74 嵐の中でⅤ(前)

 王都ゲーケルン、北西地区。

 鷲のギルドよりもやや中央広場に寄った位置に建つ、集合住宅アパートの三階部屋にて。

 ドア越しに、トン、トン、トン、と軽やかに階段を上る足音が聞こえてくる。

「できましたよぉ!」

 元気のいい声とともに、溌剌はつらつとした少女が部屋に入ってきた。ランプの光に、巻き上げた臙脂色の髪と、オレンジの瞳が映える。

 まくった袖から伸びる腕や、ほっそりとしたうなじは少女よりも少女らしく、褐色の肌は光沢を帯びるようだった。だが、キバルジャナ――キーファはどれだけ少女に見えようとも『彼女』ではなく『彼』である。

「じゃーん!」

 キーファは得意そうに両手で持った大皿を見せると、

「今夜は焼肉ですよー! 食べやすく串に刺しましたよぉ!」

 屈託のない笑顔で告げるも、返事はない。

「……むぅ」

 わかってはいた。わかってはいたのだけれど……。

 キーファは不満げな表情を作り、部屋の中央に陣取って座る、ふたりの大人を見回した。

 この部屋の主であるトゥーダス=トナーと、キーファの伯父であり教師でもあるユーリィ=オルロフが、真剣な表情で向かい合っている。こちらを気にする様子もなく――というより多分、ふたりはキーファの声さえ聞こえていないのだろう、本で作った卓に置かれた盤上の駒を熱心に見つめていた。

 ふたりはチェスに興じていた。

 しかも、常人には信じられないくらい集中して、である。

「大先生、先生」

 ふたりを呼びながら、キーファは盤の隣に大皿を置いた。串に刺し、網の焦げ目がうっすらとついた豚肉は、キーファの自信作だ。こんがり上手に焼けたと思うし、ちゃんと栄養が取れるよう、下には野菜を敷き詰めてある。おいしく見えるよう、彩りだって気にした。

 なのに、である。

「トナー先生、ユーリィ先生ってば」

 もう一度声をかけるも、ふたりはこちらを見向きもせず、まったくキーファの料理に関心を示そうとしない。

 食べる気がないなら放っておけばいい、とはキーファも思うが、そうするとふたりは勝負が終わるまで料理に手をつけないだろう。そして、勝負が終わった後にふたりがお腹を空かせ、冷めておいしくない料理を食べている姿を想像すると――ちょっとかわいそうな気がしてしまう。

「はぁ……」

 仕方なくキーファは串を手に取った。

「はい、先生。あーんしてください」

 キーファが言うと、ユーリィが口を開いた。視線は盤面に落ちたままである。

 ――食べ物を近づければ反応するんだよなぁ。

 拗ねた顔を作りながら、それでも串の肉を口に運んでやる。

「熱いですから気をつけてくださいね」

 タレをこぼさないよう、手を添えて食べさせてやると、

「キーファ」

 口に入ってきた肉を、もぐもぐと咀嚼そしゃくしながらユーリィが言った。

「はい!」

 せめて、おいしいと言ってほしい。期待を込めてキーファが返事をすると、

「熱いぞ」

「えぇー……」

 がっくりした。

 ――だめだ。この人には家事の苦労はわからない。

 ていうか、熱いってちゃんと言ったのに……。

 思いながらもキーファは、ふぅ、ふぅと息を吹き、「どうぞ」と、もう一度食べさせると、

「キーファ」

「はい!」

 今度こそ、と思って目を輝かせると、

「喉が渇いた」

「……はい」

 キーファは思った――この人はダメな大人だ、と。

 諦め、陶器の杯に注いだ茶を飲ませてやると、今度はトナーのほうを向く。

「大先生も食べてください」

 ユーリィと同じように豚串をトナーの口まで運んでやる。すると、トナーもまたユーリィと同じように入って来た肉の咀嚼をはじめた。ユーリィもトナーも、まるで肉を入れたら自動的に口を動かす機械人形のようだ。

「キーファ君」

 名前を呼ばれた。トナーもやはりこちらを見ず、盤面に視線を落としている。

「はい!」

 キーファは感動した――やっぱり大先生はわかってくれているんだ、と。

 嬉々として返事をすると、

「このタレは生姜ショウガを効かせてあるようですね」

「え、あ――はい」

 呆気に取られてうなずくと、トナーはそれきり黙り、ただ肉を食べていく。

 どれだけ待っても二言目を発する様子はない。

 ――なんなのー!

