第七話:『意志と責務』
―――ここは、どこ?
何も見えないそこは、暗く深い闇の中だった。
『――う、ぅ……』
暗がりから、女の子の声が聞こえた。
―――誰?
姿は見えない。ただ泣きじゃくる声だけが聞こえる。
『……ッ……どう、して……?』
―――どうして、泣いているの?
声が届いていないのか、返事はない。
『……もぉ、いやぁ……』
―――何が?
何故だろう。凄く胸が痛い。
『なんで、わたし……こんな、っ……』
―――ねぇ、泣かないで?
辛い。苦しい。痛い。まるで女の子の感情がそのまま流れてきているように。
『……やっぱり……わたし……』
―――お願いだから。
やがて、少しずつ闇が晴れていく。
そこに居たのは―――
† † †
火の大陸へ到着した翌日。
「それじゃあ、良い?」
「紅蓮華」採集の為に朝から宿を発ったアレン達は、目的地のキネリキア山までは距離がある為午前中は馬車で移動し、今は岩山の中を歩いていた。
「……せーのっ!」
ゴツゴツとした山道を進む一同が最初に何をしたかというと……。
「ぬわぁあああ! 外れたぁあああ!」
またしてもくじ引きだった。今度はアミダではなく細長い棒切れを引くタイプだったが。
「ホントあんたってくじ運無いわよねぇ」
何の変哲もない棒切れを持って頭を抱えるアレンに、先端の尖った物を持っているシャルが呆れたように言った。
「そういえば、去年の闘技大会の決勝トーナメントでもお兄ちゃん、いきなり準優勝した先輩と当たってたもんね」
「その前の年は、確か予選で優勝した先輩と当たってたよね?」
「うぅ……」
思い出したように苦笑したイリスと、同じく苦い微笑みを浮かべたアクアに、アレンはガックリと
「まっ、それじゃあこれで決まりね。ノア、どっちが先にやる?」
「………任せる」
シャルと同じく尖った棒切れを持ったノアは、さぞどうでも良さげに答えた。
「じゃあ私から先ね。私達が見本を見せたら今度は二人の番よ?」
言って、シャルは視線を後ろへ向けた。
「はい」
「が、頑張ります……!」
リオンは至って平然と、ステラは少し緊張した声を返した。
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ、ステラ。二人とも、魔物は初めてよね?」
「は、はい」
「あのー、僕は一応経験あるんですけど……」
苦笑するシャルにやはり緊張した表情で答えたステラの隣で、藍色のマフラーをこれでもかというくらいぐるぐるに巻き付けたリオンが、頬を弱く掻きながら言った。
「あら、そうなの? 戦闘の経験も?」
「えぇ、まぁ……」
「へぇ~。その歳じゃ珍しいな」
シャルを含め、アレン達も意外そうに驚いた。
「ふふーん……じゃあリオンには援護無しね」
「え゛っ……」
シャルのニヤリとした笑みにリオンの表情が固まった。
「良いじゃない。どうしてもヤバそうだったら助けてあげるわよ」
「……言わなきゃ良かった」
溜め息を零して項垂れたリオンに笑いながら、アレンは岩だらけの山道をヒョイヒョイ進む。
「やっちまったな、リオン。……にしても、キネリキア山って新しく開拓された地域のわりには近かったな。ヴァルカノから三時間くらいか?」
「何言ってんのよ。ここ、まだキネリキア山じゃないわよ?」
「へっ?」
アレンはシャルの何気ない一言にキョトンとした。
「お兄ちゃん、ここはまだウォール山脈の入口くらいだよ?」
やれやれと肩を竦めたイリスに続いて、アクアがくすくす笑う。
「火の大陸は、北部と南部の間にすごく大きな山脈の集合体があるの。その中の一つがキネリキア山脈で……」
火の大陸中央部には、広大な山脈群が存在する。その規模は大陸の実に三分の一を占め、北部と南部を隔てるように形成されたこの山脈群を通称ウォール山脈と呼び、キネリキア山脈はその北側に位置している。
七人を乗せた馬車は、道がある程度舗装された、山脈の入口を過ぎたところで一同を降ろしたのだった。
「要するにまだまだ掛かるって事。アレン、あんたまた馬車での話聴いてなかったでしょ」
シャルが懲りずに人の話を聞かないアレンをじろっと睨み付けた。
「いやぁ、今日は曇ってるから昨日よりは涼しいよなぁ!」
それから逃げるように、アレンは在らぬ方向へと顔を逸らした。
「まったく、この馬鹿はホントに……」
「あ、あはは……それで、ここからどのくらい掛かるんですか?」
悩ましげに額に手を当てるシャルに、リオンが乾いた笑いを零した。
シャルはギルドで貰った地図を広げると、少し考え込む。
「そうねぇ……キネリキア山に着くのは大体二日半ってとこかしらね。でも『紅蓮華』の採集ポイントはたくさんあるみたいだけど、三十キロも採れる場所ってなると山頂辺りまで行かなきゃいけないから、そこからさらに一日半ってとこかしら?」
「そんなに掛かるんですか?」
往復するだけで八日も掛かると聞き、リオンの声が少し大きくなった。
「だから私達だけ他の班より一週間も早く出発したんじゃない。ガーデンに帰るのも合わせるとほぼ二週間掛かるわよ?」
「……クエストって、大変なんですね」
クエストの過酷さを改めて思い知って憂鬱そうな声を出したステラに、アレンは苦笑いする。
「あー、あんまりこれを基準に考えない方がいいぞ? Sクラスだし。普通なら長くて一週間くらい――」
不意に、その言葉を止めた。
「……ノア」
「解っている」
常にないほど真剣な表情で呼び掛けたアレンに視線を向けずに頷いたノアが、漆黒の光の中から身の丈以上の長さの愛刀を手に取った。
「シャル、お前一人の予定だったけど俺たちもやるぞ。この数は……」
「来るぞ」
言葉を遮って、ノアが左手で刀を構えた。それとほぼ同時に、両脇にある崖の上から、茶褐色の狼型の魔物達が襲い掛かってきた。
「なっ――!?」
その数は、三十を優に超える。
「ガルムか! 行くぞ、ノア! シャル、援護頼む! イリスとアクアはステラ達を護ってくれ!」
