第九話:『灰界に咲くは、緋き麗華』



 アレン達に追い付く為に洞穴ほらあなを発ったシャルは、重い身体を引き摺りながら岩山を進んでいた。

「これ、結構きついわね……」

 左肩にリュックを担ぎながら、先日イリスが味わった苦労を実感して思わず呟いた。それでも不完全ながらも肉体強化を使えることがせめてもの救いだと考えながら、自身の背中へ視線を向ける。

 そこには、短く呼吸を続けるステラが、僅かに顔を歪めて身を預けていた。

 出来る得る限り伝わる振動が少なくなるよう注意しながら、足を速める。その間にも、シャルの脳内では様々な思考が巡っていた。

(まだ熱は下がらないけど、とりあえず血は止まったみたいね)

 あの液体が何だったのかははなはだ疑問だが、騙された価値はあったので今はそれは置いておくことにする。

 問題は、流した血の量だ。

 通常なら、シャルが目覚めた時にはとっくに出血が治まっていても良かった筈なのだが、一晩中治癒魔法を使い続けた所為せいか、自己治癒能力が低下しているのだろう。高熱に出血多量で危険な衰弱状態。一刻も早く治療する必要があった。

「こういう時ほど、自分の無力さが恨めしいわね……」

 先日はアレンに見付かってしまったが、この期間何度も夜中にこっそり抜け出して、精霊に呼び掛けていた。

 確かに『学びの庭ガーデン』に居るよりも調子は良かった。不完全な炎だが威力だけは上がっているし、傷の治りも普段より早い。しかし、それだけだった。何度呼び掛けても精霊ははっきりと応えてはくれず、炎の質を変えようとすると弾け飛んだ。

 色々な人達に迷惑を掛け、その上で今回のように自分の治療に付き合って貰っている。なのに、自分は一向にそれに応えられていなかった。その結果が招いたものが、現在の状況なのだ。

 敵を倒して誰かを護ることもままならない。

 治癒魔法を使って誰かを救うことも出来ない。

 本当に、無力だった。

「……って駄目ね。ついそっち方面に考えちゃうわ」

 悪い癖だと、敢えて口に出した。

 嘆くことなど後で幾らでも出来る。そんなことよりも、一刻も早くステラを治療する為に、少しでも速く足を進める方が重要なのだと、自身の頭と身体に言い聞かせた。

「ここら辺だと思うんだけど……」

 深い渓谷に挟まれた場所で、辺りを見渡しながら呟いた。地図を見た限りでは、ここらに抜け道がある筈だ。

「まぁ、そんな簡単に見付かったら苦労しないんだけどね」

 そもそも、どういう風に抜け道が出来ているのか分からないのだ。単純に道が出来ているのか、洞窟のようになっているのか。もしかしたら、岩壁で埋まったその先に入口があるのかもしれない。

「とりあえず、壁でもつつきながら探してみるしかないわね……」

 ふと、先程から独り言ばかり言っていることに気付いて、少し自嘲ぎみに笑った。



『――――』



「…………何?」

 不意に、が頭の中に響いた。



『――――』



「……こっち?」

 眉を寄せながらも、再び響いたに誘われるように、シャルは渓谷の奥へと足を進めていく。

 その間にも、は何度も頭に響き続けた。

 耳鳴りのようだが、頭に直接響いてくる。しかしどこか心地の良い、そんな響きだった。

「何なのよ、一体……」

 それに戸惑いながらも、シャルの足は自然と進んでいく。

 しばらく歩くと、突然が収まった。

「ここ? …………あっ」 

 右手の岩壁の、かなり上の辺り。

 目当ての物がそこにあった。

「あった……」

 岩壁の途中にぽっかりと空いた空洞。それはまさしく、抜け道と呼ぶに相応しい穴だった。しかし、

「……あれを登れっての?」

 見付けたは良いが、シャルは軽く顔を引き攣らせた。天辺が見えないことからあの穴がある場所は崖の下部なのだろうが、それでも軽いロッククライミングになりそうな高さだった。

「……良いわよ、ここまで来たらやってやるわよ」

 覚悟を決めて、シャルは自分のリュックに手を突っ込んだ。

 取り出したのは、先日洗濯した時に物干しとして使ったロープだ(それを掛ける棒代わりにアレンとステラの剣の柄が使われた。閑話休題)。それで自分とステラの体をしっかり結び付けると、今度は薄赤い柄を持った短剣を一振り取り出して、思い切り岩壁に突き刺す。どうやらそれほど硬くはないようで、短剣は容易く岩壁の中にその身を滑らせた。

 それを確認して、一度大きく深呼吸する。

「…………よしっ」

 一息気合いを入れ、岩壁に手を掛けて登り始めた。

 それなりに手足を掛け易い崖だったが、何と言っても持ち上げるべき身体が重い。それもあって、手を滑らせないようにと慎重に、右手の短剣で固定しながらゆっくりと、登っていく。

「そもそもっ、私はこういう、体育会系みたいな、キャラじゃないのよっ……!」

 確かに昔は色々なところへアレンを連れ回したし、運動神経が悪い訳でもか弱い乙女のつもりもないが(その割りにはアレン達にはか弱い乙女を待たせたと怒りをあらわにしていたが)、ステラのように武術学部の授業を受けてはいないし、正直崖登りよりは本を読んでいる方が性に合っていた。

 そんなことをブツブツ呟きながらも、シャルは順調に崖を登り続けていく。そしてようやく穴までもう半分といった距離まで登り詰めると、一度手を休めて上を見上げた。

「あぁもう、まだあんなにあるじゃない!」

 悪態を吐いて、イライラしながら短剣を上へ突き刺し、次に左手を岩壁の出っ張りに引っ掛ける。

「きゃっ――!?」

 しかし掛けた部分が浅かったのか、指先がズルッと滑り落ち、その拍子に足を踏み外してしまった。



 欠けた小石が、岩壁を走るように地面目掛けて転がっていった。



「………………あっぶな」

 咄嗟に右手の短剣を強く握り締めることでなんとか事無きを得て、シャルは思わず胸を撫で下ろした。下を見てみると、崖を駆け下りていった小石が、地面にぶつかって粉々に砕け散った。

 下手をすれば背負っているステラごとあの世行きという、うっかりでは済まないオチになるところだったと苦い顔をしながら、再び体勢を整える。

「もう、ホントに勘弁してよ……」

 つい、泣き言が零れてしまった。



    †   †   †



 シャルが崖登りに悪戦苦闘している一方で、アレン達は山頂付近の深い岩壁に囲まれた広い空間へと足を運び終えていた。

 情報ではここに大量の「紅蓮華」が群生しているのだが……。

「なんだよ、これ……」

 信じられない物を見たかのような、茫然とした声が響いた。

 否、本当に信じられなかった。

 目の前に広がるそこには、確かに一面に咲く大量の「紅蓮華」があったのだろう。

 しかし、その全てが、無惨にも焼き払われていたのだ。

「まさか、向こうの班が……?」

「いや、違うな」

 リオンの疑念を即座に否定したノアは、傍の岩壁に凭れ掛かるよう、背負っていたアクアをそっと降ろした。

彼方あちらは今回、火の加護を持つ奴は居なかった筈だ。これほどの数の火の魔草を燃やし尽くすには相当な時間が掛かる。ほぼ同じタイミングで山に入った俺達と、そこまで到着の時間に大差があったとは思えない」

「それに、アルベルトもアリスもそんなことする奴らじゃないさ」

「じゃあ一体――」

 誰が、と言おうとしたリオンの声が、目の前の朽ちた華畑の先の岩陰からやってきた足音に遮られた。

「魔物か……?」

 すぐに各々おのおのの武器を召喚した三人の眼前に、やがては姿を現した。

 四足歩行でゆったりと現れた蜥蜴とかげを思わせるは、しかし蜥蜴と言うには大き過ぎ、体長三メートルほどの筋骨隆々きんこつりゅうりゅうとした肉体は、赤黒く光る鱗に覆われていた。

 唯一焦げたように黒ずみ、頭の延長のように後方へ向かってまっすぐに伸びた二本の角を天に向けていたが、おもむろおもてを上げた。

 餓えた獣の、鱗と同色の眼光がほんの数十メートル先に現れた獲物を捉え、鋭く尖った牙を持つ顎から、獲物を見付けたハイエナが涎を垂らすように炎が吹き出る。

 それに合わせるように、角の先から胴の後ろでのたうつ全身ほどに長く太い尻尾の先まで、荒々しくほむらが灯った。

「―――ッ!!」

 瞬間、最前列に居たアレン目掛けて、が襲い掛かった。

「ぐっ……こ、の……!」

 咄嗟に剣で防いだが、文字通り瞬く間に間合いを詰めるほどの突進力に身体が仰け反り、アレンは鋭利な爪を食い止めるだけで手一杯だった。

「アレン先輩!」

 すぐさま、リオンの翠の弓から風の魔力を帯びた矢が放たれた。だが迷うことなくの首筋を狙った矢は、の帯びた炎の鎧に呆気なく喰い殺されてしまった。

「なっ――!?」

「………ッ!」

 間髪入れず、宙を跳んだノアがの前脚目掛けて漆黒の刀を振り下ろした。しかし刀が赤黒く光る脚に喰い込む寸前、はアレンを弾き、その反動を利用して大きく跳び退いた。

「悪い、助かった……!」

 弾き飛ばされたアレンは、体勢を整えて再び黄金色の柄を握り直す。

「こいつは……」

「……ヴリトラだ」

「ヴリトラ、って竜族の上級種じゃないですか!?」

 珍しく(というよりリオンにとっては初めて聞く)苦々しげな答えに、思わず声が上がった。

「なるほどな。『紅蓮華』燃やしの犯人はこいつってことか」

 アレンは頬に汗を浮かべながら、得心のいったように言った。対峙しているだけで身体がつぶてに打たれるような感覚を覚えるほど高密度の魔力を持ったヴリトラの炎なら、火の魔草と言えど一溜まりもないだろう。

「だが、妙だ」

「何がだよ?」

 こちらの様子を窺うヴリトラへ目を向けたまま、アレンはノアに訊き返した。

「忘れたのか。魔物というのは、上位種になるほど高度な知性と理性を持ち合わせるものだ」

 中級種ならばまだ本能の割合の方が多いが、上級種ともなればほぼ完全に理性に沿った行動を取れる。それ故に、開拓やクエストなどの上級種に因る被害は、実質殆どないと言っても良いのだ。

「だが、奴の行動は本能のみで動く下級種のそれと同じだ。それに見ろ」

 言われて、アレンとリオンはヴリトラにより注目する。

「「!!」」

 ヴリトラが身体に纏った炎の鎧に混じって、黒いもやのようなものが、地を這いずる蛇のように纏わり付いていた。

「なんですか、あれ……すごく嫌な感じがする」

 まるで自分の身体に何かが這い回っているような、不気味な怖気が身体を走った。

「解らん。が、如何やら普通の状態とは言い難い様だな」

 刀を構えた先を鋭く見据え、ノアは後方にも意識を向ける。

「リオン、イリスとアクアを頼む」

 口を開く直前、アレンが先を越した。

「……の方がいいみたいですね。風属性、効きそうにないですし」

 まだ目覚めないアクアもそうだが、未だに俯いたままのイリスも戦闘は無理そうだ。それにそれなりに魔力を籠めたにも拘わらず、リオンの一撃はああもあっさり防がれたのだ。ここは大人しく防御に徹した方が良さそうだった。

「んじゃ、行きますかね」

 剣を左右へ振って前へ出たアレンに、ノアが注意を促す。

「油断するなよ。凶暴化しているとしたら、ガルムでさえあの強さだ」

「わかってる、よっ!」

 応えながら、アレンは一気に駆け出した。

「【煌龍牙こうりゅうが】!」

 先手必勝。まずは二本の光刃が合わさることで生まれた金色こんじき龍顎りょうがくで、視界を塞ぐ。

 その間、放った本人は大きく宙を跳び、

「【三日月みかづき】! ……んでもって、」

 下方へ向けて弧閃を放って、剣を構えたまま落下した。

「喰らえ!」

 弧閃の斬撃の直後、重力に引かれた実体のある剣撃を見舞った。

 が、

「!!」

 赤黒い顔面へ向けて放った刃は、その周囲に纏う炎の鎧に塞き止められていた。

 視界の端で何かが動く。気配を感じて咄嗟に跳び退くと、長大な焔の尾がそこへ鞭を打った。

「あっぶね……!」

「だから油断するなと言っただろうが」

 冷や汗を流すアレンの隣で、ノアが若干呆れて溜め息を吐いた。

「あの火をなんとかしなきゃな……」

「アクアが起きていれば楽だったんだが、仕方あるまい」

 眠らせた張本人の台詞かよ、とツッコみたかったが、アレンがツッコむ前に――

 ――岩山が、大きく震えた。

 咆哮を上げた焔の蜥蜴が身を構える。

「来るぞ」

「わかってる!」

 短く受け答え、二人は左右へ散った。

 それに合わせて、ヴリトラの炎の鎧から無数の炎弾が放たれる。

「ぬぉわっ!?」

 先を読んだように放たれた炎弾をアレンが前へ飛び付いて躱すと、透かさずそこへ追撃が迫ってきた。

「ちょ、まっ、タンマタンマ――!!」

 後を追うように次々と放たれる炎弾に悲鳴を上げながら、アレンはただひたすら逃げ回る。

 一方、それを避け続ける――逃げているのではなく――ノアは、炎弾が着弾した部分へ視線をやりながら思考を巡らせていた。

(『燃焼』より『破壊』の割合が強いな……なら)

