第一章 出会いと再会と出会い①

 目の前には、扉があった。何の変哲もない、学校の教室にはいるために使う横にスライドするタイプの扉だ。

 僕はその扉を地獄に入るための門かのように見つめている。

 この扉を越えたら新しい生活が待っている。初めて会うクラスメイトたちが。

 大丈夫だろうか、と僕は自分に問いかける。

 どうなるかわからないさ、と自分自身に言い聞かせる。

 確かに、それはまだ未来のことだ。一歩を踏み出すこともできずに躊躇っている僕にはわからないこと。

 扉を開けた先、そこに何が待ち構えているかだなんて踏み出さないとわからない。

 けど、一分ぐらい前に先生に呼ばれたのに僕は扉を開けられずにいた。

 教室の中からは訝しんだ生徒の囁き声も聞こえてくる。

 どうしよう。一分も悩んでいるものだから、今から開けて入っていくのは変だろうか。というかその前に僕は新しい生活に馴染めるのか? またヘマをやらかして幽霊が見えることがばれたら、ばれなくても気に入らないからといじめられたら。いや、でも、さすがにそれは、いやいや、でももしかしたら……。

 ――ガラリ、と扉は呆気なく目の前で開いた。

「どうした? 早く入っておいで」

 口をバカみたいに大きく開いたまま扉を眺めていた僕に、クラス担任になる女性が不思議そうに声をかけてきた。彼女の後ろからは、新しいクラスメイトになる少年少女の視線が釘のように突き刺さってくる。

 多くの視線に圧迫されながらも、僕は足を一歩踏み出してみた。それはあまりにも簡単で、今まで悩んでいたのが嘘だったかのように、呆気なく越えることができた。

 僕は先生に促されるまま黒板の前に立つ。

 黒板には、すでに僕の名前が描いてあった。

『小野空也』

 白いチョークで書かれたその文字を隠さないように、僕は黒板の前に立つと恐る恐る教室の中を見渡した。

 そこには二十八人の少年少女がいた。彼らはそれぞれの表情で僕を見てくる。

 ある者は興味津々に、ある者はめんどくさそうに、ある者は……あれ? 机の中で必死に携帯を弄っている?

 僕は見なかったことにして、足元に目を落とした。

 人の視線は苦手だ。特に学校ではいつも蛇に睨まれていたものだから、蛙のように身を竦ませて縮こまっていることしかできなかった。

「じゃあ、小野君。とりあえず自己紹介しようか」

「う、あ、はい……」

 言葉が絡まる。一瞬教室の中からクスッと笑う声が聞こえた。恥ずかしくてますます俯くことしかできない。

 自己紹介、何を言えばいいのだろうか。名前と、あと趣味とか? あれ、でも僕に趣味なんてあっただろうか。本はあんまり読まないし、運動もできないし、料理も卵料理ぐらいしかできないし……。ああ、趣味はダメだ。じゃあ特技とか。いや、これもない。強いていえば幽霊が見えるくらいなのだけれど、それを言ったら確実に気持ち悪がられる。もうあんな思いはしたくない。

