第六話:『旅に思わぬ出来事は付き物』



『一日目・早朝』



 まだ街を覆い隠す霧が立ち籠める時刻に、『学びの庭ガーデン』南部にある巨大な鉄の門が、ゆっくりと重々しい音を立てて左右に開いた。

「やっと来たみたいね。ふぁ……」

 その手前の広場で、大きめのリュックを背負った少女が小さく欠伸をした。一つに纏められた緋色の髪が、眠たげに揺れる。

「さすがに、この時間は眠たいですね………っ」

 同様に荷物を背負った濃い茶髪の少女がそれを見てをし、髪と同じ色の瞳から涙を浮かべた。対照的に、長い銀髪の少女は朗らかな笑顔を浮かべる。

「シャルは朝弱いからね」

「イリス先輩は平気なんですかぁ?」

 はしたないと思いつつも欠伸が止まらない為、ステラは口に手をやりながら眠たげな声を出した。

「わたしはいつもこのくらいに起きてるから」

「こんなに朝早くからですか?」

「学園の準備とか朝ごはんの支度とか、色々やることがあるからね。でもお兄ちゃんは鍛錬があるからわかるけど、リオンもなんだか慣れてるよね?」

 二人は広場の中央にある噴水に腰掛けている、暗い緑髪の少年へ視線を向けた。

「僕は朝の散歩が日課なんで」

 相変わらず藍色のマフラーをぐるぐる巻きにして弛んだ表情を見せた少年の顔からは、確かに完全に眠気が消え去っているようだった。

「それにしても、ノア先輩とアクア先輩、遅いですね? どうされたのでしょうか?」

 意外な二人が遅刻しているので、ステラは少し心配げに寮の方角を見た。

「まぁ、あっちはアクアがいるからなぁ」

 身体を捻ったり伸ばしたりして体操をしていた金髪の少年は、片手を腰へ当てて短く息を吐いた。

「アクア先輩がどうかしたんですか?」

「アクアは私以上に朝に弱いのよ。ふぁ……っ」

 首を傾げたリオンに答えて、シャルは再び大きな欠伸をして目を擦った。

「ひどい時はどんなに起こしても起きないしね……って噂をすれば」

 イリスの銀色の瞳が、霧の中から現れた人影を捉えた。

 片手に二人分の荷物を持った漆黒の少年が、何かを背負いながらこちらへ近付いてくる。特に歩調を緩めてはいないのに、どうやってか足音は聞こえなかった。

「よう、ノア。遅かったな」

「………済まん」

 アレンが手を挙げて呼び掛けると、ノアは無表情のまま軽く謝罪した。

「おはようございます、ノア先輩。……あの、アクア先輩は……?」

 優しく微笑みながらもまだ眠たげな声色で挨拶したステラは、一緒にやって来る筈の少女の姿を探した。

 ノアは自分の背負っているものに視線だけを向ける。

「……アクアなら此処だ」

「あっ……」

 そこを覗くと、紺青色の髪の少女がすやすやと気持ち良さそうに寝息を立てていた。

「何度起こしても起きなかったのでな。仕方がないから背負ってきた」

 ズレ落ちそうになる少女に空いている手をやって、ノアは体勢を直しながら説明した。

「ん………」

 その際にアクアが少し身動みじろいで短く息を漏らし、再び寝息を立てた。

(か、かわいい……!)

 あまりにも無邪気な寝顔に、ステラは思わず胸を締め付けられてしまった。

「うーん、今日はかぁ……」

「良いじゃない、今日はお昼まで移動だけなんだし。向こうに着く頃にふぁ………っ、起きるわよ」

 後頭部を掻いてやれやれと息を吐いたアレンに返して、またしても欠伸をしながら、シャルは重い眼に人差し指を擦り付けた。

「シャル先輩、ホントに眠たそうですね」

「んー」

 苦笑するリオンには生返事が返ってきた。

「仕方ないよ、普段こんな時間に起きないし。それより、こっちも着いたみたいだよ」

 イリスが同じような表情をしながら門へ続く道を見やった。するとその先から、何かの生き物の足音と、車輪の地面を滑る音が聞こえてきた。

「わぁ……っ!」

 そこから現れたモノを見て、ステラが目を輝かせた。

 霧の中から現れたのは、体長三メートルを優に越える、四足歩行のドラゴンだった。筋骨隆々の逞しい肉体に鋭く尖った爪と牙を持ち、鼻の頭に一本、頭部に二本の長い角を有している。翼はなく背には鶏冠とさかが付いていて、蒼い鱗は鮮やかに輝き、吊り上がった目の中から同色の瞳が覗いていた。

 身体には頑丈そうなロープが括り付けられており、その先には車輪付きの大きな四角い箱が繋がれていた。表面は薄茶色で、左右には長方形の窓が備わっている。

「どう、どう! よーし、良い子だ」

 箱とドラゴンの間の座席に座っていた御者が、ドラゴンの歩みを止めて跳び降りた。

「待たせたな。準備が出来ていたら早速出発しよう」

 金髪碧眼の中年御者は陽射しを避ける為の茶色い鍔付き帽子を脱いで会釈すると、アレン達を見渡して箱の扉を開いた。

「よし、じゃあ乗るか……ってステラ、どうかしたか?」

 箱とドラゴンに視線が釘付けになっているステラは、瞳どころか顔全体を爛々と輝かせていた。

「私、ランドハウスは初めてなんですっ」

 幼い子供のように興奮している様子に、御者が笑い掛ける。

「じゃあ嬢ちゃんはコイツも初めてか」

 御者は大人しく待機しているドラゴンの身体に手を置いた。

「コイツはクルススドラゴンって言ってな、見ての通りドラゴンの亜種だ。竜種は幾つかいるが、その中でも脚力に特化してて人懐っこいんで、大きめのランドハウスは大体コイツらが運んでいる。もちろん、サイズ毎に色んな生き物がいるがな」

 ランドハウスとは所謂いわゆる馬車のような物で、通常の馬車が街中を走るのに対し、街と街などの長距離移動を中心に活躍している。

 道中の魔物対策として、長期間寝泊まりする為の簡易式ベッドの付いた大きな箱を人の飼育した魔法生物が馬車馬代わりに運んでおり、地続きであれば大陸中を駆け回ることが出来るので、文明が発展途上の大陸ではかなり重用されている。

「綺麗な鱗ですね……ですが、ドラゴンは滅多に人前に現れないのではないのですか?」

 ステラが手入れの行き届いた綺麗な蒼い鱗に恐る恐る触れると、クルススドラゴンは気持ち良さそうに声を唸らせた。

「そりゃドラゴンの中でも原種って呼ばれてる奴らの事だな。コイツらみたいな亜種は結構いるんだよ。まぁ、他の生き物に比べて希少な事に間違いはないがな。……さて、そろそろ乗らないと、お仲間が待ちくたびれてるぞ?」

「あっ……!」

 いつの間にか、他の面々はランドハウスに乗り込んでいた。

「す、すみません、お待たせしてしまっ……て……」

 慌てて乗り込んだステラは、中の様子に呆気に取られた。

 箱の中は外見よりも広く、少しだけ幅広の背凭せもたれ付きの座席が四つずつ、細長いテーブルを挟んで向かい合っていた。そのうちの一つは背凭れが後ろに倒れていて、アクアがすやすやと眠っている。

「ステラ? 驚くのはいいんだけど、早く座らないと出発できないよ?」

「あっ、はい……!」

 一番手前に座っていたイリスの言葉にハッとして、とりあえず向かいの席へ座った。すぐに若干の震動と共に、ゆっくりと車輪の回る音が聞こえてきた。

「しゅっぱーつ!」

 楽しげに右拳を突き上げたイリスの掛け声に呼応するように、ランドハウスは巨大な門を潜り抜けて霧の中へと消えていった……。



    †   †   †



 『一日目・午前』



「中はこのようになっているんですね。見た目よりも広くてびっくりしました」

 興味深々といった風に箱の中を観察していたステラが、感嘆の息を漏らした。先程まで身体を支配していた睡魔はすっかり居なくなっているようだ。

「空間拡張系の技術が使われてるんだよ。ほら、わたしたちの荷物にも使われてるやつ」

「便利だよなー。おかげでリュック一つだけで済むし」

 アレンは頭の後ろで両手を組みながら呑気に笑った。

 現代の魔導科学技術は、大陸分断直後と比べると格段に発達していた。魔石等の自然物と機械を利用することによって遠方との会話や食料の保存ができ、今回のようにある一定の空間を拡張することで、大量の荷物を一つのリュックに纏めたり、通常よりも多くの人や物を乗り物で運べるのだった。

しかし、地の大陸出身のステラならこの程度は見慣れているのではないのか? 向こうの魔導科学技術は五大陸の中でも群を抜いていると聞くが?」

「確かに、あちらの技術は魔法も機械も他より遥かに進んでいますよ。首都には少人数用の乗り物が幾つもあって、街中の移動は基本的にそれを利用しますし。ですが、小型化が進んでいるのでこんなに大きな乗り物はないんです」

「馬車とは違うの?」

 不思議そうな顔をするイリスを見て、ステラは少し困った表情をする。

「えっと、どう言えば良いのでしょうか? 簡単に言うと、馬のいない小さな馬車……のような物で、備わっている魔石に籠められた魔力で動くんですよ。ですから、生き物が牽いて走るのも新鮮なんです」

「へぇー、なんか面白そう!」

 キラキラと瞳を輝かせるイリスが新しい玩具を発見した幼い子供にしか見えなかったことは、誰も口にしなかった。

「それだけじゃ無いわよ。あっちじゃ転移装置を街中の移動に使うんだから。しかもタダで」

 そこに、シャルが眠たげな声を放り投げた。

「贅沢だなぁ。こっちじゃあれ一回使うのにシャルの一月の小遣いほとんど使うのに」

 アレンは肘を着いて呆れたが、

「むしろ、一月分で足りるシャル先輩のお小遣いの方が気になるんですけど……」

 リオンがその言葉に少し顔を引き攣らせた。

「別に私はそんなに要らないんだけど、うちの祖父がうるさくて何回言っても毎月送ってくるのよ。使い道なんてないからほとんど貯金に回してるわ」

 シャルは本当に悩ましげに頭を振った。

「まぁその話は置いといて、そろそろ今回の予定を確認しないか?」

「そうね。とっとと終わらせて寝たいし」

 アレンの提案に頷いたシャルは、リュックから五つの大陸が描かれた地図を取り出してテーブルに広げた。

「まずは火の大陸に渡らなきゃいけないから、南西にある王都から船に乗りましょう。ここからだと昼頃には着く予定よ」

 まず地図上にある、ガーデンから南西の位置に描かれた街の印を指差し、

「それから昼食と休憩を挟んだら定期便に乗って火の大陸へ移動、明後日の夕方には向こうの港街に着くわ。本当ならこっちでクエストの受注確認をしなきゃいけないんだけど、それは昨日のうちに済ませておいたからそのまま向こうのギルドで許可証の発行。その日はそこで一泊しましょう」

