その夢は諦めてください!
白米定食
第1話 ショタコンとプロレスオタクと不機嫌な幼馴染
久しぶりの我が家は記憶とぴったり結びつかなかった。
物の配置はもちろんのこと、においまでも変わってしまったみたいに感じる。見慣れない靴、女らしい小物類、謎の運動器具、そのどれもが違和感を振りまく。
母さんは電話をしていたときよりもテンションが高いだけで、四年前の姿とほとんど変わっていない気もする。ちょっと太ったくらいなものか。空港まで迎えに来てくれてから、ずっと上機嫌で、やたらとべたべたしてきた。
ほんの少し前までは。
「お母さん、許しませんから」
「どうして?」
「だって危ないじゃない。
俺の持ってきた荷物を引っ張り出しながら、眉間にしわを寄せる。
母さんの性質上、これは話し合いにならない。平行線をたどることが予想できた。
何度も同じ言葉を繰り返し伝える内容は、幼い子供に言い聞かせるみたいだ。いくらまだ高校生とは言え、過保護すぎるきらいがある。きっと四年も離れていたから、余計にそうなってしまっているのだろう。
「どんな仕事だって怪我をしたり、心を病んだりする可能性はある」
「許しません」
母さんが次の文句を言おうとした瞬間、玄関の開く音がし、バタバタと廊下に足音が響いた。
「ただいま!」
息を切らした姉さんが現れた。時間的に、授業が終わってから一目散に帰って来たのだろう。
俺や母さんなんて目に入らないようで、キョロキョロとリビングを見渡している。
「おかえり」
「浅海! 浅海は?」
「なに?」
「あ、どうも。お母さん、浅海は?」
他人行儀に頭を下げた姉さんは、母さんに向かって俺のことを尋ねた。
昔よりも髪が伸びて、より美しく、より大人っぽくなった。染めてもいないし、爪も身なりも清潔感がある。
「なに言ってるのよ
母さんの言葉に目を擦り、まじまじと俺を見る。
「そんな……嘘よ……」
嬉々とした表情が徐々に曇り、やがて力なく膝をついた。
「姉さん、久しぶり。……どうしたの?」
「わ…………して……」
「なんだって?」
「わたしの浅海を返して! 小さくてかわいかった弟を返してよ!」
閉ざされてしまった扉を叩くみたいに、姉さんは俺の胸を叩く。目の端に涙まで浮かべ。
四年ぶりに再会した弟にその反応はあんまりだ。
「胸板が厚いぃぃぃぁぁぁぁぁがががががががごごごごごご…………」
姉さんが音を立てて壊れた。
おかしい。俺の中の姉さんは穏やかで優しくて、クールな人だったはずだ。
「茉衣、気持ちはわかるけれど落ち込んでいる場合じゃないでしょ」
「気持ちわかるの!」
「どーでもいい。もう知らない。わたしの浅海は心の中で生きているの」
「俺は普通に生きているんだけど……」
「こんな背が高くて、見るからにスポーツやってそうな男、浅海じゃない!」
俺が俺でないとすれば、俺はいったい何者なのだろう。存在を否定された気分だ。
姉さんの惨い言葉にフォローも入れず、母さんはしかめっ面をしている。
「きっとお父さんと二人暮らしだったから、男っぽくなっちゃったのね。考え方を改めさせないといけないわ」
「母さん、もう手おくれよ。中身は変わっても外見まではどうしようもない。最悪の日だわ。こんな日が来るのなら、いっそ小さいときホルマリン漬けにしておくんだった」
「恐ろしいこと言わないでよ」
余裕を持って弟を可愛がってくれていた姉さんは、もうこの世にはいないみたいだった。
それが四年の歳月によるものなのか、それはわからない。
「その通りね」
「母さん?」
「やっぱりお父さんと一緒に行かせるんじゃなかったわ」
「母さん!」
「勝手にして。わたしの弟は死んだの」
「姉さん!」
「プロレスラーになりたいだなんて、教育しなおさなくっちゃ」
「母さん……」
飛び交う人格否定の言葉たちに、俺はショックで言葉も出て来ない。
この家に俺の味方はいない。久しぶりに顔を合わせたのに、こんな切ない気持になるとは思わなかった。
「なんでプロレスなの? お花屋さんじゃいけないの?」
お花屋さんって……。
母さんは性別すら混同し始めたんじゃないだろうな。
気を取り直し、誠心誠意、真剣であることを伝えようと試みる。
「俺、向こうでは差別されてたんだ。肌の色違うし、顔も平たいし。そんなとき、勇気を与えてくれたのがプロレスだったんだ。親父にも、よく試合を見に連れて行ってもらった」
涙をこらえながら家に帰って、言葉のわからないテレビを見る。当然どれもつまらなかったが、スポーツだけは目だけで理解できた。
毎日食い入るように見つめていた日々を思い出す。ときどき、日本人が海を越えてやってくることもあって、そんな日は放送時間が待ち遠しかった。あの日見た屈強な男たちこそが、俺のヒーローであり、原点でもある。
「へー、よかったね」
興味ないこと川のごとし。こぶしを握り締めて熱弁した俺の努力は報われなかった。
姉さんはドブ川でも見るようなつまらない目で俺を見た。
「冷たすぎるよ……あんまりだよ……」
「そもそも親父ってなによ? そんな言葉使ってるから、毛むくじゃらになるのよ」
「いやあのね、大きくなったけれど毛むくじゃらにはなっていないよ? それから、親父って呼んでくれって言ったのが、親父自身だからね」
「あのクソ親父……」
低く重い声でつぶやく。姉さんの方こそ、心に毛が生えてしまったみたいだ。
言葉遣いひとつでも、二人は許してくれない。追及は続く。
「だいたい、母さんなんて呼び方してなかったでしょ。ママ、でしょ?」
「俺は小さい頃から母さんって呼んでたよ! 過去を改竄するな」
「わたしのことだって、茉衣お姉ちゃんって呼んでたはずなのに……ほら、呼んでみなさいよ」
「ま、茉衣お姉ちゃん?」
「は? あんた誰よ?」
「ひどっ!」
「こんなことになるなら、お母さんがメキシコ行けばよかったのよ。わたしと浅海の二人で暮らせば、きっとこんなに男っぽくはならなかったわ」
「いけません。そんなただれた関係」
「え、ただれるの? 姉と弟だよ? 否定するところが違うでしょ」
本来は子供二人で生活なんてできない、と言うべきだ。
腕組みをした姉さんと、困惑顔を浮かべる母さん。
本当に困惑しているのは、俺だからね? おかしいのは二人だからね?