しかしそれもほんの一瞬、アレンは他のメンバーへ指示を出すと、ノアと共にそれらを迎え撃つ。
「【
ガルムの大群が飛び掛かる中、小さな呟きと共に薙がれた刀の軌道に合わせて漆黒の刃が放たれ、飛び掛かってきたガルム達の勢いを殺していく。
「ナイス!【
素早く上下に振られた剣から放たれた二本の金色の光の刃が軌道上で交わり、その姿を巨大な龍の顎へと変えた。金色の龍に飲み込まれたガルム達が、次々と地面へ叩き落とされていく。
「いっ――!?」
しかし地に足を着けた瞬間、魔狼達は怯むことなく再び襲い掛かってきた。
「効いてないよ!?」
「危ないです!」
後方で驚愕の声を上げたイリスに続いて、ステラが悲鳴のように叫んだ。
「くそっ!」
躱し切れないと判断したアレンは、剣を構えて防御の姿勢を取る。が、
「退きなさい、アレン!」
「――ッ!」
不意に後ろから声が聞こえて、咄嗟に横へ跳び
直後、アレンの居た場所を紅蓮の業火が駆け抜けた。
燃え盛る火炎は、そのまま眼前のガルム達を焼き尽くす。
「これなら……」
ギリギリで炎を避けたアレンは、体勢を整えて頬に伝う汗を拭った。が、
「……おいおい、冗談だろ?」
全身に火傷を負いながら、それでもガルム達の膝は折れていなかった。
「流石に効いていない訳では無さそうだが、これは……」
ノアは再び刀を構えながら、敵の様子を窺う。
少なくとも、中級魔法レベルの攻撃が三発、確実に命中した。しかし、手前の何体かは少し
「これが、魔物……」
初めて見るその強靭さに、ステラが生唾を飲み込んだ。
「……変だよ、あれ」
ふと、その前方に居るイリスが呟いた。
「ガルムって下級の魔物だよ? いつもなら最初のお兄ちゃんたちの攻撃で終わってるのに……」
「数も、あんなに群れてるのなんて見たことないよね……」
その隣のアクアも厳しい面持ちをしていた。
「どういう事ですか……?」
「わかんない………けど」
言い淀むイリスの言葉を、
「普段より手強い、ってことですね」
ステラの隣に立つリオンが引き継いだ。
頷いたイリスは、前方で剣を構えているアレンへ向き直す。
「お兄ちゃん!」
視界にガルム達を入れたまま、アレンはイリスへ視線をやった。言わんとしていることを察して、ほんの一瞬だけ熟考する。
討ち漏らすつもりはないが、万が一この強さのガルムが自分達を掻い潜って後ろの四人へ向かってしまえば、今初めて魔物を見たばかりのステラと力が未知数のリオンに戦わせるのは危険過ぎる。
アクアは防御系統の魔法は得意だが攻撃系統は苦手なので、そうなると敵を迎撃出来るイリスをこちらの戦闘に集中させるのは
(……つっても考えが甘過ぎたか。予想より多かったけど、この三人なら初手で決められると思ったんだけどな………こうなったら)
自らの考えの甘さを再認識して、改めて作戦を練り直す。
が、
魔狼の群れが、突如一斉に吠えた。
「――やべぇ、避けろ!」
アレンは咄嗟に叫んで真横へ大きく跳び付いた。
直後、地面から鋭く尖った岩の棘が次々と突き出し、七人目掛けて一直線に
「こちらにも来ました!」
「大丈夫!」
慌てて剣を構えるステラ。その目前で、イリスが庇うように立ち塞がった。
「アクア!」
「うん!【
前方中空に顕れた紺青色の魔法陣から水が滝のように落ち、岩棘を塞き止める。
「【
透かさず、叫びと共に右手を突き出したイリスの正面に銀色の魔法陣が顕れ、一筋の閃光が水の壁ごと岩棘を貫き砕いた。
「凄い……」
完璧な連携でいとも簡単に攻撃を防いだ二人に圧倒されながら、ステラは感嘆の声を漏らした。
「くそっ、魔法の威力まで上がってんのかよ……」
それを目にしたアレンは、体勢を立て直しながら悪態を吐いた。
「作戦変更だ! シャル、イリスと交替してステラ達を守ってくれ!」
「ちょっと待ちなさいよ! 私じゃ――」
「理由はお前自身が誰よりも理解しているだろう」
噛み付くように声を張り上げたシャルを、ノアが温度の低いそれで制した。
「―――っ! ……分かったわよ、イリス!」
言葉を詰まらせたシャルは、自分に言い聞かせるように怒鳴って後退していった。
「……サンキュー、ノア」
「お前の判断は正しい。この状況では止むを得ないだろう」
「あぁ……ありがとう……」
察してくれる親友に、アレンはもう一度礼を言った。
「お兄ちゃん」
シャルと交替してイリスがこちらへやってきた。
「イリス、俺とノアが食い止めるから上級魔法を頼む」
「うん」
頷くイリスに、アレンは屈んで顔を近付ける。
(ノア達の知ってるやつ以外で詠唱破棄は使うなよ。最近は上級自体使ってないし、ステラとリオンもいる)
(うん、わかった)
「よし、頼んだぞ。行くぞ、ノア!」
しっかりと頷いた妹の銀髪を軽く撫でて再び剣を構えたアレンは、ノアと共にガルムの群れ目掛けて駆け出した。
「二人とも、分かってるとは思うけど肉体強化は解いちゃ駄目よ?」
後ろへ下がったシャルは、視線を前へ向けながらステラとリオンに注意を促した。
「それから、特にステラは武器が似てるからアレンとノアの動きを良く観察する事。予想外の事ばかりだけど、ぼけっとするのは時間が勿体無いわよ?」
「は、はい……!」
こんな時でも注意と向上心を怠らないシャルの言葉に気を引き締めて、ステラは注意深く前衛の二人の動きを観察する。
「アクア、さっきのより強いのが来る前に……」
「わかってる。上級魔法の詠唱、やっておくね?」
頷くと、アクアは目を閉じて小さく
「待機詠唱ですか?」
「えぇ、いちいち攻撃された後に詠唱してたんじゃ間に合わないもの。まぁ、攻撃が来る前に片が付けばそれが一番なんだけど」
訊ねたリオンに、シャルは少し眉根を寄せながら頷いた。
予め詠唱を完了させておくことで、魔法の詠唱に付き物の常に後手に回るというデメリットを回避する技術を、待機詠唱と呼ぶ。これは主に前衛で闘う戦士タイプ、魔導戦士タイプの者が詠唱破棄の修得が困難な上級魔法を攻撃の連携に使用する際に用いられるが、今回のように敵の攻撃を高位の魔法で即座に防ぐ為にも利用される。
