第十話:『終わりと、始まり』



 を、何と呼称すべきか。

「………うっ、ぐ……!」

 地へ伏した身を駆け巡る痛みによじらせながら、アレンはなんとか視線を持ち上げた。

 岩壁に囲まれたそこには、もはやかつての面影など微塵みじんも残っていなかった。

 大地は砕け、岩は崩れ、熱気が大気を蝕む。

 それでもそこが存在を保っていられたのは、紅蓮の咆哮の前に、緋炎の壁が立ちはだかったおかげだった。

(……ッ、……みん、なは……?)

 目の前の巨大な穴に倒れていた筈の蜥蜴とかげが地へ伏せる視界の正面に映り、飛びそうな意識を懸命に繋ぎ止めて、重い首を後ろへと捻る。

 揺らぐ視界に映ったのは、およそ自身と同じような姿だった。

 みな苦痛に身体を震わせ、詰まる息を吐き出し続けていた。

(くそっ、一体何が……)

 状況がさっぱり理解出来ない。ただ、危機が迫っているということだけは、はっきりと理解出来た。

 と、

「!!」

 不意に、上空でくうを切る音が聞こえた。

(――なん)

 なんとか持ち上げたまなこに映ったモノを見て、驚愕した。

(で、こんな……!?)

 ただ、驚愕するだけで、理解は追い付かなかった。

 灼熱の塊を背に風を斬り裂く、猛々しくも優雅さを魅せる翼。

 それを繰る、ヴリトラなど比べようもないほどに巨大な肉体。

 太くたくましい両の腕に宿る、鋭く輝く鉤爪かぎづめ

 息巻く両顎を支配する、獲物を一撃でほふるであろう牙。

 頭上でうねる、燃え盛る炎のようなたてがみと一体になった角。

 背後で緩やかに舞う、その巨大な肉体を支える脚ほどに太い竜尾。

 それらを覆う鱗と、視界に入る全ての者を射殺すような瞳の色は、鮮血を被ったような、鮮やかに過ぎるくれない

 それが、今はなき巨大な穴へ、舞い降りた。



 ――――――――――――――――――!!



「――ぐ、あッ!?」

 鼓膜が裂けたのではないかと錯覚を起こした。

 それがどのような種類で、どういう意図があったのか判別は付かない。ただ、紅蓮を吐き出したあぎとから発せられた轟音に、両耳を蹂躙じゅうりんされたのは確かだった。

 引き裂かれるような痛みに、アレンは顔を歪める。

(……こんなとこに、いるんだよッ……!?)

 歪めながら、目の前の現実を否定した。

 魔物の知識にうといアレンでも知っている。見間違える筈がない。今、眼前へ降り立ったモノの姿を。何より、脳髄のうずいに響き渡る警鐘けいしょうが、それを本物だと知らしめていた。

 だからこそ、その事実を現実として受け入れられない。

 居る筈がないのだ。こんなところに、こんなモノが。

(アルディオ、ドラゴンッ……!!)

 竜族の中でも、最も古くから存在するとされる、六種のドラゴン。

 火竜、風竜、地竜、水竜、闇竜えんりゅう、光竜。

 六つの属性を司り、他の竜族の原点たるそれらを、総じて、原種と呼ぶ。

 彼らの殆どは三界分断の際に魔の神が管理する世界、エルノワールへと旅立っており、この世界の行く末を見守る役目を引き受けた数少ない者達は普段、人の訪れることの出来ない山や森、渓谷けいこくなどの深奥で暮らしている。

 よってその姿を見た者は殆ど居ないのだが、ただ一つ、例外が存在する。

 それが火竜、アルディオドラゴンだ。

 血にまみれたような外見とは裏腹に非常に温厚な性格をしている彼らは人間にも友好的で、原種の中でも唯一その姿が書物に収められている。

 その雄々おおしい姿は、まさに今、この場へ降り立った姿と相違なかった。

 だが――

(うそ、だろ……!?)

 鮮血のような鱗に、あの黒いもやった。

 洒落にならない。もう、アレンには体力も魔力も殆ど残っていなかった。恐らく全員似たような状態だろう。ノアに至っては右腕が折れたままだ。

 やっとの思いで倒したヴリトラの黒閃ですら飲み込んだシャルの炎も、アルディオドラゴンの攻撃の前ではたったの一瞬しか持たなかった。こんな状態でそんな相手と戦うなど、どう考えても勝ち目がない。

 いや、そもそも人間の身で勝とうと思うこと自体、愚の骨頂なのだ。

(くそっ、こうなったら……)