「かわいいものに触れさせて、夢をあきらめさせましょう」
「それが親の言うこと? ちょっと二人ともおかしいって」
母さんが頬に手をあてて考えていると、なにかを閃いたかのように、姉さんの顔がパッと明るくなった。
どうせ、性格を直せばフォルムまで元に戻るとか考えているのだろう。
「そうよ! 性格を直しちゃえばフォルムも元に戻るわよ!」
家族のきずなを一番いらない場面で感じてしまった。
まさか本当に考えているとは思わなかったし、思い付いてしまった俺もどうかしている。
てか、姉さんの思考がクレイジーそのものだよ。クレイジーの権化だよ。
薄い紅色の唇を強く結び、自分の意見が正しいことを確信するように、何度も頷いている。
これは本気で信じてる顔だ。信じて疑わない顔だ。
「でもどうしようかしら?」
「
姉さんはスマホを取り出し、おもむろに通話を始めようとする。
「秋ちゃん、来てくれるの?」
「わたしの妹よ? 来るに決まってるじゃない」
いや、姉さんの妹じゃない。勝手に妹にするな。
でも、俺がいなくなっても交流があるのを知って、ちょっと安心した。まだ秋はうちの家族と繋がりを持って、お隣さんとして関係し続けていてくれるのだ。
姉さんがダンスのように華麗なステップを踏みながら待っていると、ややあって通話が繋がった。眉毛が上機嫌に上がったことから、手に取るようにわかる。
『もしもし、わたしよ。あなたのお姉様。ちょっと顔を出してくれないかしら。うん、家に。できればオシャレをしてきて。かわいい服でお願いね。うん。それじゃ』
スマホをしまうと、冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを出した。
流れるような無駄のない仕草は昔の姉さんそのものなのに、中身は別物に取って代わられてのではないかと疑いたくなる。マイクロソフトが無駄なアップデートでもしたのだろう。ぜい弱性が心配でならない。
「で? あのクソ親父は?」
親父は俺を空港に置くと、すぐさま国内線に乗り換えて大阪まで向かったことを伝えた。
必要事項を伝えたうえで、正すべきところを注意しなければならない。
「姉さん、気を確かに。そんな言葉づかいをするなんて、俺の知ってる姉さんじゃないよ」
「あさ――あなたが元に戻れば、わたしも戻るわ」
「今なんでわざわざ言いなおしたの! 認めたくないにしてもそれはないでしょ!」
明らかに浅海と言おうとして、あなたに切り替えた。小さなことでも俺の心を深くえぐってくる。優秀な掘削機のようだ。
「よしの――あのなんとかって人も帰ってくれば良かったのよ。家族サービスなんて一つもしないんだから。まったくもう」
「母さん! 旦那をあのなんとかって人呼ばわりしないで!」
「ふん。電話もよこさずにノコノコ帰ってきたら、二階からギロチンしてやるんだから」
母さんのほうがよっぽどプロレス的だよ。一般人はギロチンなんて技名知らないよ。
家に顔を出すこともなく大阪に飛んだ義則こと、親父の顔がやけに悲しげな背景とともに思い浮かぶ。帰ってくる日は、庭に大きなマットでも敷いておいた方がよさそうだ。
そうこうしているうちに、玄関が開いた。
インターホンも鳴らさないあたり、通い慣れているのだろう。
「こんにちは」
「いらっしゃい」
「待っていたわ。今日もかわいいわね」
「ありがとうございます」
軽く頭を下げる、見慣れた、それでいて初めて見たかのような女の子。
「おう秋、久しぶり……だな……」
思わず言葉に詰まってしまった。
秋と言えばいつも俺の後ろに付いてきて、ほっぺを真っ赤にして、びゃーびゃー泣いて、小さくて丸かったはずだ。小学校高学年くらいになれば大きくなる女子もいたが、秋は小柄だった印象鰹言う。
それがどういうことか、すらっと伸びたモデルみたいな体躯に、小さく凛とした顔立ち。
暗い色を基調とした服は落ち着いていて、大人の女性に見える。
長く伸ばした髪は、完成された絵画のように端正な顔つきとマッチしている。
一言で表わすのなら、とにかく綺麗だった。
途端に目が離せなくなってしまう。
「なに? 浅海」
容姿にぴったりの低く冷めた声が飛ぶ。
鋭く細められた目は、まるで俺を睨んでいるみたいだ。
「あら、よくその肉塊が浅海という名前だと知っていたわね。わたしなんてまだ信じていないのに」
「肉塊って……」
そんな単語使っているシチュエーション、初めてだ。これまでに経験したことがない侮蔑表現に、自分が罪悪人なのではないかという幻想がチラつく。
「それで、用件はなんでしょう?」
秋は俺が酷い言葉と態度で扱われているにもかかわらず、そのことに一切触れることがなかった。俺の方もあまり見ないし、態度からは姉さんの持つ冗談とも取れないものとは違った種類の、やけに生々しい刺々しさが伝わってくる。感動の再会とか、そんなものは一切ない。
クールで事務的に、姉さんに呼び出されたから来ただけみたいだった。
あれだけ遊んだのも、もう遠い過去のことになっているのだろう。
「秋、ちょっと面倒な仕事を押し付けるけど、拒否しないでね」
「そんなこと聞くわけが……」
「はい、お姉様」
調教されてるうううううううううう!
なんだこの関係。まるで主従関係じゃないか。
日本っていつの間にかこんなディストピアみたいになってたのか?
支配者の姉さんが、秋から笑顔を奪ったのか?
「秋ちゃん、おばさんからもお願い。浅海を軟弱にして」
「軟弱に、ですか?」
「そうなの。この子ったらプロレスラーになりたいだとか、ブロイラーになりたいだとか、ボイラーになりたいだとか、わけのわからないこと言ってるの」
「わけのわからないこと言ってるのは母さんの方だよね? おいらはボイラーにもブロイラーなりたくないよ」
「あなたはちょっと黙ってなさい。さっきからうるさいわよ」
姉さんはコバエを払うみたいに言った。
みんな正気を失っているから、必死にツッコンでいるのに。
「それでね、この子をかわいかったころに戻そうと思うの。危険なことをする前に、優しくて虫も殺せないような性格に調教――もとい、改造しようと思うの」
か、改造……。
それ、強くなれるのかな? 今後のプロレスラー人生にプラスかな?
俺は首を強く振り、現実に目を向ける。目の前では、秋が人差し指を自身の顔に向けていた。
「それを、わたしに?」
「秋ならかわいいし、女の子らしいから」
「……はい」
「じゃあ、お願いね。法律の範囲内なんて甘いこと言わないわ。そいつ、好きにしていいから」
「姉さん、法律は守ろう」
「かわいくなったら、また来なさい。そのときは愛してあげるから」
姉さんは不気味なほど美しい顔で笑った。
もし、俺が丸くてプニプニして自分で歩くのがギリギリなかわいい生命体になったとする。
たとえそうなっても、もう昔みたいに姉さんを純粋な気持ちで慕うことはないように思う。
だって、いろんな意味で恐いから。完全に狂気の人になっているから。
だいたい、なに? 「また来なさい」って? 俺はずっとここにいるつもりだけれど? 家には許可なしに居させてくれないの?
「ぁぁぁぁぁああああ、ショタが足りないわ」
そう唸って、姉さんは自室に引き返して行った。
捨て台詞も完璧なほどぶっ飛んでいる。容姿が際立っているばっかりに、余計どうにかしているように感じてしまう。美人が怒ると怖いのと一緒で、美人が狂うともっと怖い。本当に教育が必要なのは誰だかわかりますよね、母さん?
「それじゃ、秋ちゃん、よろしくね。おばさんはちょっと健康ランド行ってくる」
そう言って、母さんは家事も事態の収拾も放棄した。
残されたのは俺と秋。
こんなことのためにわざわざ呼び出されたことを思うと、申し訳なくなってきた。
「なあ、秋。あんなの真面目に聞かなくていいからな?」
「気安く話しかけないで」
「はい?」
秋はこちらを向きもせずに俺を拒絶し、足早に去った。ピシャリと言い放った言葉には、後味の悪い陰鬱な空気が含まれていて、俺の中で不穏な影が生まれた。なぜこんなにも不機嫌なのだろうか。
消えた背中が目に焼きつき、しばらく立ちつくしていた。
親父、俺も一緒に大阪行けばよかったよ。
姿見鏡でチェックしながら、ネクタイを締める。
ついでにちょっとポージングをして筋肉を肥大させ、ワイシャツの耐久に問題がないことを確認。もうワンサイズ大きいものでも良かったが、消耗品だから破けたら買い直してもらうことにしよう。
すべての準備を整えてから食卓へ降りる。
親父と暮らしていたときは、朝食なんてあってないようなものだった。
朝からトーストの香や、フライパンがなにかを炒める音が聞こえてくる。
さすが母さん。これぞ母。これぞ家庭の朝。
なんだかんだ言っても、母親だ。
「え…………うそ……目が覚めたら元通りになっていると思ったのに……」
姉さんが朝から絶望をし、青い顔をした。
俺の知る限り、最悪級の挨拶だ。
「お、おはよう。姉さん」
「なん、で……そんなバカなことってあるの? 疲れているのかしら……」
頭を押さえてブツブツと呪詛をつぶやき、それ以上会話をしてくれなかった。
今はまだこんなでも、きっと慣れてくれるはずだ。
だって姉さんは聡明で冷静で慈しみ深いひとなのだから。
きっと……高校を卒業するくらいまでには……。姉さんがお嫁に行くまでには……。いや、時間がかかっても将来いつか必ず理解してくれるときが来る。そう願う。
次々と浮かんでくる暗い未来は考えないことにした。
食卓にはトーストと各種ジャム、植物の芽みたいな野菜が並んでいる。
「浅海、おはよう」
「おはよう母さん。あれ? ベーコンとかウインナーは?」
「太っちゃうわよ」
「太らないよ。スクランブルエッグでもいい、生卵でもいいから、動物性タンパク質を……」
成長を阻害するかのようなメニューだった。
朝食文化になれていない胃は時差ボケもあってか働いておらず、量的には問題ないだろうが釈然としない。植物の芽ばかり食べても、ひょろひょろの人間しか育たない。
「お母さん、これはダメよ。タンパク質と脂質は与えてはいけないわ」
すかさず、最後の希望であるヨーグルトと牛乳を没収された。
「それくらいいいんじゃないの?」
「ダメよ。浅海を構成する物質を一から作り直さないといけないんだから」
わかってはいたけれども、姉さんの仕業だった。
かなり説得をされたのか、母さんもすっかり姉さんの意見に従っている。
無駄にスペックが高いから、少し時間を与えれば説き伏せられてしまう。母さんもそんな姉さんに信頼を置き、意志決定を任せているような節がある。
「そうね。茉衣の言う通りだわ」
「ま、朝くらいは……。弁当って作ってもらえたのかな?」
「まだ帰って来たばかりで疲れているでしょ? 無理して行かなくてもいいのよ?」
母さんの言うことももっともだ。時差ボケも治っていないし、長い移動で疲労は蓄積されている。教員にも、学校は落ちついてからでいいとも言われているらしい。
しかし、俺は学校が楽しみなのだ。友達を作って学校生活を満喫したい。
メキシコではできなかったことを、自分の国でやってみたい。
「できるなら、一日でも早くこっちの生活に適応したいから」
「そう。仲のいいお友達ができると良いわね。お弁当なら任せておいて。近所で評判のパンケーキを持たせてあげるからね」
弁当にパンケーキ? あまりにも想像とかけ離れたメニューだった。
だいたい、一般的な長方形の弁当箱に、どうやって収納されるのだ?
