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0-1 夢の終わりと始まりの朝

 世界は終わらない夢を見ていた。

 その夢はあまりにも長く、そして、悲劇に満ちていた。

 誰かにその夢を終わらせてほしいと強く願っていた。だが、彼は独りぼっちだった。

 膝を抱え、いくつも見える人々の平穏と不穏を見ていることに嫌気が差したのは、人類が地球の顔を蹴り上げ、のうのうと闊歩し始めて二〇〇〇余年が過ぎた頃だった。

 

 目が覚めるとカーテンから射し込む光がじりじりと顔を焼いていた。

 その熱から逃れるように身をよじると布団を巻き込みながら、高杉陽太たかすぎようたの体は床に落ちていった。

 のんびりとした落下と突然現れた浮遊感に頭がクラクラした。

 陽太はむくりと顔を上げた。

 あれ。

 いつの間に家に帰ってきたのだろう。

 昨日の出来事を思い出すことが出来ない。

 学校が終わり、友達と遊んで、そして、どうしたっけ。

 まだ微睡から冷めきっていない陽太はぼんやりと考えた。

「陽太!朝ごはん食べなさい!」

 突如ふすまを突き破るような勢いで現れた高杉凛子たかすぎりんこは思考を遮るような怒鳴り声をまき散らした。

「あ、はい」

 弟という生物にとって、姉という存在ほど恐ろしいものはない。何といっても職権乱用の第一人者と言っても過言ではない。

 姉という職権は下っ端の弟にとっては親という職業よりもよっぽど脅威である。

「陽太、今日パパとママはいないからね」

 去り際に凛子はそう吐き出した。

 別に親がいない日を喜ぶ者はいても不満に思う者はいないだろう。

 これで今日は深夜までゲームが出来るぞ。

「ゲームは二〇時までね」

 陽太の思考を読み取ったかのように先手を打たれた。時間はまだ朝の七時だ。

 何も十三時間後の話を今しなくてもいいだろうに、朝から憂鬱な気分が足元から這い上がってきた。

「父さんと母さんどうしたの?」

 椅子に腰を下ろしながら尋ねる。

 凛子はフライパンの上の目玉焼きを陽太の目の前にあった皿の上に乗せた。

 テレビに聞け、とばかりに凛子はリモコンを陽太に押し付けると何も言わずに炊飯ジャーと向かい合った。

 その背中をじっと睨むのにも飽き、陽太は渋々リモコンでテレビに狙いをつけた。

 奇妙な映像が流れた。

 ハンディカメラで撮った映像だろう。荒い画質の中で夜の闇が闊歩している。そして、その向こうではゆっくりと動く獣のような姿が見える。

 人間とは違う動きをするそれが何なのかは映像からは判断できなかった。

 動物とは違う。もっと早い。そして、刺々しいシルエットが見える。

「クマだって」

 そんな馬鹿な、という言葉を飲み込み、代わりに味噌汁をずずずと啜った。

「すぐ近くなんだってさ。パパとママは今日一日捜索活動と夜は見回りしてから帰るってさ」

 高杉夫妻はそろって警察官だ。といっても、映画やドラマに出てくるような堅物夫婦ではない。

 のほほんといつも過ごしている。平和な街なのだ。たまにこうしてクマが下りてきたとかくらいにしか活躍の場がないのだ。

 そんなときはいつも二人そろって制服に身を包んで街の中を歩き回る。

 制服デートと母ははしゃいでいた。今日もそんなテンションでいそいそと準備をして、二人で仲良く手を繋ぎながら出勤したのだろうと予測する。

「あれってホントにクマなの?」

「あんたみたいなお子ちゃまがそんなこと考えたって仕方ないでしょ。私も今日は遅いからね」

 やれやれと嘆息を吐き出すと共に姉は告げた。

「え、夕ご飯は?」

 凛子は大学生だ。陽太の記憶では凛子のバイトのシフトは休みだ。

「昼間のうちに作って冷蔵庫入れとくから帰ったらチンして」

 凛子の料理はお世辞にも上手とは言えない。ましてや冷めたりしたら食べられたものではない。

「わかった」

 だが、それを言ってしまえば竜の逆鱗に触れるよりも恐ろしい目に遭うことは明白だった。

 陽太は自分自身が賢くなったと頷きながら、今日はカップラーメンで済ませようと心に決めた。

「あ、カップ麺切れてるから、ちゃんと食べるのよ」

 インスタント麺というものは文明の利器だ。文明社会に生まれ落ちたにも拘わらず、今日は原始的な夕飯が待っているのだと思うと返事をする気にもなれなかった。

「食えよ」

 じっと睨み付けられ、陽太は観念したように首を縦に振ることしか出来なかった。

 