『全員、聞いてください』

 突然、リオンの声が頭に直接響いた。

『もうほとんどの人が戦える状態じゃありません。ここまで来て残念ですけど、転移するしか……』

 意見を待つように、僅かな沈黙が流れる。

『……俺は賛成だ。もうそれしかないと思う』

 恐らく言葉を声に出すことすら辛いのだろう。だから念話の魔法で呼び掛けたのだ。

 それに、ただでさえ格の違う相手がりにもって凶暴化しているのでは、次の一撃で転移が発動する間もなく瞬殺され兼ねない。

 ここはもう、クエストを諦めて帰還する以外に道はない。

『わたしも、お兄ちゃんと同じ意見だよ』

『そうだね、残念だけど……』

『異論は無い』

 イリス、アクア、ノアからも、同様に賛同の声が上がった。

 アレンは残りの二人へ呼び掛ける。

『シャル、ステラ、それでいいか?』

『えっ? えと、あの……』

 ステラから狼狽うろたえるような声が返ってきたので、イリスが首を傾げる(無論心中でだが)。

『どうしたの、ステラ?』

『いえ、その………シャル先輩……』

 何か言いたげに、シャルへ振った。

『…………』

『シャル?』

 返事がないので、アレンは後方へと重い視線を向ける。

 離れた場所でうつぶせに倒れるシャルは、何かを考えているのか、顔を伏せていた。

 やがて、

『……そうね、それで良いわ』

 そう答えて、顔を上げた。

 緋色の視線が、黄金色のそれと重なる。

『アルベルトの馬鹿に負けるのはしゃくだけど、命あっての物種ものだねだものね。今は皆で生き残る事を優先しましょう』

「――――ッ!!」

 それを、仕方がないといった風に

『じゃあ、合図したら一斉に――』

『待ってくれ!!』

 声なき叫びを上げて、アレンはリオンの言葉を遮った。

『どうしたんですか?』

 一刻を争う状況での突然の制止に、眉をひそめた声が向けられた。

 その返事を、アレンは別の二人へと返す。

『シャル、ステラ、お前らまさか……』

『『…………』』

 とがめるような声と押し黙る二人に、他の四人は益々ますます顔をしかめた。

『……ダメだ、転移以外の方法を考えよう』

『――ちょっとアレン!!』

『時間がないんですよ!?』

『急にどうしたの、お兄ちゃん?』

 唐突な前言撤回に、驚愕と戸惑いが返された。

『シャル、ステラ……お前ら、魔石持ってないだろ』

『『―――ッ!!』』

 詰まらせた声が念話越しに伝わった。

『ち、ちょっと待ってください!』

『本当なの二人とも!?』

『…………』

 あまりにも急な話に、ノアの沈黙ですらどこか重かった。

『シャルちゃん……ステラちゃん……』

 真相を求める声が、二人へ向けられる。

『……本当、です』

 僅かな沈黙の後、観念したように肯定した。

『どうして黙ってたんですか!?』

『そうだよ! 転移できなきゃ二人とも――』

『仕方無いじゃない!!』

 糾弾きゅうだんするような言葉が遮られた。

『もう殆ど魔力が残ってない! 戦う力も逃げる力も無い! 他の方法を考える時間も無い!』

 見ると、シャルは再び顔を伏せていた。

『もうこれしか、方法が無いのよ……!!』

 誰も、何も言えない。

 二人とも、好きこのんで選んだ訳ではない。より大勢が生き残るには、シャルの言う通り、この方法しか残されていないのだ。

「……ふざ、けんな」

 声に出して、アレンは呟いた。

「俺はそんなの、認めねぇぞ」

 力の抜けた拳が、土を握り締める。

「やっと、やっと叶ったんじゃねぇのかよ。六年も悩んで、苦しんで、ようやく取り戻したんじゃ、ねぇのかよッ!」

 軋む身体を意地だけで奮い起こす。折れそうな脚を残り僅かな全力で支える。

「っ、仕方、無いじゃない……!」

 シャルも、震える声で返した。

「私だって、悩んだわよ! 本当は、皆で、帰りたいわよッ……!!」

「シャル………っ」

 イリスが口を開こうとしたのと同時に、

「!!」

 ステラを除いた五人へ向けて、シャルの掌から五つの炎が放たれた。

「シャル!?」

「何を――!?」

 シャルの突然の行動に、アレン達は戸惑いを隠せなかった。

 炎に包まれたアレンは、すぐに襲い来るであろう熱さに咄嗟とっさに歯を喰い縛る。が、

「……熱く、ない?」

 まとわり付いた炎からは、全く熱を感じなかった。代わりに、

 ――ピシッ、

 首から提げた魔石に、亀裂が走った。

「―――ッ!!」

 その意味を理解して、戦慄が全身を襲った。

『ごめんなさい、ステラ。結局、さっきと似たような事になっちゃった』

『……あの時とは、状況が違いますよ』

 穏やかに話す二人を、アレンは睨み付けるように見る。

「シャル!! ステラ!!」

 その間にも、構うことなく、亀裂は拡がっていく。

「………さよなら、アレン」



 石が、砕けた。



「………えっ?」

 シャルの、そんな声が上がった。

「どう、して……」

 ステラも、目の前の光景が信じられなかった。

 そんな筈はない。一体どうしてこんなことが起きたのか、理解出来ない。

 だが、それは間違いなく事実で。

 疑いようのない、現実だった。

「……なんで、転移してないんだ?」

 確かめるように自分の身体を触りながら、アレンは呟いた。周囲を見ると、他の四人も狐につままれたような顔をしている。

「何で、転移しないのよ!?」

 魔石は確実に砕け散った。

 それなのに、一体何故。

「……なんか、わかんねぇけど」

 まだ不思議そうに身体を確かめながら、アレンはニヤリと笑う。

「どうやら、お前らの思惑通りにはいかなかったみたいだな」

「………ッ、何よ! 私だって好きでやった訳じゃ――」

『あ、あのっ! それよりも今は他の方法を考えないと―――ッ!!』

 頭に割って入ったステラの声が詰まった。一斉いっせいに、その視線の先を見る。

「!?」

 そこにあった光景を目の当たりにして、誰もが目を疑った。

 死に絶えたヴリトラの身体から、大量の黒い靄が溢れ出していた。それが彷徨さまようように這いずり回り、やがて傍にあった紅い脚へ絡み付いた時。

 再びの鼓膜を引き裂く咆哮と共に、鮮血の竜が黒を纏った。

 そして、黒き紅蓮がその荒ぶる両顎から放たれた。

 幸い、炎はアレン達には放たれなかったが、

「なっ――!?」

「うそ、でしょ……!?」

 最早、これは夢なのだと信じたくなった。いっそのこと、その方が現実味が増すに違いない。こんな光景に直面したなどと、一体誰が信じられようか。

 山頂一帯が、消し飛ぶなどと。

 崩れ落ちたなどという生易しいものではない。文字通り、土一つ残らず消滅したのだ。

 しかも、炎が僅かに掠めただけでこの威力。直撃すれば、間違いなく山一つ消えてなくなるだろう。

 認識が甘かった。

 迫っていたのは、危機ではなかった。

 今まで窮地きゅうちの際に感じてきたものは、〝死〟などではなかった。

 これが、この目の前に現れたモノこそが、

 逃れ様のない〝死〟であり、

 故にを、絶望と呼ぶのだ。



    †   †   †



 停止した思考がハッと再開した。

『――ッどうすんのよ! このままじゃ本当に全員山ごと消し飛ぶわよ!?』

『んなことわかってるよ! とにかく何か考えないと――』

『……無理ですよ』

 言い争う二人を遮るようにリオンが呟いた。

『みんなわかってるでしょう!? あんなの相手に生き残れるわけがない! 転移以外に方法はなかったんだ! それも駄目ならもう……!』

『リオン君……』

 確かに、その通りだった。

 身体は相変わらず満身創痍まんしんそういのまま。逃げるにしても山ごと消し飛ばされれば意味がない。転移が発動しなかったのでは、現状、手立てがなかった。

『――方法なら、あるよ』

『イリスちゃん?』

 全員の視線がイリスへ向いた。

 その表情はいつもの朗らかなものではなく、かといって今朝から続いた陰鬱いんうつなものでもない。何かを決意したような、そんな表情だった。

『―――ッ、ダメだ! それだけは絶対に!!』

『そうよ! そんな事したらあんた……!』

 その意図に気付いたアレンに続き、シャルまでもが却下した。

『……一体、どのような方法なのですか?』

『『聞かなくていい!!』』

『――は、はいっ!』

 眉を寄せて訊ねたステラに、二人揃って怒鳴った。

『二人とも、どうしたの? なんだか変だよ?』

 二人の様子にアクアもいぶかしむ。シャルはともかく、アレンまでもがステラに怒鳴るなど、只事ではなかった。

『……なんでもない』

『そんな事より、他の方法を考えましょう?』

 一刻も早くこの話題を終わらせたい二人は、なんとか別の策を講じようとする。

『だめだよお兄ちゃん、シャル。ほらあれ』

『『!!』』

 アルディオドラゴンの尋常ではない質と量の魔力が、再び口へと集まり始めた。今度こそ、あの馬鹿げた威力の炎がこちらへ放たれるだろう。

『もう、本当に時間がないってわかってるでしょ? この方法なら、みんなが無事に帰ることはできるんだし』

『それでもダメだ! それをやったら――ッ!!』

 なおも拒否するアレンの言葉を、火竜の雄叫びが遮った。

「【天使の翼エアリアルウォーク】」

 呟きと共にイリスの背中に光の翼が生え、その小さな身体がふわりと宙へ浮いた。

「イリス!!」

「待ちなさい!!」

「……ごめんね、二人とも」

 二人の制止も虚しく、イリスは上空へと緩やかに舞い昇っていく。火竜の鮮血の瞳が、その姿を捉えた。

「本当は、使いたくなかったけど……」

 その視線を哀しげに見つめて、胸の前で両手を組み、祈るように瞼を閉じた。

 薄い唇を震わせたのは、一つの、短いうただった。



 ――それは、終わりのない旅の始まり

 黒き火竜の魔力が、一つの炎へと姿を変えていく。


 ――季節が幾度いくど、巡っただろう

「やめろ、イリス!!」

 眼下で、アレンが必死に叫ぶ。


 ――花が芽吹き、緑が茂り、月夜つくよせ、白が彩る。

「イリス!!」

 シャルも叫び続けるが、イリスの魔力はとどまることなく高まっていく。


 ――中でもあなたは、白を好んだ

「……綺麗な歌」

 不思議と世界に響く詩に、アクアは思わず聴き入っていた。


 ――一面に広がる銀世界は、あなたとわたし、二人だけの世界

「イリスさん……」

 長く綺麗な銀の髪がつどう魔力に撫でられる様を、ステラが不安げに見守る。


 ――氷柱つららに触れ、しもに震わせ、舞い散る雪と、共に踊る

「…………」

 宙に着ける足の下に現れた銀色の魔法陣が、リオンの瞳に映った。


 ――永遠とわに思える僅かな時を、わたしはあなたを想って過ごす

「何だ、この詠唱は……」

 ノアの呟きが、巻き起こる風にさらわれた。


 ――けれどもやがて、世界は再び花を芽吹く

 火竜の雄叫びが、再び轟いた。


 ――あなたはいつもそれをうれえ、わたしはそれに憂いを覚えた

 再び覗いた銀の双眸そうぼうに、言葉通り憂いが色付く。


 ――だからわたしは、祈りを捧げる

 魔法陣が、正面にも一つ展開し、


 ――白が終わりを迎えるように、いつか二人も終わるのならば

 銀色の光が、イリスの眼前へ集い始めた。


 ――どうか時の歩みを止めて、二人だけの世界で生きよう

 そして、何かを求めるように、組んだ両手をそれへと差し出す。


 ――溶けない白の、果てなき世界で

 黒き紅蓮の咆哮が、上空へ向けて放たれた。



「【久遠の白界コキュートス】」



 イリスの背中に生えていた光の翼が、空気へ溶けるように消えた。

「――っ!」

 すぐに、アレンは地面目掛けて落下するイリスを追って駆け出した。

 軋む脚を駆り、重い両腕を差し出す。

 奇妙なほどふわりと、小さ過ぎる身体がそこへ収まった。

「あはは……ちょっと、疲れちゃった……ごめんね、お兄ちゃん」

 腕の中で苦笑する少女は、少し息苦しげに謝った。

「……謝るとこが、違うだろ……」

「…………ごめん」

 返された震える声に、イリスは目を伏せてもう一度謝罪した。それに小さく息を吐いて、アレンは視線を移す。

「とにかく、今度こそ本当に終わったんだよな?」

「たぶんね……」

 移した先で、黒き火竜とその炎が、雄々しき姿はそのままに、白に染まっていた。

 凄惨せいさんな荒れ地に佇む猛々しい氷像は、まるで一つの芸術品のような優雅さすら纏って、陽光にきらめき続ける。

「アレン」

「……ノア」

 右腕に手を添えながら、ノアが歩み寄ってきた。

「今度ばかりは、説明して貰うぞ」

「僕も、聞きたいです」

 リオンも、身体を引き摺りながら続けた。

「……? あの、一体どうなさったのですか、お二人とも?」

 ただならぬ雰囲気をかもし出す二人へ、同じくやってきたステラが首を傾げた。

「今の魔法、ステラは何か変だと思わなかった?」

「いえ、あまりにも凄過ぎて……」

 山を消し飛ばし得る黒き紅蓮が、その本体共々僅かな抵抗も許されずに一瞬で氷漬けになった様は、まさに圧巻。それをいた少女の姿に、ステラは只々、呆けることしか出来なかった。

「ですが、先程の魔法は精霊魔法ですよね? それをイリスさんが使えた事には驚きましたが……」

「あれは、精霊魔法などではない」

 冷たい声色が、否定した。

「上級魔法だろうと精霊魔法だろうと、現代の魔法の詠唱文に必ず含まれていなければならない文が、あれには無かった」

「必ず含まれていなければならない文、ですか?」

 眉を寄せて繰り返された言葉に、ノアは頷く。

「精霊への、祈りの文だ」

 人間の使う魔法の詠唱文は、大きく三つの行程に別れている。

 まず初めに精霊へ祈りを捧げ、力を借りる精霊の属性、クラスを決める。

 次に効果、対象など、魔法の核たる部分を決める。

 そして最後に魔法名を唱えることで、その銃爪ひきがねを引く。

 高位の魔法になるほど魔法の核たる部分を決める節が長くなり、内容も複雑さを増すのだが、全ての(世間一般に使われている)魔法には、共通してほぼ同じ意味を持つ節が存在する。

 それが、精霊へ呼び掛ける節だ。

 属性やクラス毎に使う単語が違いはするが、それらを省けばおよそ同じような文脈が使われており、古代語による詠唱でもそれがどういったものなのかくらいは理解出来る。

 詠唱破棄ならば他の節も省略している筈だが、先程のイリスの詠唱(そもそも本当に詠唱だったのかすら怪しいが)には、その文のみが含まれていなかった。

 そんな魔法は存在しない。少なくとも、現代には。

「精霊の力を借りなければならない現代の魔法で、精霊への祈りの文が含まれていない詠唱など在りはしない。つまりあれは……」

「【失われし魔法ロストスペル】」

 リオンが呟いた。

「精霊の力を借りずに、なおかつ桁外れな魔力を持つ原種のドラゴンを一瞬で凍らせることができる魔法なんて、それ以外考えられない」

 確かに、神の加護を授かった古代の魔導師達は精霊の力を借りずに魔法を行使したとされ、その〝力〟は現代の魔法とは比べようもなく強大だったと言われている。

「で、ですがあれは……!」

 五千年もの昔に、その使い手と共に絶滅した筈だ。そもそも、神の加護を持たない現代人にそれを扱える筈がない。

 現在でも数多くの魔法研究者達が【失われし魔法】の記された書物、「古き贈り物アンティーク」を解読、その構造を解析しているが、せいぜい似たような魔法を創り出すかその技術を応用するくらいで、それ自体を扱うことなど出来はしないのだ(ただし、『武具召喚』はごく小量の自身の魔力のみを使う無属性魔法の為例外である)。