 そこからスッと指を南へ移動させた。

「次の日は普段通りの時間に起きて、いよいよクエスト開始よ。って言っても、そこから山の麓まで移動しなきゃいけないけど」

 さらに移動させた先には、広大な山脈が広がっていた。

「それから『紅蓮華ぐれんか』を採集してギルドへ届けたらクエスト終了。帰り道は来た道を戻るだけ。何か質問はある?」

 一通り説明を終えると、シャルは他を見渡した。

「うーん、クエストを受けるのっていろいろ面倒なんですね。受注やら許可やら」

「移動も多くて、なんだかすごく大変そうです……」

 ボサボサの頭に手をやるリオンの隣で、ステラが憂鬱そうに溜め息を吐いた。

「個人で受ける時はこんなに手間取らないんだけどな。今回はガーデンからだし、別の大陸のクエストだから余計手続きが要るんだよ」

「移動は確かに大変だけど、向こうには温泉もあるから頑張りましょう、ね?」

 アレンとシャルは早速参っている二人に苦笑した。

「そういえば、アリスたちはもう出発したのかな? 広場にはいなかったけど……」

 ふとイリスが思い出したように言った。

「あぁ、アルベルトたちなら転移装置で直接向こうに行くから、明後日出発って言ってたぞ?」

「まったく、新入生クエストの意味解ってんのかしら?」

 シャルはうざったい金髪少年の薄ら笑いを思い浮かべながら鼻を鳴らした。それを見たステラが頭に疑問符を浮かべる。

「新入生クエストの意味、ですか?」

「教官も言ってたけど、今回は新入生にクエストのやり方を教えるのが目的なんだよ」

「なのに、高くてほとんどの生徒が使えない転移装置を行きしなから使うなんて、何考えてんのかしら?」

「移動に手間取らないから、効率がいいのは確かなんだけどね」

 やれやれと頭を振ったシャルに苦笑しながら、イリスはリュックから少し大きめの包みを取り出した。

「何それ?」

「朝ごはん。はむっ」

 包みから取り出した大きなおにぎりにパクリとかじり付くと、幸せそうに顔を綻ばせた。

「はぁ、私寝るわね。着いたら起こしてちょうだい」

 呆れたように息を吐いたシャルは、背凭れを倒して横になった。

「えっ? あ、あのっ……」

 唐突過ぎて戸惑うステラが声を掛けた時には、既に小さな寝息が立っていた。文字通り瞬く間に眠りに就いてしまったシャルに、リオンが呆然とする。

「……寝ちゃいましたね」

「まぁいいんじゃないか? 王都に着くまでやることないし。二人も眠かったら寝ててもいいぞ?」

 苦笑するアレンに、

「はい、お兄ちゃんの分」

「おっ、サンキュー」

 イリスが別の包みからおにぎりを差し出した。

 二人してモグモグとおにぎりを頬張る姿に、マイペースとはこの兄妹のことを言うのかと、後輩達は内心で溜め息を吐いた。

「……ノア先輩、先程から何の本を読んでいるのですか?」

 ふと視界の端に例の如く沈黙を続ける少年の姿を捉えたステラが、話題転換も兼ねて訊ねた。

「…………」

 問われたノアは、返事をする代わりに表紙を見せた。

 「魔導科学的視点から見詰める古代史」と書かれた本は、態々わざわざ持ち運ぶには不便な分厚さを誇っていた。

「へぇ~、なんか面白そうですね。どんな内容なんですか?」

 少し興味が沸いたのか、リオンもそこへ加わる。

「……内容自体は題名通り、現在確認されている古代の魔導科学技術に焦点を当て、其処そこから様々な古代史を見詰めるという物だ。だが特に気になったのは、『大陸分断の真相究明に関する仮説』という、現在も続けられている五大陸分断に関する研究論文だな。この本では、現在最も有力とされている『魔神戦争』後の三界分断に因る大陸への負担という仮説に付け加え、更なる可能性が書かれている」

 視線を本へ落としたまま、ノアは淡々と続ける。

「この著者の考えでは、大陸が五つに分かれる以前に大規模な戦争が起こり、その時に発生した何らかの魔力的現象が、三界分断時の負担を加速させた可能性があるとしている」

「つまり、故意であれ過失であれ、人為的に起こったと?」

 ステラの言葉にこくりと首が振られた。

「でもさ、あくまで仮説なんだろ、それ?」

 二つ目のおにぎりを手に、アレンが口を挟んだ。

「確かにそうだが、この著者は地の大陸でも名の知れた魔導科学者でもある。他の者では解明出来ない事象も、彼ならば解き明かせるのかも知れん」

「地の大陸の? あの、もしかしてその方は……」

 その人物に心当たりがあるのか、ステラは確かめるように視線を向けた。

「あぁ、エインズリー博士だ」

「やはりそうでしたか……」

「………誰?」

 その名を聞いて何かに納得したステラとは対照的に、アレンは首を傾げた。

「ここ二、三年でいくつもの【失われし魔法ロストスペル】を解読して、画期的な魔導科学技術を発明した天才魔導科学者です」

「最も代表的な発明として、セフィロトの森に使われているものと同程度の質の結界装置が知られている」

「へぇ~、すごいんだな」 

 あの結界の凄さは身を以て知っていた。何せ六年前に結界の内側であれだけの騒ぎを起こしたというのに、外には全く知られていなかったのだ。もっとも、そのおかげで面倒なことにはならずに済んだのだが。

「でももしそれが本当なら、今までの歴史が変わるぐらいの大発見じゃないですか。その魔力的現象っていうのが何なのかは書いてるんですか?」

「いや、流石に其処までは書かれていない。それが仮定の域を出ない理由だからな」

 珍しく興味津々なリオンとは対照的に、

「まぁそれが本当だったとしても、俺たちには関係ないだろ」

 アレンはこれといって関心が沸かないようだった。

 無表情のまま、ノアは小さく溜め息を吐く。

「……お前はもう少し歴史に興味を持つべきだと思うがな」

「んなこと言ったって、今さらそんな昔のことを知らなくても世界が終わるわけじゃないだろ? また大陸が分かれるってんなら別だけどさ」

「お兄ちゃんからしてみれば、歴史の年表が変わってまた憶えなきゃいけない方が重要だもんね?」

「うっ、バレたか……」

 もっともらしいことを言いはしたが、その建前は見事に見破られた。

「いやぁ、暗記系は感覚じゃどうにもならないから苦手なんだよ」

「っていうか、他の科目は感覚でどうにかなってるんですね……」

 いったい第何感が発達したらそんな特技が身に付くのか、訊いたところで答えは出ないのだろう。

 しかし、苦笑いをしながら後頭部へ手をやったアレンは、

「……まぁ、俺達が此処ここで考えても如何どうにもならないという点は認めるが、お前はそもそも今の年表を憶えているのか?」

 その言葉にギクリと表情を固めた。



    †   †   †



『一日目・昼』



 七人を乗せたランドハウスは、昼が少し過ぎた頃に王都へ到着した。

「ん~……っ、やっと着いたわね」

 ランドハウスから降りたシャルは、大きく伸びをしながら空を仰いだ。

「おはよう、シャルちゃん」

「あらアクア、。良く眠れた?」

 後ろから聞こえてきた声に、シャルは少しだけ皮肉を籠めて応えた。

「うん、お陰様で。まだちょっと眠たいけど」

 常の通りにどんな凶悪犯をも一撃で改心させ得る微笑みを浮かべるアクアは、言葉通りまだどこか眠たげだった。

「ほんと、たまにどんだけ寝るんだってぐらい寝るよな、アクアって」

「でもほら、寝る子は育つって言うし」

 呆れた声を出しながら降りてきたアレンに、イリスが苦笑しながら続いた。

「じゃあイリスはアクア以上に寝ないとダメだな。いっぱい食べてるのにちっとも背ぇ伸びないし」

「むぅ~、またそういうこと言う! ちゃんと伸びてるもん! 去年だって一センチ伸びたし!」

 アレンの意地悪い声に、イリスは大きく頬を膨らませた。

「まったく、あんたは少しデリカシーってもんを知りなさい。大体イリスはこのちっこいのが可愛いんじゃない」

「シャル、それフォローになってない……」

 シャルが腰に手を当てて呆れたように言うと、今度はガクッと項垂れた。

「ま、まあまあ。身長なんてすぐに伸びますから、元気を出してください、イリス先輩」

「ステラ、君が言ったら逆効果だと思うんだけど」

「えっ、どうしてですか?」

「………いや、なんでもないよ。気にしないで」

 小首を傾げるステラを見上げて、リオンは溜め息を吐いた。

「……何でも良いがそろそろ出発しないか? 此処に留まると如何にも目立つ」

 その遣り取りを無言で眺めていたノアが、周囲を見渡してボソリと呟いた。

 アレン達は王都を囲む高い防壁の東門を越えたところにある小さな広場に居るのだが、ランドハウスとクルススドラゴンが昼間の往来を行き交う人々の視線を集めていた。

「そうだな。じゃあおっちゃん、ありがとう」

「おう。またの御利用、心より御待ちしております」

 鍔付き帽子を脱いで紳士っぽくお辞儀をした御者は、再び座席へ跳び乗って手綱を握る。

「はっ!」

 短い掛け声と共に、ランドハウスは街の出口を目指してゆっくりと進み始めた。

「またなー!」

 アレンはそれを見送りながら陽気に手を振った。

「さーて、そんじゃあ飯にしますかぁ」

「どこで食べましょうか?」

「港から近いところにしましょう。付いてきて」

 そう言うと、シャルは街の中心部へ向かって歩き出した。

「シャル先輩は王都にお詳しいのですか?」

 迷いもなくスイスイと進んでいくシャルの隣に並んだステラは、高めの身長の自分よりもさらに背の高い少女を見上げた。

「私は実家がこっちにあるから、休暇とかに帰って来てるのよ」

〝火の一族〟と称されるシャルの実家、イグニス家は、本来これから向かう火の大陸出身の一族なのだが、何百年も昔にこの大陸へと本家を移していた。

 世に名高い名家の一人娘ともなれば休暇中は貴族間の様々な催しに参加せねばならず、シャルの父親が仕事の都合で本家とは別に王都に居を構えているので、その際シャルはそこで過ごすようにしていた。ちなみにガーデンに居たシャルの母親であるフェルナも、シャルが寮へ入ったのを機に家だけを残してそこへ移り住んでいる。

「ステラはこっちの王都は初めてなの?」

 言いながら、イリスは歩調を速めることで短い歩幅の差を埋める。

「はい。ガーデンへは転移装置を使って直接来たので」

「じゃあ、ちょっとだけ街の説明してあげるね?」

「ふふっ、お願いします」

 朗らかな笑顔が可愛らしくて、ステラはニッコリと微笑み返した。

「えっとね、この王都アルモニアには東側と西側、南にある港の三ヶ所に門があって、見ての通り背の高い防壁が街の周囲と南の海の一部を囲んでるんだよ」

 イリスは小さな指を三本立てた。

「街の南側は港とくっついてるから、魚介類中心に食料品店がいっぱいあるの。いま歩いてる東側は一般市街、西側は貴族街って呼ばれてるんだよ。シャルの実家はこっちだね。それから、」