作業中の様子を見ると、そこには俺の弁当らしきものがあった。色合いとかが問題ではなく、なにか空想上の女子がピクニックにでも行くかのようなラインナップだ。なんだそのお菓子とオシャレな野菜がメインの弁当。
オラ、力が湧いてこないぞ。
「お母さん、それじゃあまりにもかわいそうよ」
「姉さん……」
思わぬ救いの手に、俺は涙があふれそうになる。
「おやつにマカロンもつけてあげて」
「そんな事だろうと思ったよ。糖尿病になりそうだね」
姉さんの弁当は普通においしそうだった。
小さくてもいいから取り替えてほしい。
自己紹介。
それは相手の技量を図り、己の立ち位置を示す最初の舞台。
俺は教壇に上がり、大きく息を吸う。
「メキシコから引っ越してきました、
教室は疎らな拍手で包まれた。
自己紹介として最低限のことはこなしたはずだが、どうにも反応が悪い。あふれんばかりのスタンディングオベーションだとか、冷やかしつつも歓迎するようなヤジだったりとか、そんなものはどこからも聞こえてこない。
転入生と聞いて浮かれていた男子は落胆し、女子はヒソヒソと話している。
俺がかわいいフォルムじゃないから、ウケが悪いのだろうか?
そんな世迷言が脳裏をよぎった瞬間、両手を上げた少女がいた。
「あさみー! うおー、浅海じゃないかー! いやー、浅海! やあ、浅海ーー!」
「あの語彙の少ない女子は誰ですか?」
「芳井さんね。
担任に尋ねると、そんな回答が返ってきた。
あまりにも不憫な紹介をされた巳羽。
俺はその名前と、ふぬけたアホ面に覚えがあった。
「それじゃ、あそこの空いている席に座ってね。石居はしばらく日本を離れていたから、慣れないことも多いと思う。みんな助けてやってね」
温厚そうな担任はそう言うと、軽く俺の背中を押した。
「そこは普通ボクの隣だろー。運命の再会だろー。おかしいよ」
巳羽が騒いでいるが、他人のふりをした。
クラスは慣れたもので、取り合う人もいない。俺よりもあいつのほうがアウエーだな。
指定された席に着くと、隣の女の子が身を乗り出して話しかけてきた。
「石居くんよろしくね。わたしは「ぎゃああああ」子って言うの。困った「うわあああああああああ」んでも言ってね」
巳羽が奇声をあげたせいで、ほとんど聞き取れなかった。
俺はこれから心の中でこの子のことを、ぎゃあ子さんと呼ぶことにした。
なんとなく、覚えなくてもいいような気がしたからだ。
ぎゃあ子さんの奥には、まったく気にかけずに読書をしている秋の姿があった。
同じクラスになったのに、俺を見ることすらしない。黙々と一人の世界に閉じこもっている。教室に入ったときからずっとだ。
「西の魔女が気になるか?」
「西の魔女?」
ぎゃあ子さんとは反対側から、見るからに野球をやってそうな男が声をかけてきた。
整った顔をしているが、ちょっと近寄りづらい強面でもある。
「碧木秋のことだ。後で説明してやろう」
「お前は?」
「
「硬派に見えるのに、すごく熱そうな名前だな」
「よく言われる。ときどき我を忘れてキレる俺だが、良ければ仲良くしてやってくれ」
「おう。たぶんだけど、俺はお前のこと好きだぜ。よろしくな」
堀の深いイケメンで人当たりもいい。
初対面で気さくに声をかけてくれた二人に感謝した。俺は隣人に恵まれたかもしれない。
ホームルームが終わると、クラスには朝の慌ただしさに混じって、ちょっとした好奇心や興味が湧いているのが肌で感じられた。
メキシコから引っ越してきたともなれば、いろいろ聞きたいこともあるらしい。
控えめに近寄ってきた人たちを跳ねのけ、巳羽がやってきた。
「うぉぉい浅海! なぁんでかまってくんないんだよー!」
「すまない。俺の交友関係のために、他人のふりをするわけにはいかないか?」
「バカ言ってんじゃーぁないよ。ボクらは一緒に立ちションした仲だろ?」
両手を広げて騒ぎ立てる姿に、頭が痛くなってきた。
小学校の同級生とまた同じクラスになれたのはうれしいが、よりにもよってなんで巳羽なのだ。そして、なんでこいつは小学生のころから一つも変わらないのだ。神様とは意地悪で無慈悲なのだな。
周囲がざわつき始めたところに、スーツを着た人物が現れた。
「芳井、再々テストの結果が出たから、職員室に来なさい」
「そんなぁー」
見るからに厳しそうな先生により、巳羽は連行されて行った。
愉快なやつだし、悪いことはしないから、あとでかまってやろう。
突き放してはいても、俺もうれしかったりするのだから。
「え? 石居くんって『名前を言ってはいけないあの子』と仲良いの?」
ぎゃあ子さんは転入生に興味があるようだ。
同時に、巳羽には興味がないみたいだった。
「なんだその呼び名……。やめてやれよ……、あいつだって生きてるんだよ……」
「……そう、ね。ところで石居くんってさ、石居先輩の弟だったりする?」
「石居茉衣?」
「そう」
「うん、姉さんのことだね」
「へ、へぇ……」
ぎゃあ子さんは曖昧な表情を浮かべた。
「あの……、姉さんに関してはちょっといろいろ家庭の事情があって、問題を抱えているんだ。だからその、もしよければ、完全に怖いもの見たさだけれど、話を聞かせてくれないかな?」
「いや……う、うん。石居先輩は校内でもトップクラスに人気のある人で、よく告白もされるらしいの。でもね、必ずお決まりのセリフで断るの」
「ご、ごくり」
「『わたしには全世界を敵に回してもいいほどかわいい弟がいるの。もし弟がわたしに彼氏がいるのか訊いてきたとき、あなたみたいな排泄物を垂れ流すだけの男、紹介できると思う? それがわたしの答えよ』ってね。まあ、罵倒するワードは一万を超えるとも言われているから、排泄物うんたらのところは毎回変わるらしいよ」
「聞くんじゃなかった」
世の中の大多数が、俺のことを見ても姉さんが世界を敵に回す価値はないと思うだろう。
それは置いておいたとしても、そんなことを平然とのたまう変人に、なぜ告白する人がいるのだろう。それは十中八九あの美貌によるものだろうけれど、世の中には思っている以上にマゾが多いのかもしれない。でなければ、あまり近づきたくはないはずだ。
学校でも傍若無人っぷりを発揮しているとは思わなかった。
本当に、あの頃の優しかった姉さんはどこへ行ってしまったのだろう。
昔の姉さんみたいにクールになった幼馴染もいるが、ちょっと冷たくなりすぎでもある。二との性格のバランスはどうにもうまく保たれないらしい。
当の秋はつまらなそうに窓の外を見ていた。
涼しげな横顔が、なんだか儚げに見える。
「ドンマイ」
「ありがとう、ぎゃあ子さん」
「ん? なにそれ?」
ぎゃあ子さんは役目を終え、他の女子と話し始めた。
友達がたくさんいるらしく、クラスの女子を幾名も紹介してくれたが、名前を覚えることはできなかった。シャイな人が多いものの、みんなちゃんと自己紹介してくれたし、クラスには恵まれたのかもしれない。
ただ、ずっと一人で本を読んでいる秋が気になった。
授業内容にはほとんど付いていけなかった。