「でも、なんで上級なんですか? シャル先輩もいるし、二人で中級を使った方が詠唱破棄も使えて消費魔力も少ないんじゃ……?」
もっともな意見に、シャルはさらに顔を顰める。
「水属性ほどじゃないけど、地属性と同系統の火もそこまで有効じゃないのよ。もしさっきの中級レベルよりも強いのが来たら、どっちかが上級を使わないと駄目ね」
「じゃあ、シャル先輩が使った方が相関関係的にいいんじゃないですか?」
「それは……」
それを言うなら風属性が得意な自分が使えば良いのだが、リオンは解っていて敢えてそこは切り出さない。
「シャル先輩?」
言葉を濁すシャルに怪訝な目を向けるリオン。しかしシャルが一向に答えようとしないので、すぐに前方の戦いへ意識を戻した。
ギリッ、と歯軋りが聞こえた気がした。
「――らぁッ!」
イリスが詠唱をしている間ガルム達を引き付けるというアレンとノアの手筈は、結果的に成功していた。
ガルム達は完全に二人を獲物に特定し、包囲していたのだ。
しかし、二人は三十体ものガルム達を相手に苦戦を強いられていた。
「くそっ、何なんだよこいつら!」
「魔法や耐久力も含めて、基本的な能力が中級の高レベルまで上がっているようだな」
互いに背を合わせて武器を構えながら、頬に付いた返り血を拭う。辺りには既にガルムの死体が何体か転がっていた。
「こりゃ、いよいよイリス頼みだな」
言って、アレンは若干引き攣りぎみに笑った。
「……来るぞ」
一旦様子を窺っていたガルム達が、再び襲い掛かってきた。
アレンは正面から跳び掛かってきた一体を、剣で攻撃を受け止めた直後に右足で蹴り飛ばした。そのまま、今度は右手から襲い掛かってきた別のガルムを回し蹴りで弾き飛ばし、その勢いを利用して別の一体を突き刺す。
「ッ!」
突き刺したまま、思い切り剣を横へ振ってその一体を別のガルムへぶち当てた。
「伏せろ」
「―――っ!」
不意に声が聞こえ、咄嗟に頭を低くする。
直後、頭上の空気が横一文字に斬り裂かれた。長いリーチを活かして弧を描くように薙がれた一撃は、その軌道上に居たガルム達を一気に吹き飛ばし、何体かを絶命させた。
「……シャルもそうだったけどさ、なんでお前らはいっつもギリギリになって避けろとか言うんだよ」
一歩間違えれば自分が餌食になり兼ねない援護に、アレンは抗議の言葉を放った。
「あぁ、お前がギリギリまで引き付けてくれると楽に仕留められるからな」
「囮かよ!」
非情の言葉に声を張り上げたアレンに、ノアは小さく溜め息を吐く。
「大体、お前は乱戦になると隙が出来易過ぎる。その尻拭いをしてやっているだけだ」
そんなことより、と続けて、ノアは周囲を見渡す。
「始業式での学園長の言葉を、憶えているか?」
「なんだよ、いきなり。始業式……?」
脈絡のない問いに、アレンは眉を寄せた。
「魔物の凶暴化についてだ」
アレンはハッと真剣な表情で息を飲んだ。
「……俺、寝てた」
「……なら、この話は無しだ」
あまりの間抜けさに、ノアからは溜め息すらも出なかった。さっさと刀を構える台詞は心なしか冷たい。
「ちょ、ちょっと待てって! 気になるだろ!?」
慌てて引き留めたアレンに仕方がないといった風に小さく息を吐いたノアは、背を預けたまま続ける。
「……近年、魔物が凶暴化しているらしいという事が、五大陸と『
「でも、今までのクエストじゃ普通だったぞ? いつからなんだ?」
眉を寄せたアレンに、ノアも頷く。
「話では六年程前から観測されていたそうだが、少なくとも前回の六者定例会の時点ではこれほどまでの例は確認されていなかっただろうな。でなければ、始業式の際にもっと警告する筈だ」
「……どっちにしろ、今回のクエストは結構やばそうだな」
アレンは剣を握る手に力を込めて、さらに気を引き締めた。
身構える二人に、残っている二十体ほどのガルム達がジリジリと距離を縮める。
(本能でわかってんのか、ノアの間合いを?)
ガルム達は、ノアの長大な間合いの僅か一歩手前で様子を窺っていた。
「はっ、来ないならこっちから……」
迎え撃つのをやめ、自ら攻撃を仕掛けようした、その時。
「――ッ! やべぇ、ノア! こいつら―――」
気付いた時には、既に手遅れだった。
ガルム達が再び大きく吠え、二人の周囲に幾つもの茶褐色の魔法陣が顕れた。
アレンは咄嗟に防御魔法を展開しようとするが、
「クソッ、間に合わ―――」
魔法陣から放たれた
† † †
アレン達の戦闘を後方で見ていたシャル達のうち、最初に異変に気付いたのはリオンだった。
「どうしたんですかね? ガルムたちが動かない……」
先程までの猛攻が嘘のように、茶褐色の魔狼たちは、今はただ低く唸るのみだった。
「多分、ノアの間合いが長いから迂闊に近付けないんでしょうね」
答えながら、シャルはイリスへ視線を向ける。
〈―――れ、解き放つ―――〉
詠唱が後半へ入ったようだ。イリスの魔力が徐々に高まっていくのが解る。
(この分なら、こっちは要らないかもね)
そう思った時だった。
「――シャル先輩!」
突然、リオンが嘗てないほどに叫んだ。
「まずいですよ、あれ!」
何をそんなに焦っているのか、シャルはリオンの視線の先を追う。その先で、ガルムの群れが未だ低く唸り続けている。
「一体どうした―――まさかっ!?」
気付いて、シャルは即座に瞳へ魔力を集中させた。
視えたのは、ガルム達の膨大に高まった魔力だった。アレンとノアはまだそのことに気付いていない。
「アレン!」
シャルはすぐにガルム達に炎を放たんと右手を掲げた。が、
(――駄目ッ! ここからじゃ二人に当たる……!)
二人を護るにはガルムだけに攻撃を当てるか、二人の周囲に結界を張る以外方法がなかった。
「……何で、こんな時にッ……!」
爪が食い込むほど強く拳を握り、歯軋りする。
(何か、何か別の……!)