 一度言葉を切ると、今度は進行方向へ向かってまっすぐ指を伸ばした。

「このまままっすぐ行くと中央広場で、お城は北側にあるよ。ほら」

 言われた方角には、民家の屋根越しに巨大な城の一部が窺えた。

「ざっくり説明するとこんな感じかな?」

「ほ、本当にざっくりですね……」

「何気に食い物のとこだけはしっかり説明してるけどな」

 後ろで聞いていたアレンがやれやれと溜め息を吐いた。

「だって、ここのお魚料理ってすっごくおいしいんだよ!? あれを食べないでお兄ちゃんはここで他になにするって言うの!?」

「他にやることなんかいくらでもあると思うけどな」

 当然とばかりに声を荒らげたイリスに、アレンは呆れ果てて肩を竦めた。

「言っておくけどイリス、前みたいに勝手にどっかに行かないでよ? そんなに時間がある訳じゃないんだから」

 シャルの溜め息混じりの声に、イリスは頬を膨らませる。

「わかってるよぉ。その代わり、クエストが終わったら向こうでおいしい物いっぱい食べようねー、ステラ?」

「私は、食べるよりもお買い物の方が……」

「じゃあお買い物もっ! あっちにしかない物とかもあるんだよっ。例えばねー……」

 そのまま二人は、まだ始まってもいないクエストの後の話で盛り上がっていった。

「別に反対はしないけど、これからもクエストで結構寄る事になるから、ステラとリオンはこの街の地理もちゃんと憶えなきゃ駄目よ?」

 そんな二人に若干呆れながら、シャルは歩みを止めた。

「さっきイリスが説明したけど、ここが中央広場よ。この街のギルドはここにあるから憶えておいて」

 中心に大きな噴水が置かれたそこは、多くの人々で賑わいを見せていた。

「で、港はこっち」

 進む方角を変えて、再び歩き出した。

「ってことは、あっちがシャル先輩の実家がある貴族街ですか?」

 リオンが来た道の正面に見える大通りを指差した。その先には、そこまで目にしてきた民家とは段違いに質の良い家々が建ち並んでいた。

「……まぁ、そういう事ね」

 それだけ言うと、シャルはそちらには見向きもせずに先へ進んでいった。

「……僕、なんかまずいこと言った?」

「さぁ……?」

 キョトンとしながら自分を指差したリオンと同じく、ステラも首を傾げるしかなかった。



    †   †   †



『一日目・昼 そのニ』



 しばらく歩いていくと徐々に街並みが民家から商店へと変わっていき、正面から潮の香りの混ざった風が吹いてきた。

「着いたわ。ここが港街よ」

「わぁ……!」

 ステラから感嘆の声が上がった。

 中央広場も賑わっていたが、港街の賑わいは全くの別物だった。中央広場や一般市街は穏やかで落ち着きのある賑わい方だったが、こちらは喧騒と言っても良いほど人々が活き活きとしている。特に、奥へ進むにつれて増えていく出店や魚屋の客引きが怒号のように飛び交っていた。

「すごいですね。おんなじ街なのに雰囲気が全然違うや」

 街の雰囲気の差に、リオンも呆気に取られていた。アクアがその様子ににっこり笑い掛ける。

「ここは王都でも一番活気があるの。港の近くには魚市場があって、新鮮な魚介類がいっぱい売ってるんだよ」

「へぇ~。……あれ?」

「どうかしたか?」

 突然周囲をキョロキョロ見渡し始めたリオンに、アレンが首を傾げた。

「…………イリス先輩は?」

「はっ!?」

 バッと振り返ると、つい先程まで傍に居た筈のイリスが消えていた。

「さっきの嬢ちゃん、凄い勢いで走ってったなぁ」

「いやぁ、若いってなぁ良いなぁ、オイ!」

 不意に耳に届いた会話に、六人の間に沈黙が漂った。

「もうっ、言った傍から! 追い掛けるわよ!」

 ハッと我に帰ったシャルは、額に青筋を浮かべて人混みの中へ駆けていった。

「あっ、おい待てよ、シャル!」

 アレン達も慌ててその後を追う。

「お、追い掛けると言っても、イリス先輩がどこへ行かれたのか分かるのですか?」

 ステラは人混みをすり抜けながら前方を見渡したが、イリスの姿は全く見えなかった。

「大体の見当は付くわよ! もう、肉体強化まで使ってるわね! アレン、ノア! 先に行って取っ捕まえて!」

「ったく、しゃーねーな、っと!」

「…………」

 金色こんじきと漆黒の光に身を包んだ二人は、人混みを避ける為に屋根へ跳び乗ってみるみる遠ざかっていった。

「で、でも、場所が分かってるんならそんなに急がなくてもいいんじゃ?」

「それじゃあ遅いのよ!」

 先頭を走るシャルの顔には尋常ではない焦りが浮かんでいた。

「さっき、前のクエストでイリスちゃんが勝手にどこかに行ったって言ってたじゃない?」

 走りながら喋るアクアの笑顔も、少し苦いものになっていた。

「その時もこうやってみんなで探してやっと見付かったんだけど………イリスちゃんってほら、よく食べるから……」

「お店の営業を強制終了させるのはじゃ済まないわよ」

 アクアのどこまでも控え目な表現を、シャルが迷いなく打ち砕いた。

「で、ですが、イリス先輩、ちゃんとお金を持っていたのですよね?」

 その言葉にシャルは一層険しい表情をする。

「そんなの途中の出店で全部消えたに決まってるじゃない」

「で、ではアレン先輩が……?」

「私が払ったわよ! 金貨五枚、銀貨三十六枚、銅貨七十八枚全額! そんな大金アレンに払える訳無いじゃない!」

 金貨一枚あれば大人が一月普通に暮らしてもお釣りがくるのだから、シャルが憤るのも無理はなかった。ちなみに銅貨百枚で銀貨一枚、銀貨百枚で金貨一枚となる。

「ホントに今度こそとっちめないと、私の財布が持たないわ!」

「……って、貯金してるって言ってませんでしたっけ?」

 他人の食費で自分の財布が軽くなるのは確かに嫌だが、毎月祖父から送られてくる大金を全て貯金に回しているのならそう簡単にはなくならないだろう。

 しかし、シャルは首だけ振り返ってキッと睨み付ける。

「それとこれとは別よ! 大体あんなに食べて何で太らないのよ、あの子!?」

「しゃ、シャルちゃん、怒るところが違う気がするんだけど……」

 今にも爆発しそうな勢いの少女に、アクアが苦い微笑みを浮かべた。

「とにかく! 一刻も早く追い付くわよ!」

「ですが、行き先も分からないのにどうやって追うのですか?」

 ステラは付いて行っているだけなので、シャルがどこへ向かっているのか見当が付かなかった。

「見当は付くって言ったでしょう? それに………ちょうど良いわ、ついでだから教えてあげる。どうしてイリスが肉体強化を使ったって分かったと思う?」

「えっと………どうしてですか?」

 走りながら少し考えを巡らせたステラは、良い答えが浮かばなかったのか、申し訳なさそうに訊き返した。

 シャルは少しペースを落とすと、そのままステラの隣に並ぶ。

「ま、解らない事を素直に訊くのは良い事よ。答えはね、魔力をのよ」

「魔力を………ですか?」

 イマイチ意味を理解出来ず、困惑した声が返った。

「正確に言うと魔力の痕跡をね。ステラ、肉体強化してみなさい」

「あっ、はい」

 すぐさまステラの身体が淡い土色の光に包まれた。特に意識を集中することもなく発動出来たのは、この三週間の鍛錬の賜物だろう。

「今の状態って、どこにも集中してないわよね?」

「はい」

 人にぶつからないように走りながらも、ステラははっきりと頷いた。

「じゃあ、目を凝らす感覚で強化に使ってる魔力を目に集中してみて」

「目に、ですか?」

 ステラが言われた通りに身体を覆っている魔力を徐々に目に集めていくと、

「何が視える?」

「………銀色の……線、みたいな物が……あと、建物の上に、金と黒の物も……」

 薄くだが、確かにそれらの光が港へ向かって伸びていた。銀色の光は途中に幾つもある出店に寄っていたが。

「それが魔力の痕跡よ。本来は遺跡探索とかで魔法のトラップを見抜くのに使うんだけどね」

「そう、なんですか……んっ」

 限界が来たのか、ステラは苦しげな声と共に肉体強化を解いた。

「慣れれば肉体強化を使わなくても視れるようになるわよ。リオンみたいにね」

「あっ、やっぱりわかってました?」

 二人の前を走るリオンは、悪戯がバレた時のような表情を浮かべた。

「……リオン君はもう出来るのですか?」

「まぁね。戦闘中に相手の魔法の前兆を察知したり魔法の性質を見抜いたりもできるから、結構使えるんだよ。………ステラ、どうかした?」

 リオンが振り返ると、何故かステラは顔を伏せていた。

「………いえ、分かってはいましたが、改めて差を実感してしまって。私なんてまだ肉体強化だけで精一杯ですし……」

「あー………」

 みるみる落ち込んでいく少女に、リオンはどうしたものかと頬を掻いた。その間にもしっかり人を避けている辺りは流石と言う他ない。

「鍛錬でも結局アレン先輩達に一度も攻撃を当てられませんでしたし……やはり才能がないのでしょうか、私……」

「――しっかりしなさい!」

 不意に立ち止まったシャルの一喝が、その場に響いた。

「リオンは知ってるから使えるだけ! ステラは知らないから使えないだけ! そこに差なんてないの! 本当に差が出来るのは知った後に努力するかどうかで決まるの! 大体中級の肉体強化だって本当は二、三週間で修得出来るもんじゃないのよ? だからもっと自信持ちなさい!」

 周囲の視線を受けながらも、毅然きぜんとした瞳が、少女の茶色のそれを見つめる。

「シャル先輩……」

 短く息を吐きながら仕方ないなといった風に表情を緩めて、シャルは思わず涙を浮かべた目に手を伸ばした。

「ステラは才能もあるしちゃんと努力もしてる。あんまり自分を卑下にするもんじゃないわよ? 自分を信じられない人は何をやっても上手くいかないものなんだから」

 伸ばした指先で雫を拭って、今度は優しく微笑み掛けた。

「ほら、笑って。せっかくの可愛らしい顔が台無しじゃない」

「っ、はいっ……!」

 ステラはまだ止まらない水滴を拭って、無理矢理作った笑顔を向けた。

 それが少し可笑しくて、シャルはクスリと笑う。

「もう、泣き虫ねぇ。涙は女の子の武器なんだから、いざって時に使わなきゃ駄目よ? さっ、早く追い掛けましょう」

 そう言って、再び人混みの中へ駆けていった。



「まったく、世話の掛かる後輩ね」

「ふふっ」

 小さな溜め息の横から、そんな声が飛び込んできた。

「………何よ、アクア?」

 いつの間にか、アクアがにこにこしながら隣を走っていた。いつも見せるその笑顔には、一層嬉しさが加わっているように見える。

「優しいね、シャルちゃんは」

「な、何言ってんのよいきなり!?」

 唐突な言葉に、シャルは思わず戸惑った。

「ステラちゃんって、結構自分を追い込んじゃう性格みたいだから、励ましてあげたんだよね?」

「べ、別にそんなんじゃないわよ! ただ……」

「ただ?」

 変わらず笑顔のまま訊き返されて、不機嫌そうに眉を寄せる。

「……ただ、昔の自分を見てるみたいで腹が立っただけよ」

 言って、自分の言葉でさらに顰めっ面になった。

「……やっぱり、シャルちゃんは優しいんだよ」

「もう、勝手にそう思っときなさいよ……」

 やはり変わらぬ笑顔に、シャルは観念するように溜め息を吐いた。



    †   †   †



『一日目・昼 その三』



 先にイリスを追い掛けていたアレンとノアは、屋根伝いに移動しながら屋台や飲食店を中心にあちこち視線を向けていた。

「ったく、イリスの奴どこ行ったんだよ」

「魔力の痕跡が見当たらないという事は、此処らに居る筈なんだが……」

 どうやら肉体強化を解いたようで既に手掛かりだった魔力の痕跡も消えており、二人は注意深く辺りを見渡していたが一向に発見出来ずにいた。が、

「……ん? アレン」

 ふとノアが指差した先に、人集ひとだかりが出来ていた。

「………行ってみるか」

 他に当てがある訳でもないので、二人は屋根を降りてそこへ向かうことにした。

「すげぇ人集りだなぁ……前見えねぇし」

 人集りは広い道路を殆ど二分していた。

「ちょっと、失礼、っと……」

 後ろからでは何が起きているのか良く見えなかったので、アレンは強引に人の壁に身を捩じ込んでいく。

「貴族の兄弟ですって。やぁねぇ……」

「しっ! 聞こえたら私達まで巻き込まれるわよ!?」

「…………」

 途中で声を潜めた会話を耳にしながら、ようやく人の壁の出口へ辿り着いた。

「あーあ、せっかくこんな魚臭いとこまで来たってのに、目当てのもんは売り切れだってよー!」

「なんでも、どっかの大食い女が全部食べちゃったらしいよ、兄さん?」

 すると、なんともわざとらしい会話が届いた。

 野次馬から抜け出すと、ガッチリした大柄な男と背の低い痩せた男が視界に映った。腰の細剣と他の者より上等な服装、お揃いの赤褐色の髪から察するに、この二人が貴族の兄弟のようだ。

