20:読めない文字

 美衣歌は手にした本を読んでいるように見せて、机で執務をするアルフォンを本の陰からこっそり盗み見た。

「スティラーアさま、紅茶ですわ」

 美衣歌が使う机にかわいらしいティーカップが置かれ、慌てて本へ視線を戻す。

「ありがとうございます」

 ティーカップの隣に、クッキーが盛られたお皿が置かれた。甘い香りが鼻腔をくすぐる。

 字が読めない本に栞を挟んで机に置いた。

 紅茶はカップにたっぷりと入っていて、隣にレモンが添えてあった。レモンをフォークですくい、紅茶の中に沈める。

 レモンの果汁が紅茶の中に溶け込むのを待つ間に、クッキーをひとかけら口の中に入れた。

 ふんわりと小麦とバターの味がする。

(どうしてこんなことになったんだっけ)

 頭の中で今朝の事を思い返して、首をかしげた。



 朝早く、昨夜のことを話し終えると、気持ちが多少は落ちついた。

 味わった恐怖は抜けていくどころか、増すばかり。思い出したくないのに、何度も思い出してしまう。身体は勝手に小刻みに震えだして止められなかった。

 そしたら、アルフォンが『今日は俺の傍にいればいい』と言ってくれた。

 かけてくれた言葉がうれしくて、反射的に美衣歌は頷いていた。

 着替えを済ませ、朝食を初めてアルフォンと摂った。その光景に侍女の二人が瞳を輝かせていた。

 時折、目線で会話をする二人に居心地の悪さを感じながら、黄金色に輝くスープを飲んだ。

 朝食を終えたアルフォンから早くしろと言われ、スープを急いで飲み干し、他の料理には手を付けずに朝食を終えた。

 座って食後の休憩をしている美衣歌の手を引き、アルフォンは強引に椅子から立たせた。

 目を丸くする侍女に、こいつの今日の予定はすべてキャンセルだと言い、部屋から連れ出した。そして、自室より階下の執務室へ連れてこられたのだ。


 自室より一回り大きい執務室は、床一面に絨毯が敷き詰められ、扉の手前に接待用の机とソファが、その両側の壁には本棚がある。本棚は隙間なくびっしりと本が収められていた。

 部屋の奥には飴色に輝く美しい大きな机があり、積まれた紙の山にインクがつまった瓶、羽ペンが立てて置かれていた。

 初めて目にする執務室に珍しいものを見たような気持ちで観察した。

「これなら読めるだろう」

 部屋中にくまなく顔を向ける美衣歌の目の前に、本を渡された。受け取ると絵本のように薄い。表紙は読めない異国の字――昨日覚えようとして覚えられなかった字が書かれている。

「あの、ご存じでしょうけれど、私読めないです」

 本を拒むと押し付けられ、しぶしぶ受け取る。

「そこを使え」

 示された椅子は接待用のものだった。机は低く、座席と机が同位置にある。

 椅子は扉側と執務机側の二つあり、美衣歌は扉側のソファに腰かけた。硬いように見えた椅子は、ふわりとしていて座るとソファが沈んだ。

 驚いて立ち上がろうと足に力を入れた。靴の踵が高いのと、身体が思ったより沈んで立ち上がれない。

 本を机に置こうにも、前かがみにできず四苦八苦していると、執務机から視線を感じた。

(もしかして、見られてる?)

「何をしているんだ」

 呆れかえった声に、恥ずかしくなり小さくなんでもありませんと返した。

 執務机から離れたソファに腰かけようと腰かけた結果、お互いが見つめ合う形になってしまった。

(座る場所、間違えたかも)

 後悔しても、もう遅い。

 膝の上に本を広げて表紙をめくる。

 目次らしきページを過ぎ、文字の羅列が始まる。文章のように長く連なっていない文は、読みやすくするためか行間が広く空いている。絵が入っていて子供向けの本なのかもしれない。

 始まりの字をじっと見ていても、何が書いてあるのか全くわからない。

 たとえるなら、単語のわからない英文を読めと言われているのと同じようなもの。

 昨日覚えた文字が出てこないかと文章を追っていると、開いた本の上に紙が差し込まれた。

 紙には文字が書かれている。

「基本的なことは書いてある。それで読めるだろう」

 アルフォンが文字を書いた紙切れをくれた。

「ありがとうございます」

 執務机に戻ると手近の用紙に目を通し始め、美衣歌は渡された紙に視線を戻した。

 紙にはわかりやすく文字がつづられているが、どう書いてあるのか理解できない。

(しまった。通訳を……!)