しかし、考えている時間はなかった。アレン達の周囲に魔法陣が顕れ、無数の岩槍がその尖端を二人へ向けた。
「アレンッ!!」
直前で気付いた二人に防ぐ術はなく、岩槍の弾幕は無情にもその肉体へ襲い掛かった。
〈―――今此処に、彼の者達を護る盾と成らん!【
† † †
「………氷の、壁?」
攻撃が当たる瞬間に目を覆っていたステラが、その場を包む冷気を目の当たりにして呟いた。
無数の岩槍は、二人の周囲に顕れた、ドーム型の透き通った氷によって阻まれていた。
すぐに事態を理解して、シャルは隣へ顔を向ける。
「アクアぁ!」
「……ぎりぎり、間に合ってよかった」
泣きそうな声に、アクアがにっこりと微笑んだ。しかし、両腕をアレン達へ向けたまま、それは少しずつ辛そうなものへと変わっていく。
「でも……できたら早く……なんとかしてほしい、かな?」
シャルが視線を前方へ戻すと、徐々にだが確実に、岩の槍が氷の壁に減り込んでいっていた。
「維持型だから……魔力を籠めたらある程度は、なんとかなるけど……水属性だとやっぱり……長い間は、駄目みたい……」
微笑みを浮かべるその額には、僅かだが汗が滲んでいた。
「分かったわ! アレン、ノア! 早くなんとかしなさい!」
「………だそうだが?」
「……無茶言うなっての」
九死に一生を得た二人は、遠くから放られた叱咤に溜め息を吐いた。
「これ、中からなんかやったらどうなるかな?」
アレンは未だに岩槍を食い止めている透明な壁を見て呟いた。
「氷が崩れた瞬間、二人とも串刺しだろうな。これだけの量だ、俺達の使える防御魔法では防ぎ切れまい」
淡々と答えるノアに、再び溜め息を吐く。
「……ってことは、やっぱりイリス待ちか?」
「そう悠長な事も言ってられん様だが?」
氷に隔てられた向こう側へと移されたノアの視線を追う。
「げっ」
その先で、魔法を発動し終えたガルム達が再び襲い掛かろうと身構えていた。
「差し詰め、俺達は蜘蛛の巣に掛かった虫か、はたまた網に掛かった魚か……」
「悠長なこと言ってんじゃねぇ~~!?」
呑気に顎に手を当てているノアを見て、アレンは頭を抱えて泣き叫んだ。
「シャル! 外からこの岩、なんとかできないか!?」
「……って言ってますけど?」
「無理よ、私じゃ氷を溶かすだけだもの! ステラ、なんとか出来る?」
「わ、私もあの数を一度にどうにか出来る魔法はちょっと……」
ステラは申し訳なさそうにシュンとなった。
「………はぁ。わかりました、僕がやりますよ」
すると、リオンが見兼ねたように言った。
「出来るの?」
「まぁ風属性は得意ですし、なんとかしますよ」
不安げな表情をするシャルにそう言うと、リオンは一歩前へ出て右手を突き出した。
短く息を吐くと、右手に暗緑色の光が集まり始め、そこから細長い何かを抜き出した。
「…………弓?」
現れたのは、小柄なリオンには大き過ぎる
「シャル先輩……あの弓、弦が……」
言われて、シャルはもう一度良く見た。確かに、弓に必要不可欠な弦が張られていない。それどころか、放つ矢すら見当たらなかった。
(どうするつもり……?)
怪訝な顔付きでリオンへ視線を戻したが、今はただ見守る他ない。
「………ん」
(……?)
弦の張られていない弓を少しだけ見つめながら、どこか物憂げに何かを呟いたようだったが 小さ過ぎる声は良く聴き取れなかった。
シャルの視線は余所に、弓を構えたリオンはまるで弦と矢があるかの如く腕を引いた。すると、暗緑色の光が弓の上で弦となり、矢となってその手中へ収まった。
その狙いを、氷の壁に阻まれている無数の岩槍に定める。
「【
光の矢から手が離れると、リオンの足元を中心に風が吹き荒れ、藍色のマフラーの尾が激しく揺れた。
「きゃっ――!?」
突然の突風に、ステラが驚いてスカートと髪を押さえながら声を上げた。シャルも同様にそれらを押さえるが、目は閉じずに光の矢の行く末を見守る。
光の矢はまさに疾風の如く駆け、岩の槍に衝突して爆ぜた。直後、無数の風の刃が顕れ、瞬く間に全ての岩槍を細かく切り刻んでいった。
「凄い……」
「リオン、あんた……」
呆気に取られながら、シャルは前を向いて顔の見えないリオンを見た。
時を同じくして、氷の壁が甲高い音と共に崩れ落ちた。
「よし! サンキュー、リオン! 行くぞ、ノア!」
再び自由になったアレンは剣を構える。
「――いや、待てアレン。来るぞ」
「来るって、何がだよ?」
首を傾げるアレン。その耳に、ふと声が届いた。
〈――その力、我が意志と共に! その意思、我が力と成って! 遥かなる天上より、彼の者達に聖光の裁きを
振り返ると、銀色の魔法陣の上で佇むイリスが、目を閉じながら詠唱を続けていた。
魔力の波動によって巻き起こる風に長い銀髪を
「【
空に広がる灰色の雲に、巨大な銀色の魔法陣が浮かび上がった。
ガルム達が一斉にそれを見上げる。やがて雲の隙間を通して幾筋もの眩い光が射し込み、アレンとノアの周りを包み込んだ。
「……天使の
ポツリと呟いたステラは、眩しいにも関わらずその光景から目が離せなかった。
それは、雲から漏れた光の筋が、まるで地上に取り残された天使達が天へ掛け登る為に差し伸べられた光の梯子のように見えることからそう呼称される自然現象と、酷似していた。
ただ違うのは――
「………えっ?」
ようやく光が収まったところで、ステラが今度は呆けたような声を出した。
アレン達を囲っていた二十数体、死体を含めれば三十強も居たガルム達が、一体足りとも見当たらなかった。
「はい、おしまいっ」
手を降ろしたイリスが笑顔で息を吐いた。
「おしまいって……あんなにいたガルムたちは?」
リオンも何が起きたのか理解出来なかったらしく、呆気に取られていた。
「うーん、詳しく説明するとなるとちょっと難しいんだけど……」
イリスは人差し指を頬に当てると、
「簡単に言っちゃえば、分解しちゃった」
さらっと明るく、とんでもなく恐ろしいことを言ってのけた。