 意地の悪そうな顔付きをしている二人は、ニヤニヤと笑いながらその正面を見ている。アレンが視線をそちらへ移すと、二人に背を向ける形で、尋ね人である銀髪の少女が屋台の前に佇んでいた。……のだが、

「おじさん、このプラチナフィッシュの塩焼き、すっごく美味しいね! さすがアルモニアの名物料理!」

「あ、ありがとう、お嬢ちゃん……」

 串に刺された焼き魚を堪能しながら苦笑いを浮かべた店主に話し掛けるイリスは、兄弟のことなど全く眼中にないようだった。

「い、いい加減こっち向きやがれ!」

「お前だよ、銀髪の!」

「ふぇ?」

 完全に無視されたことに怒った兄弟が声を荒らげると、ようやくそれに気付いて後ろを振り向いた。魚は頬張ったままだったが。

「や、やっとこっち向いたよ、兄さん……」

「ふ、普通あんだけ言ったら気付くだろ、クソッ……」

 どうやら先程からずっと遠回しにネチネチ嫌味を言っていたものの、全く気付いて貰えなかったらしい。

 気を取り直して、大柄な男が再び責め立てる。

「さぁ、どうしてくれるんだ、嬢ちゃん?」

「んっと、何が?」

 が、すぐにガクッと崩れ落ちた。

「に、兄さん! 元気出して!」

「いいんだ……どうせ俺なんか……」

 弟が慌てて声を掛けたものの、兄の方は完全に落ち込みモードへ突入していて、グルグルと指先で地面に円を描き続ける。

「えっと、大丈夫?」

「お前のせいだよ!」

 首を傾げる少女に弟が噛み付いた。

「とにかく、僕達はせっかくこんなとこまで来たのにお目当てのプラチナフィッシュが全部お前に食べられてムカついてるんだよ! どうしてくれるんだよ!?」

「そうなの? ん~っと、じゃあ……」

 ようやく状況を理解したらしく、顎に指を当てて何かを考え始めたイリスは、

「食べる?」

 笑顔で食べ掛けの焼き魚を差し出した。

「要らねぇよ! 食い掛けじゃねぇか!」

「あっ、復活した」

 兄がツッコむ為に見事復活を果たした。

「はぁ、ダメだこりゃ……」

 一連のやり取りに深く溜め息を吐いて、アレンは人垣からイリスへ近寄る。

「……おい、イリス」

「あっ、お兄ちゃん! 食べる? 滅多に捕れないプラチナフィッシュの塩焼き!」

「食べない。ったく、何やってんだよ」

「いたっ!?」

 アレンは笑顔で差し出された焼き魚を押しやって、イリスの額を小突いた。

「あぁん? てめぇ、この嬢ちゃんの兄貴か?」

 その様子を見ていた兄弟の兄の方が、アレンに思い切りガンを飛ばしてきた。貴族というより、どこぞのチンピラのようだ。

「悪いなあんたら、ウチの妹が迷惑掛けたみたいで。でもまぁなくなっちまったもんはしょうがないし、今回は諦めて貰えないか?」

「ふざけんな! 『なくなりました』で納得出来る訳ねぇだろ!」

「お前、僕達が誰だと思ってそんな嘗めた口利いてるんだ!?」

 アレンがニカッと笑って謝罪すると、兄弟はさらに怒りをあらわにした。当然である。

「んー……」

 弟の言葉に、アレンは真剣な面持ちで顎に手を添えた。

「知ってるか、イリス?」

「んーん、知らない」

 しかし知らないものは知らなかった。

「に、兄さん! しっかりして!」

「いいんだよ……どうせ俺なんかそんなもんだよ……」

 またしても落ち込む兄を弟が宥める。どうやら精神力は弟の方が強いらしい。

「ク、クソッ、馬鹿にしやがって! 俺達はオルコット伯爵家のモンだぞ!?」

「そ、そーだそーだ! お前ら平民なんかどうにでもできるんだぞ!」

 再び気を取り直した二人は、腰に帯びている細剣を、柄を見せ付けるように突き出した。見事な銀細工が施された柄には、確かに家紋のような物が彫られていた。

(あぁ、なるほどな)

 だからか、とアレンは心中で頷いた。伯爵家と言えば、貴族の中でもかなりの力を持つ家柄だ。周りの野次馬が誰も口を挟まないのも仕方のないことだと言える。

(うーん、どうすっかなぁ……)

 普段ならそんなことを気にするアレンではないのだが、今はクエストの最中なので(正確にはまだ始まってすらいないのだが)面倒事は極力避けたかったし、貴族と揉めたとなると後々ややこしくなり兼ねない。なにせ、アレンもイリスもガーデンの制服を着ているので身元はバッチリなのだ。

(『爽やかに笑ってこの場を凌ぐ大作戦』はなんでか失敗したし、ここはできるだけ穏便に……)