 決断して足を止める。そして、獲物を狩る群狼のように襲い掛かる無数の炎弾を前に、右の掌を突き出した。

「【氷霜の楯フロストシェル】」

 直後、ノアの正面に楯のように顕れた薄い氷の膜へ、炎弾が激突した。

「あぁーっ! ずりぃぞ自分だけ!」

「…………」

 逃げ回りながら非難するアレンは無視して、ノアは炎の弾幕へ向かって一歩ずつ突き進んでいく。

 しかし、

「!」

 氷の盾に亀裂が走り、すぐさま弾幕の波から跳び退いた。炎弾の嵐が易々と氷膜を突き破り、つい今しがたノアの居た場所を爆砕した。

 舌打ちをして再び駆け出しながら、思考を再開する。

(こちらの魔法の性質を見抜いて瞬時に炎弾の性質を変えたか……理性は無くとも戦う為の知性は健在の様だな)

 と冷静に分析していると、不意に炎弾の嵐が止んだ。

「や、やっと終わったか……」

「情けないな」

 ヒィヒィ言いながら近付いてきたアレンを一刀両断したが、なんだかんだと汗一つ掻いていないところは流石といったところか。

「お前はいいよな、水属性も使えるし」

 愚痴のような台詞に、ノアはまたしても呆れる。

「阿呆が。見ていなかったのか? 俺が扱える程度の魔法では、少し『燃焼』の効果が増すだけでその場凌ぎにすらならん。幾つか手段はあるが……」

「だったら全部試す!」

 最後まで聞かずに、アレンは言葉を放った。

「どうせやらなきゃならないんだ、御託並べるより試した方が早いだろ? 時間くらい稼いでやるよ」

 言いながら、剣を構えて一歩踏み出した。

「……フン、死んでも文句は言うなよ?」

「まっ、そこはお前を信じるさ」

 どことなくニヤついたような声に、アレンの表情も釣られた。

「そんじゃあ、一丁やりますか!」



    †   †   †



 舞台は再び西へ移り、崖の途中に出来た洞窟の中。

 なんとか岩壁を登り切ったシャルは、僅かな休憩を挟んで再び歩を進めていた。

『――――』

「……こっち?」

 またしても頭に直接響くに導かれて、少し入り組んだ洞窟を進んでいく。

「何なのよ、一体……それに、さっきからやけに暑いし」

 陽の光が届かない筈の洞窟内はやけに明るく、外よりも気温が高く感じられた。そのことと、先程から呼び掛けるように頭に響くに何故か素直に従ってしまう自分に、汗の滴る顔は顰めっぱなしだった。

 だが、どうやら進む道は緩やかな上り坂になっているらしく、少なくとも目的地から遠退いているということはなさそうだったので、シャルは歩みを止めることなく突き進む。

「……シャル、先輩」

 不意に、頭のすぐ後ろから声がした。

「ステラ! 具合はどう?」

「はい……お陰様で、だいぶ良くなりました……」

 明らかに嘘だった。それが判ったので、シャルは後ろへ向けて眉を寄せる。

「……あんた、何でそうやって無理するのよ? 辛いなら辛いって言えば良いじゃない」

 思えば、今回に限ったことではなかった。クエスト前の鍛錬では、ステラは自分を追い込むように体力が続かなくなるまで立ち上がろうとしたし、クエスト中に魔物と戦って傷を負っても、目に見えないところなら進んで治療を受けようとはしなかった。

 何が、彼女をそこまでさせるのだろうか。

「…………私、逃げてきたんです」

「逃げてきた?」

 問い返すと、僅かに頷いた感触が伝わった。

「私の家が、代々医者として名を馳せた一族というのは、御存じですよね?」

「……えぇ」

〝地の一族〟という、シャルの実家と同格に位置する大貴族。そこは代々、医者になるべく幼い頃から医療の英才教育を受けることでも知られている。彼女も本来なら地の大陸の医療学院へ通う筈だったのだが、どういう訳か、ガーデンへやってきたのだ。

「八歳離れた姉は、医療学院を歴代で並ぶ者がいないほど優秀な成績で卒院しましたし、五歳離れた兄は、多くの医学生の中で、現在最も期待されている方です」

 言葉は挟まずに、シャルはただ静聴する。

「幼い頃から優秀な二人が自慢で、私も、二人に恥じないような医者になる事が、小さな頃からの夢でした」

 幼い頃の夢。

 それは、無邪気さ故に見ることが出来る、最も純粋な理想なのかもしれない。

「ですが一年前の夏、私はふとした事で〝力〟の制御を誤って、人を殺め掛けてしまったんです」

 思わぬ告白に、シャルの足が止まった。

「幸い相手の方は一命を取り留めましたが、その時気付いてしまったんです。私の腕は、命を救える可能性を抱いた腕ではなく、命を奪う危険をはらんだ腕なのだという事に……」

 肩を掴む手が、小さく拳を作った。

「その事実が怖くなって、両親に黙って医療学院の入学試験を放り出してきたんです。ガーデンには爺や……執事の方の援助を受けて来ました」

 握った拳と共に、声が震える。

「私は一族から、医者になるという夢から、自分の誇りから…………逃げたんです」

 叫んだ訳でもないのに、震える声が嫌に木霊した。

「……それが、あんたが弱音を吐こうとしない理由?」

「一度逃げた私に、そんな資格はありませんから……」

「あんた、馬鹿じゃないの?」

 突然の言葉に、思わずステラは呆気に取られた。

「なっ、ば、馬鹿とは何ですか!? 大体シャル先輩に私の気持ちなんて……!」

「私は! 魔法が使えないわ!」

 再び、ステラは言葉をくした。

「な、何を言って……」 

「後天性不完全魔法症。私は、不完全な魔法しか使えない半端者なのよ」

 三度目の沈黙が流れた。そして今度こそ、反論はなかった。

「六年前、私は危うく、自分の手でアレンを殺し掛けた事があるの。私の下らない好奇心の所為でね」

 それを確認して、シャルは再び歩き出した。

「その代償として、一度完全に魔法を失ったわ。ほんの数週間前までクラスの誰よりも魔法が得意だったのに、それ以来魔法学は拷問だった」

 当時を思い出して、憂鬱になりながらも話を続ける。

「終いにはそれまで私の足元にも及ばなかった連中が陰湿な悪戯を始めて、まぁ九歳だったしね、私は学園に行かなくなったわ」

 ステラには、とてもじゃないが信じられなかった。

 常に自信に溢れ、成績優秀で、同じ大貴族の娘なのに自分とは対極の存在だと思っていたシャルが、不完全な魔法しか使えず、あまつさえ虐めを受けていたなどとは。

「そのうち、『こんな自分には弱音を吐く資格は無い』、『世界は自分を必要となんてしてない』なんて考え始めて、逃げ出す事にしたの」

「……どこからですか?」

 なんとなく、ステラには答えが解っていた。



「世界から」



 押し潰されそうな空気が、ステラの身体へ伸し掛かった。

「今にして思えば馬鹿な話だけど、当時の私にはそれくらい深刻だったわ。〝火の一族〟が火を操れないなんて、笑い話にもならないもの」

 同じだと、ステラは思った。

 代々医者の家系を継ぐ〝地の一族〟の娘の腕が、人を救うのではなく殺めることに優れているなど、考えたくもなかった。

 しかし、それを誰かに話すことは、弱音を吐くということだ。ただでさえ一族の顔に泥を塗っているのに、それを上塗りするような真似をする資格は自分にはない。だからこそ、当時のシャルの気持ちが、ステラには痛いほどに良く解った。

「それでいざ、手首を切るのは怖かったから身投げをしようと時計棟へ登ったら、やっぱり怖くて動けなかったんだけど」

 今度は、まるでちょっとした思い出話を語るような口調で、シャルは続ける。

「どこから嗅ぎ付けたのか知らないけどアレンが止めに来て、押し問答してるうちにうっかり足を滑らせちゃったのよ」

 うっかりなんて話では済まないと、アレンならツッコミを入れただろう。

「落ちた瞬間は怖かったけど、落下するうちに、『あぁ、これでやっと辛い事から解放される』って思ったらなんだか楽になってきて、目を閉じたの」

 話しながら、シャルはその時の光景を思い浮かべた。

 耳を駆け抜ける風切り音に包まれながら、酷く寂しく、辛い孤独から、ようやく解放されていく。

 代償の痛みは、ほんの一瞬で終わる筈だった。

「けど、気付いたら水の泡に包まれてたわ」

「水の、泡……?」

 不思議そうに、ステラが訊き返した。

「そう。私達の魔法学を担当していた先生が、助けてくれたの」

 その時は、何が起こったのか解らなかった。

 閉じた瞼を上げるとそこは冷たい水に囲まれた空間で、しかし何故か暖かかったことを、今でもはっきりと憶えている。

「その先生は、無事に地面へ着いた私を優しく抱き締めて、こう言ってくれたわ」



『―生きる事はとても辛くて、何度も逃げ出したくなるような事ばかり―』

『―けれど、だから人は弱音を吐くの。弱音を吐いて、辛い事を辛いと言えるから、人は生きていける。その先にある、それまでの辛かった事なんて忘れてしまうくらい大きな幸せを、見付けられる―』

『―弱音を吐くのに、幸せを見付けるのに、資格なんて要らないのよ―』



「……凄く、胸が痛かったわ。『私はとんでもない間違いを犯し掛けたんじゃないか』、『世界は私を見捨ててなんかいなかったんじゃないか』……そう思ったら、涙が止まらなかった」

 胸が張り裂けそうなくらい痛くて、しかし涙の原因は、悲しみではなく幸せだった。

 自分が独りではないことを知ると、自然と炎を喚び出せた。まるで消え掛けた生命いのちの灯火が、再び強く宿ったように。

「だから私は誓ったわ。何年掛けても、何十年掛けても、いつか必ず力を取り戻す。その為なら、どんなに辛い事だって弱音を吐きながらでも乗り越えてみせる。そうする事で私はまた幸せを見付けられるし、それが私に出来る色々な人達に対しての、精一杯の恩返しだと思うから」

 その為に必要なことなら、惜しみなく努力してきたつもりだった。

 魔法が使えないなら、その他の分野でトップの成績を修めた。

 魔法が使えないからこそ、無茶な条件をクリアしてでも魔法学部に入った。

 魔法を使えるようになりたいから、自分の身を削るような危険なクエストにも参加した。

 折角助けて貰った命を粗末にしている訳ではない。端から死ぬつもりなどないし、必要があれば躊躇なく協力を仰ぎもする。

 これは、命を賭してでも目的を果たすという覚悟。

 自分にとっての幸せを見付ける為の覚悟。

 そして、という覚悟の表れだった。

「……やはり、シャル先輩はお強いですね。私なんかには、真似出来そうにありません」

 自嘲するような台詞が耳をさえずってきたので、シャルはイラっとした。

「あぁ~、もう! あんたホントは根暗なんじゃないの!? ステラ!!」

「は、はいっ……!」

「あんたが最初に言ってた〝夢〟ってのは何なのよ!!」

 初めて顔を合わせた時にステラは言った。Sクラスを受けることは、自分の夢の為にも良い経験になると。

「あ、あれは、夢というよりはやらなければならない目的というか……」

「じゃあその目的は!?」

「うぇっ……!? え、えっと………………です」

 突然問い質されたことに狼狽うろたえて、ステラはゴニョゴニョと何かを呟いた。

「聞こえない!」

「す、少しでも! 家名に恥じない成績を、収める、こと、です」

 やはり、最後は蚊の鳴き声のようだった。

「それはどうして?」

 問われて、ステラはほんの少しだけ気持ちを言葉として整理する。

「……医者の道を諦めても、私が〝地の一族〟という事に変わりはありません。ですからせめて、これ以上家名を汚さないよう……」

「だったらそんな〝夢〟、捨てちゃいなさい!」

「えぇっ!?」

 唐突な言葉に、ステラは顔ごと声を上げた。

「良い?〝夢〟ってのはね、自分の為に叶えるもんなの! 家の名前を傷付けないとか、そんなどうでも良い事に使ってる余裕は無いの!」

「で、ですがシャル先輩、先程は〝火の一族〟が魔法を使えない事を……」

「だから昔の私も今のあんたも、ただの大馬鹿だって言ってんのよ!」

 無茶苦茶だと、誰が聞いても思っただろう。実際、ステラは無茶苦茶だと思った。

「確かに私は自分が〝火の一族〟である事に誇りを持ってるわ! でもね、私が魔法を取り戻す事は、私っていう一人の人間の幸せを見付ける為の手段なの! 家なんか、これっぽっちも関係無いわ!」

