18:解放
お腹がズキリと鈍く痛む。
ゆっくりと目蓋を開ければ、薄がりの中人影がみえた。
「目が覚めた? スティア」
この甘ったるい声は、だれ。
ゆっくりと身体を起こす。
ズキン!
鳩尾が強く痛みを訴えてくる。
鳩尾をさすると、少しだけ痛みが和らいだような気がした。
「痛いかい?」
問いかけに、素直に頷く。
痛みが落ち着いてくると、今度は別の場所で、叩き込まれたものと違った痛みが主張してくる。その場所が鳩尾でないと気がつくと、がばりと勢いよく起き上がった。
両手首が、きゅうきゅうと一定間隔で締められていくこの感覚――。
婚約式当日。
フィリアルの兄ベルティネの魔法によって肩にかけていたスカーフで手首を閉められたあの時と似ている。
徐々に締め付けられ、血の流れが鬱滞していくあの感覚。
両手首が魔法によって、締められ始めていることを目の当たりにした。自身の手首にはなんの枷もないのに、手首は訴えてくる。痛い、と。
車輪が回る音と、馬が闊歩する音。身体に伝わる振動。ここは馬車の中だ。それも誰の馬車なのかも、美衣歌は気づいていた。
周囲を見渡し、閉じられたカーテンを見つける。躊躇なく開けた。
馬車がどこを走っているか知りたかった。
小さな窓の外は、景色がゆっくりと過ぎ去っていき、道にそって均等間隔で正装をした騎士の姿が並ぶ。微動だにしない彼らはただ、真っ直ぐに、前だけを見ている。
遠くを見やれば、晴れ渡る空の下、どこまでも続く灰色の壁が
この色はいつも見ていた。アルフォンの部屋から。ダンスレッスンの部屋から。中庭から……城の至る所から。
壁は、城の窓から眺めるよりもはるかに高い。
開けたカーテンは再び閉められ、美衣歌は窓から引き離された。
「ダメだよ、カーテンは閉めなきゃ。君がここにいると皇国の人間に教えてしまう」
外の明かりをカーテンで遮断され、車内は薄暗くなった。
「フィディル、殿下」
この痛みは城から離れたせい。
城へ引き返せば痛みは自然と消える。
フィディルへ振り向いた。最大限の距離は、狭い車内で並んで座る二人の間は拳一つ分程度が限界だった。
話をしたいだけと言った彼は組んだ足に肘をつき、掌に顎を乗せこちらを見つめている。
勝ち誇った笑みは、ほしいものを手に入れられたことへの喜びか、皇国を出し抜けた喜びか。
「どうして、こんな……こと……を!」
「どうして? その質問は無粋だよ、スティア」
フィディルは美衣歌を愛しくみつめる。
「ただ、返してもらっただけだよ。僕のものを」
ゾッとした。
舌舐めずりするフィディルは、美衣歌の想像する皇子とかけ離れていた。
紳士的で、一番に国民のことを考え、将来は国を今よりもさらに良き国となるよう尽力するものじゃないのか。
横で彼を支える女性を、国王に命じられた女性を妻とするのではないのか。
カーテンが暗い色で、逆光のおかげか、美衣歌の顔が強張る様を彼は知らない。自分のものと信じて疑わない手から逃げようと、体を壁にくっつける。この車内で美衣歌の逃げ場は皆無だった。
ゆっくり近づいていく城門。離れていく城。
美衣歌の両腕は、ここにあるものが何かを主張するかのように、痛み、軋みだす。
目に見えない
この痛みから解放されようと、背中に隠して、手首を引っ掻くが、するりと指が滑っただけだった。
手首には確かに枷がここにあると主張するのに、物的にそれはない。
細い手首は確かに手枷がある感覚がするのに、魔法で嵌められたものは手でどうすることもできない。
額に、びっしりと汗が噴き出ていた。
手先は冷たくなっていく。
両手を引っ掻いたところで魔法は解かれるわけがないと分かっている。が、やらずにいられない。痛みから解放してほしい。
この痛みを起こす原因は、城から離れたこと。
(もどらないと!)