「そう、だからあり得ないんだよ」

 全員の視線が、アレンとイリスへ注がれる。

「あ、あのね皆、あれは――」

「シャル、いいよ」

「アレン!」

 弁明を図ろうとしたシャルを遮って、アレンはその視線を正面から受け止める。

「……全部、話すよ」



    †   †   †



「セフィロトに、暴走……」

「そんなことが……」

 アレンから六年前の話を聞いたノア達は、信じられないような事実に驚きを隠せなかった。

「だが、納得せざるを得んな」

「だから、シャルちゃんのことも話せなかったんだね」

「あぁ。あれを話したら、イリスのことも話さなくちゃいけないからな」

 頷いて、アレンは視線を下へやる。

 そこには、膝に頭を乗せているイリスが、眠るように目を閉じていた。

「イリスちゃん、大丈夫?」

「【失われし魔法】は大量に魔力を使うからな。俺も話に聞いただけで見るのは初めてだったけど、やっぱりかなり疲れるみたいなんだ」

「……へーきへーき。ちょっと休めばすぐ治るから、心配しないで、アクア」

 心配そうに眉を寄せるアクアに、イリスは目を閉じたままへにゃっと笑い掛けた。

「それで、どうするのよアレン。帰ったら多分……」

 地面に腰を下ろして身体を休めるシャルの声は、かなりトーンが落ちていた。

「さっき言ってた、条件のことですか?」

 既に四人には、イリスの入学条件について話してある。部外者に秘密がバレてしまった以上、イリスは退学か、下手をすれば研究対象として各国の所有する魔法研究機関に連行されるかもしれない。

「あの、私達が何も見なかった事にするのは……」

「ダメだな。入学の時点でイリスには約束を破ったことがわかるよう魔法が掛かってる。もう学園長にはバレてるよ」

「あぅ……」

 おずおずと上げたステラの提案は、呆気なく粉砕された。

 うーん、とその場に重い沈黙が流れる。

「大丈夫だよ」

 不意に、イリスが言った。

「退学になってもみんなに会えないわけじゃないし、もしどこかに連れて行かされそうになったら逃げればいいだけだよ。わたしが本気出したら簡単だと思う」

「イリス……」

 確かに逃げることは出来るだろうが、恐らくイリスはそんなことはしない。この天真爛漫てんしんらんまんな少女はそういうズルは嫌いだし、無理を聞いてくれた学園長に恩を仇で返す真似はしたくないだろう。

 皆それは理解している。けれどその弱々しい微笑みが伝えたいことを察して、それ以上の言及は出来なかった。

「とりあえず移動するか。いつまでもここにいるわけにもいかないし」

 小さな頭を撫でながら、アレンは周囲を見渡した。アクアとリオンの魔力はまだ残っているが、ほぼ全員の魔力が尽きてしまっているこの状況でまた魔物が現れた時のことを考えると、アクアに残り少ない魔力を消費して治療を頼む訳にはいかない。一旦、どこか安全な場所で体力と魔力を回復する必要があった。

「って、『紅蓮華』はどうするのよ?」

「あっ、そっか。忘れてた」

「あんたねぇ……」

 連戦ですっかり忘れていたアレンに、シャルは溜め息を吐いた。それに苦笑いを零しながら、ステラがノアに訊ねる。

「ここ以外に群生地というのは……」

「在るには在るが、ウォール山脈を更に奥へ進まなければならない。正直、余り気乗りはしないな」

「何故ですか?」

 本当に気乗りしない声に、ステラは首を傾げた。

此処ここしばらく進むとキネリキア山脈を抜けて別の山脈へ繋がるのだが、其処そこへ入った途端魔物が比べ物にならない程強くなるそうだ。はっきり言って、今の俺達のレベルでは厳しいだろうな」

「そうなんですか……」

 この山の魔物でさえ凶暴化の所為で相当手強てごわくなっているというのに、そもそもの基本能力が上の魔物と戦うなど、確かに遠慮願いたかった。

「それじゃあ、やっぱり帰り道に生えてるやつを集めるしかないですね」

「だな。でもその前に休む場所を探さないと。イリス、立てるか?」

「うん、だいじょぶ」

 肩をすくめるリオンへ頷いて、アレンはイリスの身体を起こした。

「あっ、イリスちゃん、肩貸すよ?」

「ありがと、アクア」

 慌てて立ち上がったアクアが、イリスの細い腕を肩へ回した。それに続いて、他の面々も休めていた身体を立ち上がらせる。

「それじゃあ俺と一番魔力の残ってるリオンが前衛、イリス、アクア、ノアは真ん中で、ステラとシャルはきついけど後衛を頼む」

「待て、俺も前衛へ回る」

 右腕をぶら下げながら、ノアが提言した。

「無理すんなって。まだ右腕治ってねーんだし、大人しく護られてろよ」

「っ、………」

 何か言いたそうだったが、結局ノアはそれ以上口にしなかった。

「じゃあ気を取り直して、まずは野営場所の確保ってことで――」

『――待て』

 突然、雷鳴のような重々しい声が、頭の中に直接轟いた。

「誰だ!?」

 叫んで周囲を見渡すが、その場に変化はない。

 というのは、気の所為だった。

「アレン、前!!」

「なっ――!?」

 アレン達から離れた場所に佇んでいた火竜の氷像に、一筋、亀裂が生じた。

 小さな亀裂はすぐに氷像の全身を駆け巡り、次の瞬間、

 ――――!!

 甲高い音と共に、火竜を包んでいた氷が砕け散った。

「うそ……」

 騒々しい音を立てながら、凍った炎が崩れ落ちていく。

 目の前で起きた事態に最初に唖然とした声を出したのは、他でもない、火竜を氷漬けにした張本人であるイリスだった。

「あれでも、倒せないなんて……」

 もう何度、自分の目を疑っただろう。だがそれでも、やはり驚くことしか出来なかった。

 切り札、いや、禁じ手と言っても過言ではない【失われし魔法】ですら、倒すことが出来なかった。アレン達がこの鮮血の竜を倒すすべは、もう存在しない。

 砕け散った氷塊は、彼らの最期を意味していた。

「――イリス、転移は!?」

 ハッ、とイリスはアレンの叫びに目を覚ました。

 確かに、魔石での転移は出来なかったが、直接使えば可能かも知れない。

 すぐさま、魔力を構築する。

 しかし、

「……ッだめ、やっぱり発動しないよ!」

 万事休す。最早もはや打つ手はなかった。

「来るわよ!!」

 鮮血の瞳が七人を捉える。次いで、その巨大な肉体がそちらへ向いた。

「くそっ!!」

 無駄とは解っていたが、アレンは剣を構えて火竜を睨み付ける。

 やがて、山頂を消し飛ばした紅蓮を吐き出した両顎が、ゆっくりと開いた。



『だから、待てと言っている』



「…………へっ?」

 思わず、アレンはそんな声を上げてしまった。

狭間はざまの者達よ、刃を収めよ。争う意思は無い』

 頭に響く重々しい声に、皆顔を見合わせる。

「……いきなり襲っておいて、信じろって言うの?」

 シャルが刺々しい言葉をほうった。なんというか、勇ましい。

『緋炎の聖女よ、あれは我の思う所ではない。の意思は既にこの山から消えた』

「彼の意思?」

『我と、この山の者達に取り憑いた黒き意思だ』

「あの、黒い靄のことか?」

 首を傾げるアレンに、火竜は声なき言葉で頷く。

『その通りだ、聖光の剣士よ。我らは〝うごめくモノ〟と呼んでいる』

「〝蠢くモノ〟……」

 再び、シャルが訊ねる。

「『我ら』って事は、あんたの他にもこの山に原種が居るの?」

『否、そうではない。あくまでこの世界の行く末を見届ける役目を負った、なんじらが原種と呼ぶ者達の間でそう呼称しているだけに過ぎん。他の者達は、我と違い人里近い場所を嫌うのでな』