 日本語にしてくれれば読める。紙に書かれた文字の上に日本語を付け足せばいいだけ。

 書かれた字を教えてくれれば、日本語にして覚えられる。

 アルフォンに訴えようと顔を上げると、彼は羽ペンで紙に字を書いているところだった。

 インク瓶にペンを付け、手慣れた動作で数回浸けすぎたインクを落とす。字を書き、またつけては書くを繰り返している。

 すっとした姿勢で、迷いなく文字を綴っていく姿に、外から入り込む朝日が重なり、思わず魅入ってしまった。

 ほうっと見惚れていると、手の力が緩まり持っていた紙を手放してしまう。

 床に落ちてしまっては拾えない。

 焦って、ひらりと落ちる紙を、勢いよく開いた本に叩きつけた。

「何をしてるんだ」

 床に落とす前に拾えてほっと胸をなでおろすと、不思議なものでも見るような顔でアルフォンに見られた。

「なんでも、ないです」

 アルフォンがカリカリと音を立てて、執務を再開した。

 その後、従者が美衣歌の侍女を連れて部屋へ現れ、賑やかしい状況になったのだ。


 アルフォンの執務机の傍に、離れて置かれたもう一つの机で、従者のクレストファが仕事をしている。

 朝、スープを口にしただけのお腹が、空腹を訴え始め、鳴りそうだ。

 ひとかじりしたクッキーを口に頬張り、果汁の溶け込んだ紅茶からレモンを取り出してスプーンでひと混ぜする。

 紅茶を飲むとレモンの果汁が程よく混ざっておいしい。

 バターの香りがいいクッキーに手を伸ばし、頬張った。

 閉じた本を再度開き、文章を見流して、さっきもらったばかりの紙を有効活用していなかったと思い出した。

 本を最初のページに戻して、アルフォンが渡してくれた紙と同じ単語探しを始めた。

 読めなくても、同じような単語を探すのは案外楽しくて、没頭していて再度ページが後ろまでいっていることに気が付かなかった。

「スティラーアさま」

「……はい?」

 なれない呼ばれ方に美衣歌のことと一瞬分からなくて返事が遅れる。

「新しい本をご用意しましょうか?」

「え?」

 どうしてかと聞き返すと、手元を指される。

「読み終わられたように思いまして」

 本は最後のページを開いていた。

「いえ、まだ読みかけ、なので」

 にこりと口角を引きつらせて微笑んだ。

 せっかくアルフォンが探して渡してくれたもの。読めなくても、絵で楽しめる。

 クレストファが、美衣歌が手にしている紙片に気づく。

「この字は……」

(読めていないことに気づかれた?)