「光に触れた魔法生物の体内魔力を利用して、魔力の量に比例した分だけ肉体を分解する魔法なの。結構強力なんだけど色々制約があって、例えば……」
「い、いえ、もう結構です……!」
聞くだけでも恐ろしいが、それがこんな無邪気な笑顔から放たれたのだと思うと、ステラもリオンも今後のイリスに対する態度を改める必要性を感じていた。
「でも、あんなすごい魔法を使えるんならなんでさっさと使わなかったんですか?」
「それは俺も聞きたいとこだな」
剣を仕舞ったアレンとノアがそこへやってきた。
「後で詠唱始めたはずのアクアの方が早かったし、結構ギリギリだったんだぞ?」
「それは、その……」
言い淀んだイリスは、視線を横へ逸らした。
「ち、ちょっと久しぶりだったから、思い切って魔力強化の魔法も使ったら思ったより時間掛かっちゃって……あ、あはは。ほら、あれって詠唱文長いから……」
顔を赤くして苦笑いを浮かべたイリスに、アレンは脱力する。
「お前な……それであんな凶悪な威力になってたのか。普通あのくらいの奴らなら跡形もなくなるまでならないだろ」
「だってぇ……」
少し拗ねた顔に仕方ないなといった風に笑って、アレンはその頭に手を置く。
「まっ、何はともあれ助かったよ。ありがとな」
「うんっ」
イリスは嬉しそうに頷いた。
「アクアとリオンもありがとな。ってかリオン、お前すげぇな」
「あー、まぁ、いや、はい、それほどでも……」
急に褒められて恥ずかしくなったのか、リオンはもぞもぞとマフラーに顔を
「アレン、そろそろ移動するぞ。また襲われても面倒だ」
ノアの言葉に頷いて、アレンは全員を見渡す。
「初っ端から苦戦したけど、とりあえず進もう。さすがにあんなに群れてるのはもういないだろ。アクア、俺とノアの治療は休憩の時に頼む」
「うん。ステラちゃんも手伝ってくれる?」
「は、はい……!」
アクアのにっこりした微笑みに、ステラは慌てて頷いた。
「大丈夫か? この後はステラとリオンを中心に戦うことになるから、結構きついぞ?」
心配げに訊ねたアレンに、はっきりとした頷きが返される。
「大丈夫です。私も何かお役に立ちたいですし……」
先程の戦闘で何も出来なかった自分が嫌なのだろう。どこか悔しさの窺える声色だった。
それを察して、アレンは穏やかな表情を向ける。
「そっか。シャル、戦闘は予定変更して三、四に分けていいよな?」
「仕方無いわね。あんなの相手に二人だけっていうのもなんだし……」
小さく肩を
「とにかく、予定外に遅れちゃったわ。先を急ぎましょう」
一同は、気を取り直して再び先へ進んだ。
† † †
二日後。
最初にいきなり苦戦を強いられた一同は、その後特に問題なくキネリキア山の手前まで辿り着いていた。
「――やぁッ!」
掛け声の直後、肉を裂く音と共に、
「ハァッ、ハァッ……」
「お疲れ、ステラ」
息絶えたガルムの前で息を切らせるステラに、イリスが声を掛けた。
「だいぶ慣れてきたみたいだな」
「だが、まだ動きが堅い。常に相手の動きの先を読んで行動しろ」
「はっ………はい……!」
賛否両論を口にするアレンとノアに頷いて、巨大な剣を仕舞ったステラは顔に付着した血を拭った。
「みんな~、シャルちゃんが見つけたから来てって~!」
ふと、少し離れたところからアクアの声が届いた。
「おっ、じゃあ行くか」
ガルムの死体を担いだアレンがそちらへ向かう。
「わたしたちも行こっ、ステラ。今日は水場あるかなぁ?」
「昨日は途中から土砂降りでしたし、少し水浴びをしたいですよね。私なんて身体中から血の臭いがして……」
あまり期待を含んだ顔はせず、二人もそれに続いた。
「…………」
最後尾を行くノアは、無言のままに歩を進める。
不意に立ち止まって、遠くを眺めるように西へ視線を向けた。ちょうど岩山の隙間を縫うように、茜色の光がその場をチリチリと照らしていた。
「……そろそろ陽が沈むな」
呟いて、再び歩き出した。
「じゃ~ん! 今日はシチューにしてみましたぁ~っ」
山に入って三度目の夜を迎えた七人は、崖下に出来た洞窟の外で火を焚きながら食事をしていた。
「おぉっ、うまそー! ……あっ」
鍋から漂う食欲を誘う匂いに、アレンの腹の虫が豪快に鳴った。
「ふふっ。アレン君、そんなにお腹空いてたの?」
「あんた、今日はステラの戦闘見てただけじゃない」
くすくす笑うアクアの隣で、シャルが呆れた顔をした。
「お兄ちゃん、慌てなくてもすぐに装ってあげるから………あっ」
今度はシャルと同じような声色で笑うイリスの腹の虫が盛大に響いた。
「この兄妹は……」
「「……すいません」」
やはり呆れたように溜め息を吐いたシャルに、二人は申し訳なさそうに俯いた。
「ま、まぁいいじゃないですか。それより冷めるから早く食べませんか?」
「それもそうね。せっかくイリスが作ってくれたんだし、冷めないうちに頂きましょうか」
苦笑するリオンに頷いたシャルは、イリスと共にテキパキとシチューを配っていく。全員へ行き渡ったことを確認すると、シャルに倣ってアレン達も手を合わせた。
「それじゃあ………頂きます」
「おかわり!」
「「早過ぎだろ(でしょ)!!」」
ほぼ同時におかわりを求めたイリスに、アレンとシャルは全力でツッコんだ。
「明らかにおかしいだろ! 今のやり取りのどこに食う時間があったんだよ!」
「あんたね、前から思ってたけどちょっと非常識にもほどがあるわよ!?」
一気に捲し立てる二人に、イリスは少し嫌そうな顔をする。
「もぉ~、二人とも細かいこと気にし過ぎだよぉ。ねぇ、アクア?」
「えっ? えっと、細かい……のかな?」
振られたアクアは、何と言って良いのか分からず苦笑いを浮かべるしかなかった。
「そ、それよりも、このお肉はどうなさったのですかっ? 昨日はありませんでしたがっ!」
微妙な雰囲気に耐え切れなくなったステラが出し抜けに訊ねた。実際、山に入って最初の昼食こそ街で買っておいたおにぎりだったが、それ以降は簡素なスープや干し肉だったので気にはなっていたのだ。
「おいおい、何言ってんだよ。さっき自分で仕留めたんだろ?」