「じゃあ、あんたはこの山に住んでるって事?」

『それも否。我も普段はこの山脈群の深奥にて暮らしている。今回は、この山の〝蠢くモノ〟が異常なまでに強大になった事実を確かめに来たのだ。だが……』

「だが?」 

 繰り返したシャルに、火竜は僅かな間を空けて答える。

『情けない話になるが、この山に踏み入った前後の記憶が曖昧なのだ。気付いた時には、彼の意思によって本能のおもむくままに暴れていた』

「って、意識はあったのか。あのさ……」

「アレン」

 不意に、ノアが割って入った。

 振り返ると、いつの間にかアレンとシャル以外は数歩後ろへ下がっていた。

「ん? どうしたんだよ、みんな」

「いえ、どうしたというか……」

「よく、そんな普通に話せますね……」

 歯切れの悪いステラにリオンが続けた。

 仮にも生きる伝説とまで言われている生物に平然と話し掛けるアレンとシャルに、残った五人はある意味呆然となっていた。シャルに至っては「あんた」呼ばわりである。

「っていうか、まずは人間の言葉を喋ったことに驚きましょうよ」

『ふっ、鳳弓ほうきゅうの少年よ。我らいにしえより生きる者にとっては、人間の言語をかいするなど造作も無い事なのだ』

「うわぁっ!?」

 突然話し掛けられて、リオンはつい悲鳴のような声を上げてしまった。

「それは置いておくとして、簡単に信用するのは如何どうかと思うがな。全て作り話という可能性も……」

「大丈夫だって、多分。そもそも向こうにそんなことする必要なんてないし、何よりあの嫌な感じがしないだろ?」

 疑わしげに火竜を見るノアに、アレンはニカッと笑った。

「まぁ、そうだが……」

 どうにも信用し切れないらしく、ノアはまだ変わらぬ視線を火竜へ向けていた。

『ふむ。黒影の騎士よ、汝が警戒するのも無理からぬ事だ。我が意思ではないとはいえ、汝らに対する非礼は詫びよう』

「気にすんなって。乗っ取られたようなもんなんだし、しょうがねぇよ」

「あの、僕たち死に掛けたんですけど………はぁ、もういいです」

 命の危機をしょうがないで済ましてしまったアレンに、リオンは諦めたように肩を落とした。

「…………あの、」

 おずおずと、アクアが声を振り絞った。

「その〝蠢くモノ〟…は、本当に消えたんですか?」

 訊ねながら、アクアは肩へ回したイリスの腕を掴む手を強張らせた。

『案ずるな、水麗の巫女みこよ。それは確かな事実だ。、この山からは消えた』

「どういう意味よ?」

 含むような言い方に、シャルは眉をひそめた。

『既にこの山一帯から彼の意思は感じられない。だが、消滅したのかは定かでないという事だ』

「それはつまり、他の場所へ移動したかもしれない、という事ですか?」

 紅い瞳がステラを見る。

『左様だ、星剣の少女よ。だが、相当に弱っている事も間違い無いだろう』

 とりあえずの安全に、一同(特にアクア)から安堵の息が漏れた。

「良かった、これで帰り道の『紅蓮華』採集も楽になりますね」

『「紅蓮華」……「ほむらの麗草」の事か』

「元々はそういう名前なのか? ちょっと纏まった量の葉が必要なんだよ。本当はここに大量に群生してたんだけど、ヴリトラが全部焼いちまったみたいでさ」

『ふむ、成る程……』

 それだけ言うと、火竜は何かを考えるように沈黙した。

『……良かろう。先程の詫びも兼ねて、代わりの場所へ案内しよう』

「本当か!?」

『ああ。そこなら、より高密度の魔力を蓄えたものが育っている筈だ。どれ、暫し待て』

 言って、アルディオドラゴンの鮮血の瞳が瞼に隠された。

 すると――

 突然、眩い輝きが火竜を包みんだ。

 咄嗟に目の前へ手をかざしたアレン達は、

「――な、あっ!?」

 光の収まったそこを見て、目を丸くした。

「……ふむ、この姿も何代いつ以来か」

 今し方まで火竜の居た場所で、鮮血のように紅い瞳と長い髪を持ったよわい二十中程の男が、灰色のローブに身を包みながら確かめるように両手を握っていた。

「あ、と、えぇっ!?」

「どうした? 何を驚いている、狭間の者達よ」

 事態を理解出来ず、アレン達は只々驚く。

「あの、アルディオドラゴン、さん…ですよね?」

如何いかにも。汝らがそう呼称する者で相違無い、星剣の少女よ」

 懐疑的な質問に、火竜であった男は至って平然と答えた。

「あぁ、成る程。人間にはこの姿は伝えられていないのか。まったく、何の為の教本なのだか」

 一人納得して、鮮血の男は愉快そうに苦笑を漏らす。

「ちょっと! 一人で納得してないでちゃんと説明しなさいよ!」

「いや、済まんな。つい昔を懐かしんでしまった。歩きながら話そう」

 アルディオドラゴンは謝辞を返して消し飛んだ山頂へ向けて歩き出したが、まだ苦笑は収まっていなかった。

 七人は戸惑いながらもその背に続く。

「さて、汝ら人間は肉体をその姿に留まらせているが、そもそも二つの神が汝らを創造した際、その姿をどこから得たと考える?」

「どこって……」

 綺麗さっぱり消し飛んだ山道を進みながら、シャルは思案した。

「『人』という言葉は、何も汝らだけに当てはまるものではないという事だ。獣人族しかり、エルフ族然り、『人』と呼ばれる者達は、皆一様に似た姿を持っているのだ」

「ってことは、俺たちの姿の元はそこってことなのか?」

「左様。そして気高く美しいエルフ族と誇り高く雄々しき我ら竜族の人型も、その内に含まれる」

「聖魔双方の頂点って訳ね」

「厳密には違うのだが、今は関係無いのでそう取って貰っても構わん」

 そこまでいくと、一同は洞穴ほらあなの開いた岩壁へ到着した。

「シャル先輩、ここは……」

「えぇ、さっき来たとこみたいね」

 岩壁の上部が消し飛んではいるが、そこはシャルとステラの通った抜け道だった。

「ふむ、紙一重で消滅は免れたようだな。こちらだ」

 先を行く竜人に従い、アレン達も洞穴へと足を踏み入れた。

「なんだか、暖かい……?」

 イリスに肩を貸しながら、アクアが呟いた。外は確かに暑いのだが、やけに明るいこの洞窟のみ、何故か心が休まるような暖かさに包まれていた。

「変ね? さっき通った時は嫌に暑かったのに……」

「ここは、この山で最も火の魔力の集う場所なのだ。大抵の者には安らぎを与えるが、自身の魔力が不安定な者には逆に牙を向く」

「あぁ、なるほどね」

〝力〟を取り戻した今だからこそ、この安らぎを得られているのだろう。つくづく、シャルは精霊に感謝した。

「先程の続きだが、我ら古より生きる竜族には、竜神りゅうじん竜人りゅうじん、二通りの姿がある。それぞれ竜の神、竜の人を意味している」

「その今の姿が竜の人、竜人ってわけか」

「左様。竜の神、竜神の姿は、巨大過ぎる故に他種族との交流には向かんのでな」

 もっともその交流自体まれなのだが、と火竜たる竜人は自嘲ぎみに笑った。

「だがこの世界でこの姿を持つ同胞は、今や数少ない我ら古竜のみとなってしまった」

「……『魔神戦争』」

 ノアの呟きに火竜が頷く。

「そう、彼の災厄とも言える戦いで、同胞も、そうでない者も、多くの生命いのちが散っていった。生き残った者の多くも、分断した二つの世界を管理する神々を支えるべく、この世界を去った」

 そう言を発する火竜は、鮮血のように紅い瞳に憂いを宿した。

 それを見て、アレン達は妙な感覚を抱いた。

「魔神戦争」については、誰もが知っている。皆幼い頃より、何かしら耳にする機会を得る話なのだから。ただ、今までお伽話のように耳にしていた話と、こうして実際の経験者から語られた話とでは、同じ内容に対する印象に齟齬そごが生じていたのだ。

 多くの生命が、この世界を救う為に失われたのだ。自分達は今、その犠牲の上に生きている。

 一体どれほどの人間が、それを自覚して日々を過ごしているのだろうか。いや、それは恐らく、摘まむ程度さえいないのだろう。

「……ここだ」

 火竜の立ち止まった先は、特に何もない行き止まりだった。

 眉を寄せる人間達を見て、火竜は小さく笑う。

「そう怪訝けげんな顔をするな。見ていろ」

 言って、行き止まりの壁へ右腕を向けた。

 右の掌が壁へ向いたのと同時に壁に紅い魔法陣が浮かび上がり、光を放った。

 やがてそれが収まると、壁のあった場所に、新たな道が現れていた。

「これって……」

 どこかで見た光景に、アレンが呟いた。

「さぁ、この先だ」

 それには構わず、火竜は先へと進む。

 気を取り直して続く一行の前に、やがて通路の終わりが見えた。

 その先には……。

「う、わ……!」

「凄い……!」

 リオンとステラの、感嘆と驚嘆の入り混じった声が響いた。

 通路の先に広がっていたのは、竜神でさえ易々と収まるほどに広大な空間だった。

 洞窟内の通路よりも遥かに眩いそこの一面を彩るのは、燃え盛る紅蓮の炎。

 それと見紛うばかりに、紅い華々だった。

「すっげぇ!! 真っ赤だ!!」

「綺麗……!!」

 万紅繚乱ばんくりょうらんの絶景にはしゃぐアレンと見惚みとれるシャル。対して、ノアは身を屈めて傍に咲く「紅蓮華」へ触れる。

「……これ程良質の物なら、採集には十分過ぎるな」

「それについては保証しよう。傍に水場もある。今日は此処を宿とするがい」

「サンキュー、アルディオドラゴン! みんな、さっそく取り掛かろう!」

 すぐに、各々おのおのが「紅蓮華」の葉の採集に取り掛かった。

「あっ、ノア君は休んでなきゃ駄目だよ。こっちに来て」

 すっかり忘れていたが、そういえばノアの右腕は折れたままだった。

「このくらい如何どうという事は――」

「ノア君?」

「…………解った」

 なんだか久しぶりに見た気がするダークなオーラを背負ったアクアに、ノアは観念して頷いた。

 皆から離れて壁際へ来たアクアは、肩を貸していたイリスをそっと壁に寄り掛からせた。

「イリスちゃん、身体の調子はどう?」

「うん、だいぶマシになったかな。ここで休んどくから、向こうの治療に行ってきて」

「うん、わかった」

 心配そうに頷きながら、アクアはノアの傍へと向かった。

 その後ろ姿を見送りながら、視線は正面へ向けたまま、イリスは傍に居た火竜へ声を掛ける。

「……ねぇ、『紅蓮の王』。聞きたいことがあるの」

「……我も、汝に話がある。狭間の虹よ」

 やがて、長い一日が終わりを告げた。



    †   †   †



「さて……」

 少し広めの部屋に、男の若い声(、ではない)が響いた。

 申し訳程度の装飾が施されたそこには、幾つかの本棚と少しばかりの調度品、大きめの机が一つあるだけだった。執務用に造られたその机の上で、声の主である黄色掛かった短い金髪の男は、両肘を着いて手を組んでいた。

