48 老醜
背中を蹴られたティアの身体が、貴族街の屋根に打ち当たり、滑り落ちていく。その動きに
「く……っ!」
素早く起き上がりかけたところを蹴られ、ティアは宙へと放り出された。庭木の梢をへし折りながら、最後の太い枝に左手をかけ、地面に着地する。
右手は動かない。
どろりと、砕かれた肩から血が溢れ、滴っている。赤く染め上げられたトゥニカは、ぐっしょりと重く濡れそぼっていた。
銀髪の化け物は執拗なまでにティアを追ってくる。
「貴様は、いったい……」
眼前に降り立ってくる化け物を、ティアは重いまぶたを支えて睨み据えた。荒い呼吸を繰り返す。血の気を失って顔色は死人よりも青白く、身体は一回りも小さくなっていた。
銀髪の老執事は言葉を発せず、凶悪な顔を愉しげに歪ませた。獲物を仕留める喜びに、銀の瞳を光らせ、さらに牙を鋭くさせて。
化け物はティアに休む間を与えず、襲いかかってくる。
ティアは動く左手で相手の爪を腕ごと下に
ぎゅる、と化け物の喉が悲鳴を上げた。
――頼む。
これで決まってくれ。
そう念じながら、貫き手から化け物の首を掴み直す。
灰褐色の瞳が赤く輝いた。
ティアの鋼のように硬質化された指先が、相手の首を
ティアは一歩踏み出すと、身体を入れ替えるように腰で化け物を浮かせ、投げ倒した。
さらに頭部を地面に抑えつけ、化け物の首元を上向かせる。ティアは倒立した姿勢から、膝頭を化け物の喉仏めがけて直下させた。
ごきり、と、骨の折れる感触とともに、化け物の首があり得ない角度に曲がった。
――これで安心はできない。
尖塔では頭蓋骨を砕いたにも関わらず、平然と襲いかかってきたのだ。
とどめとばかりにティアは手に力を込めた。化け物の首を両断するため、手刀を振り下ろす。が――
その手を、化け物に掴まれた。軋んだ音を立て、ぎこちない首の動きで化け物の顔がティアを向いた。口が、にたりと半円を描く。
――しぶとい、な……。
一瞬の諦めが、ティアの脳裡をよぎった。
化け物の首が、軟体動物のように一気に伸びた。牙を剥いた顔面が迫ってくる。とっさに顔を逸らして避けたものの、首はさらに伸び、ぐるりとティアの首を巻き込むと、たわんだ縄を引き絞るように、ギリギリと絞め上げはじめた。
同時にこちらの顔面に噛みついてこうようとするのを、ティアは左手で化け物の顔を掴み、何とか遠ざけようとする。
押し合い、しばらく拮抗した状態が続いていたものの、業を煮やしたのか、今度は化け物の胴体のほうが動きはじめた。
砕けたティアの肩に、鋭い爪を差し込んでくる。ぐりぐりと、差し込んだ爪を掻き回す動きに、ティアは声ならぬ悲鳴を上げた。さらに手を噛まれ、振りほどこうと暴れかけたティアの足元がもつれた。ふらついた背中に木の幹が当たる。化け物の重さに耐えきれず、ずるずると木の根元に落ちていった。
ティアの手を噛みながら、化け物の顔が間近で
ティアの腰を、化け物のもう一方の手が触れた。
こちらの手は、ティアを殴るでもなく、爪で刺すのでもなく、ただ腰を触ってくる。それが終わると、今度はトゥニカの下から手を差し込んできた。ごそごそと、まさぐるような動きでティアの肌を触れなぞってくる。
――なんだ、こいつ?
はじめは何をしているのか、その意図がわからなかった。が、胸を目指して這い上ってくる指の動きに、ティアは化け物が雄であることにようやく思い至った。
――まさか……。
ぎくりと顔を強張らせたティアに、化け物がさらに嗤う。
「や……」
あわてて暴れ出したティアの腰に、化け物が自分の腰を密着させてくる。
鋭い爪が、結んだ黒衣の紐もろとも、トゥニカを引き裂いた。
「め……ろ……」
ティアは弱々しく拒絶の言葉を口にする。
化け物との身体の間に膝を立て、押しのけようとしたものの、脇に抱え上げられた。今度は逆の手で、服の下をまさぐりはじめる。
噛まれた手と、肩。抱えられた足。そして首を絞められ、ティアは完全に動きを封じられた。全身から込み上げてくる悪寒とともに、はだけた服が強引にめくり上げられた。
「う……ぁっ……」
びくりと全身を浮かせたティアを抑えつけるように、鋭い爪が喰い込んだ。
「なぜ……貴様」
意味がわからず、ただ化け物を拒むため、身体を逸らしたり遠ざけようとしたが、その度に化け物はティアの動きに併せて追いすがってくる。
「動くな」
抵抗した罰と言わんばかりに、より強く首を絞められた。意識を失いかけたティアの背筋に、ぞわり、と一層の嫌悪感が走る。
「大人しく怯えておれ」
化け物の指がティアに触れかけた時、嫌悪とともにティアの怒りが爆発した。
「コ……ロ……す」
ティアの親指が霧散した、刹那、化け物がティアから飛び退った。
木の幹から突き出た黒い槍が、つい今しがた化け物がいた空間を刺している。
ティアは幹に背をもたせかけながら、よろよろと立ち上がった。
動かすことのできない両手をだらりと下げ、ティアの瞳が赤く閃いた。化け物とティアの周囲に、濃密な黒い霧が生まれる。
「
吸血鬼であるティアの技。その最後の力を振り絞って発生させた場の転換。
「……許さん」
化け物の大口が、より愉しげに裂き開かれた。
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