「…………仕留めた?」
やれやれと笑ったアレンに、ステラの顔がまさかと硬直した。
「これ、さっきのガルムのお肉だよ?」
「ゴフッ――!?」
言った途端、思い切り
「お、おいステラ、大丈夫か?」
「ステラ、はいお水!」
慌てて差し出された水筒を受け取って、ステラは勢い良く水を飲む。
「―――ゴホッ、ゴホッ……! あ、ありがとうございます……」
なんとか
「そ、それで、すみませんが先程、何の肉と……?」
あくまでも聞き間違いを望むステラ。
「だからガルムの肉だって、ステラがさっき倒した」
しかし現実は厳しかった。
「ま、魔物の肉というのは、食べられる物なのですか?」
「毒さえなきゃ大概のもんは食えるさ。なぁ、ノア?」
「……流石に昨日戦ったストーンガルムの肉は硬くて食えんがな」
ノアはそう言って躊躇いもなく肉の入ったシチューを口へ運んだ。ストーンガルムとはガルムの亜種で、名前の通り身体が岩で覆われている為その肉も非常に硬く、とても食べられた物ではない。どうやらあの辺りの殆どのガルムが一昨日の一戦に居たらしく、今日の昼に出遭うまではずっとそのストーンガルムが現れていたのだった。
「ステラ、食べないの?」
「うっ………」
イリスが訊ねると、ステラは苦い顔をして隣を見る。そこには、何の問題もなくシチューを平らげているリオンが居た。
「………頂きます」
結局、観念したように口に運んだのだった。
「魔物って言えば、一昨日のあれ以降に出遭ったのはみんな普通でしたね」
「そうだな。まぁそれに越したことはないんだけど、なんだったんだろな?」
ふと口を開いたリオンに、アレンは手を止めて考え込む。
「解らない事は考えない主義では無かったか?」
「そりゃ自分に直接関係ない時だけ。今は直接関わってんだから、ちょっとは考えねぇと」
珍しく皮肉を籠めた言い方をするノアに、アレンはスプーンの先をクルクルさせながら反論した。
「お兄ちゃん、お行儀悪いよ?」
「おっと……!」
透かさず注意されて、慌てて手を止めた。
「まっ、いくら考えても無い頭じゃ程度が知れてるわよ」
「じゃあ、学年トップクラスのイグニス様のご意見はどうなんだよ?」
やれやれと肩を竦めるシャルに少しむっとして、アレンは嫌味な声を出した。
「…………」
「シャル?」
てっきり噛み付いてくると思っていたアレンは、どこを見るでもなくボーッとしたシャルに首を傾げた。
「えっ? あっ、あぁ、そうね。サンプルでもあれば何か解ったかもしれないけど……」
「うっ、ごめんなさい」
ハッ、と気付いて慌てたように取り繕ったシャルの言葉に、イリスがシュンとなった。
「あぁ、別にイリスを責めてる訳じゃないわよ? でも群れてたのは強引にでも説明出来るかもしれないけど、やっぱりあの異常な強さを解明するとなるとねぇ……」
うーん、とその場に重い沈黙が流れた。
「あぁ~、もう! やめだ、やめ! 今んとこあいつら以外出てないんだから、この件は保留っ!」
アレンは頭を掻き
「そうね、帰ったらレポートと一緒に報告しましょう。また出たらその時よ」
肩を竦めたシャルは、空になった器を置く。
「イリス、アクア、ステラ。食べ終わったら着替えの準備しときなさい」
「なんで?」
イリスはいつの間にか装っていた三杯目のおかわりを平らげて(!)首を傾げた。
「洞窟の奥に温泉が湧いてたのよ。後で湯浴びに行きましょう?」
「本当ですか!?」
たちまち、ステラが瞳をキラキラと輝かせて歓喜の声を上げた。
「よかったね、ステラ」
「はい!」
余程嬉しかったのか、ステラはガルムの肉などモノともせずにシチューを平らげていく。シャルはその様子に苦笑しながら、アレン達男子へ視線を向けた。
「アレン達も制服出しておきなさいよ? 昨日の雨もあったし、皆が入った後に全員分まとめて洗っておくから。アクア、手伝って頂戴」
「うん。特にノア君たちのは、返り血の臭いがすごいもんね。あっ、そうだ、アレン君」
アクアは何かを思い出したようにアレンを見た。
「後でちょっと話したいことがあるんだけど……温泉に入った後でいいから」
「別にいいけど……なんだ、改まって?」
「ちょっとね……」
不思議がるアレンには答えず、アクアはただ意味深な声のみを返した。
話が纏まったところで、シャルがパン、と両の掌を合わせた。
「じゃあこの後はそんな感じで。明日の昼過ぎにはキネリキア山へ入るから、あんまり夜更かししちゃ駄目よ?」
はーい、と遠足に来た子供のような返事が上がった。
† † †
深夜。月明かりに照らされた岩山にて、影が一つ、動いた。
「ふぁ……っ」
皆が寝静まった頃に突然目が覚めたアレンは、これまた突然尿意に襲われたので(寧ろ目が覚めたのはそれの所為だろう)、洞窟を離れて用を足しにきていた。
「さむっ」
肌を刺すような寒さに腕を抱えて、ブルッと身を震わせた。その際に吐いた白い息から現在の気温が窺える。
「……月が綺麗だなー」
腕を擦りながら空を見上げると、先日の雨が嘘のように澄み切った空から、幻想的とも言える光が地上を照らしていた。
「ん?」
ふと、視界の端が明るくなったような気がしてそちらへ視線を向けた。すると再び、洞窟のある方角が明るくなった。
「……なんだ?」
眉を寄せながら、アレンはそこへ近付いていく。その際にも何度か同じ現象が起きた。
やがてその明かりが洞窟のある崖の上から漏れていることが判り、どうしたものかと立ち止まって周囲を見渡すと、
「おっ、あそこからなら……」
ちょうど手で掴めるくらいゴツゴツとした部分を見付けたので、そこから上へと登っていく。
「よっ、と……おっ」
少し高めの崖を登ると、岩に遮られた向こう側が再び明るくなった。こっそりと、岩の陰から様子を窺うと、
(…………シャル?)
その先にあったのは、普段のポニーテールとは違い、緋色の髪を腰まで伸ばしたシャルの横顔だった。今は制服ではなく、動き易そうな裾の長いパンツと長袖の上着に身を包んでいる。
(何やってんだ、こんな時間に……?)