「事情は解った。提出されたレポートも問題無い。まず間違い無く、お前達はSランク評価を取れるだろう」

 だが、と続け、男は組んだ両手越しに正面を見据える。

「六年前、俺の出した条件は憶えているな、イリス?」

「……はい」

 その先で俯く銀髪の少女は、申し訳なさそうに小さく頷いた。

「入学して初めての授業の後に言った言葉も、憶えているな?」

「………はい」

 もう一度、イリスは同じように頷いた。

 それでもえて、男は口にする。

「『今度、今回の様に常識外れな魔法を使ったら、お前を魔法研究機関かどこかへ引き渡さなければならなくなるかもしれない』」

 重々しく、言葉がし掛かった。

「正直、俺もそんな事をしたくはないのだが……」

「ま、待ってください、学園長!!」

 シャルが懇願するように割って入った。

「確かに約束を破った事はいけなかったと思っています! ですが、今回の件は全員の命が掛かっていたんです! それなのに――」

「ああ、それもさっき聞いた話だな、シャーロット。そのうえで、やはり何の処分も下さないという事は出来ない」

「そんな……!!」

 やはり変わりそうにないイリスの処遇に、シャルは拳を強く握り締めた。

 灰色の火山での激闘を終えて無事クエストを完了した一行は、『学びの庭ガーデン』への帰還を果たしていた。

 数日の休息を与えられ、その間に今回のレポートを纏めなければならなかったのだが、

『――ふむ、我に関してつづるのであれば、学園の長に直接見せるのが都合が良かろう――』

 という伝説の火竜の助言もあり、そもそもイリスの件で説明が必要だったことと相俟あいまって、アクアとノアを通すことで、担当教官のダグラスは完全に素通りして学園長たるシド=ヴァン=レヴィウスへ直接レポートを提出したのだった。

「お父さん、本当にどうにもならないの?」

 と発言したのはアクア。新入生クエストのパーティーメンバーが今居るこの学園長室に呼び出された際に初めて彼女の学園長に対する敬称を耳にした一同は、なんというか、度肝を抜かれた。聞けば、どうやらアクアとノアの育った孤児院でもそう呼ぶのは彼女だけらしい。無論ノアも、「お父さん」などとは決して呼ばない。

 閑話休題。

 シャルと同じように訊ねた彼女にも、シドは溜め息を吐きながらかぶりを振る。

「お前達は事の重大さを理解していない」

 その口調はどこか物憂げだった。

「良いか。魔法研究機関の連中はありとあらゆる場所で魔力的事象の観測を行っているが、それは何も研究の為だけではない」

「どういうことですか?」

 深いエメラルドグリーンの瞳が、今度はリオンを捉える。

「連中の目的は、まず各国に存在する研究機関同士の覇権争い。そしてこの世界、自分達をおびやかし得る存在が現れた時の、その完全管理だ」

「完全管理、ですか?」

「そうだ。現在各国の研究機関の力関係は拮抗している。これは全ての面で平均なのではなく、それぞれがある一面で突出しているという事だ」

 首を傾げたステラに、シドは小さく頷いた。

 例えば、地の大陸では魔石と機械を利用した魔導科学技術が特に発達しているが、逆に殆ど自然のみを利用する魔導技術に関しては風の大陸に大きく後れを取っている。水の大陸では、攻撃的な魔法に関して抜きん出ている火の大陸とは対照的に、防御魔法の改良、開発が進んでいる。

 このように、各大陸の研究機関は突出した技術の一部を他大陸へ提供、またその逆を行うことで、微妙なパワーバランスを保っているのだ。

 実はこのような競争意識は最近形成されたものではなく、まだ各大陸が戦争状態にあった時から続いている、わば当時の名残のようなものなのだった。

 現在では各大陸とも協力関係を結んでいるとはいえ、やはり自国が優位である方が利点も多いので、いずれの研究機関も切っ掛けさえ与えられればいつでも他を出し抜くつもりでいるのが、現在の魔法研究機関事情だった。

「常に虎視眈々こしたんたんと機会を窺っている連中にとって、イリスの魔法技術、知識は必ずそのバランスを崩す呼び水になる。最悪、そんな存在を抱えながら各国から独立しているガーデンを危険勢力と見做みなす可能性もある」

「そんな、いくら何でも考え過ぎでは?」

 まるで戦争が起きるような言い方に現実味が感じられず、シャルは冗談のように眉を寄せた。

 そんな彼女を見て、シドは両手の奥にある瞼を閉じる。

「シャーロット、残念ながらそれが現実だ。世界の繁栄だ何だとのたまってはいるが、所詮人間など己の欲望の為に行動する生き物に過ぎない」

「そんな事は……」

 非情とも言える言葉に、しかし二の句は告げられなかった。

「シャル、もういいよ」

「イリス!」

 視線を戻したイリスは、困ったように力なく笑う。

「結局、約束を守れなかったわたしが悪いんだよ。それに、このままここにいたらみんなに迷惑が掛かっちゃう。だからわたし――」

「違います!!」

 弾けるような叫びが割って入った。見ると、目の端に涙を浮かべたステラが、睨むようにイリスを見つめていた。

「イリスさんは私達の命を救ってくださったんです、何も悪くなんてありません! ですからそんな事言わないでください!!」

「ステラ……。うん、ごめん……」

「あっ、いえ……私こそ、怒鳴ったりして申し訳ありませんでした」

 謝りながら再び顔を俯かせたイリスに、ステラも気拙そうに視線を背けた。

 暫しの沈黙が、その場を支配する。

「……学園長」

 不意に、無言を貫いていたノアが口を開いた。

「仮にイリスを何処どこかの研究機関へ引き渡すとしても、結局パワーバランスが崩れてしまうのでは意味が無いのでは? 今の話を聞く限り、それは避けるべきだと思いますが」

「ノア君……」

 巧く理屈立ててフォローをしてくれたノアに、アクアが安堵の息を漏らしながら微笑んだ。

「それに関してだが……」

 対して、シドは一度姿勢を直してから答える。

「予定しているイリスの引き渡し先は、魔法研究機関ではない」

「えっ?」

 唐突な言葉にシャルが思わず声を返した。

「イリスには、開拓組織『明くる朝ディスカバリー』内に先日新設された、凶暴化に関する調査グループに所属して貰う」

「『明くる朝』に、ですか?」

 訊き返したリオンに頷いて、シドは続ける。

「まだ名前も決まっていないが、各国が協同して組織し、且つ全ての国に所属している『明くる朝』なら、魔法研究機関の連中も四の五の言えはしないだろう」

 各国から完全に独立した存在であるガーデンとは違い、「明くる朝」はガーデンを含む六つの国家(ガーデンは国家という概念とは異なる存在だが)が協同して組織している。その為この組織は、全ての国に所属しているがどの国の干渉も受けないという、特殊な立ち位置にあるのだった。

「それに、そこなら今より魔法の制限が緩くなるし、妙な検査をされる心配も無い。何せ、管轄が他でもない俺自身だからな」

「じゃあ……!」

「ただし、学園へ通う事は許可出来ない。それでは何も変わらないだろう」

 一瞬表情が明るくなった一同に、透かさず釘が刺さった。

「学生寮からも出て貰い、基本的に外部との連絡は不可となる。新設されたと言っても、おおやけには発表されていない凶暴化を調査する為のグループなので非公式で構成人数も少なく、その存在を知っているのは組織上層部、各国代表、その他でもごく一部の者達だけなのでな」

 情報漏洩ろうえい、またそれによる民衆の混乱を防ぐ為。理解は出来るが、連絡が取れないのでは居なくなるのと同義だった。

「…………学園長」

「……何だ、アレン」

 小さく呟きが聞こえた。そこでようやく、シャルはそれまでアレンがノア以上に全く言葉を発していなかったことに気が付いた。

 まるで言うであろうことが解っているようなシドの瞳が、アレンを見る。

「俺を、そのグループに加えてください」

 シドとノアを除く全員が、耳を疑った。

「ちょっと、何言い出すのよアレン!?」

「そ、そーですよアレン先輩! それってつまり、学園をやめるってことですよ!?」

 慌てて声を上げるシャルとリオン。しかし、アレンはその黄金色の瞳をシドから離さない。

 まっすぐ視線を向けられたシドも、手の奥にある瞳を逸らさず返す。

「駄目だ」

 躊躇なく、却下された。

「っなんで――」

「まず第一に、お前は本来通う必要の無かったイリスとは違い、まだこの学園で学ぶべき学生だ」

 反論を許さないように、理由が告げられる。

「第二に、調査には危険が伴う。中には今回と同等のものもあるだろう。そして何より……」

 途端に、深いエメラルドグリーンの瞳が、冷気を帯びてその先を射抜いた。



「お前は、弱過ぎる」



「………ッ!」

 突き付けられた現実に、アレンは歯を軋ませた。

「そのグループは、少なくとも単独でAクラス以上のクエストを遂行出来る者のみで構成されている。無論学園のではなく外部のな」

 確かに、今回のことを考えるとそのくらいでなければ危険過ぎるだろう。今より制限が緩くなれば、当然イリスにも同等の実力がある。

 そして自身の評価についても、悔しいが、正しかった。

 過去の決意の結末は、護るつもりだった者に護られるという、惨め極まりないものだった。

「お前達にその存在を話したのは、今回の件に深く関わっているからに過ぎない。この話が片付いたら今回の事は忘れて元の暮らしへ戻って貰うし、今後一切関わらせるつもりは無い」

 このままイリスを引き渡し、その後はただの学生へ戻る。それが最も利口な道なのも解っている。そもそもが、一介の学生にどうこう出来る問題ではないのだ。

 だが、それでも、

「……お願い、します」

 アレンはひざまずき、両手を着いて、頭を下げた。その行動にはノアでさえ目を見開いた。

「確かに俺は、惨めなぐらい弱い。自分で誓ったことすら満足に果たせない、情けない奴です」

 頭を下げたまま、床に着けた両手を強く握り締める。

「自惚れだったとしても、俺の力が及ばなかったから、今こうして妹が目の前からいなくなろうとしてる。なのに、俺だけのうのうとイリスと出会う前の暮らしに戻るなんて、絶対にできません!」