親父の教育方針から日本語での読書は続けていたのだが、いかんせん教育課程が全然違う。習っていることもあったが、そうでないことも多い。英語と数学はなんとでもなるものの、物理なんかは日本の教育手順に合わせて勉強し直した方がいいだろう。
だいたい、英語で覚えている用語を、全部日本語に覚えなおす時点でしんどい。
しばらくは落ちこぼれないための努力が必要だ。
ランチタイムを迎えると、それが当然であるかのように巳羽が前の席を陣取った。
「浅海、女みてえなもの食うんだな」
流石の俺も、朝から草と糖しか摂取できていなければ、口の中がおかしくなって、頭まで狂ってしまいそうになる。
辛い物、しょっぱい物、肉、魚。
血になる物が欲しい。
学食でメンチカツなんかが売っているらしいから、それを買うのも手だ。
そう考えていた俺が甘かった。
「ぐ……」
財布の中にはペソしか入っていない。
まだ時差ボケにさいなまれていて、思考が正常に働いていないのかもしれない。きっとそうだ。そうに違いない。俺は間抜けじゃない。飛行機を降りると親父はすぐに国内線に乗り換え、入れ替わるように母さんが迎えに来たから、現金を手にする隙がなかったのだ。
俺は間抜けじゃない。
「学食って為替取引ができるかな?」
「なに言ってんだおめぇ。できるに決まってんだろ」
巳羽は胸を張って言い切った。
「できるの!」
「当然できないぞ。芳井は為替取引の意味が理解できていないだけだ。俺も一緒していいか?」
「もちろんだよ、馬阿」
「熱人と呼んでくれ。その方が楽だ」
男子として健全な、肉だらけの弁当を開封した熱人が言う。
うらやましい。素直にうらやましい。
多少血の気の多い家族になってもいいから、うちも肉食になってほしい。
「てかさ、サミーってなんだよ。ぶふぇふぇふぇふぇぼほほほほ。バカかっての」
「バカはお前だ。そんな笑い方する女がどこにいる」
4年のブランクがあったことなんて感じさせないやり取りをしていると、感心したように熱人が目を見張った。
「芳井とサミーは知り合いだったのか?」
「うぉいうぉい! なにサミーとか言ってくれてんの」
「海外では短めの愛称で呼ばれるのが当然だろうからな。かくいう俺も、家では妹にトニーと呼ばれているしな」
「なんでトニー?」
「熱人兄さんが、いつの間にかトニーさんになっていた」
「受け入れるんだな」
「妹のわがままや癖は受け入れてやるのが当然だ。家族なのだから」
今どき珍しく家族想いなやつだな、熱人。
その風貌からシスコンだと思われないところもいい。
俺がお姉ちゃんとか言い出したら、音速でシスコンの称号を手にすることだろう。
「いやいやいやぁ、サミーっておかしいでしょ。頭ん中コルクでも詰まってんのか?」
「かっこいいだろ。バカにするとメキシコ仕込みのロープテクニックでボッコボコにするぞ?」
「女の笑い方じゃない、とか言ってたくせに、ちっとも女扱いしてねえのはそっちじゃねえか! なんであだ名くらいで、ボッコボコにされにゃあならねえのよ!」
「仲良いな。長いのか?」
極めて落ち着いて食事を続けながら、熱人が言った。
適応力高いな、こいつ。
「小学校のとき、雨の中段ボールに捨てられているこいつを見て、かわいそうだから傘を置いてやったんだ。それが出会いだ」
「それから浅海とはよく遊んだものよ。一緒に拾い食いしたり、花火で放火未遂したりして、ボクだけ執拗に怒られたっけ……なつかしいなぁ」
「そうか」
「ツッコめよ! 『そうか』じゃにゃぁよ!」
「カロリーの消費が激しそうだからな。お前ら二人でやってくれ」
なるほど、ハイテンションでボケたりツッコんだりしているからカロリーを消費するのだな。
食っても食っても満たされないわけだ。
それにしてもこのブロッコリースプラウト、食ってる気がしないな。
「貧相な飯食ってんなー。ほれ、わけてやんよ」
巳羽はバランを差し出し、俺の弁当に添えた。
俺はお礼に手を出し、巳羽の衣服を血で染めた。
「ぐはっ! あにすんだ!」
「ちょっと殴っただけだ」
「ひぃぃんボディーは痛いよぉ」
「加減はしたよ」
「あったりめえだよ! 本気で殴られたら訴訟ものだぞこの野郎!」
同年代の女子と話をするのは久しぶりだから、距離感がつかめない。
小学校のときのノリで手を出したが、巳羽はちょっとだけ嫌がっていた。
向こうでは軽く言っても迫害されていたため、一部のフランクな男子以外とは仲良くできなかった。
いくら巳羽でも軽々しく触れるのはダメ、と。
勉強になった。こうやって一つひとつ学んでいくことで、クラスメイトや秋との接し方のヒントを得られるのではないだろうか。
「お前、太ったな」
「な!」
巳羽は箸を落としそうになり、口をあんぐりと開けて傷ついた。
軽い言い方でも、やはり女性に体重関係の話をしてはいけないらしい。
勉強になる。ここら辺は万国共通だな。
「女のくせにがさつだし」
「女のくせにって言うな!」
やはり、女のくせに、男のくせに、なんて差別まがいの言葉も禁止だ。
巳羽ですら言い返すのだから、日本全国の女子は言い返すのだろう。
おおよそ読書で得た知識と同じ。
うむ、勉強になる。
「なんかボクに恨みでもあんのか?」
「ない。ちょっと距離感を測っていただけだよ。あと、肉がなくてイライラしていた」
「やつあたり!」
「なんだ、言ってくれれば分けてやったのに。たしかに、骨格と似合わないものを食べているなとは思ったが……。浅海はなにかスポーツをしているのか?」
熱人が残念そうに言った。サミーとはもう呼んでくれないみたいだ。
向こうでできた数少ない友人がそう呼んでくれたときは嬉しくて、将来リングネームにしようと思っていたくらいなのに、残念だ。
「体は鍛えていたけれど、なにかを究めようとしていたわけじゃないね。まあ、プロレスをするためのトレーニングは積んでいたけど」
「プロレス?」
熱人が聞き返した瞬間、ガタッと椅子の倒れる音がした。
そこには、両手を強く握りしめて立っている女の子がいた。
周囲の目線なんて気にせず、俺のことを見つめている。
ボサボサの癖っ毛で、大きなレンズの眼鏡。目は前髪で隠れていて、それが原因で視力が悪くなっているのではないか、と思うほどだ。
「なんか見られてるな。彼女は誰?」
「しらね」
「
名前にも聞き覚えはない。
こうも熱視線を送られると、なにか過去に関係があるのではないかと思ってしまう。
しばらくすると皆の視線に気づき、伊柄獅は恥ずかしそうに背中を丸めて教室を出て行った。
「なんだったんだろうな? 一目惚れされてしまったかな?」
「はぁぁ? 浅海のことなんてメスゴリラでも嫌がるぜ。……まあ、誰ももらってくれなくてかわいそうだから、ボクが、その――」
「メスゴリラは違う種族なのだから好かれなくとも当然だと思うのだが、その口調から悪口だと判断する。かけられたい技はあるか?」
「打撃はやめて! なんかこう、くんずほぐれつなやつで、整体にもなりそうなのがいい」
巳羽は両手をボクシングスタイルで構え、防御姿勢をとった。
ふん、隙だらけだぜ!