 高杉陽太たかすぎようたの通う中学校は元々市内で一番のマンモス校だったそうだ。だが、市の区画整理や子供の教育環境強化により周囲に中学校が増えていき、生徒たちは分散された。

 今では巨大な校舎が目立つばかりで、生徒の数は一番少ない。やがて廃校に追いやられるのだろうということは陽太の目にも明らかだった。

 一階には一年生の教室が乱暴に詰め込まれ、二階はニ年生。三階が三年生の自由の城という形を成している。

 陽太は二年生なので二階の教室を目指す。小学校を卒業したばかりの落ち着きのない幼児たちが阿鼻叫喚している教室の前を通り過ぎ、動物園と化した二階の廊下へと到達する。

「おはよう、陽ちゃん」

 階段を上り切ったところに立っているのは幼馴染の樹美鈴いつきみすずだった。

 中学生にして乳お化けというあだ名を男子から与えられた名誉ある乳房を隠すように胸の前でカバンを持っていた。

 美鈴とは幼馴染だが、決して家が近いわけではない。幼稚園の頃に知り合い、たまたま送り迎えのバスが一緒だったから、という理由でよく話すようになった。小学校でも違うクラスになった時でも美鈴は陽太の後を追いかけていた。

「おはよ、美鈴」

 陽太はそう言いながら美鈴の頭を撫でた。

 彼にとっては美鈴というのは妹のような存在だ。いや、どちらかというと犬だ。

 飼い主が現れるのをいつもの場所でじっと待って、飼い主がやってくると嬉しそうに尻尾をぶんぶん、もとい乳をぶるんぶるん振り回すのだ。

 思春期である。いくら妹のような存在と思いつつも陽太はとっさに視線を逸らした。

「陽ちゃん、陽ちゃん、昨日ねぇ、クッキー焼いたんだよぉ」

 足を止めない陽太を追いかけ、そこが居場所とばかりに美鈴は陽太の隣を確保した。

 美鈴はほとんど毎日お菓子作りに熱中している。

 女子力高めの乳お化けは、その糖分をもう少し脳に与えるべきだと思う。

 成績は悪いし、運動も下手。上手に表現は出来ないが、いつもふわふわしたような雰囲気でニコニコしている。

 姉の高杉凛子たかすぎりんこが美鈴と同じ性別であるということをたまに忘れるほどだ。

「ね、食べてみて!」

 そう言って美鈴はカバンの中から誇らしげに袋を取り出した。

 女子力高めの乳お化けはこういったところまで女子だなと思わせる。

 毎日陽太に餌付けてくれるのはありがたいが、そんなピンクの可愛らしいリボンのついた袋を押し付けてくれるのは、正直恥ずかしい。

 いつもなら奪い取ってそそくさとカバンにしまうのだが、たまたま見知らぬ男子がニヤニヤしながら、こちらを見ているのを見てしまった。

「いいよ、放課後に食うから」

 美鈴の手を押さえつけ、袋を取り出すのを阻止した。

「え、でも、え、放課後?」

 キョトンとした顔で逡巡。美鈴の頭のてっぺんに浮かんだ疑問符が現れたと思ったら消えた。

「いいよぉ。じゃあ、今日は陽ちゃんちでお菓子パーティだね」

「え、俺んち?」

 昔はよく美鈴は陽太の家に上がり込んだ。だが、それは小学生の頃だ。まだ乳お化けではない頃なのだ。

 美鈴の胸が成長するに合わせて凛子の目はいやらしい目になっていき、二人でいると陽太の部屋を勝手に覗き込もうとするくらいだ。

「がんばれ、童貞」

 と言われた時は意味を分かっていなかったが、今となってはその言葉の意味もしっかりと分かる。

 そんな凛子の励ましが頭の中で反芻した。

「だめなの?」

 美鈴は唇を尖らせて、少し拗ねたように陽太を見上げた。

「姉ちゃんがいるし」

 それを言うと美鈴はいつもなら、お姉さんに会いたいと喚き散らすのだが、今日の美鈴はいつもと違った。

「じゃあ、私と二人になりたいの?」

「バ、バカ言うな」

 予想外の言葉。そして、その言葉の淫靡な響きに陽太の顔がみるみる内に赤くなった。

 それを見て美鈴はけらけら笑いながら、陽太を置いて教室へと飛び込んだ。

 女子の成長は早いと聞く。

 乳お化けなら、なおさらなのかもしれないと思った。

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