 声が震えそうで、それを誤魔化すように張り上げるのと同時に、顔を上げて再びシドの瞳を見上げた。

「今は弱くても、いつか必ず強くなってみせます! 大切なものを自分で護れるように、強く! だから、お願いします!!」

 言い終えて、アレンは再度勢い良く頭を下げた。

「お兄、ちゃん……」

 俯いていたイリスの瞳に、その姿が映った。

 いつも、自分を護ってくれる。食べ過ぎて母に叱られそうになった時もそうだったし、王都でオルコット兄弟に絡まれた時もそうだった。自分でなんとか出来ようが出来まいが、そんなことは関係ないと言わんばかりに、いつだって当たり前のように身を呈して護ってくれた。

 そんなアレンが大好きで、そうしてくれることが嬉しくて、だから自分も、大切な人を護りたくてこうなることを選んだ。それなのに、今またこうして、膝を着き、頭を下げて、自分を護ってくれようとしている。

 それがどうしようもなく嬉しい自分。それがどうしようもなく哀しい自分。両方の自分が、心の中で一つの疑問をいだく。

「何故?」と。

 何故アレンは、こうまでして自分を護ってくれるのだろう。何故血の繋がりもない仮初めの妹を、自分の身も、心も、未来までをもかえりみず、護ろうとしてくれるのだろう。

 返る筈のない答えを求めて、イリスはただ、足元で跪く兄の背中を見つめる。

「一つ訊くが、」

 ノアよりも温度の低い声で、シドが訊ねた。

「もうお前達が兄妹という設定は意味を成していない。そのうえで――」

「兄妹です!!」

 弾けるように、アレンは再び顔を上げた。

「血なんか繋がってなくたって、イリスは俺の、たった一人の大切な妹です!!」

「!!」

 ああ、そうか。

 イリスは、自分がとんでもない思い違いをしていたことに気付いた。

 アレンにとって、イリスとの兄妹関係は、最早他人を誤魔化す為の設定などではなかった。

 あの運命の日に出逢い、共に過ごすようになった一人の少女は、いつの頃からかアレンにとって掛け替えのない妹になっていた、ただそれだけだったのだ。

(そういえば、はお兄ちゃんの口癖だもんね)

 自分を護ってくれる時に、決まってアレンが言うあの台詞。それを思い出すと、身体の底から、何かが押し上げてきた。

「っ……」

 慌てて、イリスはそれを押し込めた。

 その傍ら、アレンの強く輝く黄金色の瞳が、有無を言わせない眼差しでシドを見つめ続ける。

 暫くの沈黙の後、

「………ふぅ」

 溜め息が、部屋を漂った。

「良いだろう。特別に、許可しよう」

「――っありがとうございます!!」

 歓喜の表情を浮かべたアレンは、再三頭を下げた。

「ちょっと待ってください」

 と、そこでシャルが口を挟んだ。

「何だ? まさかとは思うが、自分も入るなどとは……」

「勿論、言います」

 当然のように言い放ったシャルに、シドは呆れたように再び溜め息を吐く。

「良いか、シャーロッ――」

「アレンが良くて、イリス以外で唯一黒い靄を纏ったヴリトラにダメージを与えられた私が駄目な道理はありませんよね?」

 諭す暇さえ与えず、シャルは如何いかにもな理屈を述べた。

 何が何でもそれで通すつもりらしく、シドは額に手を当ててやれやれと首を振る。

「……それで、お前達もか?」

 そのまま、同じく何か言いたげなステラとリオンへ訊ねた。

「はい!」

「入ったばかりで学園をやめるっていうのは、ちょっと勿体ない気がしますけどね」

「~~~~っ!!」

 やはり頷いた二人にとうとう痺れを切らして、シドは額にやっていた右手を机に叩き付けた。

「良いか! これは既に開拓された地域にしか行かない学園の実習とは違う! まだ未開拓の地域にも訪れなければならないし、調査の性質上凶暴化した魔物と率先して戦う事にもなる! それをお前達は――」

「わかってるよ」

 荒らげた声に、澄んだそれが被さった。

「危険なことだって、わかってる。それでも、みんな自分の意志で決めたんだよ。もちろん、わたしも」

 またしても割り込まれて勢いを失ってしまったシドは、どこか嬉しそうな微笑みの、その隣へ視線を向ける。

「……少なくとも、俺やアクアが一緒の方が生存率は上がると思いますが」

 無言の質問に、漆黒の少年は肩を竦めたような声色で答えた。

「………………はぁ」

 もう一度、シドは何度目かになる溜め息を吐いた。

「どうやら、何を言っても無駄の様だな」

 諦めたような声に全員が頷いた。

「良いだろう。全員、許可する」

「――っ!」

「ただし、幾つかの条件を出す」

 顔を輝かせ掛けた一同に、再度待ったが掛かった。

 眉を寄せるアレン達へ、シドは人差し指を立てる。

「まず、イリス以外は明らかに実力が足りなさ過ぎる。従って今後、厳しい訓練を受けて貰う」

 続いて中指が起きる。

「次に、この件に関する会話は、周囲に誰もいない事を十分確認したうえでしろ。そして、」

 そのまま三つ目、薬指が他の二つに並んだ。

「全員、学園にはそのまま通って貰う」

「えっ?」

 一瞬、アレンは耳を疑った。それはつまり、

「今の生活を、続けてもいいんですか?」

「そういう事だ」

 肯定したシドに、ステラが確認する。

「それは嬉しいのですが、本当によろしいのですか?」

「構わん。学年トップクラスの連中が一度に姿を消す正当な理由をでっち上げるのと、イリスが今の生活を続けられるよう上の連中を誤魔化すのとなら、どちらも大差無い」

「ですって、イリス!!」

「えっ……?」

 まだ思考にふけって話を聴いていなかったイリスは、突然肩を叩かれて呆けた声を出した。

「このまま、皆で学園に通えるのよ!」

「………みん、なで?」

 意味が理解出来ていないのか、呟くように繰り返した。

「そうです! また、一緒にいられるんですよ!」

「いっ、しょに……?」

 弾けるような笑顔を向けたステラの言葉も、同じように繰り返した。

 他の面々を見てみると、アクアが優しく微笑み、リオンがいつものゆるい表情を作っていた(ノアは無表情だったが、それも風景だった)。どうやらいつの間にか、シャル達もその調査グループに加わることになったらしい。

「……イリス」

 いつの間にか立ち上がっていたアレンに、声を掛けられた。

「お兄、ちゃ――」

 不意に強く抱き締められて、イリスは目を見張った。

「お、お兄ちゃん……!?」

「ごめん」

 覆い被さるようにしっかりと抱き締められながら、突然のことに戸惑うイリスの耳に呟きが届いた。

「ごめんな。結局、お前に約束破らせちまった」

 する必要のない謝罪に、一転、イリスは哀しげに目を細める。

「でも俺、強くなるよ。強くなって、今度こそ必ず、護ってみせる」

「…………うん」

 それでも、頭の上から聞こえた、小さく、しかしはっきりとした誓いに、自分がここに居ることを報せるように強く抱き返しながら、頷いてみせた。



    †   †   †



 結局、先述した三つに加え、「実習や課題という名目で凶暴化の調査任務を行う」という条件を承諾することで、七人は非公式調査グループの一員となった。

「けど、何も皆まで言い出す事無かったんじゃない?」

 上品に紅茶をすすって、シャルが言った。

「私は、皆さんのお役に立ちたかったので。それに、それを言うならシャル先輩もですよ」

「私は……ほら、当事者みたいなものだし?」

 そう言って、シャルは隣でお茶菓子に手を伸ばすステラから少し目を逸らした。

「それなら、わたしたちも当事者でいいんじゃない? ねっ、ノア君?」

「……どちらにしろ、今更忘れる事など出来ん」

 ぶっきらぼうに、ノアは微笑みを向けてくるアクアへ返した。

「まあ、ね……」

 それには同意しつつ、シャルは視線をステラの向こう側へと向ける。

「リオンはどうなのよ? 無理して付き合う必要無いのよ?」

 正直シャルは、リオンが一緒に参加を言い出したことに一番驚いていた。なんというか、リオンはではないと思っていたのだ。

 しかし問われた緑髪の少年はというと、

「別に無理なんかしてませんよ」

 と、ぐるぐる巻きにした藍色のマフラーの上で弛い表情を作るだけだった。

「……それに、もあるし」

「えっ?」

 呟きが聞き取れず、ステラが訊き返した。

「なんでもない。ところで、アレン先輩とイリス先輩はどうしたんですか?」

 それをさらりと流して、リオンは話題を別のところへ持っていった。

 夕方頃に学園長室を後にし、時計の短針が既に「九」と「十」の真ん中を過ぎた現在、シャル達はシャルの部屋のリビングに集まっていた。今回のことを話題にするのに、外は都合が悪い為だ。