 口を開き閉じる。それを繰り返していたからか、ますますみんなの視線が突き刺さってきて――沈黙と視線に耐えきれずに、僕は小さく口を開いた。

「小野空也、です。昨日、ここに越してきた、ばかりでわからないこと、ばかりですが、あ、よろしく、お願いします……」

 何か面白いこといってくれるかと期待でもしていたのか、教室の中から「え?」「それだけ?」という声が聞こえてきたが、僕はお辞儀したまま顔を上げられなかった。

 趣味や特技がないなら、面白いことでも言えばよかったのだろうか。でも、僕は残念ながらギャグのセンスなんて持ち合わせていない。

 暫くした後、「よろしくなー」という声がパラパラと聞こえてきて、僕の自己紹介は終わった。

「じゃあ、小野君は、後ろに席用意してあるからそこに座って。あ、窓側のほうね」

 先生に言われ僕は机を探す。一番後ろの窓側には、誰も座っていない席が用意されていた。恐らくそこだろうと僕は足早に席に向かっていく。

 そして席に座り、机の横のフックに鞄をかけた時に僕は気づいた。

 隣の席、そこに誰も座っていない椅子と机があることに。


 きっと欠席者だろうとその時僕は思って、あっという間に授業が始まってしまったものだから忘れていた。だけど僕は放課後になってから知ることになる。

 彼女のことを。一度も学校に通っていない、彼女のことを。そして、これから少しだけど長い付き合いになる彼女のことを。

 だけどその時の僕は、新しい授業の用意をするのに手間取って、気にしている余裕なんてなかった。しかも休憩時間にあんな出会いがあったものだから。



 一時間目の休み時間。

 僕は、自分の席に座って、次の授業の用意をしていた。

 用意はすぐに終わってしまい、他に何もすることが思い浮かばず、ちょうど窓側だからと外を眺めることにする。

 この学校は、生徒数も少なく、一学年一クラスという、小さい学校で、校舎も小さく、一つの建物にすべてが押し込まれていた。

 一階には職員室や保健室、それから校長室など。二階には、各学年の教室が。それから三階には、音楽室や美術室、理科室などの特別教室があるらしい。三階については、教室に来るまでにお喋りな先生が教えてくれただけで実際に自分の目で見ていないから、よくわからないけれど。

 小さい学校には中庭と呼べるものはなく、小学校みたいにブランコなどの遊具があるわけでもない。窓から見えるのは、そこまで大きくもない運動場ぐらいだった。隅の方にある体育館のほうが広いぐらいだ。

 特に眺めるものもなく、僕はすぐに興味を無くして、次の授業で使う教科書に目を落とす。

 同時に、声をかけられた。

「よーっす! やあ、転入生! 暇そうだな。俺と話そうぜ!」

 男子生徒の大きな声。

 僕は思わず背筋を伸ばし恐る恐る声の主を見る。

 そこには、満面の笑みを浮かべた小柄で髪の毛をワックスで弄っているだけしかあまり特徴のない、男子生徒がいた。

 彼は本心からと思われる友好的な笑みを浮かべていた。

「て、あれれ、反応なし?」

「え、あ、いや」

「おお、反応あった! あ、そうそう俺さ、尼野奏太っていうの。奏太! て呼び捨てで構わないぜ。あ、それにしてもお前、次の授業の準備万全だなんて、すげぇ勉強熱心なんだな。もしかして頭よかったりして! ということは、宿題写させてもらえるのかっ。くっほー、最強じゃねぇか。龍之介は委員長のくせに見せてくれねぇからなー。よかったよかった。あ、そうそう、お前のこと、空也って呼んでいいか。意外と呼びやすい名前だよなぁ。あだ名は、めんどくさいから空也でいいか。お、ところでさ、空也。空也って、どこから来たの? どこに住んでた? もしかして都心! おお、いいなぁ。俺、一回秋葉原行ってみたいんだよなぁ。いや、俺アニメとか興味ないけど、可愛いメイドさんには興味あるんだよ。秋葉原ってさ、メイドさんがチラシ配りしていたり、メイド喫茶多そうじゃん。いいよなぁ、行きたいなぁ、秋葉原。ここの町はメイド喫茶とかないからつまんねーんだよ。町の隅にさびれた喫茶店はあるけどなぁ。あ、そうそう、空也はさぁ」

 問いに答える暇もなく、マシンガンのように発される言葉の嵐に、目を点にして聞いていることしかできなかった。

 尼野奏太と名乗った男子生徒は、身振り手振りで大げさに、他のクラスメイトの視線などお構いなしに、大きな声でなり振り構わず一人で喋っている。

 今日初対面の筈なのに、彼の中ではなぜか僕はもう親友にまで上り詰めていて、そして彼の中ではなぜか僕は頭がよく運動もできて、なおかつなぜかお金持ちにまでなっていて……。