 クレストファの顔色を窺う。すると、アルフォンの字にクレスとファが微笑んだ。

「これ、アルフォンさまが書かれたのですか? 教えたいのであれば、ご自身で教えて差し上げればいいのに」

「俺は書類の処理で忙しい」

 書類に目を通しながらアルフォンはすぱりと言った。

「あの、この本って」

 物語だと思っていた美衣歌はクレストファに訪ねる。もしかして違うものかもしれない。

「子供でも分かる簡単な歴史書ですよ」

「えっ、そうなんですか!?」

「お気づきにならなかったのですか?」

「――あ」

 あんなに熱心に読まれていたのにと言われ、読めていなかったことが言いづらい。

「文字がわからなくて……同じような単語を……探してました」

 恥ずかしくて、逃げ出したくなった。

「気が付かず、申し訳ありませんでした」

 美衣歌が言いださなかったことなのに、クレストファに謝られ、居心地の悪さが増す。

「我が国の言葉は難しいですから、スティラーアさまの祖国の字よりも覚えるのが大変でしょう。ちょうど手が空いているので、教えますよ」

 クレストファは美衣歌から歴史書を受け取ると、空いている方の手に持ち替え、再度手を伸ばされる。

 渡すものは歴史書以外何も持っていない。アルフォンが書いてくれた紙は、歴史書に挟んで一緒に渡してしまった。

「スティラーアさまお手を。このソファ、やわらかいので立ち上がりにくいかと」

「ありがとうございます」

 差し出された手に、手を重ねソファの淵を使って、立ち上がった。

 座っていた時間が長くて、足元がふわふわする。くらりと立ちくらみのような感覚に襲われた。

「スティラーアさま!」

 咄嗟にクレストファが重なった手を引いて、美衣歌を引き寄せることで倒れるのを防いだ。

 彼の腕の中に納まった美衣歌は、ほっと胸をなでおろした。

 机には飲みかけの紅茶がそのまま置いてある。カップの隣はクッキーがのっていた空のお皿がある。転倒していたら高級なカップやお皿を割っていたかもしれない。

 カップに入った飲みかけの紅茶がこぼれて、借り物のドレスを汚していたかもしれない。

「大丈夫ですか?」

「……はい」

 クレストファの胸に手をついて、倒れかけている体制を直す。

「スティラーアさま、お怪我はございませんでしたか!?」

 傍で給仕をしているイアが悲鳴を上げて美衣歌に駆け寄った。

 高価なお皿とティーカップが割れてしまったら、いくらするんだろう。

 そのことが頭の中を駆け巡っていて、イアの悲鳴と問いかけが耳を通り過ぎていく。

「スティラーアさま? どこか痛めましたか!?」

「え?」

「痛めたんですか!? どこですか?」

「痛めてないみたいです」

 美衣歌はどこも、痛くはない。よろけて、高価なものを壊したり、汚したりしていないかのほうがもっと心配になる。

 とてもではないけれど、弁償できる金額の代物ではない。

 カップには淵にきれいな金が施され、小物は取扱いに注意が必要な細かい細工が施してある。

 ドレスは美衣歌の中で高価なものと認識されていて、身に着けているだけで汚していないか侍女に隠れて確認をしていた。

 今も、ドレスに染みが一つもついていないか入念にチェックして、どこにも染みらしいものがなくて安心した。

 再度イアに大丈夫と言い、クレストファに手を預け、足を踏み出すと。

 ズキリとした鈍い痛みが足首から這い上がってきた。

「――ッ!」

 言葉も出ない痛さに、思わず歯を食いしばる。倒れそうになった時にひねったようだ。

「どこかお怪我をされましたか?」

「い、いえ」

 クレストファが美衣歌に声をかけようと口を開いた瞬間、彼の方に手が置かれる。

 振り向いて、息をのんだ。

「クレア、どけ」

 クレストファの後ろに執務をしていたアルフォン怒気をはらんだ表情で立っていた。

「座れ」

 クレストファはアルフォンの後ろでにこやかにしているのと対照的に眉を吊り上げ、眉の間にしわを寄せながらアルフォンが美衣歌に迫ってくる。

 無意識にアンクル丈のスカートの中へ痛む足を隠した。

「面倒を増やすな」

 踝がみえていて足を引いているところをアルフォンは見逃さなかった。

 侍女と従者が成り行きを見守る中、彼女の前に跪いた。

「え、あの」

 痛めている足へゆっくりと手を伸ばした。

 熱を持ち始めた足首にアルフォンの手が触れ、自分とは違うすこし冷えた体温が足にじんわりと浸みこむように熱を取っていく。

「やっ」

 とっさにアルフォンに捕らわれた手から逃れるように足を動かした。

 アルフォンの手は足から離れず、逆に離さないと強く握られて、足首にピリリと電流が走るように痛んだ。

「ぃたっ」

 観念して、ソファへ腰を下ろす。

「侍医を」

「呼んでまいります」

 イアは部屋を退室していった。

 我慢をしようとした自分のせいで痛みが増した足から靴をそっと丁寧にアルフォンが脱がせた。

「氷水も頼んでおけばよかったか」

 ぷくりと一回り大きく膨らんだ踝は赤くなっている。

 我慢しなければ悪化しなくてすんだかもしれない。

 侍医が薬品の入った道具を持って部屋にきた。

 美衣歌の怪我を見ると痛みを和らげる薬品を塗り、被覆をして包帯で足首を保護してもらう頃には痛みは大分引いていた。

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