 キーファは心の中で叫んだ。

 なんでタレの確認? タレを確認する前に、普通は「おいしい」って言うんじゃないの?

「この人たちって……」 

 キーファは深く肩を落とした。

 ――これだからきっと、大先生も先生も結婚できないんだろうな。

 何かのずば抜けた能力を持っていると、別の何かが片手落ちになる好例である。

「普通が一番なのかも……」

 ふたりを反面教師にしながら、自分も焼肉を頬張る。

「せっかく美味しくできたのになぁ」

 ひとりで食べる食事は寂しいものだが、三人で食べているのに寂しい気分を味わうのは、いかがなものか。

 時間をかけて交互に肉を食べさせ、最後にトナーとユーリィの唇についた油を拭き取る。

「ごちそうさまでした」

 ひとり言い、キーファは大皿を持って部屋を出た。

 しょんぼりと一階へ下りていく。

 一般的な庶民の集合住宅において、厨房は一階だけに作られることが多い。煙の排気の問題や、火事の危険を避けるためだ。

「なんだか、家事の能力ばっかり上がってる気がするよ」

 愚痴をこぼしながら、貯めてある水桶を使って食器を洗う。次の住人が使えるよう、きちんと厨房の後片付けをしてから、まくった服の袖を直した。

「そりゃ、無理を言ってついてきたのは僕のほうなんだけどさ……」

 ひとりごちた時だった。ぴくり、とキーファが反応した。

 視線をドアへと向ける。

 誰かが外に立っている気配があった。

「どなたですかぁ?」

 手を振って水気を切り、キーファはドアへと歩いていく。一歩近づくごとに、嵐の音がよりはっきりと聞こえてくる。

「どうしましたか?」

 開けると、雨風の音が鼓膜に唸るようだった。と同時に、ドアに何かがぶつかる感触があった。

「おっ!」

 と、驚いた男の声が聞こえた。見ると、男はこちらに背を向けている。どうやら雨宿りをしていたらしく、そこへキーファの開けたドアがぶつかったのだ。

「あ、ごめんなさい!」

 すぐにキーファが謝ると、男が振り返った。中年の男だった。日に焼けた肌に、とび色の瞳。全身ぐっしょりと濡れそぼり、走っていたのか、肩が大きく上下している。よくよく見ると、男の首にはいくつもの痣が浮かび、腫れもあるようだった。

「いや、気にしないでくれ。勝手に使わせてもらっていたのはこっちだ」

 男はむしろ申し訳なさそうに言い、

「ちょっとわりぃが、教えてもらえねぇか?」

 と、手に持った紙切れをキーファに見せてくる。

「ここに行きてぇんだが、迷っちまったらしくてな」

「ああ――」

 と、キーファは納得した。ここら一帯は建物が雑多に並び、道も深く入り組んでいる。おまけに夜ともなれば明かりもすくなく、目的地を見つけるのは至難の技だろう。さらに間の悪いことに今夜は嵐だ。

「お借りしますね」

 紙に書かれた住所は雨でかすんでいるものの、読めないほどではない。

「わかるか?」

 男の声音には、どこかすがるような響きがあった。この嵐の夜に外を出て、しかも走っていたのだ。火急の用向きがあるのだろう。

「はい、わかりますよ」

 男を見上げ、キーファはにっこりと笑う。

「本当か?」

 ほっとした表情を浮かべる男に、はい、とキーファはうなずき、

「お探しの場所は、この集合住宅です」

 紙を返しながらキーファが言うと、男は一瞬、言葉を詰まらせ、「そうだったのか」と苦笑いを浮かべた。

「実は、この集合住宅にたいそう物知りな先生が住んでいると聞いて来たんだが……」

「ああ、トナー先生ですね」

「知ってるのか?」

「知ってるも何も。僕は今、そのトナー先生の部屋でご厄介になっているんです。――ご案内しますよ」

 キーファはそう言って男を三階へと案内した。

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