 豪語するシャルに、それでもステラは顔を曇らせる。

「ですが、やはり私にはそんな資格は……」

「あぁもう、イライラする!」

 再び、今度は緋色の長髪を掻き毟りながら、シャルはさらに声を荒らげた。

「言ったでしょ! 自分の幸せを見付けるのに資格なんか要らないの! 大体あんた、気付いてないんなら言ってあげるけどね、」

 視線は前へ向けたまま、背後で腰を下ろす少女に、純然たる事実を突き付ける。



「あんたの腕は、とっくに私の命を救ってんのよ!」



 先程から怒鳴るようにぶつけられたどの言葉よりも、ステラにはその一言が深く突き刺さった気がした。

「あ……」

 言葉の意味を理解するのに、十数度、噛み締める必要があった。

「わた、し……でも……」

 噛み締めて、理解してもなお、その先へ至る為にさらに数度、自分でも意味の解らない声を発しなければならなかった。

「…………あれ?」

 ふと、口の端から何かが入ってきた。少し塩辛い味がしたので確かめようと手を伸ばすと、恐る恐る口元に触れた指先に、水滴が付着した。

「どうして、わたし……」

 触れて、それでも、その理由は解らなかった。

「……もう、自分を追い詰めるのはやめなさい。誰もあんたが幸せを見付ける事を、責めたりしないから」

 優しく響く言葉に、少女はいつの間にか、これまで溜め込んだ痛みを吐き出すように、目の前にある背中にしがみ付いて泣き叫んでいた。



    †   †   †



 ――一つ、気付いたことがある。

 しばらく洞窟を歩きながら、シャルはちらりと肩越しに視線を向けた。

 泣き疲れたのか、先程まで声が枯れるほど泣き叫んでいたステラは、今は小さな寝息を立てていた。

(ホント、子供なんだから)

 と苦笑したものの、高めの身長や言葉遣いからつい忘れがちだが、実際ステラは、まだ十三にも満たない子供なのだ。

 本来ならまだ誰かに甘えたがる年頃の筈なのにそういった素振りを殆ど見せないのは、やはり過去の過ちに因る自責の念から、誰にも甘えてはならないという、ある種の強迫観念に駆られていたのだろう。嘗て似たような体験をしたシャルには、その辛さが身に染みて良く解った。

 だからこそ、それに押し潰されてしまう前に、自分がそうして貰ったように、手を差し伸べる必要があった。

 例えある程度の、嘘を吐いたとしても。

「…………」

 嘘、と言うと、語弊があるかもしれない。実際シャルは、ほんの数分前まで、その事実に気付いていなかったのだから。

 しかし今この瞬間、先程ステラに向けたのと同じ言葉を並べられるかと問われれば、否と答えざるを得なかっただろう。

(私が、魔法を取り戻す、理由わけ……) 

 シャルは、本当は解っていた。自分が魔法を取り戻せていない理由を。そしてそれを否定したいが為に、荒療治とも言える方法を取り続けてきたのだ。

 しかし結局、それは自分の心の真実を浮き彫りにするだけだった。

 今はそのことに確信を得ているが、かといって今更どうしようもないと、諦観する。

(だって、もう六年も経つのよ? どうせもう……)

 先程ステラに豪語したのとは真逆の意見を自答したところで、かなり広い場所に出た。

 いつの間にか頭に響くも消えており、そのまま先へ進むシャル。その前に、

「―――――っ!!」

 待ち構えたように、居た。

 一体のガルムが、既に姿勢を低く構えて身を唸らせていた。だがその毛並みは、幾度と見た茶褐色のそれではなかった。

(黒い、ガルム……!?)

 その正体を看破出来ず、故に、シャルは身を凍らせる。

 明らかに、尋常ならざる在り様だった。

「……冗談、きついわね」

 嫌な汗が、頬を伝った。



 ――一つ、気付いていなかったことがある。

「――ハァッ!」

 唸り声を上げる黒いガルムに先手を打たれる前に、シャルは右手から燃え盛る炎を喚び出し、放った。

 炎は躊躇なくガルムを包み込んだが、当のガルムは苦しむ素振りすら見せずに目の前の獲物に飛び掛かった。

「やっぱりそうなるわよねッ……!」

 なんとかそれを跳んで躱し、再び重い身体を整える。

 見た目だけの不完全な炎では、結果はまさしく、火を見るより明らかだった。

 ダメ元とはいえ歯が軋む思いに舌打ちして、背中へ向けて声を掛ける。

「ステラ、起きなさい! ステラ!!」

 呼び掛けながら片手でステラの身体を叩くと、背で眠る少女はモゾモゾと身動みじろいだ。

「う……ん……シャル先輩……?」

「寝惚けるのは後! 良いから目の前を見なさい!」

 一体何を慌てているのかと寝惚け眼で正面を見たステラの脳が、一気に覚醒を果たした。

「が、ガルム!?」

「しかも多分、凶暴化のおまけ付きでね。良い? 良く聴きなさい」

 シャルは正面のガルムを視界へ入れながら先程まで対角にあった場所に目を向け、ジリジリと後退ってステラを降ろした。

「多分、あそこにある通路をしばらく行ったら出口があるわ。そこを抜けたら、すぐに山頂へ向かいなさい。その近くにアレン達が居る筈よ」

「シャル先輩……?」

 言っている意味が解らず、ステラは怪訝な表情をした。

「今から一度、どうにかしてあいつを引き付けるわ。出来る限り時間を稼ぐから、その間に全力で走り抜けなさい」

「そんな! シャル先輩も一緒に――」

「良いから! 言う通りになさい!」

 拒否するステラの声に被せて、一喝した。

「今度は私に、助けさせてよ……!」

「―――っ!」

 懇願するような声に、ステラは反論出来なかった。

 そうこうしているうちに、左右を往き来して様子を窺っていたガルムが再び攻撃態勢に入った。

 二人はすぐに身構える。

 再び突撃してきたガルムをもう一度跳んで躱したシャルが、炎を地面に向けて放ち、爆散させた。

「行きなさい! 私も十分に時間を稼いだら追うから!」

「………ッ!」

 怒鳴るような背中に唇を噛み締め、ステラは軋む身体を出口に向けて駆り出した。

 それを背後で受け、シャルは頬に汗を伝わせる。

「さてと、少しは先輩の意地ってもんを見せましょうか」



    †   †   †



 正面に立ち込める炎幕が、不意に揺らめいた。

「―――っ!」

 シャルは咄嗟に跳び退いた。真後ろで鋭い牙が激しく噛み合う音が響く。すぐに体勢を整え、距離を取りながらリュックに手を突っ込んだ。

「確か……ッ!」

 拡張された空間をまさぐっていると、間髪入れず黒い狼獣が飛び掛かってきた。

 再び大きく跳び退いて躱したが、その拍子にリュックを落としてしまい、中身が少し飛び散ってしまった。

 そこに、

「あった!」

 散乱した簡易食料などの中に、少し濁った液体の入った、口の広い小瓶が転がっていた。

 それを手に取ったところへ、再度鈍い光を放つ爪が襲い掛かってきた。もう一度、今度は斜めに飛び付いて避ける。しかし、

「――ッ!?」

 鋭い爪先が僅かに左腕を掠め、顔を歪ませた。

「このっ……!」

 苦痛に思考が鈍るのも一瞬、怒りを露にしながら小瓶の蓋を開け、攻撃の直後で隙が出来たガルムに液体をぶち撒ける。

 中身は、脂。

「喰らいなさい!」

 言葉と同時に、紅蓮の咆哮が放たれた。牙を剥き出しにした炎はガルムを飲み込み、付着した脂を餌にしてより激しく燃え上がった。

「これで、どう……?」

 肩で息をしながら、シャルは様子を窺う。その間に、念の為にガルムやドレイクの脂を取っておいたここ数日の自分を褒めつつ、左腕に手を当てて思考を巡らせた。

 傷はそれほど深くない。

 敵の攻撃も躱せないほどではない。

 ステラが十分に逃げ切るまでには、まだまだ時間を稼ぐ必要がある。その為にはひたすら攻撃してこちらに注意を引き付けなくてはならないのだが、問題はそこだ。まだ幾つか手はあるが、果たしてこんな不完全な炎と小細工でどれほどの効果があるのか。

 緊張の汗を頬に伝わらせていると、

「!!」

 火だるまになったガルムが、喉笛から猛々しい吠え声を上げて、その身に炎を宿したまま突っ込んできた。

 予想はしていたが、こうも堂々と自分の炎を無視されるとなると、

「流石にちょっと、へこむわよっ!」

 透かさず躱し、吐き捨てながらポケットから何かを取り出して投げ付けた。

 ガルム目掛けて一直線に向かうのは、一見何の変哲もない、小さな丸い石。

「弾けなさい!」

 直後、一度ガルムに当たって宙を跳ねた石が、僅かに緑色の光を帯び、ぜた。するとそこを中心に風が集い始め、瞬く間に小さな竜巻となって、炎を纏うガルムを包み込んだ。

 土を巻き込む風は、依然としてガルムに絡み付く炎をも巻き込み、炎の竜巻と化してその場に踊り続ける。しかし、竜巻の中から黒い影が飛び出し、そのままシャルへ向かって走り出した。

 目を見開きながらギリギリでそれを躱したシャルは、冷や汗を掻きながら安堵の息を漏らす。

「あっぶな――ッ!?」

 その真下に、狙い違わず茶褐色の魔法陣が顕れた。

「しまっ――」

 瞳を驚愕の色に染める間もなく、幾つもの隆起した岩が襲い掛かった。

 鈍い音と共に大きく弾き飛ばされ、受け身を取ることすら儘ならずに地面へ激突する。

 堅い地面に打ち捨てられ、逃げ場を失った空気が我先にと口を飛び出した。

(まずった、わねッ……)

 苦痛にもがきながら、負傷した箇所へ手をやる。肉体強化のお陰で折れてはいないが、身体の至るところが悲鳴を上げていた。

(何、気ぃ抜いてんのよ……!)

 たかだか数度、ただの突進を避けただけで、知らずとそれ以外の攻撃から意識が逸れていた。寧ろシャルにとっては、魔法での攻撃こそが最も注意すべき対象だったというのに。

 間抜けにもほどがある、と自らを罵倒する傍ら、地に伏したまま顔を上げると、

「………ッ!!」

 今まさに止めを刺すべく、身を低くしたガルムが宙を舞った。

(マズイ! マズイマズイマズイマズイマズイマズイ――!!)