 その作戦が通用するのは、「アレン=レディアント ファンクラブ」の会員だけだろう。

 そんなことを考えていると、

「だーっ! もう我慢ならねぇ!」

「なっ――!?」

 黙ったままのアレンに痺れを切らしたオルコット(兄)が右手を掲げ、その掌に赤褐色の魔法陣が顕れた。

「これでも喰らえ! 【豪炎の咆哮ファイアブレイズ】!」

 叫びと共に、全てを焼き尽くさんとばかりに業火の塊が放たれた。

 標的は――

「イリス!」

「――――っ!!」



 重く大きな爆発音が鳴り響き、黒ずんだ煙が立ち上った。



 突然の事態に、野次馬から悲鳴が上がる。

 しかし、

「――ゲホッ、ゴホッ……あっぶねぇなぁ、ったく……」

 立ち上る煙の中から、咳き込みながら悪態を吐く声が聞こえた。

 やがて煙が晴れていき、イリスを庇う形で両手に剣を構えたアレンの姿が現れた。それを見た野次馬から、安堵の息が漏れる。

「別に自分で防げたんだけどね」

 まだ咳き込んでいるアレンに肩を竦めるイリス。こちらはどうやってか、咳き込む素振りすら見られなかった。

「そう言うなって。妹を護るのが兄貴の役目ってやつなんだよ」

「ふふっ、そうだね。ありがと、お兄ちゃん」

 苦笑するアレンの言葉に、イリスは手を後ろで組んで嬉しそうに微笑んだ。

「さぁて、さすがにこれなら正当防衛ってことになるだろ」

 反撃の大義名分を得たアレンの表情は明るかったが、少し腹が立ったのか、その額には青筋が浮かんでいた。

「く、来るんじゃねぇ!」

 予想を裏切り傷一つ負わずに近付いてくるアレンに、オルコット(兄)はジリジリと後退った。

「悪いけど一発は一発だからな。それにそっちは不意打ちのうえに、よりにもよってイリスを狙ったんだ……」

 言いながら、アレンは剣を軽く左右に振ると、

「文句は言うなよ?」

 表情はそのままに、声だけを凄ませた。

「――っク、クソッ! 【ファイア――」

「させるか!」

 再び魔法を放たんと右手を掲げたオルコット(兄)が、半ば悲鳴のように叫んだ。

 それを防ぐべく、アレンは剣を構えて駆け出した。

「――って、あら?」

 ――つもりだったのだが、不意に目の前に黒い影が降り立ったのを見て急停止した。

「ヒッ――!」

「動くな」

 気付けば、オルコット(兄)の正面で体勢を低くしたノアが、その首筋に身の丈よりも長い漆黒の刃を添えていた。

「いつの間にかいないと思ったら、お前どこにいたんだよ?」

 突然現れた少年に呆れて、アレンは腰へ手を当てた。

「上から見ていた。それでも初撃は遠くて間に合わなかったが……」

「ヒィッ――!?」

「に、兄さん!」

 ノアがグッ、と刀を握る手に力を込めると、兄弟から短い悲鳴が上がった。

「ま、ままま待ておおおお落ち着け! おおおお前ら俺達にこんなことしてどどどどうなるか分かってんのか!?」

「あら、一体どうなるって言うのかしら?」

 焦ってどもりまくるオルコット(兄)に、野次馬の中からそんな声が返ってきた。

 その場に居た全員の視線が、そこへ集中する。

「あ……」

「シャル!」

 現れたのは、流麗な緋色の髪と、凛然たる炎の瞳を宿した少女だった。

「だ、誰だ、てめぇは! 関係ねぇ奴はすっこんで――」

「に、兄さん!」

 突如現れた少女に視線だけを向けて(首筋にはまだ刀が宛てがわれている)噛み付いたオルコット(兄)を、弟が突然震える声で制止した。

「そ、その人の、髪と、目の、色……!」

「?」

 オルコット(弟)は、小刻みに震えながらシャルを指差した。一層怯え始めた弟を怪訝に思って、オルコット(兄)は再び横目で少女の姿を捉える。

 その髪と瞳の色は、同じ輝きを放つ鮮やかなあか

「色が何だってんだ。別に普通のひい、ろ……?」

 燃え盛る炎のように力強く、凛とした緋色。

「あ……ああ、アンタは……まさか……」

 それは、この広い世界でもある者達しか持たない、強者の証。

 人々は彼女らのことを、畏敬の念を持ってこう呼ぶ。

「『火の、一族』……!?」

 途端に、オルコット(兄)の全身から冷や汗が溢れ出し、血の気が引いていった。 

「もう一度訊くわ。誰が、誰に、何をやったら、どうなるのかしら?」

 オルコット兄弟とは正反対に笑顔を浮かべるシャルの掌の上で、ゴゥッ、と炎が舞い踊った。

「う……あ………」

 止まらない汗でびしょ濡れになったオルコット(兄)の顔面には、生きるということがどういうことなのかを忘れてしまったかのような表情が貼り付いていた。

「あら大変、汗でびっしょりじゃない。すぐに乾かしてあげるわ」

 そう言って炎を近付けていくシャル。それでは余計に汗を掻くどころか、火傷で済めば良い方だろう。

「………す」

「す?」

 僅かに聞こえたオルコット(兄)の言葉を、シャルは笑顔のまま訊き返した。

「すいませんでしたぁあああぁああ!!」

「ま、待ってよ兄さぁああぁああん!!」

 兄弟は身体の底から悲鳴を上げて逃げていった。その勢いや、まさに脱兎の如く。

「………行っちまった」

「ね……」

 アレンとイリスは、その後ろ姿をポカンと見つめていた。

「ま、まぁなんにせよ、これで一件落着――」

「してないわよ」

 剣を亜空間に仕舞って軽く息を吐いたアレンに、シャルが言葉を被せた。

「イリス、何か言う事は無い?」

「あ゛……」

 イリスの表情がしまった、という風に硬直した。

「しゃ、シャル、あのね……」

 慌てふためきながら、イリスはこの状況をどうすれば無事にやり過ごせるかを必死に考える。

 が、

遺言ことばは慎重に選びなさい?」

「気のせいかな!? 言葉の字が違う気がするのは気のせいかな!?」

 再び炎を喚び出したシャルに、何を言っても死は免れないことを悟って悲鳴を上げた。

「えっと、その……」

 イリスはそれでもなんとか乗り切ろうと懸命に思考し、

「………食べる?」

 右手に持った騒動の原因である魚が、一瞬で消し炭になった。



 ――その頃。

「………リオン君……ここ、どこですか……?」

「………知らない」

「どうしてまっすぐ道沿いに走っていただけなのに、いつの間にか路地裏にいるんですか、私達……?」

「………知らない」

「変だね? シャルちゃん、どこに行っちゃったのかな?」

 絶望的な表情をしているステラとリオンの前で、アクアが心底不思議そうに首を傾げた。

 それを見て、ステラの目に徐々に涙が溜まっていく。

「グスッ………ここはどこなんですかぁ――――――ッ!?」 

 三人は、迷子になっていた。



    †   †   †



 『一日目・夕方』



 大海原。

 日の傾き掛けた大空の下、一隻の帆船が茜色に染まる世界を突き進む。

「ん~っ、海だぁ~!」

 潮の香りに包まれながら、甲板に立つアレンは大きく伸びをして風に当たっていた。

「こっちに来る時も乗りましたけど、こうやって風に当たると気持いいですよね」

 吹き付ける風を身体全体で受け入れるように、リオンは目を閉じた。

 そうすると、耳に入ってくるのは波の音と帆が風に揺れる音、海鳥の鳴き声。

「うっ………ひっく……グスッ……」

 そして少女の啜り泣く声だった。

「はいはい、もう泣かないの、ステラ」

「だって、ひっく、怖かったんです、ひっく……」

 小さな子供のようにしがみ付いて離れないステラをあやすシャルは、少し苦笑いを浮かべる。

「あぁ、うん、悪かったわ。ごめんなさい、置いてけぼりにして」

 謝罪するシャルに、ステラはふるふると首を振る。

「お、大通りに向かっているのに、いつまで経っても、路地裏から出られないんです………すぐそこに見えるのに、一生、出られないんじゃないかって、グスッ……」

「あぁ、うん、悪かったわ。ごめんなさい、アクアに任せて……」

 シャルの口から苦い溜め息が零れた。

 いつまで経っても姿が見えない三人を見付けて合流したのは、出航時間ギリギリだった。

 一体何をどうすればそうなるのか、街の南側に居た筈がいつの間にか広い港街の端の路地裏へ迷い込んでいたところをノアが発見。全速力で走ってギリギリ船に乗り込んだのだった。

「不思議だよね? どうして迷っちゃったのかな?」

「………お前は自分が方向音痴だという事をそろそろ自覚しろ」

 やはり心底不思議そうに首を傾げたアクアに、流石のノアも溜め息を吐いた。

「なんていうか、ここのところアクア先輩のイメージが『優しい先輩』から『天然ドジッ子』に変わってきてるんですけど……」

「まぁ、あながち間違いじゃないけどな……」

 揃って溜め息を吐きながら、リオンは先程からずっと気になっていたことを訊ねる。

「……で、あれはどうしたんですか?」

 視線の先には、黒焦げになったイリスが倒れ伏していた。

「あー、焼き魚の気持ちを知りたくなったらしい」

「焼き魚、ね……」

 それだけで大体何があったのか解ってしまい、リオンは苦い顔をした。

「いやぁ、でもシャルが来てくれてある意味助かったよ。ノアなんか今にも首吹っ飛ばしそうだったし」

「流石に其処までするつもりは無かったがな。精々頸動脈けいどうみゃくに切れ目を入れるくらいだ」

「いや、それもアウトでしょう……」

 二人して恐ろしいことをさらっと話すので、リオンの苦い顔が少し引き攣った。

「とにかく、向こうに着くまでは自由行動よ。アレン、イリスを部屋まで運んで頂戴」

「はぁ……りょーかい」

「あっ、アレン君、わたしも手伝うよ」

 やれやれと頭を掻いて倒れているイリスを背負ったアレンの後を追って、二人の荷物を担いだアクアも船の中へ入っていった。

「うーん、僕はどうしようかな……」

「お昼、食べてないんでしょう? もうすぐ夕飯だけど、お腹が空いてるなら中に食堂があるからステラと行ってきなさいな」

「先輩たちは?」

「あんた達が迷子になってる間に食べたわ。イリスは気絶してるし、どうせいっぱい食べたから放っといても大丈夫よ」

「あ、そうなんですか……」

 ずっと自分達を捜してくれていた訳ではなかったのかと、乾いた笑いが零れた。

「じゃあステラ、行こうか?」

「グスン……はい……」 

 リオンはまだ泣き止まないステラの手を引いて食堂へ向かっていった。

「さて、と。ノア、あんたは……って訊くまでも無いわね」

「…………」

 シャルがちらりと残った少年へ目を向けると、既に壁に背を預けながら例の分厚い本を取り出して自分の世界へ入り込んでいた。

(ま、適当にブラブラしとこうかしらね)

 別に一緒に行動するつもりは毛ほどもないどころかノアと二人っきりで行動するなんて想像しただけでも全身の毛穴が開くほどおぞましいので、シャルはとりあえず暇を潰す為に一人で船内へ向かった。



    †   †   †



 『三日目・昼過ぎ』



 海流や波の影響などもあるが、長距離用の大型帆船という物は本来、曲線状に張られた帆が捉える風を推進力にして動いている。

 つまり殆ど自然に吹く風次第でその進行速度が変わるのだが、近代以降の帆船にこの条件は当て嵌まらない。現代の帆船は、魔力を籠められる特殊な糸で帆に風属性の魔法陣を縫い込むことで、一定量の風を常に捉えられるようになっており、それによって各大陸への移動速度が格段に上がっていた。

 一昔前まではその糸自体が非常に希少で上流階級や富裕層の者しか利用出来なかったのだが、その原料確保が安定した為、現在では一般市民でも庶民価格での利用が可能となっている。

 そのおかげで、大陸間の移動に多くの時間を費やしていた昔とは違い、今日こんにちでは二日ほどで各大陸へと渡れるのだった。

「……って言っても、さすがに二日も海の上じゃやることなくて暇だよねぇ~」

 船室のベッドに寝そべりながら、イリスは暇そうに足をバタつかせていた。

「船内は一日目に全て廻りましたしね」

 退屈そうな少女に、備え付けのテーブルに着いていたステラが声を返した。

 乗船してから既に二日が過ぎており、船内の探検などの暇潰しも一通り終えてやることがなくなってしまっていた。

「何やってるの~?」

 先程からテーブルの上で何かをしているステラに、イリスは完全にやる気のない声で訊ねた。

「剣の手入れです。もう少しで到着すると、先程シャル先輩が仰っていましたので」

「ほんとっ?」

 ガバッ、と起き上がって、銀色の眼を輝かせた。

「はい、ですからその前にと思いまして。出発前は鍛錬と旅の支度だけで手一杯でしたし」

「へぇ~。お兄ちゃんがやってるの見たことあるけど、武器の手入れってめんどくさそう」

 一転して、今度は嫌そうな顔をした。

「イリス先輩は、普段御自分ではなさらないのですか?」

「だってわたし持ってないもん武器」

「えっ?」

 ステラが驚いたように顔を上げた。

 いくら魔法主体で戦う魔導士タイプとは言え、普通は武器(若しくは防具)を持っているものだ。そうでなければ接近戦や魔法が使えない状況(例えば狭い洞窟内や乱戦など)に対処し切れないだろう。

「では、接近された時はどうなさるのですか?」

「えっ? やっ、その~……ノリ?」

 当然の質問に慌てたイリスは、可愛らしく人差し指を立てて首を傾けた。

「ノリって……もう、誤魔化さないでくださいよ」

 流石にそんなことで誤魔化されるステラではなかった。

「それで、今までどうなさっていたのですか?」

「え、え~っとねぇ……」

 例の巨大に過ぎる剣を置いてベッドに乗り込み珍しくズイッ、と身を乗り出したステラに、イリスは後ろに退きながら言葉を濁した。

「二人とも、そろそろ着くから準備――」

 不意に部屋の扉を開けたアレンが、その体勢のまま固まった。

「………何やってんだ?」

 端から見れば、二人がベッドの上でいかがわしいことをしているようにしか見えなかった。

「あ、やっ、これは……!」

 顔を真っ赤にした二人は慌てて離れた。

「ちっ、違うんだよお兄ちゃん!? これは別に変なことしてたんじゃなくてステラが質問してたらいつの間にかこんな感じになってて、そもそもわたしがお兄ちゃん以外の人とそんなことするわけ――」

「するんですか!?」

 慌てて説明するイリスの問題発言に、ステラが透かさず反応した。

「やっ、ちがっ………しっ、しないよ! ステラのえっち!!」

 自分の言った言葉を自覚して、イリスは真っ赤になった色白な顔をさらに赤くして声を張り上げた。

「………あー、まぁその、あれだ。とりあえずもう着くから、降りる準備しとけよ?」

 アレンは後頭部を掻いて扉を閉める。

「あー、それから……」

 しかし閉め切る直前で一度止めると、

「お、俺は別にその、なんだ? に偏見とかないから。仲がいいのは、いいことだ、うん」

 そう言い残して去っていった。

「「…………」」

 二人の間に沈黙が流れた。

「………はっ!? ちっ、違うの! 待ってお兄ちゃ~ん!!」

「私達の話を聞いてくださ~い!!」

 我に返った二人の必死の弁明で、なんとか最悪の事態は免れたのだった。



    †   †   †



『三日目・夕方』



 一般的に知られている火、風、地、水の四大精霊は、各大陸の名を冠する通りそれぞれの地方に特に多くの加護を与えているが、これは精霊達が他の生物と同じく、生きるうえでより適した環境を選んだ結果に過ぎない。

 つまりは砂漠や火山などの熱帯地域が多い南の大陸には火の、年中風が吹く渓谷や森の多い西の大陸には風の、水場や氷雪地帯が多い北の大陸には水の、良質な大地や鉱石を多く含む東の大陸には地の精霊達が多く棲んでいるのだ。

 さらに全ての大陸に存在するそれらの環境にもそこに適した精霊が多く感じられることから、世に居る多くの魔導士達は、より効率良く特定の属性の修練を積む際にそれらの地に足を踏み入れることが多く、その効果は推して知るべしだった。