「どうかした? 顔が真っ青だよ」
俯いて荒い呼吸をする美衣歌を心配して、フィディルが屈み込んで心配する。
この原因を作った人に心配されたくない。そもそも、この人というよりも、魔法をかけたフィリアルだ。偽物を逃したくない一心にしても酷い。こんなにも城から離れていくことが苦しいなんて。
早く。早く。ここから出たい。痛みを堪えて、馬車の側面を探る。車内が暗くて助かった。フィディルには、美衣歌の手の動きが見えていない。
「なんでも、ないです」
屈み込んでくるフィディルに、探っているものを悟られないように、気取る。
手に、硬いものがあたった。
それは細長くて、先端が丸い。どうやらドアの取手だ。
ドアの取手を下に引いて、外へ向けて押した。押した、はずだった。
ドアの取手は下に動くだけで、ドアはびくともしない。
「開かないよ。外から鍵をかけてある」
こうなることを既に予知していたのか。美衣歌よりもフィディルの方が上手だった。
痛みは増していく。耐える限界はとうに超えていた。
「……ろ、して。……っ。降ろして下さい!!」
痛い。
両手首をこすり合わせる。痛みは緩和しなかった。
城門までの長さはどれくらいあっただろう。
門を出てしまったら、きっと激痛に襲われる。
「お願いします。降ろして下さい」
「降ろさない。スティア、君は僕と帰るんだよ」
「帰りません!」
フィディルの手がとうとう美衣歌の顎を掴み、強引に引き寄せられる。目が合う。
「君は、僕のもの。出逢ってからずっと、決まっていたんだよ。知らなかった? だから、僕は君を取り戻したんだよ」
意味がわからなかった。
一帝国の、それも皇子が。戯言ととられかねないことを至極真っ当のように言う。
間違っていることを、間違っていないと言う。
「違う。
誓っているかもしれないけれど、美衣歌はそんなこと知らない。知りたくない。
馬車を止めることしか考えられない。
「誓っているよ。十年前、君の屋敷の庭で。憶えていない?」
その誓いをした人は美衣歌じゃない、本当のスティラーアの方。
(どうしたら……。アルフォンさま。助けて。もう、ヤダ!)
ぞわりと全身の生毛が総毛立ち、全身から血の気がさあっと引いていった。
フィディルの笑顔は恐ろしかった。美衣歌を自国へ連れて行く。その笑顔の裏に隠された欲望が隠し切れず、露わになっていた。
輪郭をゆっくりと、滑っていく手が気持ち悪くて耐えられない。
美衣歌は腕を使って、その手を顔から引き離した。
拒絶にフィディルから笑顔と愉悦が消える。
その隙に、カーテンを開いた。
どこまで離れてしまったか確認したかった。
窓から見える城壁はとても近かった。
絶望した美衣歌の腰に手を回して窓から引き剥がし、小窓のカーテンを引いた。室内の明るさが戻る。
窓の外は、騎士がいた。開けられたカーテンに反応を示した騎士が数人いた。
彼らが命令に忠実であれば、見過ごされてしまう。
何事もなかったかのように。
「窓はダメだよ。君がここにいると知られてしまうじゃないか! 僕と帰りたくないの?」
帰りたい。でも。
「貴方のところじゃないです!」
強く拒絶した。
美衣歌が帰りたいところは一つしかない。
「スティア、どうしてなんだ!? 僕じゃだめなのか?」
「……っ!」
そうだと叫びたいのに、痛みの強さに声が出ない。
大人しくなった美衣歌の腰を引き寄せた。
美衣歌は抵抗した。力が出なくて、弱々しい抵抗は、簡単に封じ込められてしまう。
徐々に手首が痛みを増していく。
痛い。痛い、痛い、痛い!