 迫る生命の危機に、身体が反応しない。ただ思考のみが、何故かスローモーションで流れる目の前の映像に警鐘を鳴らし続ける。

 ゆっくりと、確実に、小さな弧を描きながら近付いてくる。

 爪が鈍く光る。開いた口から涎が飛び散る。

 あとほんの数メートル。その先に待つのは――

〝死〟。

「【穿衝の大地アースグレイブ】!」

 寸前で、ガルムが地面から生えた岩に横から吹き飛ばされ、大きな音を立てて壁へ激突した。

「あ……」

「シャル先輩!」

 声のした方を見ると、大剣を手にした濃い茶髪の少女が駆け寄ってきた。

「御無事ですか?」

 傍へ来たステラが、安否を気遣って手を差し出した。

「な……」

「?」

 何故か顔を俯けて小さく震えているシャルに、ステラは首を傾げた。

「――っ何で戻ってきたのよ!? これじゃ意味無いじゃない!!」

 大砲のような怒号に、ステラの身体が小さく跳ね上がった。

「あんたね、私が何の為に残ったと……ゲホッ、ゴホッ!」

「お、落ち着いてください! 傷に障ります!」

 宥める少女を、シャルは鋭く睨み付ける。

「そ、そんなに睨まないでくださいよぉ……!」

「これが睨まずにいられると思う訳? 折角稼いだ時間が全部無駄じゃない。風の魔石まで使ったのに……」

 地属性の弱点であり、炎をより強めてくれる。予め用意しておいた物の中で、先程投げ付けた小石は今のシャルにとって切り札とも言える物だったのだ。

 効果があったかはともかく、自分の努力をフイにされれば怒りもするだろう。

「で、ですが、あのままですとシャル先輩が……!」

「私は良いの!」

「良くありません!」

 張り上げられた声が、響き渡った。

「シャル先輩、お気付きになられていないかもしれませんが……」

 今度は、ステラの身体が小さく震える。

「先程のシャル先輩の眼は、死ぬつもりの方の眼だったのですよ……!?」

 ピクッ、とシャルの指が動いた。

 ――そうだ。

 あの瞬間、ガルムがあと僅か数センチのところまで近付いた時、シャルの心の中を満たしていたのは、恐怖でも焦燥でもない。

 それは、死への安堵だった。

(は、はは……情けないわね)

 俯き、心中で自嘲する。

 散々偉そうなことを言っておいて、結局自分が求めていたものは、死に場所だったらしい。

 本当に、情けない。

 何が幸せを見付ける為だ。

 ただ、格好付けて逃げ出したかっただけではないか。

 あの時から、何も変わっていない。

(まぁ、それもそうか)

 やっと見付けたも、どうやら叶いそうにない。恐らく自分は、一生幸せを見付けることは出来ないのだから。

 俯いたままのシャルに、ステラは言葉を続ける。

「一度はシャル先輩の覚悟を無駄にしまいと従いましたが、やはり私には誰かを犠牲にするなんて無理です。それに……」

 言って、一歩前に踏み出した。

「嬉しかったんです。私の腕でも、誰かを救える事が分かって」

 声が、微笑んでいるように聞こえた。

「ですから、護れる命が、救える命があるのなら……もう、逃げ出したくないんです」

 壁にぶつかって倒れていたガルムが身を起こし、より低く唸り声を上げ始めた。

 ステラは身を覆い隠しても有り余るほどの巨大に過ぎる刃を、両手で構える。

「二人で、皆さんのところへ帰りましょう」

「………っ」

 シャルが顔を上げたのとステラが駆け出したのは、殆ど同時だった。

「ぃやぁッ!」

 一閃。

 低く構えたガルム目掛けて、ステラの巨剣が縦一文字に斬り付けた。その攻撃は躱されたが、地を砕く一撃は凄まじく、当たれば幾ら凶暴化したガルムと言えど一溜まりもないだろう。

 そのまま、ステラは今度は片手で薙ぎ払った。

 大剣とは思えない剣速と巨剣に相応しい重量が、大気を上下に両断する。しかしガルムはそれすら躱し、飛び掛かって反撃に転じた。

 ステラはすぐさま剣を呼び戻し、刃の面を眼前に構える。

「くぅッ――!」

 勢いの付いた突撃にやや顔を顰めたが、剣を払ってガルムを弾き飛ばした。

「……っ今!」

 弾き飛ばしたことでガルムの動きが止まり、ステラはこの好機を逃すまいと一気に駆け出そうとする。

 しかし、

「―――ッ!?」

 足下に、先程シャルに放たれたのと同じ魔法陣が顕れた。ご丁寧にも同じものがその周囲を囲うように展開されている。

「――ッステラ!!」

 考える前に、シャルは右手を前へ突き出していた。



 炎が放たれ、ガルムへ迫る。

 ステラの足下にある茶褐色の魔法陣が、より強い輝きを帯び始める。

 ステラが咄嗟に跳び抜けようと、走り出す足を踏ん張って膝を曲げる。

 炎が、標的を飲み込んだ。

 魔法陣から、魔力が迸った。

 ステラの足が、地を離れた。



 ――一瞬の、出来事だった。

 まだ鈍い身体を首から上だけ持ち上げて、シャルは目の前の状況を確認した。

 視線の先には、隆起した岩の密林が出来ていた。

 そこから、左へと視線を移す。

 ガルムの居た場所には、大剣を片手に佇む少女の姿があった。息を切らし、目を見開いている。そのさらに左。大きく崩れた壁の下に、瓦礫が積み上がっていた。

(ギリギリ、だった……)

 冷や汗が、シャルの頬を駆け巡った。

 炎を浴びたことで、ガルムの魔法がほんの一瞬、遅れて発動した。その僅かな時間のお陰でステラは魔法の効果範囲から脱出、そのままガルム目掛けて剣を振り抜いたのだ。発動直後で隙が出来たガルムはこれをまともに喰らい、派手に吹っ飛んで瓦礫の下敷きになっていた。

 シャルは、瓦礫へ視線を向けながら近付いてくる少女を見る。

(やっぱり、この子は……)

 崖から落ちた時と合わせて、これで二度目。確信した。

 本人にとっては残酷かも知れないが、ステラには確かに、戦う才能がある。

 勿論普段の戦闘でも同い年の中では腕が立つ方なのだが、命の掛かったギリギリの死闘になると、明らかに動きが違っていた。

 今の状態なら、アレンやノアとも良い勝負が出来るかもしれない。それほどに、戦いのセンスがあった。

「ステラ――っ!」

 声を掛けた直後、積み上がった瓦礫が吹き飛ばされた。

 その中心には、やはりガルムが居た。相当なダメージを受けたらしく、身体を支える四肢が折れ掛かっている。

 ……のだが。

「何、あれ……?」

 先程までの真っ黒な毛並みは、今は元の茶褐色に戻っていた。

 代わりに、その周囲に黒い靄のようなものが群がっていた。

 靄は息を切らせるガルムの周りをある程度漂うと、這いずるように纏わり付き始めた。

「!!」

 瞬く間に全身を靄に覆われたガルムが、再び黒い魔狼となって現れた。気の所為か、荒かった息が整っているようにも見える。

「シャル先輩……」

 不意に、ステラが呟いた。

「少し、待っていてください」

「ちょ、待ちなさい! 今の見たでしょ!? 幾らあんたでも――」

「大丈夫です」

 至って平静な声が、シャルを制した。

「今ならきっと、勝てます」

 確信を得た微笑みが、柔らかく放たれた。

「っ!」

 短く息を吐き、駆け出した。

はやい……!)

 一秒掛からず、ステラがガルムの前に現れた。

 中級の肉体強化とは、普通これほど迅く動けるものではない。余程の魔力が籠められているということだ。

「やぁッ!!」

 振り下ろされた巨剣が、残った瓦礫を粉砕した。

 寸前で離脱したガルムが、首を噛み千切ろうと牙を剥き出しにして迫る。ステラはそれを身体を一歩横へずらすことで難なく躱すと、

「――はぁッ!」

 顔の真横を掠める牙に臆することなく、強烈な回し蹴りを放った。鈍い音と共に勢い良く蹴り飛ばされたガルムが、再び壁に衝突する――かに思えたが、空中で体勢を整え、壁を蹴った反動を利用して再びステラへ襲い掛かった。

「同じ事をっ!」

 懲りずに向かって来るガルムを迎え撃つべく、剣を構えるステラ。が、

「!?」

 突如、ガルムの行く先、そしてステラの周囲の地面に、幾つもの茶褐色の魔法陣が浮かび上がった。

 肩幅大の魔法陣が強く輝き、岩の柱が突き出る。その側面に、ガルムが足を着け、蹴った。

「なっ――!?」

 シャルの瞳が驚愕に揺れた。岩の柱を蹴り付けたガルムが、一つ、また一つと、乱雑に突き出た柱の側面を利用して移動し始めたのだ。

 しかも、

(動きが、迅過ぎる……!)

 柱を使った高速移動は、目で追うことすら至難だった。これでは例え目で追えたとしても、攻撃が来た時に身体が反応しきれない。

 その速度のまま周囲を移動し続けるガルムに対し、ステラはじっと剣を構える。

 構えて、来るべき時がいつ来ても反応出来るよう、意識を集中させた。

 柱を蹴り付ける音が聞こえ、次に岩の欠ける音が聞こえた。

 その直後に別の方向から柱を打つ音が聞こえ、また蹴り付ける音がした。

 今度は別の方向から、同じように音が聞こえた。

 幾十度もの行程が過ぎ、それでもステラは、より意識を音へ集中させる。

 不意に、一層強く柱を蹴り付ける音が飛び込んできた。

「―――そこッ!!」

 叫んで、渾身の力を籠めて剣を振った。背後から襲い掛かったガルムを巨大な刃が迎え撃つ。

 タイミングは、完璧。

 しかし、ステラとガルムの間に岩の柱が割って入った。剣がそれを粉砕するのと同時に、ガルムはそれを蹴り付け、進む方向を無理矢理捻じ曲げた。それらと時を同じくして、ステラの背後にあった岩の柱の側面にもう一つ、魔法陣が顕れた。

 再び、シャルは目を見開いた。

(フェイント!? 本命は――)

 ステラの背後から岩の槍が襲い掛かる。

 ステラは気付いていない。

 回避は間に合わない。

 援護の炎も届かない。

「ステラ!!」

「―――ッ!?」

 血が宙を舞い、地に点々と赤を描いた。

 そして――

 轟音と共に、石の柱が一本、崩れ落ちた。

 瓦礫の中で岩の槍が埋もれる。

 間一髪。紙一重で、ステラは頬を掠めるだけに留めていた。

 それを見て思わず胸を撫で下ろしたシャルは、確信し、強く手を握り締める。

 今度こそ、敵の打つ手を破った。これすらもフェイントだったとしたら、最早感嘆するしかあるまい。しかし、もう何かが起こる気配はなかった。

 ステラもそれを感じたらしく、頬から血を流しながら剣を振り上げ、動きの止まったガルムへ向けて振り下ろす。 

(これで――!)

「終わりですッ!!」



「えっ?」



 振り抜いた手に、剣は握られていなかった。

「どう、して……?」

 身体を支える脚が力なく崩れ落ち、信じられないという声が僅かに漏れた。

 主を失った大剣は、ステラの正面、かなり離れたところに横たわっていた。

 息が苦しい。

 身体がピクリとも動かない。

 脇腹の傷が開き、血が溢れていくのを感じる。先程まで身体から溢れ出さんばかりに満ちていた魔力は、今や肉体強化を保つことすら難しいほど、弱々しいものとなっていた。

 全く以て、何故自分が倒れているのか、ステラには理解出来ていなかった。

(魔力の、オーバーロード……ッ!)

 まだ地に伏したまま、シャルは歯を軋ませた。

 予感はしていた。

 そもそも、ステラはまともに動ける状態ではなかった。

 そこにあれほどの桁外れな魔力、驚異的なまでの反応速度、尋常ではない集中力。それらを引き出しておいて、身体が持つ筈がない。限界など、とっくの昔に越えていたのだ。

 願わくばこうなる前にガルムを倒せれば良かったのだが、とうとう身体の方が強制的に停止信号を発したらしい。

(せめて、あと一秒持ってくれたら……!)

 選りにも選って、とはこのことだった。

 剣を振り下ろす。ただそれだけで、この危機は終わっていたのだ。その後でなら、幾らでも回復を図れたというのに。

 突然の事態に戸惑っていたのか、距離を取って様子を窺っていたガルムが、ゆっくりとステラに歩み寄っていく。

(マズイ!!)

 ステラはもう動けない。このままでは殺される。

(なんとか、こっちに気を……!)

 魔力はまだ残っている。

 右腕を伸ばし、掌をガルムへ向ける。

「……っ!」

 短い息と共に、炎が放たれた。

 警戒していなかったのか、それはあっさりと命中した。

(やった! これで――)

 だが、自らを包む炎を全く意に介さず、ガルムは歩を進める。

(そんな……!)

 もう一度、シャルは炎を放った。

 それも、容易く命中した。

 しかし、やはりガルムは気にも留めない。

(何で……)

 何度も、炎を放つ。

 その全てが、ダメージを与えるどころか、意識を逸らすことすら適わない。

(何でッ!!)

 一際大きい炎が、再びガルムの身を包み込んだ。だがそれも、他の炎と同じ運命を辿る。

「こっち……向きなさいよ……!」

 顔を伏せ、唇を噛み締めた。

 悔しさが心を蝕む。

 情けない。今の自分では、気を引き付けることも出来ない。

 あまりにも、無力だった。

「………だよ」

 音が、小さな呟きとなった。

「まだ、残ってる!!」

 顔を上げたシャルは、再び右手を突き出し、炎を喚び出した。

 しかしその炎はすぐには放たれず、掌の中で徐々に収縮していく。

(想像しなさい!)