 しかし、リビングのテーブルに出されたカップの数は五つ。席に着いているのも、アレンとイリスを除いた五人だけだった。

「イリスなら、自分の部屋に籠ってるわよ」

 シャルは肩を竦めながら答えた。

「大丈夫でしょうか……」

 不安げな表情で、ステラは玄関とリビングを隔てる仕切り戸を見つめた。

 学園長室から寮へ戻る間も、イリスは一言も口を開かず俯いていた。やはり、今回の件は精神的にかなりの負担を掛けたようだ。

 なんとか元気付けてあげたいが、今のところステラに出来ることは、こうして待つ以外なかった。

「あぁ、違うわよ。別に今回の件で精神的にキテるって訳じゃないから」

 と思いきや、シャルが片手を振ってそれを否定した。どことなく馬鹿らしそうな声だ。

「では一体……?」

 と訊き返したところで、玄関の扉が開く音がした。

「あれ、みんなまだ帰ってなかったんだ……」

 仕切り戸を開いた先から、少し疲れた様子のイリスが現れた。いつも朗らかな表情は少し暗く、その長く綺麗な銀髪も常とは違い所々が撥ねている。

「大丈夫ですか? お疲れの様ですが……」

「えっ? う、ううんっ! 全然っ、なんでもないよっ!?」

「?」

 身体の心配をしただけなのに明らかな動揺が返ってきたので、ステラは不思議そうに小首を傾げた。

「放っときなさいよ。どうせアレンに抱き着かれたのを思い出して身悶えてただけなんだから」

「シャルぅッ!!」

 イリスがシャルの髪よろしく顔を真っ赤に染めて声を上げると、シャルは何事もなかったかのようにカップに口を付けた。

「大体ねぇ、抱き着くのは平気なのに抱き着かれるのは恥ずかしいって何なのよ?」

「恥ずかしいものは恥ずかしいんだよっ! しかもみんながいる前でなんて……ッ!!」

 どうやら思い出してしまったらしく、イリスはさらに赤面したうえで硬直してしまった。その様子に、リオンがまさかと思い訊ねる。

「もしかして、あれから一言も喋らなかったのも……」

「単に恥ずかしくて口が利けなかっただけ。で、そろそろ皆帰っただろうなーって思って出てきたのよねー?」

「ゔっ……」

 茶化すシャルに、イリスは首元まで赤くして俯いた。

 それを見てニヤニヤ微笑を浮かべながら、シャルは思い出すように紅茶を飲む。

「でも懐かしいわねー。昔はお昼寝してる時にアレンが抱き着くから、良く私の所へ逃げてきたっけ」

「アレン先輩がですか?」

 意外そうにリオンが訊き返した。

「あら、ああ見えてアレンって結構シスコンなのよ? イリスほどじゃないけどね」

「へぇー」

 言われてみれば、所々にそんな節があるようにも思えた。イリスの行動にツッコミを入れはするが、なんやかんやと甘かったり。

「それで、アレン先輩はどちらへ?」

 と、ステラが話を元のところへ戻した。

「お兄ちゃんは、たぶん……」

 まだ顔に赤みを残しながら、イリスは言葉を詰まらせた。

 全員、それに首を傾げると、

小母おば様の所よ」

 代わりにシャルが答えた。

「アレン君のお母さん?」

 アクアは何度かシャルがそう呼ぶのを聞いたことがあったので、疑問符を浮かべるステラとリオンへ説明するついでに、確認の意を込めて訊き返した。

「えぇ。小母様やウチの両親はこの子の事情を知ってるから、今回の事を話しに行ったんでしょ」

 言うと、シャルの表情が何故か青ざめていった。

「シャル先輩?」

「……何でも無いわ」

 ステラが少し心配げに訊ねると、シャルは何かを振り払うように首を振った。

「多分アレンは遅くなると思うから、今日は解散しましょうか。今後の事はまた今度話しましょう?」

「そうだね。明日からまた授業もあるし――」

 アクアが頷くと、その隣に腰掛けていたノアが無造作に立ち上がり、

「…………」

 無言のまま、その場から立ち去った。

「……おやすみくらい、言えばいいのに」

「良いわよ、別に。あいつに『おやすみ』なんて言われたら、それこそ悪夢にうなされそうだもの」

「それは、ちょっと言い過ぎじゃない?」

 苦笑して、アクアも立ち上がった。

「じゃあ、僕たちも行こうか」

「そうですね」

 それを契機に、リオンとステラも席を立って開いたままの仕切り戸に向かう。

「ではシャル先輩、イリスさん、おやすみなさい」

「―――あっ、あのねっ!!」

 ステラが立ち止まって丁寧に会釈をすると、突然イリスが声を張り上げた。

「はい?」

「あ、っ……」

 不思議そうに首を捻るステラ。対してイリスは、何かを言おうと口を開くも言葉に出来ず、視線を徐々に俯かせていった。

 様々な言葉が、イリスの胸中に生まれる。しかしそのどれもが喉元から先へと上がってこない。

 やがて、

「…………ありがと」

 小さく、ほんの一言だけ、呟いた。そこに籠められた想いを受けて、ステラも、リオンも、アクアも、各々の形で微笑む。

、学園でお会いしましょう」

「おやすみなさい」

「シャルちゃんも明日、学園でね?」

 そうそれぞれ告げて、部屋の扉が閉まった。

 静寂が部屋を往来する。

 特に何を言うでもなく、シャルは静かに紅茶を飲む。何気ない行動なのに気品が漂っているのは、大貴族の娘たる故か。

「そういえば、アリスたちはどうなったのかな、クエスト」

 そう長くはない沈黙の後に、まだ仕切り戸を見つめたまま、独り言のようにイリスが呟いた。

「……失敗したらしいわよ。途中で帰還したって」

「そっか……」

 それだけ言うと、再び沈黙が流れた。

(そういえば、あっちは転移出来たらしいけど……)

 背を向けたままのイリスへ視線をやりながら、シャルは数日前の出来事について思考を巡らせる。

(単純に魔石が不良品だった……ってわけじゃないわよね。それだとイリスの転移が発動しなかった説明が付かないもの)

 だとすれば、一体何故?

 考えられる原因は幾つかあるが、いずれも可能性としては無に等しい。何故なら、転移を使ったのがだったからだ。

 仮にシャルの考えている通りの原因だったとしても、今度は別の要因が引っ掛かる。それらを考慮すると、やはり有り得ないという結論に到達するしかなかった。

(でも、簡単に素通り出来る事じゃないし……)

「シャル」

 ふと、呼び掛けられて思考を中断した。正面のイリスはまだ視線を戻しておらず、相も変わらず仕切り戸を見つめていた。

 しばらく何も言ってこなかったので、シャルが声を返そうとすると、

「みんな、やさしいね」

 小さな呟きが、聞こえた。

「わたしだって、自分が誰だかわからないのに、みんな一緒にいてくれる。学園、やめなきゃならなかったかもしれないのに」

「……そうね」

 返した言葉が聞こえたのかは判らなかったが、イリスは続ける。

「ステラとリオンなんか、一月前に知り合ったばっかりなんだよ? ホント、何考えてるんだろうね」

、でしょう?」

「……うん、そうだね」

 言い直すと、小さく頷いた。

「ねぇ、イリス……」

 綺麗な銀髪に隠された背中へ向けて、シャルは言葉を掛けた。

 掛けられた少女は、沈黙を返す。

「もう、無理しなくて良いのよ?」

「―――ッ!!」

 途端に、イリスはシャルの胸元へ飛び付いた。

 顔を隠すようにうずめる少女の乱れた銀髪を、シャルは優しく撫でる。

「頑張ったわね」

 自分は元々居なかった筈の人間。だから、自分が消えたところで、全てが元に戻るだけのこと。

 そう、本人は割り切っていた、覚悟を決めていたつもりだったのだろう。

 けれど……。

 撫でた頭を、シャルはそっと抱き締める。

「怖かったわよね……辛かったわよね……。独りになるのは、嫌よね……」

 どれほど魔法が使えようと、その正体が何であろうと、イリスは肉体的にも精神的にも、まだたった十二の少女なのだ。独りになるのは、大好きな人達と離れ離れになるのは、怖くて、辛くて、悲しくて、寂しいに決まっている。

 それでも、皆の前では堪えた。皆がどうにか処罰を免れるようシドに頼んでくれた時も、アレンが迷わず兄妹だと言ってくれた時も、また皆と居られるようになったと知った時も、数時間自分の部屋に籠ることで、なんとか堪えてみせた。

 だから、

「もう、我慢しなくて良いの。泣いたって、良いのよ……」

 優しく掛けられた言葉に後押しされて、

 それでも圧し殺した嗚咽が、零れた。



    †   †   †



 時は少しさかのぼる。

 学園長室から寮へ戻るシャル達と別れたアレンは、茜色の夕暮れからセフィロトの放つ淡い金色の光と月明かりに照らされる夜へと変わった街を、南西へ向かって歩いていた。

 夜、と言ってもまだ陽が落ちて浅く、赤い煉瓦で整えられた街中は人通りで溢れていた。

 親子、恋人、友人同士で連れ歩く雑踏の中を、ただ一人きりのアレンは、当然無言のまま歩き続ける。

「お兄ちゃん、わたしあれ食べたい!」

 不意にそんな言葉が耳に入り、立ち止まった。声のした方を見ると、小さな女の子が傍らの男の子の袖をぐいぐい引っ張っていた。その向こう側では、こじんまりとした屋台が林檎飴特有の甘い匂いを漂わせている。

「だーめっ! 帰ったらすぐご飯だからがまん!」

 お使いだろうか、男の子はそう言って手に持った袋を持ち上げると、女の子の手を掴んで歩き出した。

 しかし、女の子は掴まれた手に全体重を乗せて、テコでも動こうとはしない。

「やぁ~あぁ~! ほぉ~しぃ~いぃ~ッ!」

 終いには座り込んで泣き出してしまい、周囲の視線がそこへ集まってしまった。

 居た堪れなくなった男の子は、

「もぉ~! わかったから泣くなよぉ!」

 観念して財布を取り出した。

 可愛らしい林檎飴とは対照的な強面こわもての店主から、笑顔で赤い飴玉を受け取る現金な女の子と、それを見て家に帰って怒られる未来に溜め息を吐く男の子。そんな兄妹に、アレンは幼い日の自分達を重ねる。

 あれは確か、イリスと出会った年が明けてすぐのことだった。

 ガーデンでは新年の初めに大きな祭りがあり、街を挙げて新たな年を祝う風習があるのだが、シャルと三人でそれに出掛けると、今みたくイリスが食べ物をねだったのだ。

 流石に泣きはしなかったし、祭りということで小遣いを貰っていたのもあって、アレンは特に渋ることなくりんご飴をご馳走してやった。ところが、文字通り味を占めたイリスが次から次へと際限なく食べていくので、遂には何で遊ぶこともなく、アレンの財布は空になってしまったのだった。

(今思えば、イリスの大食いはあの時から始まったのか……)