アレンは息を潜めて少し様子を窺うことにした。
「――もう、一度……」
少し息を切らしているシャルは、突き出した右腕を左手で掴みながら何かを呟き始めた。
やがてシャルの身体を緋色の魔力が包み込み、右の掌の上に炎が集まり始める。
「―――うっ!?」
しかし、炎は突如弾け飛び、シャルの身体を吹き飛ばした。
「……まだ、まだよ」
シャルは倒れた身を起こすと、再び先程と同じ行動を取った。
同じように構え、同じように呟き、同じように吹き飛ぶ。そして、同じように身を起こす。
アレンは、ただその光景をじっと見続けた。
その脳裏に、夕食の後のアクアとの会話が蘇る――
† † †
――洞窟を離れて誰もいないところまで来た二人は、大きな岩の上に並んで腰掛けた。
「……で、話ってなんだ?」
単刀直入に、アレンが問い掛けた。
「うん……」
問われたアクアは、膝に手を置きながら少しだけ間を作った。温泉に浸かった後だからか、唇や頬にほんのりと朱が差していて普段より色っぽく見える。
その
「シャルちゃんの、ことなんだけど……」
アレンの手がピクリと反応した。
「多分、アルモニアでの騒ぎからかな? ちょっと、様子が変だと思うの」
「…………」
傍らでじっと黙ったままのアレンに、アクアはそのまま言葉を続ける。
「確かにシャルちゃんは、普段からちょっと怒りやすいし、気に入らないことには真正面から文句を言うし、ギルドで会ったような人たちには多分、ああいう風になっちゃうんだろうけど」
「……まぁ、な」
中々ぶっちゃけるアクアに、アレンは心中で苦笑いを浮かべた。
「でも、少なくとも普段のシャルちゃんは、みんなを巻き込むような喧嘩はしないし、一見無鉄砲に見えても、頭の隅でちゃんと冷静に考えて対処してると思うの」
アクアは指先を弄びながら、じっとそれを見つめる。
「極めつけは一昨日の戦闘の後。シャルちゃん、空元気、って言うのかな? 明るく振る舞ってるけど、すごく元気がないの。多分、付き合いが長いアレン君やイリスちゃんは気付いてると思うけど……そこまで仲がいいわけじゃないノア君でも気付いてるくらいだから、相当だと思う」
「……ノアもそう言ってたのか?」
アクアはゆっくりと
「直接聞いたわけじゃないけど、見てればだいたいわかるよ。いつもより溜め息多いし、顔だってしょっちゅう顰めてるもの」
あの鉄面皮がそんなにしょっちゅう顰めっ面を作っていたとは驚きだが、恐らく幼い頃からの付き合いであるアクアだからこそ判るくらい、微妙な変化なのだろう。
「それでね? その原因って……」
俯いたまま窺い見るような視線を向けてきたアクアに、アレンは短く息を吐く。
「……他にもあるんだろうけど、多分根っこの部分はアレだろうな」
「やっぱり……」
納得して、アクアは右手を胸に置いて顔全体をアレンへ向けた。
「あのね? わたしやノア君はそのことについて詳しくは知らないし、無理に聞くつもりはないけど、シャルちゃんが元気のないところも見たくないの」
深い夜空のような紺青色の瞳が、アレンの黄金色の瞳をまっすぐに見つめる。
「でも、シャルちゃんに何かしてあげられるのは、事情を詳しく知ってる人だけ。だから……」
「わかってる」
言葉を遮って、アレンは後頭部を掻いた。
「あいつが無理してるってことも、俺がやんなきゃいけないってことも、これでもわかってるつもりだよ。あいつがああなったのは、俺の所為だから……」
そこで、言葉を止めた。
「……何があったかは、やっぱり話せないんだよね?」
「…………悪い」
謝るアレンに、アクアは目を閉じて首を横に振る。
「気にしないで。誰にだって、言いたくないことくらいあるもの」
再び覗いた瞳から放たれる優しい光に、アレンはただ一言だけを告げる。
「ありがとう――」
† † †
(――って言ったはいいけど、どうすっかなぁ……)
岩陰に隠れながら、アレンは後頭部を掻いて溜め息を吐いた。
このままでは駄目だということも、自分がやらなくてはならないということも、先刻話した通り解っている。
そう、やりたいという「意志」以上に、これはやらなくてはならない「責務」なのだ。
(それはわかってる。もちろんやることはやるさ。でも、それだけじゃ根本的な解決にはならないんだよなぁ……)
声には出さずに、心中で再び溜め息を吐いた。
(まぁ、それを今ここで考えてもどうにもならないか。今は先に……)
「……あんた、そんなとこで何やってんの?」
「おぉうッ!?」
突然声を掛けられて、思わず素っ頓狂な声を上げて尻餅を搗いてしまった。
視線を上げると、シャルが左手を腰に当ててこちらを見下ろしていた。どうやらいつの間にか意識を思考に集中し過ぎていたらしく、シャルが近付いてきたことに気付かなかったようだ。
「よ、よぉ、シャル……」
「だから、何やってんのって言ってんのよ」
慌てて上手い言い訳が出来ないアレンに(そもそも言い訳をする必要などないのだが)、もう一度問い質したシャルは目を細める。
「……アレン、あんた見たわね?」
ビクゥッ、とアレンの肩が跳ね上がった。
「な、何言ってんだよ? 俺はただ散歩を……」
「ただ散歩してた奴がこんな高台に、しかも崖を登って来る訳無いでしょ。あんた、自分が嘘吐くの下手だって自覚あんの?」
グウの音も出ないとはこのことだ。シャルが背を向けてさっさと立ち去ろうとする。
「まぁ良いわ。じゃ、私もう寝るから」
「あっ、お、おいシャル!?」
「…………何よ?」
「あ、いや……」
じろっと睨まれて、アレンは思わずたじろいでしまった。シャルの全身から「何も言うな」と聞こえてきた気がしたが、アクアとの約束もあると言い聞かせ、何を言うでもなく口を開く。
「……あの髪留め」
出たのは、何の脈絡もない言葉だった。
(俺の馬鹿野郎……)
「?」
いきなり何を言っているのかと心中で泣きながら自分を罵倒するアレンに対し、シャルは唐突な台詞に顔を
兎にも角にも喋ったからには続けなくてはならないと思い、アレンはそこから話を繋げる。
「……プレゼントした時も、こんな風に寒かったっけ」
気拙さから逃げる為に空を見上げたアレンから、シャルは視線を逸らした。
「…………あの時の方が寒かったわよ、馬鹿」
吐いた白い息が、寒空の中へ漂って消えた。
「そうかぁ?」
予想外にも返事が来たので、アレンは視線を戻して首を傾げた。
「そうよ。だいたいあの時って真冬で雪まで降ってたのよ?」
「あれ、そうだっけ?」
首を傾げるアレンに、シャルはやれやれと溜め息を吐く。
「あんた、そんな事も忘れたの? じゃあその時私に絶対服従を誓ったのは?」
「それは嘘だろ!」
どさくさに紛れてとんでもない事実改竄を行おうとするシャルに、アレンは思い切りツッコんだ。
「冗談よ。まったく、すぐ本気にするんだから」
肩を竦めた呆れ顔に、お返しとばかりに少し意地の悪い顔をする。
「あのな、俺だってちゃんと憶えてんだぞ? お前が氷の張った地面に滑って大泣きしたこともな」
「なっ――!?」
「あれぇ? もしかして憶えてないのかぁ?」
「お、憶えてるわよ! 第一あれは……!」
「ほぉー、あれは?」
「うぐっ……!」
挑発するような顔で近付いたアレンに、シャルは顔を真っ赤にして俯いた。
「……………けよ」
「ん~?」
ボソッとした呟きに、アレンは耳に手を翳して再度促した。
次第に耐えきれなくなったシャルは、顔を上げて思い切りアレンを睨み付ける。
「――いっ、良いじゃない、何だって! 大体あんた、何が言いたいのよ! あんまり調子に乗ってると燃やすわよ!?」
シャルは右手を掲げて掌に炎を灯した。
それを見たアレンは、いつもと違って明るく笑い掛ける。
「おっ、やっと調子が戻ってきたみたいだな」
「はぁ? 何言ってんのよ?」
怪訝な表情に一歩歩み寄って、緋色の頭に軽く手を置く。
「お前はそうやって、理不尽に怒ったりしてた方がらしいってことだよ。しょげて空元気振り回してるなんて、どう考えてもお前の役じゃないだろ?」
「………随分な物言いね」
口調は不機嫌だったが、視線を外したまま頭を撫でられているその表情は、恥ずかしくも嬉しそうだった。
「もう、良い加減やめなさいよ、子供じゃないんだから……」
「はいはい」
いつまでも手を退けないアレンにシャルは再び不機嫌そうに文句を垂れたが、自分から退けようとはせずにアレンが苦笑しながら離れるのを待った。
少し名残惜しげに押し黙り、シャルは背を向けて歩き出す。
「……さっさと行くわよ」
「はいよ」
明日寝坊したらホントに燃やすから、という不穏な発言は聞かなかったことにして、アレンも後ろへ続いた。
(……ま、最初の予定とは違ったけど、なんとかなったかな?)