 目を瞑り、心の中で叫んだ。

 魔法に必要なのは、想像力と、創造力。自らがイメージしたものを、どこまで具体的に顕現出来るかが鍵。

 掌の中に球体を作り出し、一直線にガルムへぶつけ、爆発させる。

 そこには、いつもアレンにぶつけているものとは違い、破壊の魔力を籠める。

「はぁあああああ――!!」

 ガルムの耳が僅かに反応し、シャルへ顔を向けた。

 掌の中に集まった炎がその姿を変えていく。喚び出された炎は、徐々にだが確実に、紅蓮の球体となって魔力を凝縮させていた。

(いける! このまま、魔力を形に――)

 突如、心臓が異様に速く脈打ち、頭の中を次々と映像が駆け巡った。



 神殿の隠し扉。

 幻想的な夜の森。

 唸り声を上げる魔物。

 美しい光を放つ大樹。

 樹の根に挟まったまま眠る銀髪の少女。

 森を焼き尽くさんばかりの巨大な炎の柱。

 血塗れで倒れる金髪の幼馴染。

 そして、真っ赤に染まった自分の両手。



「――ッぁあああああああああああああああ!?」

 炎が弾け、消し飛んだ。

 火の粉となって弾け飛んだ魔力の余韻に覆われながら、地面に伏せたままのシャルは短く速く呼吸を繰り返す。

「うっ!?」

 突然込み上げてきたモノを、地面にぶち撒けた。

「ゲホッ、ゲホッ……!」

 気持ち悪い。

 金槌で殴られたように頭が痛む。

 失敗した。

 やはり無理だったのだ。

 今まで何度も試した。

 その度にあの映像が流れた。

 どんなに強がったところで、自分があの事件を引き摺っていることは解っていた。

 それに、もある。

 やはり自分にはもう、魔法を使うことは出来ないのだ。

 だったら、ここで果てるのも――

「――ャル、先輩……」

 不意に、聞こえた。

 顔を上げると、倒れたままのステラが持てる力を振り絞ってこちらを向き、口を開いていた。 

「……たしは、いて、逃げて、くださ……」

 掠れた声が、伝えたい単語だけはしっかりと、届いた。

(―――っ何考えてんのよ、私は!?)

 折れ掛けた意志を叩き起こした。

 ここで諦めたらステラはどうなる。やっと苦しみから解放されたのに、これから自分の幸せを見付けることが出来るのに、死なせてしまって良いのか。

(良い訳、無いでしょうがッ!)

 心を奮わせ、拳をきつく握り締めた。

 鋼の塊のように重くなった身体を持ち上げて、膝を着いて立ち上がる。

 ステラの傍へ歩み寄っていたガルムが、若干の警戒を籠めてシャルに向き直った。

「……そうよ。あんたの相手は、そもそも私でしょう?」

 フラフラの身体を懸命に支えながら、不敵に笑い、右腕を持ち上げた。

「――ッはぁああああぁああああああああ――――――!!」

 もう一度、シャルの掌へ炎が集い始めた。

 炎はゆっくりと、その形を変えていく。

「――ぐっ!?」

 またしても、あの映像が頭の中を支配した。

「ッあああああああああああ――!?」

 頭痛が襲い、吐き気が身体の内側から胃を殴打する。

「――ッまだ、よ……!」

 呼吸を荒らげながら、右腕を左手で掴み、支える。

「このくらい、あの子の痛みに比べたら……!」

 顔を歪めながら、シャルは横たわる少女へ視線を向けた。

(ボロボロの癖に、無茶ばっかりして……)

 それでも、二度も命を救われた。

 だから今度は、自分が救ってみせる。

(……ねぇ)

 ガルムが排除する対象を完全にシャルに変更し、駆け出した。

 にも拘わらず、シャルは目を閉じた。

 そして、へ呼び掛ける。

(六年も経って、自分でも今更だと思うわ)

 空いた距離がみるみる縮まっていく。

(だから、私の事は良いの)

 頭が割れそうなほど痛む。

(でも、せめてステラだけでも助けたい)

 掌に集う炎が、自分自身すらもけ焦がしていく。

(もう、魔法が使えなくたって良いから)

 腕が上がらなくなってきた。

(私の幸せは要らないから……)

 脚も今にも折れてしまいそうだ。

(今だけ)

 吐き気が喉元まで込み上げてきた。

(あの子を救う力を貸して欲しいの……)

 シャルの眼前で、ガルムが跳んだ。

「―――お願い、応えて!!」



 炎が、爆風となって渦を巻いた。



 寸前まで迫っていたガルムが、突如現れた爆風に巻き込まれ、反対側まで吹き飛ばされた。

 しかしその爆風は、何故かシャルには何の影響も及ぼさなかった。

『――――』

 ふと、あのが頭に響いた。いつの間にか、頭痛も吐き気もなくなっている。

「あ……」

 爆風が起きた場所に、緋色の光の球が浮いていた。

 それはふよふよとシャルへ近付くと、触れ合うように頬を引っ掻いた。

 それに寄り添うように、シャルはそっと手を触れる。

「あぁ……!」

 人肌のように暖かい温もりに触れて、その正体を悟ったシャルの頬に一筋、涙が流れた。

 ――一つ、気付いたことがあった。

 自分が魔法を使えない原因は、過去のトラウマと、もう一つ。

 シャルは、あの事件を――暴走した時のことを、憶えていた。

 故に、その強大な〝力〟が大切な人を傷付けてしまうことを恐れ、あの後精霊を拒絶してしまったのだ。そのうえで、様々な難題をこなして自らそれを否定するという矛盾した行為を行ってきたのだった。

 しかし、先刻のステラとの会話で、ある事実に辿り着いた。

「……ごめん……ごめんね……?」

 シャルが本当に求めていたものは、赦し。

 一方的に拒絶してしまった精霊に、ただ赦して欲しかった。愚かで臆病な自分の過ちを。

「また、力を貸してくれるの……?」

 光の球は、問いには答えなかった。

 代わりに――

 炎が、シャルを包み込んだ。

(暖かい……)

 炎の中で、目を閉じて感じる。

(こんなにも、暖かい……)

 周りを包む炎、弾ける火の粉、その全てが、優しく、暖かかった。

 ――一つ、気付いていなかったことがあった。

 ここ数日、特に火の大陸に渡ってから、シャルの頭はずっとモヤモヤしていた。シャルは王都で出会ったオルコット兄弟とのいざこざが原因だと思っていたが、それは違った。

 実は、精霊はずっと、シャルへ呼び掛けていたのだ。六年前、大切な人を失う恐怖から拒絶された日よりずっと。

 それが、シャルが火の大陸へやって来たことで精霊の力が強まり、遂には呼び声が聞こえるまでになったのだ。

 シャルは勘違いをしていた。

 精霊がシャルの呼び掛けに応えられなかったのは、精霊を求める心よりもまた暴走して誰かを傷付けてしまう恐怖が勝り、無意識の内に拒絶していたからに他ならない。そして自分が赦しを求めていたことに気付いた後は、六年も経ってしまった今となっては、きっと精霊は怒って赦してなんてくれないと諦めていたからだった。

 しかし精霊は、初めから怒っても、呆れても、見捨ててもいなかった。

 ただ、ずっと傍に居たのだ。

 だからこそ、ステラを救いたいという、恐怖に勝る心の底からの願いに、応えることが出来たのだった。

(……ありがとう)

 徐々に、炎が収まっていく。

 強く靡いた緋色の髪が、ゆっくりと整う。

 やがて、緋炎の瞳が、世界を覗いた。

「これからは、ずっと一緒よ」



 あかい炎が、世界を彩った。



    †   †   †



 舞台は再三、場所を移す。

 広い華畑であったその場所で、炎の鞭が舞った。

「ぐあっ!?」

 大きく弾かれたアレンが片膝を着いて後退あとずさった。その間に、焔の蜥蜴の口から炎の弾丸が吐き出される。

「ちぃッ……!」

 舌打ちをしてその場を跳び退いたノアの眼前で、火球が爆煙と石礫を撒き散らした。

「これなら、どうだっ!」

 即座に、横へ廻ったアレンが斬り掛かった。しかし視界の端から巨大な尻尾が現れ、容易く剣を防ぐ。

 アレンは咄嗟に防御の構えを取るものの、敢えなく吹き飛ばされてしまった。

「【闇影の剣シャドウブレイド】」

 間髪入れず、ノアの刀から漆黒の刃が放たれた。刃はヴリトラの顔面目掛けて一直線に駆け抜ける。

 しかしそれも、硬い鱗に呆気なく弾かれてしまった。

 と、

「喰らえ」

 ノアは怯むことなく右の掌を開き、握り潰す。

「【血塗れの時雨ブラッディレイン】」

 弾かれた闇の残骸が、漆黒の豪雨となってヴリトラへ降り注いだ。

「……どうだ?」

 体勢を整えたアレンは、巻き起こった土煙越しに様子を窺う。

 ――だが。

 土煙の晴れた先には、炎の鎧に身を包んだ無傷のヴリトラが居ただけだった。

「やはり効果は無いか……」

 したる落胆もなく、ノアは状況を整理する。

 まず接近戦では、あの巨大な尻尾に殆どの攻撃を弾かれる。それを破っても、今度は中級魔法程度なら容易く弾く硬い鱗が待ち受けている。接近戦では分が悪い。

 ならば魔法での大規模攻撃を狙うしかないのだが、こちらが上級魔法の詠唱に入った途端真っ先に炎弾の集中放火が襲ってきては、満足に詠唱も出来ない。

 極め付けは、あの炎の鎧だ。

 無数の炎弾を打ち出し、中級魔法を強めた昇華魔法ですら易々と防ぎ切る。相当に厄介な代物だった。

「くそっ、詠唱もなしに魔法が使えるなんてずりーっての」

 何度も攻撃を防がれて腹が立っているアレンは悪態を吐いた。

「それを言うなら、複数の属性が使える俺達も十分に狡い」

「……お前、こっちの味方だよな?」

 溜め息と共に出た反論に、じとっと視線を向けた。

 魔法の詠唱文とはそもそも、人間が精霊にそのイメージを伝える為に編み出されたものだ。

 故に、自らの力のみを使う人外の者は当然、詠唱文を声に出して読み上げるなどという手間を態々掛ける必要がないのだ。

 ただ、魔法を発動する際に用いる行程は同じなので、正確には詠唱が不必要なのではなく、ごく僅かな時間で必要な情報を自己処理している――実際に魔法の研究者が、人語を介せる者に聞いた話だ。閑話休題――だけで、魔法の発動を阻止すること自体は出来るのだが(これは、実際にアレン達も体験していた)。

 向けられる視線は無視して、ノアは左手の刀を構える。

「兎に角、昇華魔法も効かない以上、奴を倒すには上級魔法を喰らわせるしかない。確か時間くらいは稼いでくれるんじゃなかったか?」

「うっ……」

 嫌なところを突くなよ、とアレンは苦い顔をした。 

 決して褒める訳ではないが、実際、思った以上にあの尻尾が厄介だった。ヴリトラ自身の体長ほどもある長く太い尾は鞭のように変幻自在で、どの角度から斬り付けても確実にアレンの剣を防いでくる。さらに炎を帯びたその威力は強大で、地面には既に、何ヵ所もの凹面が出来ていた。

「……つっても、やるしかないんだよなぁ」

 溜め息を吐き、撥ねッ毛ばかりの頭を掻く。

「まぁ、普通にやっても通用しないみたいだし……」

 あまり気乗りのしない声を出して、金色の柄を両手で構えた。

「出し惜しみは、終わりにすっか!」

 直後、アレンの身体を、より強い金色こんじきの光が覆った。

 ――駆け出した、と言えるのかどうか。

 ヴリトラの正面に、突如アレンが現れた。

 無論、瞬間移動した訳ではない。その類いの魔法がない訳ではないが、それはアレンには使えない。アレンはただ純粋に、地に足を着けて走ったのだ。それが消えて見えるほどに迅かった、のことだった。

(ほう、いつの間に……)

 その光景を目で追っていたノアは、心中で感心していた。

 視界に映るアレンが使っているのは、以前ノアが模擬試合や鍛練で使った、上級の肉体強化だった。ほんの二週間前までは使えなかった魔法を、残り僅かだったとはいえ、習得していたとは思わなかった。

 だが、上級の肉体強化だけで倒せるほど敵も甘くはない。そうでなければとっくにノアが実行している。当然アレンもそれは解っているだろうから、とりあえずノアは様子を窺う。