耐えられなくなり、両手首を掻きむしり、手首の枷を外そうともがく。
フィディルには、愛しい女性の身になにが起きているのか理解ができず、焦っている。
掻く両手首はなにもない。
美衣歌の爪が赤くミミズ腫れのような線を作る。
フィディルが心配する声が耳元でする。痛みに耐える美衣歌には聞こえない。
声が出せない。痛みに耐えることにしかできなくて。
城門を抜けたら、美衣歌に嵌められた枷はどうなるのか。
ドアを思い切り何度も蹴った。
振動でドアを開けてくれるかもしれない。
手首の痛みはもう感覚が麻痺し始めていた。
痛みの痛覚は痛みを感じすぎて、鈍くなり、痛みを訴えなくなった。
馬車が城門を通り過ぎていく。
その様をフィディルは勝ち誇った笑みで、見守っている。
馬車が城門を半分過ぎた瞬間。
美衣歌の手首がリング状に白く光り輝き、手首を縛り付けていたものがスッと消える。
腕を縛られた縄が取れるような感覚がした。
痛みはさっとなくなる。
「痛く、ない?」
「スティア?」
城門を抜けきろうとしたその時。
今度は左手薬指から綺麗な黄金色の光が溢れ出すと、真っ直ぐに空へ向けて
細かった柱は徐々に太くなり、馬車を引く馬が強い光に驚いて嘶く。
強い光に目が開けていられなくなる。
「なんだ、これは!」
美衣歌を連れて行こうとした、フィディルの目を強い光は刺激した。
美衣歌には、この光が開けていられなくなるほどの眩しさを感じなかった。
フィディルは光に目をやられたらしく、両腕で目を覆っている。
チャンスは逃したらいけない。
ドアは鍵で開けられないなら、外から開けてもらうしかない。
カーテンを開けてガラスを叩く。
強い光にやられた目では周囲の認知がしばらくできない。フィディルはチカチカするのか、光柱が収まっても、腕を目から離さない。
フィディルに注意をしながら、バンバンと破れんばかりに叩く。
早くここから出たかった。
ガチャリと、鍵が開き、ドアが開く。
「無事か!?」
光の中から、ずっと求めていたその人が手を差し伸べてくれる。
美衣歌は躊躇いなく、手を伸ばした。
「アル、フォン、さまっ……」
首にすがりつくと、片腕に抱きかかえられて馬車から降りた。
肩に顔を押しつける。肩章があたって痛かった。それでも、強く押し付ける。
「もう大丈夫だ。安心しろ」
背中を撫でられて、小さく「はい」と答えた。
* * *
「アル兄、フィディル殿下はどうする?」
馬車の中で目を少し痛めたフィディルは、閉じた目を開けようとしない。いや、開けられないのだ。強い光に目がやられて、使い物にならなくなっている。
目を閉じたままに、フィディルは手を伸ばす。そこにまだ、美衣歌がいると信じて。
「スティラーアは僕のものだ。スティア、何処? 何処にいるの?」
伸ばした手は誰も掴まない。その姿をアルフォンとケイルスだけが馬車の外から冷視した。
フィディルの視覚回復をケイルスに任せ、アルフォンは美衣歌と城壁に寄った。
声を上げるでもなく、静かに泣き始めた美衣歌は、離れたくないと言うかのように首に回した腕はがっちりとくっついて離れない。
このままでは現状を収束できない。セレーナの兄ファヴルが、早々に対処に移る中、美衣歌を抱えては何もできない。
地面に下ろそうと、屈むと、回された腕に力が込められた。
「――ぃや。離れ、ないで」
首を絞められかねない力に、彼女の恐怖を感じた。
背中を撫でる手を頭に持っていく。
美衣歌の耳に唇を寄せて。
「落ち着け。もう何も起きない」
囁く。
ぴくりと肩が一度飛び上がり、泣く声が止まる。
「――は、はい」
フィディルはアルフォンの指輪から放たれた光によって視覚を奪われている。
馬車の周りには、アルフォン、ファヴル以外にも、ケイルスや騎士団長、宰相とあらゆるトップが集まり出していた。
* * *
魔法で痛めた目を治す方法は、やはり魔法でしかない。
