89 春宵一擲Ⅶ
ぼやけ、明かりに照らされた天井が、近づいては遠ざかっていく。
腹に、濁った水が溜まっている。
恐ろしかった。
不快だったはずの
痛みが、和らぎはじめている。
その痛みが完全に止まったとき、自分はどうなってしまうのだろう。
「イスラ……」
黒い狼が、自分を覗き込んでくる。
懐かしい光景だった。この世界に生まれ変わったばかりのティアが、棺の中から見たもの――朽ちた教会の屋根からのぞく、
そのイスラが、何事かを自分に話しかけてくる。
――聞こえない。
イスラの顔とともに、天井が、伸縮している。その天井の黒い染みもまた、どくり、どくり、と脈動するようだった。
疼きが、身体を上りはじめた。
その不快さに、強く眼を閉じた。眉間に深い皺が刻まれる。
――イスラ、この黒い染みを、オレの身体ごと切り取ってくれ。
必死で叫ぶも、イスラには届かない。
頭がおかしくなりそうだった。
肥大した黒い染みに、意識が呑み込まれていく。
『――逃げちゃおっか』
カホカが、ひひ、と悪戯っぽく笑う。
ウル・エピテスに向かう途中、馬車の中で尋ねられた言葉。
――オレは、なんて答えた?
なぜ、自分は逃げなかったのだろう。
何もできない。
弱く、悩み続けるだけ。周囲に不幸を振りまく存在でしかないのに。
吸血鬼であることにさえ徹しきれず、迷い、戸惑い続ける自分を、なぜ、イスラは蘇らせた?
人の心を残したまま、復讐鬼にさえなれずに……。
「う……ぅ……」
黒い染みは腹の疼痛とも重なり、腹から胸、そして首を上り、ティアの顔へと近づいてくる。
視界が暗くなっていく。やがてこちらを覗き込み、何かを話しかけていたイスラが、完全に見えなくなった。
……。
黒いなか、闇のなか。
…………。
狼の遠吠えは聞こえず、ひっそりと身を縮め、ティアは棺桶の中にいた。
――ずっと、ここがいい。
誰にも迷惑をかけず、ずっと眠っていたい。
それなのに、放っておいてくれない。
棺桶の
「もう、嫌なんだ」
なんで、こんなことをする。どうして簡単に殺してくれない?
ずれた蓋の隙間が、少しずつ広くなっていく。
誰かが開けようとしている。
ティアは悲鳴を上げた。がたがたと震えながら、瞳を閉じることさえできない。
「開けるな! お願いだからこっちに来ないでくれ!」
大声で叫ぶと、蓋の動きがぴたりと止まった。
「止まっ……た?」
一瞬、安堵しかけたティアだったが、それはより深い恐怖への先触れに過ぎないことを知る。
隙間から誰かがこちらを覗き込んでいる。
ティアは声が
蛇の瞳が、にたりと笑った。
◇
叫び続けていたティアの声が、ふいに止んだ。
絨毯の上に横たわっていた身体が、ごろりと仰向けに転がった。瞳は揺れ、浅く早い呼吸をつきながら、高熱を発したように顔が赤い。
「どうなってるんだい?」
おそるおそる近づいてくるレイニーに、「わからぬ」とイスラは言下に告げる。
苦しむティアを、イスラは見下ろしている。狼のまなざしのため人にはその感情を読み取りづらいが、めまぐるしく考えている。
――我が手落ちか。
ティアの苦しみ方が、朽ちた教会で吸血鬼化した時の姿を思い起こさせた。
――しかし、この紋は……。
イグナスから流し込まれ、浮き上がってきた蛇の刺青、これが謎だった。単純に内部から食い破る力であれば、それを修復する力がティアにはあるはずなのだ。強引だが、無理やり引き剥がしてしまう手段もある。
それ以前に、吸血鬼は闇の者として、人間よりもはるかに強く身体を常態に留めておこうとする力が働く。その最たる特長が不老や、損傷した肉体の修復機能であり、髪が伸びないといった現象もそれゆえである。
体内に異物が入れば、それを拒む力が働かなければおかしい。
だが、ちがう。
蛇の刺青は、ティアの魂に食い込みはじめている。
そこで思い当たったのが、ファン・ミリアにも伝えた、
『私とティアとの関係に
という言葉だった。
イスラとティアとの関係は、一種の契約に基づいている。
タオが死に、その魂であったものに、イスラが呼びかけた。その呼びかけに応じて現世に舞い降りた新しい命がティアだ。
これ以降に、ティアの魂に異常はなかった。
とするなら、ティア以前――つまりタオであった時に、イグナスから何らかの契約を持ちかけられ、印をつけられたのではないか。
生前のタオとイグナスには接触があった。
けれども印は印でしかない。イスラとティアが契約できた以上、いわば『仮』のようなものだったにちがいない。
タオとイグナスの間にどんな会話がなされたのか、イスラには知る由もない。
――しかし。
それらすべてが当を得ていたとして、それでもなお、吸血鬼たるティアにはイグナスの紋を
あくまでティアはイスラと契約しているのだ。それとは別の、仮の契約が効力を発揮する道理がない。
だから結局のところ、問題はティアなのだ。
――吸血鬼としての自分が受け入れない。
そんなところだろうか。
人と吸血鬼との間で迷うことは、けっして悪いことではない。ティアでなくとも、人は誰しも自分が何者であるかで悩み続けるものだ。
吸血鬼として蘇ったのは復讐のため、そうティアが考えていることをイスラは知っている。
「ちがう」
とイスラが伝えてやることは簡単だが、ティア自身が真実そう思わなければ意味がない。
なぜなら、迷いとは己を肯定することでしか解消されないものだから。
復讐者としてあらねばならない、というティアの心は、人の心の動きとして、けっして間違ってはいない。間違っていないからこそ、ティアの苦しみは深い。
――気づくのだ。
イスラはもう願うことしかできない。
必要なものは、すべて渡し終えている。
かつて、タオ=シフルであったもの。いまは、タオ=シフルではないもの。
たしかにティアを吸血鬼へと促したのはイスラだ。しかし、再び現世に生まれ落ち、吸血鬼となることを選び取ったのは、ティア自身に他ならない。
その時――
見下ろした先のティアに、変化があった。
瞳の周辺に、痣のような黒い染みが浮きがってくる。それが蛇の形を作るのに大した時間はかからないかった。蛇の瞳とティアの瞳とが重なり合う。
「……ティア、駄目か」
「なんだって?」
「邪魔じゃ」
怪訝な表情を浮かべるレイニーを、イスラが後ろ脚で弾いた。自身も横に跳ぶ。
ティアの周囲に黒い沼ができていた。
「……シロイ」
ティアのものとは思えぬ、かすれた声だった。金属をこすり合わせたような耳障りな音が、重なり合うように響く。
「……シロイ……シロイ……セイキシダン……」
つぶやきながら、ティアは黒い沼に沈み、消えていく。
「痛ったいねぇ」
ティアが姿を消し、しんと静まり返った廊下で、イスラから弾かれたレイニーが身体を起こした。
「なにしてくれ――」
文句を言いかけたレイニーが、黒狼を見たとたん、言葉を失った。
残され、ティアが消えたあたりを見つめる琥珀の瞳が、とても寂しそうに見えたからだった。
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