「でぇりゃあッ!」

 ヴリトラの正面へ現れたアレンは、加速の勢いを利用して顔面へ剣を振り下ろした。

 幾ら迅いと言っても所詮は正面からの攻撃。当然、それは易々と例の鞭のような尻尾の先端に防がれた。

「まだまだぁッ!」

 しかしそれは予測の範疇。アレンはそのまま、高速の連撃を叩き込んでいった。

 それらは軽々とヴリトラにガードされていくが、

「はぁッ!!」

 一際強い一撃を放つと、ほんの一瞬だけ、ヴリトラの尻尾が怯んだ。

「そこだ!」

 瞬間、素早く尻尾がカバー仕切れていない身体の側面へ廻り込み、

「【龍閃衝りゅうせんしょう】!」

 横腹から背中に掛けて、飛び跳ねるように胴体を斬り上げた。

 鱗をなぞるように斬り付けていく刃が輝き、上空へ向けて巨大な光が放たれた。

 さながら、天駆け昇る龍の如く。

 今まで痒がりもしなかったヴリトラから、雄叫びのような悲鳴が上がった。

「ぃよっしゃあッ! ――ってうぉわっ!?」

 アレンはざまぁ見ろとでもいうようにガッツポーズを取ったが、尻尾が襲ってきたので慌てて転がり避けた。

「――んにゃろう、まだピンピンしてるし……!」

 直撃を喰らった筈のヴリトラは確かに痛がってはいたが、どうやら深刻なダメージは受けなかったらしく、寧ろ怒り心頭といった風に尻尾を振り回し、炎の吐息を荒らげていた。

「だったらもう一丁……!」

「アレン」

 再度斬り掛かろうとすると、不意に後ろから声が掛かった。

 直感的に、嫌な予感がした。

「上手く避けろ」

「ちょっ――!?」

 嫌な予感が、言葉となって的中した。

 そして、それは実際に襲い掛かる。

「消し飛べ。【冥釜の叫喚ヘイディーズ・シュリーク】」

 怒りを露にしているヴリトラの真上に、直径五メートルほどの漆黒の魔法陣が顕れた。

 妖しい輝きを帯びた魔法陣は、真下へ向かって素早く漆黒の円を降ろす。すると、空中の魔法陣と向かい合う形で、地表にもう一つ魔法陣が浮かび上がった。

 内にヴリトラを閉じ込めるように挟み込んだ天地の円陣が、より一層強く、妖しい輝きを放ち始める。

 暗い稲妻が一筋、駆けた。

 直後、闇のいかずちが大地を蹂躙じゅうりんした。

 魔法陣が挟んだ空間に、雷雲の中へ突っ込んだように、闇色の雷が迸った。

 悲鳴、否、絶叫のような雷に空間が裂かれ、細かく砕かれたヴリトラの炎で焼け焦げた大地が、重力を失ったように宙を舞う。

 やがてその空間全てが、闇に飲み込まれた。

 それでもなお、闇の雷は迸る。そこに存在する愚者を断罪せしめる、裁きの雷のように。

「……フン」

 左手に構えた刀を降ろしたノアが、短く鼻を鳴らした。

 と、

「『……フン』、じゃねぇっ!!」

 いきなり下から、ぬっとアレンが現れた。

「だからなんでギリギリに言うんだよ!! あれか、さっきの『消し飛べ』は俺に言ったのか!?」

 危うく雷の嵐に巻き込まれるところだったアレンは、額に青筋を浮かべて詰め寄った。

 それに対し、ノアは小さく溜め息を吐く。

「理由は前にも言っただろう。心配するな。断じてお前には言っていないし、上級の肉体強化ならあの程度では死なん。それに、結果的に避けられただろうが」

「なんでちょっとうっとおしそうなんだよ! フリでもいいからちょっとぐらい悪びれようとしろよ!」

「……ちっ」

「あーっ! 今舌打ちしたろ!」

 叫び喚くアレンは無視して、ノアは前方へ視線を向ける。

 正面では、砕かれて宙に浮いた土が重力に従って地面へ落下したことで、土煙が巻き起こっていた。

 憤りを落ち着けて、アレンもそちらを窺う。

「やった……わけねぇよな」

「流石に、あれを喰らって無傷という事は無いだろうがな」

 希望や願望は持たず、二人はただの現実として推測した。

「そういや、やけに詠唱終わんの早くなかったか?」

 ふと、アレンが思い出したように訊ねた。

「あぁ、少し〝裏技〟を使ったからな」

「裏技?」

 どうでも良さげな声にアレンは不思議そうに訊き返したが、

「……お喋りはここまでだ」

 それには答えず、ノアは刀を構えた。その視線の先で土煙が晴れていく。

 不意の攻撃にも反応出来るよう、アレンもさらに警戒心を強めて身構えた。

 が、

「………?」

 現れたのは、黒。

 つい先程まで焔に燃えていた蜥蜴は、今や光沢のない黒の鎧に身を包んで息を荒らげていた。

 そして相も変わらず炎の涎を垂らす両顎に、徐々に炎が渦巻いていく。

「……なんか、すげぇ嫌な予感がするんだけど?」

「……同感だ」

 顔を引き攣らせた言葉に同意が為された直後。

 圧縮された熱線が、爆発音のようなものを後へ残し、放たれた。

「――あっぶねぇ!?」

 発射の直前から動いていたにも拘わらず腕を掠めたアレンは、後方へ視線を向ける。一直線に放たれた熱線は、二人の背後にあった硬い岩壁を溶かし、大きな風穴を穿っていた。

「おいおい、洒落んなってねぇぞ!?」

「来るぞ」

 嫌な汗が頬を伝う間もなく、第二射が放たれた。

「うぉわっ!?」

 慌てて跳び退いたアレンの目の前を、再び熱線が通過した。さらに第三、第四射と、大量に凝縮された熱量が次々に襲い掛る。 

「わっ、とっ、おわっ!?」

 飛んだり跳ねたりしてそれらをギリギリで避けていきながら、アレンはなんとか反撃の機会を窺うが、

「――んな暇、ねぇって!」

 一発撃つ度に若干の溜めがあるものの、こう次々と超高速を誇る超熱量光線が撃たれては躱すのが精一杯だった。

「だいたい、なんで、俺ばっか、狙うんだよっ!?」

 先程から、熱線は何故かアレンにばかり向かってきていた。一体自分が何をしたのかと不満をぶち撒けるが(最初に攻撃を入れたことが原因という可能性については露ほども考えない)、とはいえ、それならそれで自分の役割ははっきりしている。

「ノア、まか、せたっ!」

 器用に身をくねらせて熱線を躱しながら、アレンは途切れ途切れに叫んだ。熱線が全て自分に向かうのなら、必然的にもう片方は自由に動ける。それを利用しない手はない。あとは、離れたところに居るリオン達と熱線の軌道が重ならないよう注意しながら、ひたすら躱すことに集中するだけだった。

「言われずともそのつもりだ」

 それを理解していたノアは、既に大きく廻り込んでヴリトラの懐数メートルというところまで迫っていた。

(……、といった処か)

 疾走しながら思考し、それでも惜しみなく魔力を練る。

〈我、偉大なる紅月の宵に求める〉

 熱線を放ちながら、ヴリトラが黒く長大な尻尾を巧みに操り、叩き付けてきた。

 ノアは高く跳躍してそれを躱し、空中で右に差した鞘へ素早く刀を納め、構える。

「【千襲万撃の悪夢ナイトメア・レイド】」

 金属が鋭く滑る音と共に漆黒の魔法陣が顕れ、おびただしい数の赤黒い剣尖が放たれた。

 その数や、百――否、それ以上。

 千にも及ぶ魔力の剣山が、次々とヴリトラへ襲い掛かった。

 理性を失いながらも闘争本能と共にある知性が危険信号を発したのか、焔の蜥蜴は吐き出し続ける熱線を止め、光沢のない黒い尾を構えた。

 まるで別の生き物のようにうごめく黒い尾は、怯むことなく一挙に押し寄せる剣の波を一つ残らず叩き落としていく。

「悪いが……」

 宙に身を預けるノアが呟いた。

「それはだ」

 呟きに呼応するかのように、赤黒い剣を吐き出し続ける漆黒の魔法陣を始点として、九つ、魔法陣が円を描いた。

 そこから生まれ出ずるは、さらに九つの、千のつるぎ

「放て」

 冷気すら感じる声を銃爪ひきがねとして、放たれた。

 襲い来る十つの剣山に対し、山脈を震わせる咆哮を上げたヴリトラは、長大な尾を駆使して全て叩き落としていく。

 だが、万もの剣瀑に僅か一本の竜尾。無論防御が追い付く筈もなく、

「――――ッ、――――――――!!」

 圧倒的な物量の差に、押し潰された。

「すっげ……」

 背筋に寒気を感じながら、アレンは思わず苦笑いを零した。

 先程の黒い雷といい、幾ら上級魔法とはいえ詠唱破棄したとは思えない威力を誇っていた。ノア曰く〝裏技〟らしいが、どうにも気になる。

(……っと、そんな場合じゃないか)

 すぐに思考を切り替え、着地して刀を納めるノアを横目に様子を窺った。

 ――突然、

「「!!」」

 降り注ぐ剣山が、全て吹き飛ばされた。

 吹き飛ばしたのは、猛る炎。

 これまで見たどの炎よりも荒く、どす黒い炎だった。

 それに気を取られたほんの一瞬の隙に、

「―――ッ!!」

 炎の中から光沢のない黒い尾が現れ、ノアを弾き飛ばした。

「ノア――ッ!」

 突然ノアが岩壁に激突したと思ったら、今度は自分へ向けて黒い熱線が放たれた。

(やべ――)

 回避が間に合わず、熱線はアレンごと岩壁を破砕した。



「お兄ちゃん!」

 離れた場所でアクアとリオンと共に居たイリスが、崩れ落ちた岩壁へ駆け出した。

 全くの、無防備なまま。

 咆哮が炎となって、再びヴリトラの顎へ集い始める。その矛先は――

「――危ないっ!」

「ッ!!」

 危険を感じたリオンが咄嗟にイリスへ飛び付いて伏せた直後、岩をも穿つ熱線が二人の僅か頭上の大気を貫いた。

 尋常ではない熱気が周囲を包む。リオンの暗緑色の髪の毛が少し焦げたのか、嫌な臭いが漂ってきた。下敷きになってきつく目を瞑っていたイリスは、恐る恐る瞼を持ち上げる。

「あ、ありがと、リオン……」

「何やってるんですか! 考えなしに飛び出すなんて狙ってくれって言ってるようなもんですよ!?」

 予想外の怒声に、イリスは思わず大きく肩を震わせた。

「ご、ごめんなさい……」

 シュンとなったイリスに短く息を吐き、リオンは覆い被さっている身体を退ける。

「とにかく、アクア先輩を置いたままじゃ――」

 起き上がろうとした、その時、

「!!」

 第二撃が発射された。

 殆ど条件反射で、リオンは右手を構えるが、

(防御魔法、いや間に合わ――)



 迫る熱線が、二人の数歩手前で突然消えた。



「!?」

 何が起こったのか理解出来ず、リオンは目を見開いた。

 外れたのではない。消滅したのだ。熱を持った鉄棒を水に浸した時のような音と共に。

「これは……」

 よく見ると、目の前に透明な幕のようなものが出来ていた。僅かに躊躇いながら、指先でそっと触れる。

(水……っ!)

 気付いて、先程まで居た場所へ急いで目を向けた。

「アクア!」

 リオンの代わりに、イリスが叫んだ。

 先程まで眠っていたアクアが、右手を構えたまま立ち上がっていた。

 ただ、

「?」

 どうにも、様子がおかしかった。

 窮地を救ってくれた少女には、常の全てを赦してくれるような優しく暖かい微笑みが一切あらず、虚ろな紺青色の瞳はどこを見るでもなく、ただぼんやりと虚空を眺めていた。寝惚けている、という訳ではなさそうだ。

 それに眉をひそめ、二人が声を掛けようとすると、

「……来る」

「「!!」」

 小さな呟きに従うように、高速で大気を震わせる轟音が来訪した。

 ――否。

 鼓膜をつんざく雄叫びが、苦痛を以て岩山に轟いた。

 現れたのは、音ではなく炎。

 ヴリトラのどす黒い炎を喰らい尽くすように、燃え盛る炎が山頂へ続く道から疾走してきたのだ。

「あ……」

 イリスはそれを、随分と久しぶりに見たような気さえしていた。

 実際、それは気の所為だった。

 を見るのは、初めてなのだから。

 暖かく、力強く、自分が知る中で一番優しい、この緋色の炎は。

 それが意味するところを安堵の心が捉え、歓喜の心が震える。

 堪え切れず、泣くように叫んだ。

「シャルッ!!」

 山頂へと続く道から、現れた。

 黒い制服からポニーテールで綺麗に纏めていた筈の緋色の長髪まで全てボロボロだったが、それでも炎のように凛とした瞳を宿し、背中に濃い茶髪の少女を背負いながら。

 ゆっくりと、力強く、歩いてきた。

 その少女は三人の傍までやって来ると、力強さを帯びた瞳のまま、柔らかく微笑んだ。

「ただいま」



    †   †   †



 炎が燃え、黒い蜥蜴の悲鳴が響く中、その空間のみ静寂が支配した。

 シャルはそれに首を傾げる。

「……? 何よ、どうかした――」

「シャルぅーっ!!、ステラぁーっ!!」

 勢い良く、イリスが飛び付いてきた。

「ちょ、ちょっとイリス! ステラが落ちるっ!?」

 面食らったシャルは慌てて宥めたが、

「――ホントに、っ、無事でよかったよぉ……!」

 一瞬キョトンとすると、小さく微笑んで胸にある銀色の頭を優しく撫でた。

「ごめんなさい、心配掛けて」

「シャルちゃん」

 不意に、声が掛かった。

「アクア……」

 そこには、常の通りに微笑むアクアが居た。

 再び、少しだけ沈黙が流れる。

 話したいことは沢山ある。というより言うべきことは一つなのだが、何度言っても足りない。

 しかし、どこか強いるような紺青色の瞳を見て、小さく息を吐いた。

「アクア、ステラの治療をお願い」

「――うん!」

 珍しく、弾けるような頷きだった。

「あ……アクア先輩……良かった、御無事で……」

「ステラちゃん、今は喋っちゃ駄目だよ」

 地面へ降ろされて弱々しく微笑むステラを宥めたアクアは、全身を触って怪我の具合を確かめる。

「酷い怪我……熱もある……」

 脇腹の裂傷に加え、全身打撲、いや、肋骨など数ヶ所は折れていた。

 目を赤く腫らしたイリスが、アクアの向かいへ腰を降ろす。

「アクア、わたしも手伝うよ!」

「じゃあ、イリスちゃんは骨折箇所の治療をお願い。わたしは脇腹の傷を塞ぐから」

「うん!」

 役割を分担し、二人は同時に詠唱を始めた。

「とりあえずステラは大丈夫ね。リオン、三人をお願いね?」

「あ、はい……!」

 すっかり元気になったイリスやアクアに面食らったのか、リオンは慌てて頷いた。

(……たったの二人、いるのといないのとでこんなに違うんだ)