「整体? パンツも臓器も見えてしまいそうだが、それでもいいなら」
「臓器は勘弁して! アメコミじゃねえんだから、出ねえだろ普通! てか、せっかく人が作った空気ブチ壊すなよ!」
「いつお前が空気作ったんだ? 俺にはアメリカのWから始まるプロレス団体みたいなマイクパフォーマンスにしか思えなかったぞ?」
「ダメだこいつ、体も頭もガチガチになってやがる」
巳羽は嘆息し、疲れたように卵焼きを頬張った。
タンパク質……。俺は巳羽の口にほおりこまれる黄色を恨みがましく追っていた。
「そう言えば、西の魔女ってなんだったんだ? 朝言ってただろ?」
「碧木のことだな。あいつは顔も整っているし、人を魅了するから一部男子の間で魔女と呼ばれている。個人情報を一切出さないことや、誰とも群れないことなんかも要因だろうな」
熱人は秋のことについて教えてくれた。
その話の中に出てくる秋は、子供の頃とはまったく別人で、今の姿とマッチした人物像だった。寡黙で排他的で、愛想がない。
俺の背中から顔を出し、人見知りながら友達を作ろうとしていた、そんな健気な面影はない。
いったいなにが秋を変えてしまったのだろう。
「んじゃ、北や東の魔女なんかもいるのか?」
「東だけだな。それも、誰だかわからない」
「なんだそれ?」
「放課後に数名の目撃情報があったんだ。西ほどではないが、それに匹敵するだけの美貌を備えた女子がいる、と。この学年だってのはシューズの色から判断しただけで、部外者がコスプレしていただけってのも考えられるがな」
噂が尾ひれをつけ、神秘性が増していったのだろう。
引き合いに出されたのが秋だったから、魔女にされただけのこと。
別に魔法を使うわけでも、突然消えてしまうわけでもない。
きっと夕暮れの教室で、恋に恋する男が見た幻想かなにかだろう。
「ボクのことだったりして」
「ないない」「ないな」
「おい、ちょっ……冗談だって……。そんな悲しそうな顔で即答するなよ、二人とも」
「人にはそれぞれ個性がある。頭のいい奴もいれば、顔のいい奴もいるし、品のいい奴もいれば、要領のいい奴もいる。どれか一つでも持ち合わせていればいいんじゃないか?」
「悪意あるよな? 浅海。今言った例えが全部ボクに皆無なのは、悪意だよな?」
巳羽は悲痛な面持ちですがりつく。
熱人はもう自分の机で次の準備をしていた。
「………………さて、次は移動教室だったかな? 熱人、案内よろしくな」
「無視すんなぁぁぁぁぁぁ!」
学校は想像していたよりも楽しかった。
なんだかんだ言っても、生まれ育った環境が近しい人とのほうがコミュニケーションはとりやすい。英語で意思疎通はできても、冗談や空気感まではなかなか身につかないからだ。
友人もでき、旧友にも再会できた。巳羽が秋と違い変わっておらず、数日ぶりに会ったかのような気持ちで接してくれたのも大きかった。これから先も不安なく、あのクラスでやっていけるだろう自信がついた。
気になるのは、秋のことだけ。
秋は一日中、本ばかり読んで、誰とも話していなかったように思う。
一日の授業を終え、帰宅する。
生活リズムがまだ正しきれていないため、かなり眠かった。
ここで寝てしまっては夜に目が冴えてしまうから、軽くジョギングをすることにした。
荷物が届いていないこともあり、高校のジャージに初めて袖を通す。紺色に赤と白のラインがついた、特にかっこよくもダサくもないデザインだ。気持ちも新たに、なじみ深い近所を走ってみよう。
スニーカーのひもを結んでいると、姉さんが帰宅した。
「おかえり」
「ただいま。なに出かけようとしてるの?」
「ジョギングに」
「それ以上汗臭くなったら、コインランドリーにぶち込むわよ?」
「俺、そんなに汗臭い?」
においは自覚しにくい。
腋や胸元の匂いを嗅いでいると、姉さんは玄関の鍵を閉めた。
「存在が汗臭いと言っているの。身長155センチ以上の男はみな汗臭いわ。もちろん、筋肉なんて付いていたら余計ね。不潔だわ」
「ちょっと待ってよ。てか、なんで鍵閉めたの?」
「家にいなさい。あなたにはやるべきことがあるでしょう?」
「やるべきこと? 勉強?」
見当もつかないでいると、姉さんは軽く息をついた。
「もうすぐ秋が迎えに来るわ。それまでにその暑苦しい筋肉を捨てておきなさい」
「ジャケットみたいな感覚で言わないでくれるかな……。秋、来るの?」
隣に座った姉さんは上品に靴を脱ぐと、まじまじと顔を見つめてくる。
同じ人間なのに、靴からも靴下からも臭いはせず、汗一つ浮かべていないように感じる。
「その首の筋肉はなに? そんなものをつけて、お姉ちゃんを悲しませようって言うの?」
「首の筋肉は重大な怪我をしないために、とっても大切なんだよ」
格闘技をする場合、頸椎を守るためになくてはならない筋肉だ。
腹筋や大胸筋ばかりが注目されるが、レスラーはブリッジをしてこの筋肉を鍛えている。
大怪我をしないことが、レスラーにとって最も重要なことだ。
「聞いて、浅海。お姉ちゃんはね、浅海に怪我をしてほしくないの。誰にも傷つけられたくないの。だから、鍛えるのも戦うのもやめて、ね?」
細い両の腕が、俺の背後で結ばれる。
子供の頃は胴体に抱きつかれていたけれども、俺の方が一回りも二回りも大きくなった今では、首筋に腕がかけられ、頭を抱きかかえるようなポーズになる。
姉さんの突然の抱擁に動揺していると、解錠音がした。
「お邪魔、だったようね……」
大人しいワンピースに着替えた秋が、唖然としながら扉を閉めた。
「ちょっと待て!」
立ち上がろうとした瞬間、チクリと鋭い痛みが肩に刺さった。
そのまま上体を動かさずに、腕だけで姉さんの手を掴むと、ハサミが握られていた。
「姉……さん? これは?」
「ちっ!」
悪びれる様子もなく、舌打ちをぶつけられた。
つまらなそうに体を離し、目つきを鋭くする。
急に抱きかかえるようなことをした理由は、俺を拘束するためだったらしい。
「え? 俺の首の筋肉を切ろうとした?」
「そんな非科学的なことするわけないでしょ。その無駄に伸びた襟足を切ろうとしていたのよ」
フォルムを元に戻す、とか非科学丸出しなことを言っていたどの口がそれを言うのか。
「これは伸ばしてるの! かっこいいの!」
「プロレスラーがどうとか言うんでしょ? もうそういうのいいから。モテないし品がないわよ。ほら、後ろ向きなさい。お姉ちゃん好みの髪型にしてあげるから」
「ちょっと待って! いろいろ待って!」
嘘、この襟足を伸ばすのってカッコ悪いの?
品がないのはわかるけど、モテないの?
秋はどうするの? あの子盛大な思い違いをしていたよね、きっと。
うん、秋が優先だ。
髪型のことは一度忘れよう。
「秋が出て行っちゃったよ! きっとなにか勘違いをしていたよ!」
「勘違い? せいぜい近親相姦くらいにしか結びつかないでしょう。放っておいても大丈夫よ」
「あああああああもう、この人決定的に破綻してる!」
俺は姉さんを振り切って、家を飛び出した。
塀を飛び越え、ドアを叩く。ガシャンと大きな音が鳴ったので、壊れてしまったり警備会社が音もなく忍び寄ってくる危険性に思い至り、別の方法を取ることにした。
「秋、俺だ。ちょっと話をしよう」
インターホンを鳴らした所で、ゆっくりと扉が開かれた。
不機嫌なことを隠さず、秋が顔を出す。
「うるさいんだけど」
「ごめん。その、さっきのは別に深い意味はないんだ。姉さんのいたずらで」
「それを、なんでわたしに言うの」
「いや、だって、勘違いしてない?」
「いいんじゃない? ずっと会いたがってたんだから」
「だから、あれは抱き付かれたんじゃなくて、襟足を切ろうと――」
「はい、わかりました。それじゃ」
抑揚のない声で別れが告げられた。
扉が閉められる。
キャッチセールスよりも強引に手を挟み、こじ開けた。
危うく指が挟まれるような状況でも、問題はない。
鍛えていて良かった。筋肉は嘘をつかない。本当だったね、シュワちゃん。
「…………なに?」
「お前、どうしちゃったの?」
本当はもっと、じっくり時間をかけて、失ってしまった時間を埋めてから尋ねるつもりだった。少なくともこんな強引に訊くつもりはなかった。
不器用な俺は思っていることを隠せなくて、つい口に出してしまう。
秋はこんな冷徹な目をする子じゃなかった。
優しくて、臆病だけど、人とのつながりを大切にする子だった。
なのに、どうなってしまったんだ? なにがあったんだ?
