あとはやさしいだけ

@Zrgt2ki

第1話 

 僕はほとんど納得しかけていた。

「じゃああんた、何が死因なら納得したんだ。」


 僕の心象風景は、いつも凪いでいる。

 それは、いつだって木漏れ日の落ちる朝だ。

 特に意味もなく続く歩道。

 舗装もされていない地面。歩くと、スニーカーが柔らかく土にめり込む。

 しばらく進むと、視界が突然広がる。

 天使の梯子に照らされ、小奇麗な建物が見えてくる。

 僕は、ためらうことなく、しかしゆっくりとその建物に近づく。あたりには表札も何もない。空はいつの間にか雲に覆われ、天使はいるべき場所に帰ったらしい。僕は、少し背伸びをし、そっと扉に手をかける。この建物を、僕は「迷宮」と呼んだ。

僕は、僕が子どもになっていることに気付く。僕は、これが現実ではないと知っている。子どもになっていることに、焦りでも驚嘆でもない感情があることを再確認する。僕は、扉を開ける。それはあっさり開く。

 まるでこの中には、大切なものなど何もないのだと言うように。

 僕は、ゆっくりと足を踏み入れる。

 まるで他人の心に干渉するみたいに、ゆっくりと。

 広いエントランス。床は白一面のタイル。壁も灰色が少し混じった白に統一されている。僕は、見慣れている風景の一つひとつを確認する。型だけが残り、意味を成さなくなった儀式だ。

 絵が懸かっていたのだろう。エントランスを抜けて細い廊下に行くと、両壁に四角い日焼けの後が点々と続く。僕は、本当はそこに何が懸かっていたのか知っている。

 不意に、泣きたい衝動に駆られる。僕は、僕をかわいそうだと思う。僕は、僕に同情していることを悲劇だと感じている。だからこんな所に来ているのだと知っている。

 廊下を抜けると、いくつも扉がある。僕が開ける扉は決まっている。

 僕は、右ポケットに入っている鍵を取り出す。本当は鍵なんてなくても開けられるのだが、これも儀式の一環だと思う。意味なんてないのに、何をやっているのだろう。

 扉の前に立つ。扉も、全て白い。

 鍵を開ける。鍵を回す感触が重い。クレセントが落ちる。

 僕は、そこに行かなければならない僕を哀れに思う。哀れに思う自分に同情する。



 

 僕は、目覚ましを三個使って朝を迎える。それでもこの時期は眠気に勝てず、また布団に潜りなおす。五分おきにたたき起こされる。その度ほとんど殴るように―実際に叩いているわけだが―タイマーを止める。夢と心象風景は別のもので、迷宮にはいつだって行ける。夢は、寝ている時しか見られない。僕は、僕がどんな夢を見たのか覚えていない。

 子どもの頃に見た夢をたまに思い出す。夢の中でさえ、子どもの時の方が今よりずっと独創的で、ファンタジックな世界だった。せめて大人になったら、夢の中だけでもそんな景色を見たいのだが、たまに見るときは決まって生々しい、現実味溢れる夢だ。先週久方ぶりに見た夢ときたら、僕がバイト先で失敗したハイライトといった所だった。現実の復習などこんな所でしたいとは思わない。

 またタイマーが鳴る。僕は叩きつける。タイマーは止まる。

 まだ、起きようとは思わない。八時には出かけないといけない。現在時刻、七時二十分。四十分に起きて、二十分で支度をしよう。僕は布団にくるまりながら、予定をたてる。昨日タイマーを六時三十分にした時は、その時の予定をたてていたはずだ。結局、意味を成さなかった。しかし起きられないことは分かり切っていた。だったらもう諦めて、このまま眠ってもいい、そんな気持もあった。僕はぎりぎりの一線で、俗世との縁を絶ってしまわないよう、踏みとどまっている。最初からそんな度胸がないことも知っている。

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