 きっと、誰が欠けても駄目なのだろう。

 アレンもシャルも、イリスもアクアも、ステラや、ノアでさえ。

 誰かが居なくなれば、皆が全力で探し出す。居なくなった方も、皆を信じて前へ進む。

 想い方は違っても、想う心は皆同じで、

 それが――

(人間で、仲間……)



「……で、」

 ステラを任せたシャルは、すっかり荒れ果てた華畑の土を踏み鳴らした。

 すぅっ、と一息。

「――あんた達! いつまで寝てんのよ!」

 崩れた岩壁の瓦礫へ向かって、怒鳴り付けた。

 すると、

「――ふんっぬ!」

 勢い良く瓦礫を蹴飛ばす音に続いて、土埃に塗れたアレンが現れた。

「あぁ~! 痛ってぇなぁ、もう!」

 鼻息を荒くして服をはたく額には、青筋が浮かんでいた。

「ノア、無事か!」

「……右腕が骨折したのを、無事と言うのならな」

 同じくボロボロになったノアが、利き腕で瓦礫を退けて返した。

「あんたら、情けないわねぇ」

 あまりの不甲斐なさに、シャルは腰に手を当ててやれやれと溜め息を吐いた。

「――って、シャル!? いつの間に合流したんだよ! ってか無事だったのか!」

「……あんた、私の声に反応したんじゃなかったの? まぁ良いけど」

 今更のように驚いているアレンに、思わず額にも手を当てた。

「そんな事より、あれ、とっとと片付けるわよ」

 クイッ、と親指で差した先は、未だ炎に包まれているヴリトラだ。

「や、でもあいつすげぇ厄介でさぁ……」

「だから私も加勢してあげるって言ってんのよ」

 実際に戦っていないシャルがあまりにも軽く言うので、流石のアレンも溜め息を吐く。

「加勢って……お前の炎効かないだろ。それでどうやって……」

「あんたね、耳まで腐ったの? 良く聴きなさいよ」

「?」

 言われて、アレンは初めてその場に響く音へ耳を傾けた。

 炎の燃える音を掻き消すように、耳障りなヴリトラの咆哮が轟いている。と思ったが違った。

 咆哮と思っていた音は、焔の蜥蜴の、炎に灼かれる悲鳴だった。

「効いて、る……?」

「ほら見なさい、言った通りでしょう?」

「いや、っていうかお前、その、」

 にわかには信じられない事実に、アレンは言いたいことが上手く伝えられない。

「不完全魔法症は如何した?」

 代わりに、ノアが訊ねた。

「治ったわ」

「治った、ってお前……」

「もう、しつこいわよ!? 治ったって言ったら治ったの!!」

 それでもまだ信じられない様子のアレンを、シャルはまっすぐに見つめる。

「もう、よ」

「……っ、……そっ、か……」

 訴えるような緋色の瞳に言わんとしていることを察して、アレンは安心したような穏やかな表情になった。

「よし! んじゃあやるか!!」

 そしてすぐに、いつものようにニカッと笑った。

「やるのは良いが、如何する? あの黒いのになってから上級魔法も効かなくなったぞ」

「うっ……」

 折角やる気を出したのに、ノアから水を差されてアレンは声を詰まらせた。だが確かに、そこが問題だ。

 魔法耐性だけではない。あの状態になった途端、全ての能力値が段違いに跳ね上がっていた。先程の黒い熱線にしても、咄嗟に身体を覆う魔力を高めたことで風穴は空かずに(というより溶かされずに)済んだが、代わりにかなりの魔力と体力を消耗してしまった。

 状況は、依然として不利か。

「せめて前の状態に戻せたらなぁ……」

「出来るわよ?」

「えぇっ!?」

 あっさりとシャルが返した。

「あれって、黒い靄みたいなのが集まってなったんでしょう?」

「あぁ、多分な」

 土煙で見えなかったが、ヴリトラの身体を這っていた靄が見当たらないということはそうなのだろう。何よりも、あの靄と同じ嫌な感じが、今はヴリトラの全身から伝わってきていた。

「だったら、強力な攻撃をぶち込んでやれば剥がれるわ」

「あのな、だからその強力な攻撃をどうするのかが問題なんだよ。ノアの上級魔法も効かねぇんだぞ?」

 解決策を実行する為の解決策が必要という、如何いかんともし難い状況だった。

「私の炎は効いてるじゃない」

「あ」

 意外と早く、解決した。

「私があの黒いのを剥ぐから、その隙にあんた達が止めを差しなさい。すぐに戻るからタイミングは間違わないでよ?」

「あ、あぁ……にしても」

「何よ?」

 頷きながらも何か言いたそうなアレンに、シャルは眉を寄せる。

「いや、やけに詳しいなって……」

「あぁ、さっき似たようなのと戦ったもの。まぁあっちはガルムだったから一発で剥がれてくれたけど、流石にこっちはそうもいかないみたいね」

「へ、へぇ……」

 何か言い知れない自信がシャルにみなぎっている。アレンはそんな気がした。

「さてと……ノア、あと何回いける?」

「悪いが、あと一発で打ち止めだな」

 折れた右腕をぶら下げながら、ノアは左手を軽く握ったり開いたりして答えた。

「そっか。俺もさっきの攻撃防ぐのに殆ど魔力持ってかれちまったから、そんなに余裕ねぇな」

 満身創痍とはこのことかと、アレンは苦い笑いを零した。

「ここはやはり……」

「お互い、次の攻撃に全力を、だな!」

 示し合わせて、左右へ散った。

「シャル、頼んだぞ!」

「任せなさい!」

 返したシャルは、高鳴る鼓動を抑え切れずに居た。

(ここまでなんて、思わなかったな……)

 誰かの、大切な人の力になれることが、こんなにも嬉しいだなんて、思わなかった。嬉し過ぎて、つい笑みが零れてしまう。

 それを隠すことなく、両手を頭上へ掲げ、目を閉じて祈る。

(また、力を貸してね)

 心の中で囁き、研ぎ澄まされた感覚を一つの形へ纏めていく。

 想像するのは、力強い羽ばたき。

 嵐の中に吹き付ける雨風でさえおのが〝力〟へ換え、優雅に、凛然と舞う炎。

 それを、今や内側から溢れ出さんばかりに漲る魔力で、創造する。

「っ!」

 不意に、ヴリトラの身を包む炎に訪れた変化を察知して再び前を見た。

 炎が渦を巻き、中心が黒く染まっていく。

「シャル!」

「大丈夫!」

 警戒の声を制した直後、黒い熱線が放たれた。

 大気を喰らう熱量の束が、容赦なくシャルへ襲い掛かる。

〈お願い〉

 呟きに導かれるように、突然炎の壁が顕れた。

 立ち塞がる炎壁に破壊の黒閃が衝突し、激しくぶつかり合う。

 一瞬、熱線が僅かに炎に押し勝ったように見えたが――

 勢いの増した炎に、津波に飲み込まれるように掻き消された。

〈ありがとう〉

 猛る炎へ微笑んで、シャルは再び目を閉じる。

 閉じる際に、炎の壁から火の粉が爆ぜた。



 駆け出したノアは、タイミングを計りながら思考に耽っていた。

(……は、何だ?)

 瞳に映していたのは、炎。

 シャルが喚び出した、炎の壁だった。

(以前からあいつの炎には思う処があったが……)

 ノアの見てきた限り、シャルの炎は色々と魔法の常識をぶち壊していた。

 そもそも、殆ど属性変化のみで構成された不完全な炎が、下級とはいえ魔法生物である魔物に傷を与えるなど、本来ある筈がないのだ。

 仮に、シャルが常人離れした魔力を持っていて(春先に行う身体測定では魔力も測定するのだが、彼女の個人情報など毛ほども興味のないノアはその結果を知らない)、その影響で通常ではあり得ないほどの魔力があのただ垂れ流しただけの炎に籠められていたとしよう。

 それならば、かなり強引だが無理矢理納得出来る。本当に無理矢理だが。

 それに比べれば、あの炎の壁は完全な形で構成された、定義されるところの魔法であることは確かだった。

 しかし、

(寧ろ、此方こちらの方が有り得ん)

 自分のような〝裏技〟をシャルが持っていたとしても、それでもなおあり得なかった。

 で、あれほどの威力を持った魔法を放つなど。

(一体どういう理屈で……いや、そもそも可能なのか?)

 自分の〝裏技〟は条件付きの詠唱破棄のようなものだし、オリジナル魔法故に詠唱不要なアレンの〝剣技〟でさえ、魔法名(アレンは技名と呼称している)を唱えなければ充分な威力は望めない筈だ。

 だがシャルが喚び出した炎の壁は、詠唱も、詠唱破棄もなく、魔法名すらも唱えず、岩をも穿つヴリトラの熱線を飲み込んだのだ。

(……ヴリトラか)

 ふと、思い至った。

 魔物は、ごく僅かな時間の詠唱こそすれ、魔法名など唱えない。それは精霊の力を借りる人間と自身の魔力のみを扱う魔物との、決定的な違いでもある。

(魔法名の無詠唱……確かに可能ではあるか。しかし、)

 それはあくまで、魔物の話だ。人の身である以上、魔法名の詠唱は必須である筈なのだ。

(……調べてみる価値はあるか)

 世界には、自分の知らないことの方が多いと理解しているつもりだった。だが実際に直面すると、どうにも認識が甘かったことを痛感する。

(全く以て、奥が深い)

 世界には、まだまだ未知の領域が広がっている。それを改めて実感したことで、自身の持つ知的好奇心が静かに、激しく揺れ動いているのを感じた。

 と、

「!」

 黒い炎弾が数発、襲い掛かってきた。見ると、ヴリトラが熱線を吐きつつも、身体を覆う黒い炎からそれらを射出していた。

(器用な真似を……)

 躱しながら、すっかり当面の問題から思考が外れていたことに気付いた。

(いかんな、悪い癖だ)

 頭では解っているつもりなのだが、それでもつい思考の海へ潜ってしまうから悪癖と呼ぶのだろう、と心中で自嘲した。

 とはいえ、一度気付いて再び潜るほどこの悪癖も性質タチが悪くはない。

 再び襲い来る炎弾を避けて、自身の状態を再確認する。

(右腕は……駄目だな。せめて魔法で固定したい処だが流石に魔力が足りない)

 昨日からの不眠不休と〝裏技〟二発、何よりも、先程の攻撃を喰らって壁に激突した際、ダメージを軽減する為に魔力を使い過ぎた。

 本当に残り上級魔法一発、それも〝裏技〟なしで放つ分しか残っていなかった。

(時間は掛かるが、仕方が無いか……)

 決断して、腰に差した鞘を口で咥えると、

「っ」

 左手と口で少しだけ刀を抜き、振り払うように鞘を投げ捨てた。

 そして、ことばを紡ぐ。

〈大いなる闇、その偉大なる支配者よ。我が声に応え、其が力の一端を授け給え〉

 魔力が、脈動する。



「ステラちゃん、もう少しだけ、頑張って」

 ステラの治療を続けるアクアは、懸命に呼び掛けながら魔力を絞り出していた。

 その向かいで治療を行うイリスも惜しむことなく魔力を使うが、

(おかしい……)

 不可解な現象に、眉をひそめていた。

 全身ボロボロだったステラの身体は、懸命な治療の甲斐あって五割方は回復した。

 、そこまで回復していたのだ。

(いくらなんでも早過ぎる。もっと時間が掛かると思ってたのに……)