喉の奥から次々に出てくる疑問をまとめ切れず、どう尋ねていいか戸惑ってしまう。
「ここで騒がれても迷惑だから、上がるか帰るかして」
「じゃあ、上がる」
お邪魔します、の一言もなく、俺は秋の家に入り込んだ。
昔は勝手に入って秋のことを待っていたりもしたけれど、今はそんなことをするような年齢でもない。迎えに来てもらって、母さん発案の計画を実行する手はずだった。そんなもので俺がプロレスを諦めることも、ましてやかわいい人形や小物に魅力を感じることもない。
それでも受け入れたのは、秋のことが気になったからだ。
秋は案内するそぶりもなく、俺のことなんて見ずに自室に上がっていく。
以前来たときと大きく変わった様子はなく、うちとは違った家庭のにおいがする。
おばさんは出かけているのか、いないみたいだ。
階段を上ったすぐ隣の部屋。
何度も行き来した部屋に足を踏み入れる。
「お邪魔します」
ピンク色の小物、だるっとした顔のヌイグルミたち、ふわっとした服。
そんな予想していたものはほとんどなかった。
中は片づけられていて、機能的で無機質な印象を与える。
小学校のときから使っている机。あどけなさの残る机そのものの作りとは裏腹に、並ぶのは教科書や参考書ばかりで、唯一人間らしさを生んでいるのは、小さな観葉植物くらいなもの。壁には画鋲の穴と日差しを避けた跡が残っている。そこにカレンダーでも張っていたのかもしれない。
無趣味な男の部屋と聞いても納得しただろう。
姉さんの部屋にだって子供のころのアルバムや漫画の類はあるのに、せいぜい小説が整然と並んでいるくらいだ。
秋は髪を耳にかけ、教科書を開き始めた。
その動作からは、なにジロジロ見てんだよ気持ち悪い、と言われているようだった。
俺のことなんて端から相手にするつもりもないのだろう。姉さんに頼まれたから、体裁を繕っているのだ。
話しかける言葉も持たず、俺は手持無沙汰になってしまった。
仕方無く、腕立てを始める。
「汗臭くなるから、そういうのはやめて」
「じゃあ、話しようぜ」
「話すことなんてない」
秋はまた垂れてきた髪を指ですくい、耳に乗せる。色っぽい仕草だ。
ガラス細工のように繊細で透明で美しく、触れれば壊れてしまいそうに見える。
「姉さんになんて報告すればいいんだよ?」
「そんなの知らない」
「なら、家に上げる必要もなかっただろ。どんだけ弱み握られてんだよ」
「勉強しているんだけど、見てわからない?」
「よし、じゃあ、遊びに行こうぜ? 勉強終わってからでいいから」
「……………」
秋は小さくため息をついた。
ノートをたたんで消しカスをゴミ箱へ捨てると、腕を組み、俺の背後あたりに視線を寄こした。絶対に俺本体を見ようとはしない。
「弱みなんて握られてない」
「じゃあ、なんで姉さんに協力するんだよ。嫌なら断れよ」
「茉衣さんには恩があるの。あなたには関係ない」
「そうかよ。ま、いいや。久しぶりだし遊ぼうぜ」
「……どうかしてる」
だんだんと秋の態度は冷え切っていく。
無能な部下を切り捨てるみたいに、ひどく呆れている。
「なにがだよ?」
「なにをどうやって遊ぶの? 鬼ごっこ? お人形遊び? 昔のゲームを引っ張り出して通信対戦でもするの? それは楽しいの? 嬉しいの? 誰が? あなたが? わたしはなにも楽しくないし、あなたと一緒にいたくもない。これで十分伝わった? まだ足りない?」
「怒ってるのか?」
「怒ってなんかない。これだけ言われたのに、よく平気な顔をしていられるね」
侮蔑のこもった表情で言われた。
「このくらい向こうで言われ慣れてるからな。まあ、言われた相手が秋だってのには、かなり傷ついているけれども」
ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、秋の表情が歪んだように見えた。
メキシコで軽い差別を受けていたことに同情したのかもしれない。
その小さな表情の動きの中にだけ、昔の秋が残っているような気がした。
「どうしちゃたんだ? お前はそんなこと言うようなやつじゃなかっただろ?」
「人は変わるの。昔のわたしと同じだと思わないで。あなたが女の子にどんな幻想を抱いていても勝手だけれど、それをわたしに押し付けないで。昔ちょっと遊んだからって、…………知ったような気にならないで」
秋はわずかに感情的になって、声を少しだけ強めたると、そのままの勢いで部屋を出て、どこかへ行ってしまった。
いくら待っても戻ってきそうになかったので、すごすごと家に引き返す。
俺はいったいなにをしに来たのだろう。虚しさが押し寄せてくる。
秋は昔の自分と比べられることが嫌なのだろうか。
もう、俺とはただのお隣さんで、友達でもないのだろうか。
「あれ? 浅海ちゃん、よね?」
「あ、おばさん。お久しぶりです」
秋のお母さんが買い物袋を提げて帰ってきた。
人の家から出てくるなんて盗人みたいだけど、おばさんは一つも疑っている様子がない。
「やっぱり浅海ちゃんかー。大きくなったねー。うん、男前だ」
「ははは……」
大きくなったから、いろいろ問題を抱えている。
乾いた笑いを出していると、おばさんは俺の後ろを見て、首をかしげる。
「秋は?」
「なんでしょう、逃げられちゃいました。持ちますよ」
「ありがとう。気がきくわねー」
荷物を持ち、台所まで運ぶんでいると、うちには男手がずっといなかったということに気がついた。母さんと姉さんだけでは、なにかと力仕事も大変だっただろう。食事量も半分以下になるから、買い物は楽だろうけど、不自由もあったんじゃないかと思う。悪いことはいていなくとも、申し訳なさを漢字sてしまう。
「あの子強情だから」
「そうでしたっけ?」
秋が強情? 俺の言うことには反対せずに、いつも後ろをつけまわしていたあいつに、そんな言葉は似合っていないように思える。めそめそ泣いたりしていても、我を通したことはなく、あまり覚えのないことだ。
「そうなのよー。あ、お茶用意するね」
「いえ。姉さんに怒られそうなんで、家に戻ります」
「そう? んー、じゃ、これ持ってって」
そう言うと、カフェオレを持たせてくれた。
外に出て、ストローを指して歩きながら飲んでいると、遠くに人影が見えた。
姿かたち、服装、存在感、そのすべてが秋だと物語っている不審人物は、俺の顔を見ると、すぐに回れ右して行ってしまった。
甘いカフェオレがやけに苦く感じられた。
煮え切らないまま家に戻ると、姉さんが退屈そうに待っていた。
「姉さん、俺は秋を怒らせたらしい。なにをするまでもなく、逃げられちゃったよ」
「あら、そう。それで、感想は?」
姉さんは素っ気なく言うと、床を指差した。
そこには新聞紙がたくさん広げてあり、手にはハサミが持たれていた。
中央に座り、上着をすべて脱いだ。
「反省しています」
「……なにこの岩っぽい体? あなた本当にわたしの浅海なの? ふざけんじゃないわよ」
「その点は反省していません」
スプレーで髪を湿らせると、手際よくハサミを入れる。
軽快な音とともに、黒い髪が新聞紙に落ちる。
なにをするにしても器用でそつがないから、カットに不安はない。
「秋の部屋を見て、どう思ったのかしら?」
「部屋? あんまり見てなかったかな」
しらばっくれると、姉さんは首の裏から指でなぞってくる。
「ふーん、ここが頸動脈ね」
「見てました! すごく見ていました!」
「不純な弟に育ってしまって、お姉ちゃんは悲しいわ。それで?」
「特にかわいいものとかはなかったかな」
「かわいいものって、ピンク色のプロテインとか?」
「なんでだよ。ほら、ヌイグルミとかだよ」
「あなたの思っている『かわいい』が世間一般のものと合致しているなんて、にわかには信じがたかったから、聞いてみただけよ。うん、こんなものかしら」
姉さんはスマホを取り出して写メを撮ると、それを俺に見せた。
襟足が短くなっていて、両サイドと均一な長さになっている。
見た目はさわやかになったけれど、大切な強さが失われた気がした。
「あのさ、秋のことなんだけど――」
「シャワー浴びてきちゃいなさい」
俺の肩を払うと、落ちた髪の毛をこぼさないように新聞紙をたたみ始める。
面倒見がいいし、手間のかかる作業でも文句を言わずにやるし、手際良くスマートにこなしてしまう。よく知らない人が見れば怖がってしまうこともあるが、ときおり見せる冷たい笑顔には優秀な人特有のカリスマ性があった。
なんだか昔の姉さんみたいだった。