 心中で呟きながら、止まっていた足を再び動かす。

 最終的に、二人はあまりにも無計画なお金の使い方を母に叱られるという結末を迎えたのだが、そのおかげでイリスとの距離もぐっと近付いたような気もした。と言っても、イリス本人はあの頃からアレンにベッタリだったのだが、それでも、突然一緒に暮らすようになった少女のことを、それまであくまでも他人としか思えていなかったアレンにとって、無邪気な笑顔で頬いっぱいに食べ物を頬張る姿や叱られて涙ぐむ表情は、単なる居候の少女に対する以上の感情を覚える切っ掛けとしては十分だった。

 思えばいつの間にか、この街の至る所に、イリスとの思い出がちりばめられていた。その次の春からは一緒に学園へ通い始めたし、毎年ある夏の祭りには欠かさず行った。上級学院へ上がってからは街の外へ出る機会も増え、王都を始めとした様々な場所へ足を運びもした。

 笑って、怒って、泣いて、また笑って。

 季節が二十四度移る間に、血の繋がりなどモノともしないほどに、自分の中で少女の存在が大きくなっていた。

 だから、怖くなった。

 あの時、火竜へ立ち向かう為に宙へと舞い昇ったイリスが、どこか手の届かないところへ行ってしまいそうな気がして。

 当たり前になっていた日常が、いつまでも傍に居られると思っていたときが、それを皮切りに崩れてしまう気がして。

 不安が、恐怖が、焦燥が、後悔が、

 全身を襲って、心を蝕んだ。

「……っ」

 拳を、強く握り締める。

 全員揃って学園へ通えることにはなったが、これからどうなるかは分からない。凶暴化の調査もあるので、少なくとも今までと同じようにはいかないだろう。皆が居るとはいえ、危険が増すことに変わりはない。

 だから、必要なのだ。

 皆を護る為に。

 もう一度誓いを果たす為に。

 もう二度と約束を違えない為に。

 一度失い掛けた大切なモノを、今度こそしっかりと離さない為に。

 何者にも負けない、何物にも屈しない、強さが。



 ――――――



「…………!?」

 一瞬、頭の中を、何かがぎった。

 雑音だらけで霞んだ、映像のような何かが。

(なんだ、今の……?)

 突然の現象に眉を寄せたが、もう一度同じ現象が起きる気配は感じられなかった。

「……はぁ」

 小さく、溜め息を吐いた。少し疲れているのかもしれない。

 考えてみれば、クエストから帰ってきて今日まで、今回の件で頭が一杯で心休まる日がなかった。それでなくても、クエストの疲れが蓄積されているのだ。明日の授業の為にも、今夜は早めに寝なければ。

 そう結論付けたところで、目の前の建物に気付いて足を止めた。

 それなりに大きな、隣り合った二軒の家。片方は明かりが点いておらず、人の気配もない。偶々人が居ないのではなく、長い間人が住んでいない寂しさを覚えた。

 その隣の、明かりの点いている方の家へ向けて、アレンは一歩進み出る。

「…………」

 半歩も進まず、再び立ち止まった。

 明かりが点いているのだから、まず間違いなく、中に居る。少し外に出ていて偶々すれ違ってしまった、などという微量にも満たない可能性が頭の隅に浮かんだが、幾らなんでもそれはないと頭を振った。

 色々と思考が巡ったが、まず、ここからだ。ここを乗り越えて初めて、先へ進める。

 意を決して、アレンは入口へと重い足を向けた。

「…………はあ」

 先程よりも盛大に、深い溜め息が零れてしまった。



    †   †   †



 立ち籠める濃霧が、月明かりとセフィロトの光を遮る深夜。

 人々が寝静まり、静寂が我が物顔で街を徘徊する中で、学区南西から北西へ掛けて弧を描くように建てられた教室棟群のちょうど中間に位置しているそこも、他の教室棟と同じように、物音一つ立てずに沈黙を守り続けていた。

 本棟と呼ばれるその建物には、各学部の事務室や会議室、教員室から生徒の相談室まで、様々な部屋が設けられている。その一角、他とは明らかに造りの違う両開きの扉の隙間から、僅かに室内の明かりが漏れていた。

「…………」

 学園都市『学びの庭ガーデン』の最高責任者にして、その本質である学園の長を務めるシド=ヴァン=レヴィウスは、宵闇が世界を埋め尽くした今も、自室の執務用に造られた幅広の机に向かって、深いエメラルドグリーンの視線を落としていた。

 淀みなく羽根ペンが文字を綴る音に続いて、羊皮紙の擦れる音が、無言の部屋に短く響き渡る。

 ガーデンは、街としての性質は他とそれほど差異はないが、学園としての性質は、王立の貴族学校や他大陸の魔法学校とは全くの別物として捉えられている。

 その理由は様々だが、根本的な要因は五つの大陸、及びその国家から完全に独立した、「第六の国家」として捉えられることが多い点にあった。

 勿論ガーデンは国家ではないし、最高責任者がシドであるとは言っても、街の管理は各区の責任者同士の協議によるところが大きいので政治的な活動はなく、自治都市と言った方が適切でもある(あくまでも政治的側面である外交政策を行っていないだけで、技術的側面である外交交渉は行っているので、国家よりは適切という意味合いではあるが)。しかしそれでも、ガーデンの特殊な成り立ちからその特異性と重要性は高く、他国と同等の立ち位置を有する都市の核たる部分である学園は、もはやただの学び舎以上の権力と地位を確立していた。

 本来単なる学園都市の長である筈のシドが、各国が協同して組織した「明くる朝」の幹部、ないし役職に就いているのもそういった事情からで、各学部からの報告書や学園と連携しているギルドからの書類の他に、開拓や他国とのやり取りに関する書類が山のように机に積まれているのは、自明の理と言っても良かった。

 再び、羽根ペンが紙面を滑る。

 現在片付けているのは、つい先日行われた新入生クエストについての結果報告だ。といっても報告書自体は各学部長、さらに上級学院長のチェックが入るので、シドの仕事は実質確認のサインをするだけの単純作業なのだが、稀に面白い報告が出てくるので、ある程度は目を走らせることにしていた。

 別段例年と変わったところのない報告書にサインを済ませ、別の一枚を持ってくる。

「っと、クエストは今ので終わりか。さて……」

 次に目に入ってきたのがギルドからの凶暴化に関する報告だったので、一旦休憩を挟もうと顔を上げた。

『良かったのか?』

 不意に、声がした。

「……何がだ?」

 どこからともなく聞こえてきた青年らしき男の声に、シドはどこを見るでもなく視線を宙に漂わせた。

『何がって……のことに決まってるだろ』

「あぁ、アレン達の件なら問題無い。からな」

『……大層な演技力だな。全部お見通しってわけか』

 呆れたような声に、頬杖を突いてニヤリとした笑みを浮かべる。

「そうでも無い。確かにあいつらの性格からああ言い出すのは解っていたが、知り合って間も無い筈のステラやリオンまで言い出したのは予想外だったさ。それに、シャーロットが〝力〟を取り戻すのはもう少し先の話だと思っていた」

『それでも、半分は、か……』

 まぁな、とシドは短く鼻を鳴らした。

『それにしても、一度にも加えて大丈夫なのかよ?』

「それに関しても問題無い。組織の他の連中からもグループの存在と目的を明示するだけで、人員詳細は明らかにしなくて良いと正式に承認されている。お前が一員だという事も、上層部は勿論同じグループの者でさえ知らない。まさに、『俺のみぞ知る』という事だ」

 冗談めいたように、くっくと笑いを零した。

『その「お前のみぞ知る」ことについて聞きたいんだけどさ……』

「うん?」

を加えた理由は何なんだ? 「シンジュ」じゃないんだろ?』

 その単語に、シドの瞳が少し冷気を帯びた。

「『シンジュ』ではない。あれはもっと、別の〝力〟だ」

『別の〝力〟?』

 言いながら、シドは声の主が眉を顰めたのを感じた。

「そうだ。まぁアレと全くの無関係という訳ではないが、目的に直接関係もしない。ただ、使える手駒なら手元に置いておくにやぶさかではないという事だ」

『なるほど、ね……』

 納得したのかしていないのか、微妙な声色だった。

「それで、そっちはどうだったんだ?」

『ん? あぁ。大変だったぜ、色々手回しするの? っつーか遠かった』

「そっちが本音だろう」

『まぁな』

 やれやれとした笑みを浮かべるシドに、声の主も苦笑を返した。

『けど、連中の狙いはあんたの読み通りだったよ。まぁ今回はこっちが利用させて貰ったけど、向こうもこっちの存在に気付いたぞ?』

「構わんさ。遅かれ早かれそうなっていた。それに、古竜程度では覚醒していなくともアレを壊す事は出来ん」

 肩を竦めて、シドは背凭れに身体を預ける。

『まぁ、俺は実際のところを知らないから何とも言えないんだけどさ、あの古竜、あんたの知り合いじゃなかったのかよ?』

「お互い存在を認知してはいるが、『知り合い』という訳ではない」

『? その割に向こうは教本のことで懐かしんでたけど?』

「教本?」

 話の読めない言葉に、眉を寄せた。

『あぁ。竜人のことが伝えられてないなんて何の為の教本だ、って苦笑してたよ』

「ふっ、そういう事か」

『何だよ?』

 シドが古竜と同じように苦笑し出したので、声の主は訝しんだ声を放った。

「いや。確かにあいつなら、過程に夢中になって本来の目的を忘れる事も有り得るだろうと思ってな」

『あいつ?』

「こちらの話だ。まぁ例え俺の知人であったとしても、お前が気にする事ではない。それよりも、少しすれば計画を次の段階へ移す。抜かるなよ?」

 まだ表情に苦笑の余韻を残しながら、目を閉じたシドは確認するように言った。

 少し重苦しい口調に、声の主は敢えて軽々しく返す。

『はいはい、わかってるっての。そんじゃま、そろそろお暇しようかね』

 直後、言葉通り声の主の気配が消えた。

「…………」

 再びの沈黙が、部屋に充満する。

 しばらくして、

「これほどの時が経っても、やはりお前は変わらないな……」

 誰に言うでもなく、呟いた。

 そのまま、シドは閉じていた目を再び開いた。

 深いエメラルドグリーンが、懐古と憂いを纏い、天井を仰ぐ。



「……イレーネ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る