俺が悪かった! だから離せ!」と、ようやく折れて謝ると、ぴたりとシィルの動きが止まった。
ほっとしかけたものの、サスはすぐに気づく。
シィルの瞳が、なぜかサスではなく、部屋の入口へと向けられている。
ひどく嫌な予感がした。
サスはおそるおそるシィルの視線を追い、
「……言わんこっちゃねぇ」
喉の奥でうめく。
そこに、銀髪の化け物が立っていた。
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