「………あ゛っづー……」

 「火」の大陸、と言うだけのことはあり、夕方だというのに気温はガーデンの昼間よりも高く、港へ着いたアレン達の額からは拭いた傍から汗が溢れていた。

「火の精霊の加護が強い証拠よ。さ、早くギルドへ行きましょう」

 溢れる汗を拭いながら、シャルは街へ向かって歩いていく。

「それにしても、本当に暑いですね……夜寝られるかな……」

 そんな心配をしながらも、リオンの首にはしっかりと藍色のマフラーが巻かれていた。見ているだけでも相当に暑苦しい。

「夜は暖かくするのをお勧めするわ」

「どうしてですか?」

 ステラが水を飲みながら訊き返した。

「こっちの夜は一気に冷えるのよ。低い時は氷点下まで下がるわよ」

「う゛ぇ~……」

 それを聞いたイリスが肩を落として呻いた。

「――っあ゛ぁ~! あっついなぁ、もう!」

 遂に限界が来たのか、アレンが声を荒らげながら制服の上着を鬱陶しげに脱いだ。

 これで少しは涼しくなるだろう、とアレンはさっぱりした顔をする。

「よーし、これでちょっとは涼しく……」

 が、涼しくなるどころか、陽射しはより一層強くアレンの身体を突き刺した。

「ぅあっちゃ~!?」

 焼けるような暑さに思わず飛び跳ねる様子に、シャルが呆れる。

「馬鹿ね。ウチの制服は温度調節の術式が籠められてるのよ? そんなの脱いだら余計暑いに決まってるじゃない」

「ってことは、それも効かないぐらい暑いんですか、ここって……?」

「そういう事。まっ、自然の力には抗えないって事ね」

 言い捨てて、シャルはどんどん先へ進んでいく。

「……シャル先輩、なんであんなに平気そうなんだろう……」

 心なしか機嫌が良さげなシャルに、リオンが疑問の声を上げた。

「シャルちゃん、火の精霊に好かれてるからじゃないかな?」

 答えたアクアは、汗を掻きながらもやはり笑顔を絶やさない。

「尚更暑そうなんですけど……」

「きっと、暑さよりも高揚感の方が勝ってるんだよ」

「そんなものですか……?」

 イマイチ納得出来ないのか、リオンはまだ眉を寄せていた。

「……アクアぁ~……お水ちょおだぁい……」

 と、イリスが死に掛けのような声で救済を求めてきた。これには流石のアクアも困った顔をする。

「えっと……ごめんね、イリスちゃん。シャルちゃんが、『すぐに出すと癖になるから駄目よ』って……」

「そんなぁ~……!」

 先を読まれたイリスは絶句した。断っておくがアクアは全く悪くない。

「もうちょっとでギルドだから、ね?」

 この状況で他人を気に掛けられる優しさが、アクアがアクアたる所以なのだろう。

 一方、適度に水分を摂りながら歩くステラは、この暑さでも文句一つ垂れないノアをちらりと窺う。

「ノア先輩、暑くはないのですか……?」

「……無論暑いが、動きを最小限に留めれば騒ぐ程ではない」

 言いながら、唇の動きすらも最小限に留めていた。ここまで来ると、流石という言葉以外ステラには思い付かなかった。

「シャル~、まだぁ~?」

「もう着くわよ。ほらそこ」

 げんなりしたイリスの言葉に再び溜め息を吐いたシャルは、すぐ傍に見える建物を指差した。

「……あれがギルドですか?」

 リオンから疑念の籠った声が上がった。というのも、そこはどこからどう見てもただの酒場にしか見えなかったのだ。

「まぁ大抵のギルドは酒場と兼用で建てられてるからな。ガーデンのやつも似たようなもんだぞ? あぁ~、やっと涼める」

 再び上着を着たアレンは、一刻も早く涼む為に颯爽と中へ入っていった。

「……あの~、私達未成年なのに入っても大丈夫なのでしょうか?」

 ステラの当然の疑問を、

「言ったでしょ、兼用だって。お酒さえ飲まなけりゃ大丈夫よ」

 肩を竦めたシャルが蹴散らしてアレンに続く。

「本当に大丈夫だよ。そもそもだめだったらクエスト受けられないし」

 まだ不安を拭い切れない二人を後押しするイリスに続いて、アクアとノアも中へ入っていった。

「………行こう、ステラ。今さらどうにもできないよ」

「そうですね……」

 納得というよりも諦めに近い感じで、残された二人も後を追った。



 ギルドの中は大勢の客が酒を仰いで賑わっていたが、その喧騒はアレン達が現れたことで若干の鎮まりを見せた。

「すいません、学生用クエストの許可証発行しに来たんですけど」

 空調の効いた部屋へ入って元気になったアレンは、突き刺さるような視線をモノともせず、カウンターの奥のエプロンを掛けた若い女性へ声を掛けた。

「あら、いらっしゃい。話は聞いてるわ。立ち話もなんだし、向こうのテーブルに行きましょうか」

 茜色のロングヘアーと茶褐色の瞳を持った女性は、ニッコリ笑うと七人を奥の大人数用のテーブルへ促した。

「ゲッヘヘヘ……坊主達ぃ、ここはガキの来るとこじゃねーぞぉー」

 それに従い奥へ進むアレン達に、通路の傍にあるテーブルから下卑た笑い声が飛んできた。見ると、屈強な肉体の男達が、酒瓶片手にニヤ付きながらこちらを見ていた。

「酒も飲めねぇ鼻垂れ坊主共は、家でママのおっぱいでも飲んでなぁ!」

「いやいや、嬢ちゃん達はなかなかのタマじゃねぇか! どうだい? こっち来ておじさん達の相手しちゃあくんねぇか?」

 その言葉に、男達は下品に大笑いする。

「………っ」

「大丈夫だって、ステラ。何もしてきやしねぇよ」

 思わず後退ったステラに、アレンは優しく笑って頭に手を置いた。

「……おっ?」

「あっ……」

 気が付くと、男達の目の前にシャルが立っていた。

「へへっ、何だぁ? 嬢ちゃんが相手してくれるのかぁ、おい?」

 一番手前に居た髭を生やした茶髪の大男は、その場に立つといやらしい目付きで嘗め回すようにシャルを眺める。

「へへへっ、こりゃなかなかのべっぴんさんじゃ――」

「不潔」

 唐突に、はっきりと、不快感を包み隠すことなく言い放った。

「汚らしい。下品。不快。どんな言葉でも足りないくらい、品性の欠片も感じられないわね。私達があんた達の相手をする? お金を積まれたってお断りよ。まだ馬の糞の方がマシだわ」

 グサッ、グサッ、とシャルは遠慮なしに罵詈雑言を突き刺していく。

「うわぁ……」

「シャル先輩、馬の糞だなんて……」

 苦い顔をするアレンの後ろで、ステラが女の子らしからぬ言葉に赤面しながら顔を覆い隠した。

「こっ、の、ガキッ……!」

 青筋を立てて顔を引き攣らせる大男に、シャルは止めの一撃を放つ。

「あら、ごめんなさい? つい本音が出ちゃったわ。ついでにその汚らしい顔を仕舞ってくれると助かるんだけど……」

「てめぇえええ!!」

 遂にキレた大男が拳を振り上げた。

「シャル先輩!」

「フンッ……」

 慌てて声を上げたステラとは対照的に、シャルは短く鼻を鳴らして右手を構えた。

 その時。

「グヘァッ――!?」

「!?」

 突然、シャルに襲い掛かろうとしていた大男が勢い良く吹き飛んでテーブルへ突っ込んだ。

 騒然とする中、先程の茜色の女性が、大男の居た場所に立っていた。

「……アンタら、ウチのルール破る気?」

 瞬間、大男の仲間達から血の気が失せる。

「いっ、いやっ、滅相もないっ!」

「ちょ、ちょっと酒に酔い過ぎただけっすよ、マスター!」

 慌てて弁解する男達に、マスターと呼ばれた女性は一言。

「……ウチのルールは?」

「酒は飲めども呑まれるな!」

「喧嘩をするなら店の外!」

「「失礼しやしたーっ!!」」

 男達は気絶している大男を担いで、瞬く間にその場を去っていった。

「見たか?」

「……あぁ。恐ろしく強烈な蹴りだった」 

 あまりの一撃に、ノアですら少し青ざめていた。

「……ったく、テーブル壊しちゃったじゃない。まぁ良いや、今度来た時にせっ引いてやる。……で、」

「――っ!」

 頭に手をやってぼやいたマスターが今度はシャルを睨み付けたので、シャルは小さく身を震わせた。

「アンタも、挑発なんかしてんじゃないの。それこそ品性ってやつがないんじゃないの?」

「………ごめんなさい」

「大体ねぇ、相手がもし自分より強かったらどうすんの? アンタだけじゃなくて、後ろにいる子達まで危なかったかもしれないのよ?」

「………ごめん、なさい」

 全くの正論に、シャルはただ謝ることしか出来なかった。

「ま、まあまあ。そこらへんにして……」

 そろそろ限界かとアレンが割って入ると、マスターは今度はそちらを睨み付ける。

「アンタも、なに女の子にやらせてんのよ。ああいうのは男共が行きなさいっての。ったくこの甲斐性なし」

「えぇええっ!? 店のルールは!?」

「誰が店の中でやれって言った!」

「てっ!?」

 驚愕するアレンの頭に拳骨が舞い降りた。

「さて、と……うるさいのもいなくなった事だし、そろそろ話をしましょうか。あぁ、飲み物はオレンジジュースで良い? っていうかここ、お酒以外はそれとミルクしかないのよ」

「は、はぁ……」

「そうなんですか……」

 先程の気迫はなんのその。ケラケラ笑いながら奥のテーブルへ腰掛けるマスターに、ステラとリオンは圧倒されて呆けたような声しか出せなかった。

「さてさて……向こうのギルドから貰った情報だと、確かSクラスだったわね? えーっと……?」

 肩肘を突きながら、マスターは分厚い紙束をパラパラ捲っていく。

「……あぁ、あったあった。あら、二組もいるじゃないの。代表者の名前は?」

「……シャーロット=フラム=エル=イグニスです」

 答えたシャルの声はまだ暗かった。

「ふーん、イグニスねぇ……」

 マスターはどこか意味深な表情でシャルを眺めた。

「まぁ良いわ。それじゃあ一年生が二人いるみたいだし、一から説明するわよ?」

 言葉は疑問系だったが、マスターはアレン達の返事を待たずに話し始める。

「内容は『紅蓮華』の葉を三十キロ採集って事だから、採集用の道具と袋はこっちで用意するわ。『明くる朝ディスカバリー』からの情報だとキネリキア山のあちこちに野生してるらしいから、まぁそこまで時間は掛からないでしょ」

「明くる朝」とは五大陸間の開拓作業を指揮する組織で、現在では開拓作業の殆どがこの組織によって行われている。

「問題は魔物の方ね。ガルム系とドレイク系が特に多いみたいだけど、確認されてる中には上級種も載ってるわ。まぁ、出遭うかどうかは運次第ね」

「運、ですか……」

 張り詰めた表情をするステラに、マスターはまたしてもケラケラと笑う。

「だーいじょーぶよ。あぁいうのは巣でもつつかない限り襲ってこないって。それに、そういう万が一の時の為にこれがあんのよ」

 マスターはエプロンのポケットから、紐の付いた丸い石のような物を取り出した。

「なんですか、それ?」

 訊ねたリオンと同じく、ステラも首を傾げた。

「転移の魔法が籠められた風の魔石よ。所持者が命に関わるほど肉体的に負傷した場合、これが自動的に発動してここに転移するようになってるの」

「つまり、死なない為の保険という事ですか?」

 最悪クエストに失敗しても命を失うことにはならないと知り、ステラは少しホッとした表情になった。

 しかし、それを見たアクアがいつになく厳しい表情をする。

「安心したら駄目だよ、ステラちゃん? 死なないって言ってもそれに近いくらいの重傷は負うし、転移したけど助からなかった人もいるらしいから」

「それにクエストも失敗しちゃうしね。あくまでも最終手段ってことだよ」

「うっ……はい……」

 イリスにまで注意されて少し項垂れたステラに、マスターは再びケラケラ笑い声を上げる。

「あっはっはっ、さすがは先輩ってとこね。まぁこいつはある程度魔力を籠めたら負傷しなくても使えるから、ヤバいと思ったらすぐに使いなさい。開拓地域って言っても、まだ未発見の場所とか魔物も多いしね」