 怪我の具合と自分達の使える(イリスは制限されている中で)最も高位の治癒魔法の効力を計算に入れても、これほど早く治るとは思えなかった。

 しかも、

(ステラの身体に、ほとんど副作用が起きてないなんて……)

 ガーデンでの鍛練の際にも述べたが、治癒魔法とは対象の自己治癒能力を無理矢理高めるだけで、万能の治療法などでは決してない。傷の深さとそれの治癒する速度に比例して、頭痛や高熱など、何かしらの副作用が発生してしまうのだ。それは六年前、致命傷を負ったアレンも体験している。

 しかし、ステラには一向にその兆候が見られなかった。あの怪我をこれほど短時間で治したというのに、信じられない現象だった。

 つまるところ、これはステラの回復効率の、異常なまでの良さを示唆していた。回復効率が良ければ、比較的軽度の副作用、若しくは発生率自体を低下出来るのだ。

 だがそれは、治療する側の魔力に大きく左右されることとなる。

 治癒魔法は、被治療者の体内魔力を治療者の放出する魔力という全く別種類の魔力が刺激することで魔力反応を起こし、自己治癒能力を向上させる。治療者本人に治癒魔法を使えないのはその為だ。

 そしてこの魔力反応の規模によって、回復効率が大きく変わるのだ。反応が大きいほど自己治癒能力が高まり、その揺れが激しいほど副作用が起こり易くなるといった具合に。

 この魔力反応の規模を如何に大きく、如何に穏やかに出来るかがなのだが、それには非常に高度で繊細な魔力の性質変化が要求され、熟練の使い手ですら難しいとされている。

 事実、この中の誰よりも魔法に長けているイリスでもその作業は至難を極め、イリスの知る限り最も優秀な使い手ですら副作用を完全に取り除くことなど出来はしなかった。

 だというのに、だ。

 疑念を抱えながら、イリスは視線を向かいへ移した。

 正面に座る紺青色の少女は、ただ一心不乱に魔力を注いでいた。普段穏やかなその瞳に、覇気のようなものすら感じる。

「アクア……?」

 出すつもりのなかった声は、聞こえなかったようだった。



「のわぁーっ!?」

 ノアと同じく駆け出したアレンは、黒い炎弾の嵐に見舞われていた。

「~~っ! あの野郎、絶対俺を目の敵にしてるだろ……!」

 飛び散った石にぶつけた頭を押さえながら、涙目になってぼやいた。心なしか、向かってくる炎弾の数がノアより多い気もする。

 と、熱線と炎弾を吐き出し続ける蜥蜴を恨みがましく睨み付ける傍ら、視界の端に炎が映った。

(『もう、』、か……)

 言葉通りの意味を捉え、声に表さなかった言葉も捉える。

 シャルは、物事にいて、極力他人の手を借りたがらない。

 強がり、という訳ではない。自分で出来ることは自分でやる。それが彼女という人間の性質なのだ。

 ただ、本人に自覚はないが、往々にして無茶をすることがある。そんな彼女を護る為に――

(……違うだろ)

 そんな彼女を、武術の授業でなんとなく選んだだけだった剣を、本気で手に取ったのだ。

 もう二度と、あんな泣き顔を見ない為に。

 あんな涙を流させた、せめてもの償いとして。

 それを踏まえたうえでの、「大丈夫」なのだろう。

(もう、気にするなってか)

 もう、後ろで護られるだけじゃない。

 暗い部屋でうずくまって泣いていたあの頃とは違う。

 だから、もう責任を感じることはない。

(そうだ、やっとあいつの願いが叶ったんだ)

 六年もの苦しみから、ようやく解放されたのだ。そしてそれは、自分の願いでもあった。

(これでいい。悪い理由がどこにあるんだよ)

 しかし、ではこの心の中のモヤモヤは何なのだろう?

 この、喪失感にも似た、胸の辺りが狭くなる感覚。

 そう、これは――

「――ッ!!」

 自分の思考に驚愕し、心中で頭を掻き毟った。

(何考えてんだよ俺は!?)

 本気で自分を殴りたくなった。

 そう感じることなど、あってはならないのだ。

 は酷く傲慢な考えで、彼女の意思を無視した単なる我が儘なのだから。

(これでいいんだ。あいつが笑えるんなら、これが一番に決まってる)

 頷いて、右手の黄金色に輝く柄を強く握る。

 黒い炎弾が再び群れを成して飛び掛かってきた。それを躱すと、アレンは残り僅かな魔力を剣へ収束して、地を蹴る力を強めた。

(これで、いいんだ……!)

 惑いは、心の奥底へ身を潜めた。

 ふと、

「……なんだ?」

 炎弾の嵐が突然止んだ。

 不可解な行動に、アレンは顔を顰める。すると、ヴリトラの身体を覆う黒く禍々しい炎が、突如勢いを増した。

 いや、

「なっ!?」

 増しただけではない。猛る炎の全てが、ヴリトラの正面へ集い始めたのだ。それと同時に、嘗てないほど強大な魔力が迸る。

「シャル、まだか!?」

 土が欠けて宙を浮くほどの魔力に焦り、未だ炎を放たないシャルに叫んだ。

 炎の壁の後ろで両手を天に掲げて佇む少女は、

「………っ、!?」

 目を閉じて、笑っていた。

 目の前に集う脅威など、初めから存在しないかのように。

 平穏な日常で、親しい友人達と過ごすように。

 大切な人達を、抱き締めたくなるくらい愛おしく感じた時のように。

 優しく、微笑んでいた。

「シャル!!」

 今までの何倍もの魔力の籠められた熱線が、強烈な爆発音を残して放たれた。

 直接触れていない筈の地面が進む先から抉れていく。

 大気に充満している酸素が余すことなく熱線の餌となっていく。

 妨げる筈の炎の壁は、いつの間にか姿を消していた。

 凝縮された黒閃が、無防備な姿を晒す標的を塵一つ残さず消し去るべく、迫った。



〈――そうなのよ。アレンてば本当に人の話を聴かないの〉

〈イリスはこれでもかってくらい食べるんだけど、あの子の料理は凄く美味しいのよ? えぇ、本当の妹みたい〉

〈アクアはいっつも笑ってるけど、偶に怒るとすっごく怖いの。ノアは……いっつも無表情で無愛想な奴よ〉

〈ステラはね、見た目とか言葉遣いは大人っぽいんだけど結構子供っぽくて泣き虫で、でも何度も助けられたわ。リオンはまだ良く解らないの。飄々ひょうひょうとしてるっていうか、掴み所の無い奴?〉

〈でも、皆私の大切な仲間よ。まぁノアは仕方無しにだけど〉

〈あっ、ねぇ? そういえば訊きたい事があるんだけど……〉

〈………分かった。ありがとう〉

〈これからよろしくね? ……ごめんなさい。これから、よね〉

〈それじゃ、行きましょうか〉

〈ヘスティア〉



 目を、奪われた。

 本当に、アレンはそれ以上の表現を思い付けなかった。

 力強く羽ばたく巨大な火の鳥が、見える景色全てを支配する。

 その色は、禍々しい黒が霞んで見えるほどに眩い、あか

 猛る炎から飛び散る火の粉まで、全てが愛おしむかの如く優雅に舞いを踊っているようで、

 緋きおおとりの尾羽根に撫でられる姿は、野に強く咲き誇る華のように気高く、

 羽ばたきを見送る表情は、触れると壊れてしまいそうなほどに可憐で、

 ただ、美しかった。

「今よ!」

 唐突に聞こえた叫びに、ハッと意識を呼び戻された。

 黒閃ごと緋色の鳥に飲み込まれたヴリトラが、雄叫びのような悲鳴を上げながら炎に包まれていた。

 慌てて、アレンは止まり掛けた足を駆り立てた。

 同じく刀を握って駆けていたノアが逆側から迫り、収束させた魔力を構築する。同様に、アレンも剣を構えた。

〈――開きしは冥界の扉、招きしは黒き闇〉

「【煌龍牙こうりゅうが】!」

 放たれた龍顎が、炎に包まれていたヴリトラの肉体を曝け出した。

 その鱗が放つのは、鈍く赤黒い輝き。

 そのまま、二人は一気に駆け抜ける。

 炎の中から放たれた炎弾がノアへ迫り、のたうち回る竜尾がアレンへ襲い掛かった。それらを、ノアは左へ、アレンは宙へと、それぞれ躱す。

〈其は深淵よりも尚深く、宵の闇より尚くらく〉

「【三日月みかづき】ぃ!」

 祈りが音となって響き、光が弧閃となって敵を斬り裂いた。

〈我が眼前に立ち塞がりし、如何なる者をも平伏せしめ〉

「ッ【龍閃衝りゅうせんしょう】!」

 魔力を帯びた漆黒の刃が、駆ける勢いはそのままに、後ろへと強く引かれた。

 着地と共に膝を落とし、飛び跳ねるように斬り上げた剣閃から、巨大な金色の光が天へと昇った。

〈闇を斬り裂く光さえ、その身を喰らいて糧と為し、愚者も聖者も皆すべて、滅びの宴へと誘わん〉

「【閃衝せんしょう――

 闇を纏う黒刃が、迸る魔力と共に放たれる。

 光と共に再び宙を舞ったつるぎが、大地へと鋭く振り下ろされる。



「【終焉の宴ディアボロス・ゲーティア】」

 ――龍臥りょうが】!!」



 初めに、漆黒の刀が鱗を貫いた。

 直後に、振り下ろされた剣が肉を裂いた。

 次いで、貫いた漆黒の剣尖から、直径十メートルほどの暗黒の球体が放出された。

 土を浮かせ、引き寄せるその力は、重力。

 景色が歪んで見えるほどの重力の塊が大地を飲み込み、ヴリトラを中心とした空間を圧縮していく。

 その黒球に引かれるように、天から稲妻の如く、金色こんじきの龍が駆け降りた。

 真下へ向かう落龍はより強大な重力を得て獲物を喰らい、標的を喰らった光は、黒き檻に囚われて飛散することなく中心に留まり続ける。

 そして、

 ―――――――――――――――!!

 圧縮された黒球が光と共に弾け、何倍ものエネルギーとなって爆発した。

 斬り付けてすぐにその場から跳び退いたアレンは、顔を打つ爆風へ手をかざす。

 やがて爆風が止むと、翳した手の向こうには巨大なクレーターが形成されていた。その中心、爆発の発生源たる場所に、命尽きた蜥蜴のみを残して。

「……やった、のか……?」

 今にも赤黒い瞳が覗いてくるのではないかと、アレンは警戒を残したまま呟いた。

 それを、片腕をぶら下げたノアが肯定する。

「今度こそ、な」

 その事実を確かなものとするように、シャルも頷く。

「やっと、終わったわ」

 しばらくして、ドサッ、と倒れる音がした。

「……終わっ、たぁ――!!」

 水中から飛び出したように、アレンは詰まる息を思い切り吐き出しながら叫んだ。

「やれやれ、だな」

 それを見たノアも、いつの間にか拾っていた鞘に納めた刀を突き立てて地面へ座り込んだ。流石に今回ばかりは疲れ果てたようだ。

 そんな二人に苦笑して、シャルは治療を続けるイリスとアクアへ歩み寄る。

「ステラはどう?」

「……もう、大丈夫です」

 意識はあったらしいステラが、首だけ動かして答えた。

「駄目だよステラちゃん、まだ動いちゃ」

「そーだよ。治ったって言ってもまだ全快じゃないんだから」

「あ、あはは……」

 即座にたしなめてきたアクアとイリスに、ステラは引き攣った笑いを零した。

「とりあえず、やっと一段落ですね」

 周囲を警戒しつつも、リオンは小さく安堵の息を吐いた。

「そうね……」

 頷いたシャルは、再び背後のアレン達へ視線を向ける。

 二人とも、今は疲労で立つことすら難しそうだった。ひとまず休息を取るべきと判断して、シャルは治療係の二人へ声を掛ける。

「二人とも、悪いんだけどあそこに転がってる馬鹿二人も――」



 突然どこからともなく鳴り響いた轟音に、言葉が遮られた。



「な、なんだ!?」

 飛び起きたアレンは、すぐさま巨大な穴を覗き込んだ。そこには息絶えたヴリトラが変わらず横たわっている。

「ヴリトラじゃない……じゃあこの音は――」

 答えは、すぐに現れた。

「!!」

 華畑を囲う岩壁の向こうから、突如として何かが上空へ飛来した。

 照り付ける陽の光を背に、飛翔する影は眼下を見下ろす。

 その一部が、紅い輝きを灯し始めた。

「―――ッ全員伏せて!!」

 シャルの叫び声が届いたのは、その輝きが影を隠すほどに膨れ上がった後だった。



 紅蓮が、放たれた。


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