73 嵐の中でⅣ(後)

 信じられない思いがした。

 男は上半身を振り、折れたはずの両腕でもって、こちらに叩きつけてきたのだ。

「ぐおっ」

 ディータの声に反応し、なんとか頭を防御することには間に合ったものの、サスは横ざまに吹き飛ばされた。身体の丸めたまま、左肩を石壁に強打する。

「てめぇ!」

 ディータが男の腹を蹴った。重い一撃を受け、男はよろよろと二歩三歩と後ずさって仰向けに倒れ込む。

「兄貴、大丈夫か!」

 駆け寄り、膝をついたサスを引っ張り起こす。

「くそっ、なんだってんだ!」

 肩に痺れる痛みを感じながら、サスは立ち上がった。見ると、男は地面に転がったまま両足をばたつかせている。口からは泡のような涎が垂れ、顔に張りついた血糊と混ざって床に滴り落ちていく。

 ――こいつ、いきなり豹変しやがった。

 サスのこめかみを冷たい汗がつたう。

 男は白眼を剥き、ひどくかすれた唸り声を上げている。正気を失っているようだった。でなければ、折れた腕を使って攻撃しようなどと思うはずがない。

 そして――。

「嘘だろ……?」

 ディータが驚きの声を上げる。サスも眼を見張った。

 のたうち、暴れる男の首元に、蛇の刺青いれずみがのぞいている。その黒蛇がぴくぴくと脈動をはじめたかと思うと、大きく身をよじり、ぞろりと首を這い上がった。

「グ……オオオオオオー!」

 ひときわ甲高い男の絶叫が室内にこだました。刺青の蛇は男の眉間あたりに到達すると、とぐろを巻くように収縮した。そこから蛇は振り返るようにこちら側を向くと、今度は一気に膨張する。

 巨大化した蛇の顔の――その眼が男の白眼と重なった。男の動きがピタリと止まる。細長い瞳孔があぶり出しのように浮き上がり、サスに焦点を合わせた。

「サー……シバル」

 男の声ではなかった。性別さえ判然としない、無機質な声が牢屋に反響する。

「オマエヲコロス」

 蛇に引っ張られるように、男が顔を起こした。男の口からは、とめどなく涎があふれ落ちていく。

「こりゃ、やべぇぞ兄貴」

「ああ――俺たちだけでどうにかなる相手じゃなさそうだ」

 男から距離を取るため、サスとディータはじりじりと後方へ下がる。と、男ががばりと起き上がった。両腕を使わず、反動さえ利用せず、足の力のみで体重を支えて立ち上がったのだ。

「ディータ、こいつを閉じ込めるぞ!」

 言い終わらぬうちに、大口を開けた男が迫ってくる。ふたりは牢屋から飛び出た。続いて牢屋を出ようとする男を、サスが足を使って押し戻す。ディータが扉を閉めた。直後、激しくぶつかる振動が伝わった。男が扉をこじあけようと体当たりをしているらしい。

「兄貴、かんぬきを頼む!」

 全身で扉を押さえながらディータが叫ぶ。サスは急いで二本の閂を扉に通した。

 何度も扉にぶつかる振動が伝わってくるものの、さすがに扉は頑丈にできている。容易く壊れる代物ではない。

 ようやく、ふたりは安堵の吐息をついた。

「で、こいつをどうするんだ、兄貴?」

「そう言われてもな」

 ディータに訊かれ、サスは渋面を作った。

 なぜ男が化物のようになったのか。刺青の蛇があたかも本物のように動き出した現象からして意味がわからない。

「ティアがいればなんとかなったかもしれねぇが……」

 吸血鬼としての彼女であれば、この不可解な現象の対処法を知っているかもしれないが、不在である。まだレイニー救出のためにアジトを出てからさほどの時間しか経っていない。

「帰りを待つしかねぇか」

「珍しいな。サスの兄貴ともあろう人が、早くもお手上げかい?」

 とりあえずの急場をしのいだ安心感からだろう、皮肉めかして言うディータに、「当たり前だ」と、サスは苦笑する。

「こんなわけのわからねえ状況、俺の手に余るぜ」

「だが、――ハズクと言ったな」

 ディータの言葉に、サスは深くうなずいた。

「その名前には、心当たりがある」

 遠い記憶ではない。聞いたのはごく最近だ。それも、一昨日のこと。軍港に連行されたサスが、囚人護送用の馬車に乗せられた時だった。そこに、ハズクはいたのだ。ファン・ミリアと他愛ない会話をしていた男だった。