 マスターはそう言うと、テーブルに置いてあった酒をグイッと飲み干した。大ジョッキをイッキだ。

「……プハァーッ! それじゃあ伝達事項はこれくらいね。許可証と必要な物は後で纏めて渡すわ。あとは……はい、これ」

 マスターはアレンに何かが書かれた紙切れを渡した。

 受け取ったアレンは、そこに書かれた文字を読んで不思議そうに首を傾げる。

「『ヴォルケーノ招待券』? どこの招待券ですか、これ?」

「んふふー……イ・イ・ト・コ・ロ」

 茶目っ気たっぷりに、あでやかな声を返された。



    †   †   †



『三日目・夜』



「うっはぁー! 見ろよノア、リオン! いろんな種類があるぞ!」

「はしゃぎ過ぎだ、みっともない」

「あはは……初めての温泉ですから、気持ちはわかりますけどね」

 マスターの指示でアレン達が向かった場所は、港街ヴァルカノで最も大きな温泉宿だった。

「でもラッキーですね。まさかこんないい宿代がタダになるなんて」

「当初の予定では最安価の宿に泊まって温泉だけ別のつもりだったからな。頂ける物は頂いておいても罰は当たらないだろう」

 ガーデンの実習と言えど、クエスト中は基本的に野宿が当たり前で宿を取る場合は勿論実費であり、アレン達も普段のクエストではそれに従っている。

 ところが先程マスターから貰った紙切れがなんと高級温泉宿の宿泊券だったので、早速とばかりに温泉を堪能しに来たという訳だった。

「あぁ~、い~い湯だなぁ~……」

 アレンが額にタオルを乗せて気持ち良さそうにプカプカ浮いていると、

「まったく、相変わらず騒がしい奴だな君は」

 不意に脱衣所の引き戸が開き、短く鼻を鳴らしながらアルベルトが現れた。

「お~、アルベルト~。お前らもこの宿だったのか~」

「気が抜け過ぎだろう、どう見ても」 

 弛みまくった声と表情に、アルベルトは呆れ果てて溜め息を吐いた。

「ノア先輩……、どう思います?」

「むっ?」

 突然問い掛けたリオンの視線の先にあったのは、アルベルトの腰にしっかりと巻かれたタオルだった。ちなみにリオンがいつもしっかりと巻き付けている藍色のマフラーは勿論脱衣所の籠の中だ。

「………正直――」

「許せませんよね、男しかいないのには」

 どうでも良い、と言おうとしたノアはそっちのけで、リオンの中の何かに火が点いていた。

「大体だな、風呂という物はもっと静かに入る物で――ぅわあッ!? な、何だいきなり!? うっ、体が動かな……えぇい、離せ!! や、やめろ、タオルを取るな! うわぁああぁあああ!?」

 くどくどと講釈を垂れるアルベルトに素早くリオンが襲い掛かり、その動きをノアが半ば無理矢理魔法で止めさせられ、面白がったアレンに勢い良くタオルを剥ぎ取られたアルベルトの絶叫が響き渡った。

「何やってんだか……」

「ふふっ、みんな楽しそうだね」

 一方、シャル達はその騒ぎを薄い柵越しにある女湯で耳にしていた。

「まったく、子供じゃないんだからもう少し静かに……きゃっ!?」

 しなさいよ、と言い掛けたところで、邪魔にならないよう長い髪を纏めたシャルの横っ面にお湯が撥ねた。

「あ、すみません、シャルせんぱきゃあ!?」

「あはははっ! それぇ~っ!」

 謝罪するステラごとイリスのお湯攻撃が炸裂し、シャルとアクアにも盛大に被害が及んだ。

「………い、イリス~!?」

「やぁ~っ! シャルが怒ったぁ~!!」

「あっ、二人とも、あんまり走ると危ないよ!?」

「きゃあ~!? こっちに来ないでください~!」

 ――ガラガラッ。

 いつの間にか大乱闘の現場になっている女湯の引き戸が不意に開かれ、全員の動きが止まった。

 ――ガラガラッ、ピシャッ。

 と思ったら、すぐにまた閉じた。

「今のって……」

 呆然としている女性陣の中で、イリスの顔がやけにイイ感じになっていた。



 ――脱衣所でタオルを握るアリスは思っていた。

(あ、あんなに……人がいる……なんて……聞いてない……)

 ただでさえ人見知りのうえに、女湯ここにはアルベルトもアレンも居ない。しかも何故か揉みくちゃになっている。

 自分にはハードルが高過ぎる、やはりみなが寝静まった深夜に浴びようと考えを改めた直後――

「アーリスーっ! 一緒に入ろーっ!」

「ひゃうッ――!?」

 突然引き戸を開けたイリスに濡れた体で抱き着かれて、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。

 抱き着いた拍子に、シャルと違いこちらは髪を纏めていなかったので、辺りに盛大に水を撒き散らした。

「えへへぇ~。いまね、シャルとステラとお湯の掛けっこしてたの! アリスもやろっ?」

「――!? ま――ま――!」

 「待って」の一言が言えず(言えたところで止まりはしないのだろうが)、アリスはズルズルと阿鼻叫喚の待ち受ける死地(女湯)へ引き摺られていった。

「待ちなさい、イリス! あんたタダで済むとプハァッ!?」

「甘いよシャルっ! ここは既に戦場なのだよっ!」

「こ、こっちにまで掛けないでくださいよぉ!」

「みんな~、あんまり走ったら駄目だよ~?」

「――――%※#♀!?!?」

 声にもならない悲鳴は、誰にも届かなかった。



    †   †   †



 『三日目・夜 そのニ』



「はぁ~、極楽極楽ぅ~」

 ようやく収まった第一次ヴァルカノ戦役(イリス命名)は、最終的に停戦協定を結ぶ形で終結した。

「ふふっ。イリスちゃん、おばあちゃんみたい」

 疲れた身体を温泉に浸かって癒すイリスを見て、アクアが可笑しそうに微笑んだ。

「もう、余計に疲れたじゃない」

「ですが、楽しかったです」

 同じく湯船に浸かるシャルとステラも、どことなくやり切った表情を見せていた。なんやかんやと文句を垂れているシャルが一番ノリが良かったのはご愛嬌。

「…………」

 途中から巻き込まれて今はぐったりと湯船の仕切り岩へ身を預けているアリスは、何故かイリス軍尖兵(主にイリスの身代わり)として大活躍した。必殺技は「アリスガード」。

「そう言えばアリス、他の子はどうしたの?」

 イリスがふと気付いたように訊ねた。

 良く考えればアルベルトのパーティーの女子がアリス一人とは考え難いのだが、今のところその姿は見えなかった。

「…………お買い物」

 まだ慣れないのか壁にされて疲れたのか、本当に小粒程度の呟きだった。

「なぁんだ、つまんないの」

 イリスは心底つまらなそうな声を上げた。

「イリス、あんた人見知りはどうしたのよ?」

「さすがにもう女の子だったら大丈夫だよ。あとなんとなく取っ付きやすそうな男の子とか、屋台のおじさんとかも」

 つまりアルモニアで出会ったオルコット兄弟は、イリス曰く「取っ付きやすそうな男」だったらしい。屋台のおじさんは食べ物をくれるからだろうか。

「……イリス先輩、人見知りだったのですか?」

「まぁ、最近の様子じゃ普通そうは見えないわよね」

 今更ながら驚いているステラにシャルは肩を竦めた。

「むぅー……」

 突然、イリスが何故か不機嫌そうに頬を膨らませていた。

「どうかしたの、イリスちゃん?」

「………ステラ?」

「はっ、はい?」

 小首を傾げるアクアには答えず、イリスはステラを見た。

「前々から思ってたんだけど、わたしはそろそろ言ってもいいかなって思ってることがあるの」

「な、何でしょう……?」

 なんだか嫌な予感しかしないステラは、自然とお湯の中で後退っていた。

「初めて会った時、わたしがなんて言ったか憶えてる?」

「初めて、ですか……?」

 考えを巡らせる少女に、イリスはボソッと呟く。

「…………敬語」

「あっ……!」

 ステラはしまった、とばかりに口を覆った。初めて顔を合わせた時、イリスは同い年なので敬語は要らないと言っていたのだ。

「最初はね、さすがに初対面でいきなりそれは無理かなって思って何も言わなかったんだよ? 仮にも先輩だし。でもね、もう三週間も経ったんだよ? そろそろ普通に喋ってくれてもいいんじゃないかな」