秋との関係も家族の問題もなんら改善しないまま、学校に通う。
巳羽や熱人のおかげもあってか学校は予想以上に気楽で、一人になることも悩みを抱えることもない。クラスでの関係も良好だ。強いて言えば勉強がネックだが、トレーニング同様、一朝一夕でどうにかなるものでもないので、気長に構えることにしている。
「ファック! やる気がねえなら引っ込めや! 勝たねえと意味がねえんだよ!」
熱人はゴールマウスを揺らしながら、ディフェンダー陣にげきを飛ばしている。
勝負事になると人が変わったかのように怒鳴り散らす熱人を見ながら、相手チームで良かったと心から思う。
レスリングとは言わないが、せっかく男女別の体育なのだから、柔道の授業くらいないものかと考えていると、ようやく頭の冷えた熱人が唇をかみしめながら話しかけてきた。
「負けてしまった」
「落ち着いたようだな」
「ああ。まだ苛立ちは残っているが、体育の授業であると言うことを思い出すことができた」
いったいなんだと思って臨んでいたのだろう。
「しかしお前、運動神経いいな。敵の中でもかなり動きのいい方だった」
「ありがとう」
体力や筋力、運動能力を褒めてくれるのは熱人くらいなものだ。競技は違うがスポーツを志す者として、相互理解もしやすいところがある。
「野球部に入らないか? 怪我人が多くて試合が回らないんだ」
「遠慮しておくよ」
熱人と一緒に野球をしたら、せっかくの仲が悪くなってしまいそうだ。
普段は好青年で付き合いやすいのに、スイッチが入ると手がつけられない。
ジャージを着替え、ボディーシートで体をふく。軽い運動後なので、ほどよい疲れが体を包む。風も心地よいし、悪くない午後。放課後までこの気分は続くだろう。姉さんの情報を訊かれたり、巳羽に勉強の邪魔をされたり、熱人が体育の時間になると豹変したり、なにかと刺激は多いものの、どこにでもありふれた学生生活だ。
今日も今日とて、机の中から手紙が出てくる…………。
ん? 手紙? 思いもしないことに、俺は硬直した。日常を逸脱する出来事だった。
無機質な四角い封筒に入っている。
緊急を要することではないにしても、すぐに開けてしまったほうがいいだろう。
剃刀が入っている可能性を念頭に入れながら、指の平でそれらしいふくらみがないか調べるも、気になる凹凸はない。下の方を少しだけ切って揺すってみるも、粉みたいなものは降ってこなかった。
安易なトラップはなにも入っていないようだ。
念のため薬品が塗られている可能性も加味し、袖の上から掴んで匂いを嗅いでみるが、紙とノリのにおいしかしない。怪訝に思っていると、熱人が俺以上に怪訝な顔をしていた。
「とても手紙を開ける動作には見えないな」
「そう? 俺にはこれがとても手紙だとは思えなくて」
「いや、手紙だろ」
言われた通り、封筒の中身はなんの変哲もない手紙。
文字は女の子の字、あるいはそれを模した丸文字だ。
文面に目を通すと、思わず笑いがこぼれてしまう。
「どうした?」
「果たし状だった」
「なんだと?」
「日本では決闘が禁止されている。メールやSNSなんかでは足がつくから、きっとこのような古風な手段をとったのだろう。いや、この場合はルールもこちらの了承も得ていないのだから、正式な決闘ではないな」
文面には、放課後十七時に教室で待つ、とだけ書かれている。
宛名も差出人の名も書いていないし、シンプルでわかりやすい。
「理由もなく争いなんてしないだろ」
一番理由もなく争いそうな男が豪語する。
お前が常識を振りかざすな。
「突然の新入りだ。快く思わない人もいるだろう。メキシコでは手荒い洗礼も受けた」
「ここは日本だし、お前は嫌われるようなタイプではないと思うが、そう思いたいなら止めはしない。ただ、他の可能性もあるのだと言うことを念頭に置いておけよ」
「ありがとう」
人数は明記されていないから、多人数の可能性もある。
俺がプロレス好きだと知っているのだとしたら、そっちの競技者かもしれない。
…………なんてことはないか。いくらなんでも、頭も決して悪くないうちの高校にそんなバカはいないだろう。例外もそんなに多くはない。そんなバカめったにいない。
「まあ、巳羽のいたずらだろうな」
「かもな」
それこそ、ラブレターなんて来るわけないのだから。
問題は家に帰るのが遅れて、姉さんに締め出しを食らう可能性があるってことだ。
「浅海ー! 帰ろうぜぇー」
巳羽が無駄に元気よく声を上げる。
午後の授業中も、巳羽に変な様子はなかった。
いや、ずっと寝ていた時点でおかしいのだが、こいつの場合はルーティーンだ。
「すまん、今日はちょっと呼び出されていてな」
「ふぇ? 誰だよ? ぶん殴ってやる」
「俺だ」
話を聞いていた熱人が顔を出した。
「あー、すみません。なんでもないっす。ほんと、なんでもないっす」
「ぶん殴るんじゃないのか?」
追い打ちをかける熱人。表情が変わらないだけに、余計怖い。本人にそのつもりはないだろうけど、いつぶん殴られてもおかしくないように感じてしまうのは俺だけではないはずだ。
「いや、ほんと、なんでもねーっす。ぅぇぃぁーっす」
巳羽はほとんど言語としての体裁を保っていない言葉を吐きながら、そそくさと帰った。
「違ったらしいな」
「うん。おかしいな。他にも俺のことをからかいたくて仕方ない人がいるのかな?」
秋がやっていたら悲しいな。
昨日のことで怒って、ラブレターと勘違いさせ、ぬか喜びしている俺を見て楽しんでいるのだとしたら……。考えただけで心がえぐれそうだった。
いかん、プロレスラーは心も強くならねば。
心技体、すべての要素を備えてこそ、一流のアスリート。
俺は平常心でもって、すべてを受け入れる。
「なにを深刻そうな顔しているのか知らんが、俺は行く」
「そうか、野球頑張ってな」
熱人が去り、教室からは徐々に人がいなくなっていく。
悩んでいても事態が好転するわけではない。
悩む時間があるのなら、今できることをするべきだ。
俺は腹筋を始めた。腕立てもした。九セットずつした。
じっくりと負荷をかけてやると、筋肉がNOと叫び、俺がYESと言う。筋肉が喜んでいる。
なかなかいい仕上がりになり、教室が暗くなってきたとき、人の気配がした。
「お待たせしました。申し訳ありません」
控えめな女の子の声だった。
顔を上げると、暗がりの教室に柔らかな髪型をした女の子がいた。
ぱっちりとした目。すっと伸びる鼻。淑やかな唇。
制服をおしゃれに着飾った姿は美人というよりも、かわいい、という表現がぴったりだった。
「時間ぴったりだから、かまわないよ」
どうやら敵意も悪意も殺気もないみたいだ。
あっても困るけど。
「今日はお話があって、呼び出させていただきました。話というのは――」
「ちょっといい?」
「はい」
「あの……伊柄獅だよね?」
「へっ?」
普段の地味な彼女からは想像できないけれど、伊柄獅だと思う。
眼鏡をはずしているし、髪型も整えているし、メイクだってしているし、胸を張って自信満々に話してはいるけれど、伊柄獅で間違いない。
女の子は黙ってうつむき、返事をしない。
「あれ? 違った? なら、ごめん」
「なんで……わかったんですか?」
「だって、ちょっとオシャレしただけじゃん」
伊柄獅はまたうつむいた。今の言葉はまずかったかもしれない。
女の子のオシャレがどれだけの時間と労力と覚悟を必要とするか、朝顔を洗っただけで出かけられる俺にはわからないからだ。
「自分で言うのもおかしいですけど、かなり、違うと思いますよ?」
「まあ、もともとかわいい顔立ちだと思ってたし、眼鏡を似合うのに変えればいいのにな、とは思ってたよ」
表情が見えにくくなってきたので、電気をつける。
明るくなった部屋には、顔を赤らめたかわいらしい少女がいた。
前に急に立ち上がったときもそうだったし、恥ずかしがり屋なのかもしれない。
「な、ななな、なんてことを……。ぐ……これが帰国子女ですか」
帰国子女に対してあらぬ偏見をもっていそうだ。
空気が読めないとか、距離が近すぎるとか、平気で女の子口説くとか。
空気が読めていない可能性は感じているが、生粋の日本育ちな巳羽のほうがよっぽど空気読めないから、たぶんきっとおそらく大丈夫。
「で、どうしたの呼び出して?」
「い、言っちゃうぞバカヤロぉぉぉぉ!」
細い声を全力で振り絞り、伊柄獅は叫んだ。
どうしたの、この子? バカヤロウって俺のこと? 君じゃなくて?
