3 離反

 ぽかんと口を開けるタオに、イグナスはどこか得意げな笑みを浮かべた。

「お前、貴族なんだろう? どうだ、俺を雇わないか? こう見えて色々と役に立つ男だぞ、俺は。文字の読み書きもできるし、計算もできる」

 ようやく話が見えてきた。

「イグナスは傭兵なのか?」

 タオが訊くと、イグナスは「おうよ」とうなずき、

「もともとは農民だったが、それで終わりたくないと思った。故郷を出たのは十二の時だ。はじめは盗みもやった。商売をやったこともある。いまは、ご覧のとおり傭兵に落ち着いてる」

 つまり、この遠征が終わればイグナスはまた職探しをはじめなければならない、ということなのだろう。

「有能なら、軍に仕官すればいいじゃないか」

 タオが素直に疑問を伝えると、イグナスは「まぁなぁ」と、いささか歯切れ悪く頭を掻いた。

「考えないこともなかったが、軍じゃあな。金は欲しいが上役に将来さきを左右されすぎる。俺は死ねと言われて死ぬのは好きじゃない」

「オレが言わない保証はない」

「かもな」とイグナスは笑う。

「それが俺にとっても必要なことならまだ救いがある。しかしまぁ、お前は言わんだろう」

「オレが甘いということか?」

 タオが瞳の色を強くすると、

「落ち着けよ。カッカしなさんなって」

 こちらの反応を楽しむようにイグナスが目を細めた。

「そういう方法をお前は取らないんじゃないか、と俺が勝手に思っただけだ。俺は、自分の眼に自信を持っている。これがなかったらとっくに死んでいるだろうと思えるくらいにはな」

 そう言って、イグナスは指で自分の瞳を広げ、にやりと笑う。

 面白い男だとは思う。

 だが、タオはイグナスのように自分の眼に自信を持っていない。彼の言葉を鵜呑みにしていいのか。仮にすべてが本音だとしても、いささか思い切りがよすぎる気がした。

「すぐには決められない」

 正直にタオが告げると、イグナスは「それでいい」とうなずき、立ち上がった。

「とりあえず俺はお前の近くにいる。それで判断してもらってかまわない。さっき、軍がキナ臭いと俺は言った。直観だがこういう時はロクなことが起こらない」

 タオは座ったまま無言でイグナスを見上げる。

「……外れてくれればいいんだがな」

 言い残し、イグナスは幕舎を出ていった。



 翌朝、タオが準備を終えて朝礼に向かうと、昨夜の言葉どおりすぐにイグナスが近づいてきた。

「よく眠れたか?」

 訊かれ、「いや」と、タオは言葉を濁す。実のところ一睡もできなかった。目を閉じるたびに昨日の戦場での断末魔の叫びや、事切れた仲間たちの死に顔が脳裏に浮かび、眠るどころではなかったのだ。

「背負いすぎるなよ。それが正常だと思え」

 イグナスの助言に、ああ、とタオはつぶやくように答える。

 ふと、周囲のざわめきが波のように引いていった。

 正面を見ると、簡易的に設えられた舞台に、今回の遠征軍の大将トッド=ポールマンが登壇したところだった。その隣には見慣れぬ戦装束の貴人らしき男が立っている。

「昨日の敗戦は誠に遺憾であった」

 その言葉を皮切りに、ポールマンが朗々とした声音で話しはじめる。

「だが、どんな困難に直面しようとも、我々は前進しなければならない。それがどんな困難であっても、である。そこで諸君らに伝えたい。昨晩のこと、敵国たる聖ムラビア領邦国家より、使者があった。私自身も驚いたが、我が軍の勇猛さに対する賞賛と、和解の申し出であった。それは同時に、この無意味ないさかいによる怨嗟の鎖を断ち切り、共に歩まんとする聖ムラビアからの心からの誘いでもあった」

 そこでいったん、ポールマンは言葉を区切り、ゆっくりと軍幹部たちを見回してからまた話しはじめる。

「私は悩んだ。悩み、頼もしき我が将校たちにこのことを伝え、夜を徹して話し合った。そして、決心するに至ったのである。我が軍は聖ムラビア領邦国家と共にあるべきだと。よって今後、諸君らは東ムラビア王国を離れ、聖ムラビア領邦国家に属するとともに、栄えあるガイツバーグ将軍の指揮下に入る」

「馬鹿な!」

 タオは叫んだ。言っていることが滅茶苦茶だ、そう思ったのはタオだけではないらしく、あちこちから異論や不満の声が飛び交っている。

 その時――

謹聴きんちょうせよ!」

 空気を震わすほどの大音声があがった。

 声の主――ポールマンの隣に立つ男が一歩、前に進み出る。

「聖ムラビア領邦国家、第一師団長のエミル=ガイツバーグである。突然のことに諸君らが驚くのも無理はない。だが、私が、聖ムラビアが志向し、信じるところをまた諸君らにも信じてもらいたい。賛同してもらえるならば、諸君ら及び諸君らの家族の市民権、ならびに帰国後の住居と職を保証しよう。だが、一方で承服できないものもあるだろう。ここから出ていきたいというのであれば、止めはしない。今すぐ荷物をまとめて出ていってもらってかまわない。しかし、我が軍に帰順せぬのであれば、保護は期待しないでもらいたい」

 恭順するなら優遇するが、そうでないなら放り出す、と言っているのだ。

 タオが遠くのポールマンとガイツバーグを睨み据えていると、

「要するに大将殿は保身のために俺たちを売った、ってこった。使者が来たってのも怪しいもんだ。この遠征自体、奴が寝返るために仕組んだことかもしれん。昨日の敗けも出来戦できいくさだったのかもな」

 イグナスが不愉快そうに顔をしかめている。

「……イグナス」

 タオは、うめくように言った。

「うん?」

「これが、戦争なのか」

「いいや」と、イグナスは手を振る。「政治ってやつだ。戦争なんぞ、政治の道具にすぎん」

「こんなことが、許されていいのか」

 これでは犠牲となった味方の兵たちが無駄死にではないか。

 タオは怒りで全身を震わせた。拳を握り、強く唇を噛みしめる。

 彼らに対してどう顔向けをすればいい。

 彼らの無事を信じて祈る家族たちに、どう伝えればいい?

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