 ジリジリと詰め寄るイリスに、ステラはひたすら苦笑いを浮かべる。

「い、いえっ、そうは言いますが、イリス先輩……」

「ほらまた言ったぁ!」

「あ、やっ、そのっ……シャル先輩っ!」

 遂に困り果ててシャルに助けが求められた。流石に放って置く訳にもいかず、シャルは短く溜め息を吐く。

「ステラ? 要するにイリスは、ステラともっと仲良くなりたいって言ってるのよ。敬語って何だかよそよそしいじゃない?」

 イリスがコクコクと頷く。

「で、ですが、私はこの口調が一番話し易くて……」

「うーん、じゃあ……」 

 まだ渋るステラに、シャルは何やら耳打ちをする。

「ねっ? ほらっ」

「うぅ……」

 やがて笑顔で送り出されたステラは、意を決したように身体に力を入れてイリスと向き合った。

 期待に満ち溢れた顔のイリスに、一度大きく息を吸う。

「………い、イリス………さん……っ!」

 途端に、顔を真っ赤にして背を向けた。

「や、やはり駄目です! 今更過ぎて恥ずかしいですよぉ!」

 と、今にも泣きそうな声を上げた。

「うーん、流石に呼び捨ては無理みたいね。でもほら、見なさいよ」

 言われてもう一度向き直すと、

「えへへぇ~」

 満面の笑顔がそこにあった。

「『イリスさん』かぁ。『さん』付けも悪くないかなぁ~」

 余程嬉しかったのか、イリスは何度も自分の名前を「さん」付けで連呼する。

「よかったね、イリスちゃん?」

「うん!」

 無邪気な笑顔を浮かべるイリスに、アクアもにっこり微笑んだ。

「どう? 恥ずかしい思いをしただけはあった?」

「……あんなに嬉しそうにされたら、次から『先輩』だなんて呼べませんよ」

 その無邪気さに釣られて、ステラの表情も困ったように緩まった。

「アリス!」

「…………なに?」

 一段落着いたところで、イリスは今度はアリスに急接近した。

「あのねっ、わたしはアリスとももっと仲良くなりたいの! だから……」

「…………?」

 イリスの雪のような手が、お湯の中でアリスのそれをガッチリ掴んだ。

「背中の流しっこしよっ!」

「流しっこ……? ………あっ」

「そっ、流しっこ!」

 きょとんと小首傾げるアリスに微笑んだイリスは、温泉から上がるとその手を引っ張って洗い場へ駆けていった。

「私達も行きましょうか」

 それに苦笑しながら、シャルも湯から上がる。

「流しっこ、する?」

「冗談。子供のやる事よ」

 微笑ましい光景ににこにこ笑うアクアに、やれやれと肩を竦めた。

「じゃあステラちゃん、わたしたちだけでやろっか」

「えっ? あ、あのっ……!?」

 アクアは戸惑うステラの手を引いて洗い場へ向かう。

「あっ、ちょっと!」

「どうしたの、シャルちゃん?」

 引き留めたシャルに、待っていましたとばかりにわざとらしく首が傾げられた。その笑顔に、シャルの顔がしまった、という風に引き攣った。

「………偶に思うんだけど、あんたって良い性格してるわよね」

「ふふっ、どう致しまして。それで、どうかしたの?」

 あくまでも言わせるつもりかと悟ったシャルは、やっぱり良い性格だと心中で苦々しく苦言を吐露した。

「………私もやるわよっ!」

「うん。じゃあ、いこっか」

 顔を真っ赤にして視線を背けた少女に、アクアはにっこり微笑んだ。

「わっ、改めて見たらアリスってすっごい肌綺麗なんだね!」

 と、アリスの背中を洗っていたイリスが感嘆の声を上げた。

「……そ、んなこと……ない……」

「えぇ~、そうかなぁ? こんなにすべすべなのに」

「ひゃうっ、んっ――!」

 スルッ、とイリスの白い手がアリスの横腹に伸びて、アリスは顔を赤くして小さな悲鳴を上げた。

「……シャル先輩。イリス……さん、ひょっとして自覚がないのですか?」

「あぁ~、放っときなさい。どうせ子には解んないのよ」

 桶にお湯を溜めながら、シャルは呆れた顔をした。

「あそこまで綺麗で白い肌だと、妬けるって言うよりは尊敬しちゃうよね」

 そう言ってにこにこ微笑むアクアだが、こちらも十分につややかで白い肌をしていた。

 ステラはシャルのあでやかに濡れた緋色の髪を羨ましげに眺める。

「シャル先輩は、肌もそうですけど特に髪が綺麗ですよね。色合いや艶が絶妙というか……」

「ありがと。でもこれ、手入れが面倒なのよ」

 シャルは邪魔にならないように纏められた髪を解いて溜め息を吐いた。押し付けられていた水に濡れた髪が、重々しく床に着く。

「すごく長いもんね、シャルちゃん。大変そう」

 アクアが憂鬱そうな表情をするシャルに苦笑した。

「長いと言えば、イリス……さんとアリス先輩もかなり長いですよね」

 ステラは二人へちらりと視線を向けた。二人とも今は身体を洗う為に纏めているが、普段の姿を見る限りでは腰まで伸ばているシャルよりも長かった。

「ふぇ? どうかしたの、ステラ?」

 その視線に気付いたイリスが、アリスの背中を洗う手を止めた。

「二人とも、長くて綺麗な髪だよね、って話してたの」

「髪?」

 アクアの言葉に、イリスは視線だけを頭へ向ける。

「前々から思っていたのですが、イリスせんぱ……さんの髪と瞳の色は珍しいですよね。他に見た事がありませんし」

「「――――ッ!?」」

 何気ない一言に、イリスとシャルの肩がビクゥッ、と跳ね上がった。

「そう言えばそうだよね。今までそんなに気にしてこなかったけど……」

「………すごく……綺麗」

 アクアとアリスもそれに同意して頷くので、二人の頬に水滴に混じって汗が流れる。

「ほ、ほらっ、わたしって昔病気で入院してたからっ……!」

「に、入院する前はアレンみたいな金髪だったのよっ……!?」

 あたふたと慌てる二人に、アクア達は揃って首を傾げた。

 実際設定として他の人(教員など)にもそう説明してあるが、こればかりは中々に無理のある設定だった。

 何せ銀髪銀眼になる加護など誰一人として見たことも聞いたこともなく、では入院の原因であるその病気はと訊かれれば答えようがない。

 そもそもイリス自身が謎だらけなのだから、矛盾だらけの設定になるのは無理もないことだった。

「そ、そんなことより、アリスの髪も長くてすっごく綺麗だよねっ!?」

「そっ、そうよね! 手入れが大変なんじゃない!?」

 二人は無理矢理話題を逸らそうとしたが、焦り過ぎて思い切り目が泳いでいた。

「………別に」

 ぽそっ、とか細い声が、浴場のお湯が流れる音に混じって聞こえた。

「何も……してない……アルが、褒めてくれたから……伸ばしてる…………だけ」

 小さくゆったりとした呟きの端々には、暖かさが滲み出ていた。

「何もしてないって……イリスと言いあんたと言い、羨まし過ぎるわよ」

 自分がこの髪の状態を維持するのにどれほどの手間暇を掛けているか、一度身を以て教えてやりたいとでも言いたげに溜め息を吐いた。

 そんなシャルに、アリスはゆっくりと視線を向ける。

「……アレンも……褒めてくれた」

「へ、へぇ……」

 シャルの眉がピクリと反応した。

「……シャーロットは……アレン……好き……?」

「なっ――!?」

 突然過ぎる質問に、シャルは一気に赤面した。

「ななな何言ってるのよ!? 別に私はそんな……!」

「そう……なの?」

「うっ、いや、そうじゃない訳じゃないけどそれはそれで色々アレと言うかそもそも……」

 まさに噴火寸前のように顔から火を吹きながら、ゴニョゴニョと呟くシャル。良く見ると先程からずっと右腕を洗っている。

 結局どちらか判らなかったようで、アリスは小首を傾げながら身体を覆う泡をお湯で流してイリスと場所を交代する。

「ねぇねぇ……アリスはさ、アルベルトのことが好きなんだよね?」

「う゛っ――!?」

 入れ替わる際に放たれた言葉の直後、小さく爆発音が聞こえた気がしたと思ったら、滑って思い切り尻餅を搗いてしまった。

「だ、大丈夫っ?」

「…………ん」

 かなり痛そうだったが、アリスは顔を真っ赤にしながらこくりと頷いた。

「よかったぁ。……それで、どうなの?」

 安堵の息を漏らして、イリスが再び訊ねた。

「………………ぅん」

 辛うじて肯定の言葉を紡ぐと、アリスは気を紛らわすようにイリスの背中を洗い始めた。

「じゃあじゃあ、具体的にどんなとこが好きなの? 顔とか、性格とか、そういうのっ」

「例えば好きになる切っ掛けになった壮大なエピソードのような物がっ?」

 水を得た魚のように次の質問をするイリス。さらにステラもそこに加わって、二人とも恋する乙女オーラ全開だった。

「ん………」

 慣れない状況にたじたじしながら、アリスは言葉を選ぶようにイリスの背中を洗っていた手を止める。

「………アルは……暖かいの」

「あったかい?」

 何を言いたいのかイマイチ伝わらず、イリスとステラは不思議そうな顔をした。

 アリスは止まっていた手を再び動かす。

「……寒かったわたしを……暖めてくれたのが、アル……」

 イリスの背中を洗いながら、その灰色の瞳には別のが映っていた。

「よくわかんないけど、それが切っ掛け?」

 アリスはまだ顔を赤くしながら、もう一度こくりと頷いた。

「アレンも……同じだから………好き」

「って二股!?」

「い、いけませんよ、そんな……!」

 まさかの二股疑惑に驚愕の声が上がった。

 突然叫んだ二人にびっくりしたアリスは、普段よりも少しだけ強く首を横に振る。

「一番は、アル………アレンは……似てるの」

「似てる? 二人が?」

 どうにもそうは思えないイリスは、少し怪訝な顔付きになった。

「アレンも……暖かいの………だから……好き」

「えーっと……」

 何と言えば良いのか分からず、イリスは言葉に詰まった。

(ステラ、こういう時ってなんて言えばいいのかな? 二股はだめだけど恋愛するのは自由だし……)

(あの、恐らくアレン先輩に対しては恋愛感情の好きではないのでは? アルベルト先輩の時とは反応も違いますし……)

(あぁ、なるほど!)

「…………?」

 ひそひそ話に納得してどこかすっきりした表情のイリスに、状況が読めないアリスは不思議そうに小首を傾げた。

 それを見て、イリスは両手を振って苦笑いする。

「あ、こっちの話だから気にしないで。えっと、それじゃあアリスはもう好きって言ったの? ずっと一緒なんでしょ?」

 イリスは遂に核心に迫った。

 一瞬きょとんとしたアリスは、次にその白い顔を再び真っ赤に染め、そして徐々に俯いていった。

「………………まだ」

 顔から立ち上る煙は湯気だけではない気がした。

「――っあぁ~、もう! アリス可愛過ぎるよぅ!」

「ふむっ……!」

 その姿に何か底知れぬ可愛らしさを感じたイリスは、感極まってアリスを抱き締めた。

「アリス、いまさら言うことじゃないかもしれないけど、聞いてくれる?」

 アリスは改まって断ったイリスに不思議そうな眼差しを向ける。

「わたしと、友達になって!」

 その灰色の瞳が、抱き締められたことで目の前に現れた銀色の瞳をきょとんと見つめた。

「……とも……だち……?」

 まだ意味が理解出来ていないのか、アリスは訊き返すように呟いた。

「うん、友達! こうやって一緒に遊んだりお話したり、ご飯食べに行ったりするの! ………いや?」

 不意に、イリスの表情が少し不安げなものになった。

 それを見てはっと我に帰ったアリスは、ゆっくりとかぶりを振る。

「……ううん………うれしい……」

 そう言って、小さく微笑んだ。

「あ………」

 イリスは、初めて見たその表情に思わず見惚れしまった。

「あっ、あのっ! 私もっ……!」

 自信の胸に手を当てて身を乗り出したステラに、アリスは小さな微笑みのまま頷く。

「……うん……わたしも……みんなと……友達になりたい………シャーロットと……アクアとも……」

 言いながら、アリスは訊ねるようにシャル達を見た。

「わたしも、アリスちゃんとお友達になりたいな」

 先程からずっと話を聞いていたのか、アクアはにっこり微笑み返した。

「よかったね、アリス! シャルももちろん……」

 と視線を向けると、

「――そもそも私とアレンは幼馴染みって言うか腐れ縁って言うかそう保護者なのよ私はだから……あ、な、何、もう上がるの? そうね、あんまり長風呂するのは良くないわ」

 まだブツブツ呟いていたシャルは、こちらに気付くと一度お湯を被ってさっさと出ていってしまった。

「……あー、まぁシャルのことだから大丈夫だよ」

 イリスは脱衣所の方に苦笑いを向けながら頬を掻いた。

「わたしたちもそろそろ出よっか?」

「そうですね。アレン先輩達を待たせては申し訳ありませんし」

 いつの間にか静かになっている男湯へ目を向けて、アクアとステラも脱衣所へ向かった。

「わたしたちも出よっ、アリス?」

「……うん」

 泡を洗い流して、イリス達もその後に続く。

「………イリス」

「ん?」

 突然、アリスが呼び留めた。

「イリスは………誰?」

 誰がどうなのかはっきりしないが、イリスは先程の会話からそれを推測する。

「わたしはねぇ……お兄ちゃんが好きっ!」

 羞じらうこともなく、朗らかに答えて出ていった。



「……………違う」

 一人残ったアリスは、先程とは全く別の、感情の薄い声を出した。

「イリスは………?」


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