 ――そして、レイニー捕縛の件にも関わっている人物。

 鷲と蛇の抗争の裏で、暗躍している人間と見て間違いない。

「とにかく調べてみるさ。まずは上の連中にもコイツのことを伝えねぇとな」

 そこで、サスは異変に気づいた。扉に視線を向ける。

「……音が、止んでるな」

 部屋から扉を叩く音が、いつのまにか聞こえなくなっていた。

「ほんとだな。諦めたのか」

「諦めるほどまともには見えなかったが」

 サスが釈然としない面持ちを作った時だった。けたたましい音とともに、扉の木屑が舞った。サスの鼻面すれすれに、腕が突き出てくる。

「うおぉ!」

 伸びた手が、サスの首を掴んだ。ディータがとっさにその腕に取りすがる。

 だが――

「なんだこいつの力は!」

 ディータが叫ぶ。サスを掴む手を引き剝がそうとするが、ぴくりとも動かない。

「ぐ………」

 掴まれたサスの首が、ギリギリと締め上げられる。

 ――息が、できねぇ。

 尋常ではない力である。見ると、男の拳は肉が擦り切れ、ところどころに白い骨がのぞいていた。

「サァシバルゥウゥ!」

 もはや人の声とは思えなかった。ほとんど獣の雄たけびに近い。さらに男のもう一方の腕が伸び出て、サスの首を掴んでくる。

 さらに力が加わった。男の指が首に食い込み、口腔に血の味が広がっていく。

「ご……ぁ……」

 首がねじ切られそうな痛みと苦しさに、サスの口から舌がだらりとはみ出した。

「兄貴、しっかりしろ! くそ、おい! 誰かいねぇか!」 

 張り上げたディータの声が、幕を隔てたように遠くから聞こえる。

 ――やべぇな。

 ぶるぶると、頭に血が溜まっていくのがわかる。

 ――このままじゃ、死……。

 遠ざかっていく意識に、一瞬、エルフのシィルの顔がよぎった。

 ――暗い。

 暗闇の中で、シィルがひとり。寒そうな、不安そうな表情を浮かべている。

 ――クソ馬鹿エルフが。

 なぜ、死の間際になってこの顔が出てくるのか。

 ――どこにいやがる、てめぇ。

 つまんねぇ役割を押しつけやがって、とサスが毒づいた時、痛みが和らぎ、ふわりと身体が軽くなる感覚があった。

 ――死んだか……。

 サスが思うと、

『死んでない』 

 応える声があった。幼い少女の声だ。

 風が巻き起こった。全身から、首元に暖かいものが集まってくる。

 サスの視界が戻りはじめた。と同時に喉が詰まり、サスは激しく咳き込んだ。

「……ぐ……はっ……!」

「兄貴、大丈夫か?」

 気がつくとディータに支えられていた。 

「すげぇ、兄貴!」

 興奮した面持ちで、ディータが話しかけてくる。

「……何が、だ?」

 喉をさすりながら、サスがかすれ声で尋ねると、

「――何がって……兄貴がやったんだろう?」

 ディータが、視線を前に移した。サスがその視線の先を追うと、牢屋の床に、男が倒れている。顔の蛇は消え失せ、唸り声もなく、瞳は閉じられていた。

「突然、兄貴の身体からすげぇ風が吹いたんだ。それが爆発したみてぇにあの男を吹き飛ばしたんだぜ?」

 覚えてないのか? と心配そうに訊かれ、サスはうなずいた。

「俺じゃ、ねぇ」

 もう一度サスは倒れている男を見やった。起き上がってくる気配はない。

「多分……カジャって奴だ?」

「カジャ? 誰だい、そりゃ?」 

風精イーヘ・セーレンらしい。シィルが――」

 サスが説明しようとすると、

『シィルが、待ってる』 

 再び少女の声が聞こえてきた。にも関わらず、その姿はどこにも見当たらない。

「なんだって?」

 不思議に思いながらサスが疑問を口にすると、

『……場所は――ろーん たわん おー ちぇっと とぅ そーん さーん ぴりま れ てぃっす たわん とぅっく てぃあん ぬあ すーん とぅっく ほっく はー ぴりま』

 あどけない少女の声が聞こえてくる。

「待て、ちょっと待て! 何だって?」

 あわててサスが聞き直すと、

『早く覚えて……ばか』

 じれったそうなカジャの声が聞こえてくる。

「くそガキ……!」

 サスはイラっとした。

 ――シィルといい、この風精といい。

 理不尽な言葉の暴力がそっくりである。こいつらはなぜ、いちいち罵声を飛ばさなければ気がすまないのか。

『――ろーん たわん おー ちぇっと とぅ そーん さーん ぴりま れ てぃっす たわん とぅっく てぃあん ぬあ すーん とぅっく ほっく はー ぴりま』

「おい、風精! あ、いや! カジャ! カジャさん!」

 何度も呼びかけるも、それきり声は聞こえてこなくなった。

「くそっ」

 サスは鋭く吐き捨て、

「おい、ディータ。紙と書くもの持ってこい!」

「え?」

「いいから早く持ってこい!」

「あ、ああ。わかった」

 ディータが階段を駆け上っていく。

 頭の中で、サスは必死にカジャの言葉を繰り返した。

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