ケイルスは掌をフィディルの目に当て、術を唱える。
簡単な魔法は術句を唱えるだけで発動する。暖かい光はすぐにフィディルの視覚を回復させた。
「スティア!」
フィディルが開けた目で最初に見た光景は、アルフォンにすがりつくスティラーアの姿だった。
すすり泣く彼女を支え慰めるアルフォンの姿は、仲睦まじく、フィディルに相当な衝撃を与えた。
ケイルスがわざと二人の姿を見せつけた。これで長年の愛執に諦めもつくだろう。
この男に彼女を奪われるわけにいかないのだ。
「スティ、スティラーア。なぜなんだ。どうして」
この皇子はアルフォンの相手にこれ以上手を出そうと思うまい。
「フィディルさま。すでに他者のものとなったお方よりも、婚約されたお方を大切にされた方が宜しいですよ」
ケイルスなりの忠告だった。
彼が固執するスティラーアはもうすでに人のもの。この皇国の皇子の相手となり、婚約は解消されない。
母がそう易々と解消させたりしない。
フィディルは何をするためにこの国へ来国したか忘れてはならない。セレーナと婚約をするためで、別の女性を連れ帰るためでない。
固く抱き合う二人の前を騎士が行き交う。それでも離れない二人の姿は、フィディルに諦めろと暗に解いているようにもみえた。
それはケイルスにも向けられているのかもしれなかった。
ケイルスは確かにアルフォンの相手に少しばかり興味がある。
故郷へ突き返さなかった相手だ。余程気に入った相手なのだろう。ケイルスは、あれが偽物と知っている。いずれ、時期が来れば……。
二人から目をそらすようにして、マントを翻した。
フィディルに向き直る。
彼は二人が一向に離れず、仲睦まじい姿に、目が離せない。
「ティア、スティア、なぜなんだい」
ひとりごち、何処へ持っていくこともできない怒りを馬車のソファにぶつけた。
この男は国に帰っても、きっとスティラーアを忘れない。過去のこととするには、時間が必要だ。
「フィディルさま」
軽やかな声に、ケイルスは振り返る。両手を組み、笑顔でフィディルを見送ったセレーナがそこに立っている。
見送った婚約者の馬車に別の女性を連れ込んだ男を、セレーナは冷静に笑っていた。
スティラーアに執着する男は、セレーナのその張り付いた笑顔に気がつかない。
「ああ、セレーナ殿。すまないが今は……」
パシリ。
頬を軽く叩いた。
側には、帝国側の人間がいる中、手の甲で。
「フィディル殿下。いい加減になさいませ。ここは貴方のお国ではありません」
他国の姫が帝国という大きな国の皇子に手をあげることは許されない。が、セレーナは婚約者。婚約者として思うところがあったのだろう。
「なにをされるのです」
フィディルセレーナを睨んだ。とても、婚約を交わした相手を見るような目でない。
「わたくしは貴方さまの婚約者ですわ。お相手が間違った方を選ぶというなら、止めるのが役目。迷うたら、道先を照らすこともありましょう。そして、これがわたくしが貴方にする最初の仕事ですわ。ここは他国。大人しくお帰りなさいませ」
セレーナは平然と、さも当たり前のように言ってのけた。
婚約をし、一ヶ月後には、帝国へと嫁ぐ手筈になっている。
「そうか。ならば、我が国に嫁いできたら覚えておきなさい。私は執念深い。今日のことは忘れず覚えておこう」
「ふふ、それはありがたいですわ。これ以上の愚行をわたくしが止めることができるのですね」
この男のスティラーアに対する愛執を取り除くことができるのはもしかしたらセレーナだけなのかもしれない。
セレーナの行動に帝国の従者は感謝を述べた。
従者の権限では皇子の行き過ぎた行動を止めることはできなかったようだ。
帝国の馬車は再び走り出す。皇子一人を乗せて。
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