かわいらしい顔とアニメ声がセリフとのギャップを生んでいて、俺は近所でテロ事件が合ったニュースを見た時以来、心の底から驚いた。
「な、なんだなんだ? どうした?」
「わたし、好きなんです。好きで好きでどうしようもないんです!」
「え……」
「こんなこと言われても困るかもしれませんけど、わたし……」
伊柄獅は大きく息を吸い込む。
その突然の告白は俺の心拍数を上昇させるには十分だった。
そしてついに、決定的な一言を発する。
「わたしプロレスが好きなんです!」
………………………。
言葉が出ない、とは現状のようなことを言うのだろう。
俺は唖然として、開いた口がふさがらなかった。なにが起きているのか理解できなかった。
この子はなぜ、俺にそんなことを言ったのだろう。このシチュエーションと雰囲気、こんな鬼気迫る様子で真剣に言うことでもない気がする。俺のいない間の日本では、こんな体当たり的なジョークがウケていたのだろうか?
「……言っちゃいました」
「いやいやいや、なに満足そうな顔浮かべてんの! わけわかんないよ!」
一仕事終えた大工のような顔でいられても、こっちはカヤの外だ。
正気の沙汰じゃない。どうかしている。この熱のこもった口調は、贔屓球団について長々と語るときの熱人と近いものを感じる。
こんなバカな発言のために、無駄にドキドキしてしまったことが悲しい。
「伝わりませんでしたか? わたし、プロレスが大好きなんです。どれくらいかと言うと――」
「待った。その話は長くなりそうだ」
「は、はい」
「いいか? 落ち着いて聞いてくれ。最初の疑問にして、最大の疑問がある。つまり、なんで呼び出したの?」
「長くなりますけど、いいですか?」
「なるべく脱線しないでね……」
瞳の奥には熱い炎が見える。この手の目をした人は、自分の趣味を延々と語れる人だ。
俺は多少の長居を覚悟し、席に着いた。
これ以上遅くなると姉さん人締め出しを食らうかもしれないし、秋のところに行かなかったから懲罰を受けるかもしれない。それらは俺にとって目下最大の恐怖でもあるし、本来ならばまた後日にでも場を改めてもらったところだろう。
しかし、プロレスのこととなれば話は別だ。
「わたしとプロレスとの出会いは、大地も溶けるような暑い日のことでした。その日もアイスを食べながら退屈な日々を漫然と生きていたわたしは――」
「脱線しなければなにを話してもいいわけじゃないからね? 頼むから短めにお願い。プロレスが好きになって、そこからすぐに今日のことに繋げて。五分までで。君ならできる」
「……わかりました。女の子がプロレス好きというのはおかしな話でして、少なくとも、わたしの周りは魔法少女やアイドルにはまっていました」
自分とプロレスとの出会いを省略させられた伊柄獅は悲しそうだったが、そこから五分以上話し続けた。まあ、内容はそれほど珍しいものでもなく、格闘技好きの女の子ならばそうなってしまうかもな、と想像のつくものだった。
伊柄獅は子供のころに自分の趣味が周囲に受け入れられないこと、ましてや男子にもあまり理解されないことを知った。暴力的な性格だと誤解されることもあった。そのため、プロレスファンであることを隠した。
しかし、共通の趣味も、女の子らしいオシャレやドラマの話もできない。流行りの話題にもついて行けず、友達も少なく、本心を打ち明けられないことにもどかしさを感じていた。
そんなとき、転入生がプロレス好きを公言していた。
俺のことだ。
趣味を語り合えそうな同志を見つけたはいいものの、話しかけるきっかけが掴めない。
伊柄獅は自分に自信がない。そこで、化粧をして本来の自分を隠し、気持ちを大きくすることで、打ち明けることが容易になると踏んだのだ。放課後のこの時間を選んだのは、しっかりメイクアップする時間と、他の人がいなくなる条件を満たしているためだった。
「なるほどね。プロレス、最高だよね」
「はい! 最高です!」
俺たちはその言葉だけで通じ合えた。他に言葉はいらない。
しかし、伊柄獅はそうも思っていないようだ。嬉々とした表情で、ファイティングポーズのごとく両手を握りしめている。
「ぜひとも、語り合いたいと思いまして」
「でもごめん、俺、日本のプロレスには疎いんだ」
「へ?」
「メキシコに行ってからはまったのであって、日本にいたころは見たこともなかったから」
「あ、心配いりませんよ。わたしはプロレスの歴史や名言も好きですが、プロレスの試合そのものも大好きですし、海外の団体もチェックしていますから。トレーニング方法とか、傷の手当てとか、そっちにも関心がありますし」
ギラギラして興奮気味に語る。
教室で人目を気にしている姿からは想像もできないほど、生き生きとして輝いている。
やっぱり、プロレスは偉大だ。人に勇気をくれる。
俺としても、初めての同志ということになる。
母さんを筆頭として、周りには否定派しかいない。
それはプロレスがどうこうではなく、怪我を懸念しての否定だ。
しかし、熱人も巳羽も野球派だから、理解者はいない。
男同士ではないので、技の掛け合いだとかトレーニングはできないだろうけれど、それでもうれしいことに変わりはない。
「サミーさんの夢はプロレスラーになることなんですよね?」
伊柄獅はあだ名を気に入ってくれたみたいだ。
「なんで知ってるの?」
「聞き耳を立てていますから」
「そ、そう。あまりいい趣味ではないね」
「わたしの夢は柔道整復師の資格を取り、トレーナーとしてプロレスラーの方々を支えることです。一緒にがんばりましょう」
伊柄獅はすごく現実的で筋道の立った夢を持っていた。
高校を卒業したらテストを受けて、どこかの団体に入って、デビューする、なんて雑なことは考えていない。ちゃんと専門学校のことも調べているし、そのために学ぶべきこと、高校の科目でいえば生物なんかの授業もしっかり勉強している。
素直に、立派だと思った。
俺も堂々と夢を語ってばかりいないで、建設的な道を模索しなければならない。
その前に、大きな壁があるわけだけれども……。
「俺、家族に反対されてるんだよね」
「そうなんですか?」
「うん。一つは危ないからって理由で、もう一つはかわいくないから」
「なんですかその理由……」
「簡単にあきらめるつもりはないから、なんとかしたいとは思ってるんだけどね」
今はまだ高校生だから身動きがとれないけれど、卒業を控えるようになったら避けては通れない。これからの進路を伝えれば、母さんと姉さんは俺に立ちはだかるだろう。
「説得しましょう」
「相手は手ごわいよ?」
「プロレスラーはどんな強い相手からも逃げちゃいけないんです」
キラキラした目で、伊柄獅は言う。
真っ正面からそんな目を向けられると、マイナスな言葉が引っ込んでしまう。
どんな強い相手を前にしても、戦うことができる気がする。
「そうか……うん、そうだな」
「はい」
「ありがとう、頑張ってみるよ」
俺の言葉に、伊柄獅は首を振る。
「わたしにも協力させてください。わたしはサミーさんの味方ですから」
こうして、俺は本腰を入れて、夢を諦めさせようとする家族と戦うことにした。
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