金髪の後頭部を掻きながら、やれやれといった風に息を吐く。
「アレン」
不意にシャルが立ち止まった。
「あんた、どうせ自分の所為とか言って責任感じてるんでしょうけど、一つ言っとくわ」
振り返ったシャルは、睨み付けるでも逸らすでもなく、しかしいつもの凛とした力強さの宿ったものでもない瞳を向ける。
「これは私の問題で、こうなったのは私の所為よ。あんたが責任を感じる事じゃないわ」
しばらくして、再び背を向けた。
「でも……心配してくれてありがと」
長い緋色の髪に隠れて見えなかったが、耳までその色に染まっているに違いなかった。
「さ、さっさと寝るわよ……!」
恥ずかしさを紛らわすように、シャルは駆け足で高台を下っていった。取り残されたアレンは、少しの間、その後ろ姿を見つめる。
「……そういうわけにもいかねぇんだよ、馬鹿」
吹き付ける風に晒されながら呟いた言葉は、そのまま寒空の
† † †
時は少しばかり遡る。
ここは、アレン達の居る地点から西へ移動した、岩山の中。
薪の
「全員寝たか?」
「うん……」
焚火の前に座っていた黒髪の少女は、足音の主を見て頷いた。
「……みんな……疲れてる」
少女はそう言って後ろに視線を向けた。
火の灯りが僅かに届くそこには、地べたに身体を預けている数名の男女の姿があった。
「無理もない。今日も移動と連戦の繰り返しだったからな」
足音の主は少女の隣へ腰を降ろすと、焚火に新しい薪を
少女は隣に座った金髪の少年へ顔を向ける。
「アルも、休んで……? 広めに……上級の結界を張ったから……疲れてる」
「それを言うなら全員の治療を担当して疲れているお前が休め、アリス」
少年は迷うことなく少女の願いを却下した。
「……いや」
しかし、少女の方もそれを断った。
「休め」
「いや」
「何度も言わせるな」
「何回でも……言う」
「お前に倒れられたら面倒だと言っているんだ」
視線を前に戻して頑なに断り続ける少女へ向き直って、少年は冷たく言い放った。
「アルが休んだら……休む」
「主人の命令が聞けないのか?」
「主人を護るのが……従者の仕事……だから……アルが、先……」
「僕は念の為もう少し見張っておくから駄目だ」
「じゃあわたしも……一緒にいる」
お互いに一歩も譲らない不毛な争いに、アルベルトはお手上げとばかりに溜め息を吐いた。
「……分かった、好きにしろ」
「……うん」
アリスは嬉しそうに頷いて、気付かれないくらいほんの少しだけ身を寄せた。
「……それで、何か分かったか?」
新たに薪を焼べながら、アルベルトが
アリスはゆっくりと首を振る。
「……詳しいことは……まだ」
でも、と続ける。
「死体で確かめたら……魔力が変質してた……」
「魔力が?」
アルベルトの眉が寄った。アリスは再びゆっくりと、今度は縦に首を振る。
「まったく……別のものじゃなくて……前よりも強くて……密度が濃くなってた」
「……どういう事だ?」
「わからない……でも」
幼さを残しつつも整った顔に収められた灰色の瞳が、蒼色のそれを見つめた。
「キネリキア山に入ってから……確実に増えてる」
パチッ、と薪が爆ぜるまで、二人の間に沈黙が流れた。
「……そうか」
アルベルトは脱力して長い金髪を掻き乱した。
(これが学園長の言っていた魔物の凶暴化というやつか? アリスが確かめたのだから魔力が変質しているというのは間違いないだろうし、もしこのまま更に強力な魔物と
「アル……?」
押し黙るアルベルトに、アリスの心配げな視線が刺さる。
「……いや、何でもない」
アルベルトは小さく首を横へ振って答えた。
「お前は引き続き調べてくれ。ただし、くれぐれも他の奴らには気取られるなよ?」
「……うん……わかってる……」
二人の表情には、重苦しい何かが纏わり付いていた。
少ししてアルベルトが立ち上がる。
「明日も早い。そろそろ寝るぞ」
「アルが――」
「同時に寝れば問題ないだろう」
言い掛けたアリスに被せるように、仕方がないと言わんばかりの声が放たれた。
「……うん」
アリスは、やはり嬉しそうに頷いた。
――突如、
「――っ!?」
「な、なに……?」
遠くから、何かの唸り声のような音が聞こえた。
(馬鹿な! この結界は内と外の情報を完全に隔てる魔法だぞ!? 外からの音が聞こえる筈……ッ!!)
「アル……!?」
直後、全身に電気が走るような感覚が伝わり、アルベルトの膝が折れた。
「……結界が、破られた……!?」
少し苦しげに息を切らせながら、アルベルトは視線を前へ向ける。そして、そのまま顔を驚愕の色に染めた。
「……あ、アル……!!」
「――なっ……!? 何故あんな奴が――」
火は、いつの間にか消えていた。
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