「大富豪すげぇな!」

 と、なぜか感心されてしまった。

「ち、ちが」

 違う、と口を挟む暇もなく、マシンガンは再開される。

「今度何かおごってよー。コンビニの百円のパンでも五円チョコでも何でもいいから。友達におごられるとさ、何でも腹に貯まるよなぁ。しかも、おごってもらえるほどの仲って、親友を通り越して、なんていうの、人生の友! 見たいになることね? いや、どっちが上なんだろ? まあ、いいや。どちらにしても、おごって、おごられる関係ってとっても憧れるんだよ。龍之介の野郎は冷たくってさ、コンビニで五円チョコねだったら、馬鹿め、って一蹴されちゃってさ、俺すっごい傷ついたんだよ。馬鹿め、って酷くね。馬鹿めって。確かに俺は頭良くないけど、その時すっごく傷ついたんだ……。まあ、いつものことだからすぐ立ち直ったけどな!」

 話はいつの間にか、僕の知らない龍之介という人物の話になっていた。

 教室内の大多数の生徒がこちらを見ており、その中の一人、背の高い眼鏡をかけた男子生徒が足音を立てずに奏太の後ろに背後霊のように立つ。その男子生徒は眉間にしわを寄せており、とても険しい顔で、じー、と奏太の背中を睨んでいる。

 とても冷たい鋭い視線で。

 自分に向けられたわけでもないのに、僕はぶるっと震えてしまった。

「龍之介は委員長で、本当に頭いいんだけど、意外と抜けているところがあるんだぜ。知ってるか? あいつ、運動できないんだぜっ。笑うだろ」

 あはは、と大げさに笑う奏太の肩を、背の高い男子生徒が掴んだ。

 低い声が、その場に響く。

「何を言っているんだ、奏太」

 笑顔のまま、奏太が固まる。

「自分が空回りして、道筋をどんどんずれて喋っているってことに気づかないのか。少しは人と会話しようとしろ。相手の言葉をちゃんと聞け。阿呆め」

「い、いやあ、龍之介。おはよう」

 固まった笑顔のまま奏太は振り返り、龍之介と呼ばれた男子生徒に向かって片手を上げる。

 ため息をつき、男子生徒はゆっくりとこちらを向いた。

「悪いな、小野。こいつは思ったことを何も考えずに喋るタイプでな、深く考えていないぶん性質が悪いが、あまり気にしないでやってくれ。もし度を越して先走りしていたら、その時は口をはさめばいい。そうすれば、高い確率で言い淀み、扱いやすくなる」

「あ、うん」

「まあ、こいつがペラペラと喋っていたから俺の名前はもう知っていると思うが、とりあえず自己紹介しておくぞ。俺の名前は、橘木龍之介。このクラスの男子の委員長をしている。よろしくな」

 笑顔を浮かべていないからか、あまり友好的には思えない動作で手を差し伸べてくる。それが握手を求めていることだと悟り、僕は恐る恐る握った。

「うん、よろしく。龍之介くん」

「呼び捨てで構わないぞ」

「あ、うん。……龍之介」

「あとこいつのことは、馬鹿って呼べばいい」

「俺には奏太って名前があるんだぞ! か、な、たっ!」

「あ、あはは、よろしくね、奏太」

「お前なんていいやつなんだ! 龍之介と違って、きっと仲の良い親友になれるぜ俺たち! くっはー」

「奇声上げてないで早く席につけ。もう二時間目開始のチャイム鳴ったぞ」

「うそっ。やべ。また後でな、空也」

 龍之介に引っ張られるかのようにして連れていかれる奏太。僕は二人を笑顔で見送る。 

 ああ、よかった。

 憧れていた学校生活。

 この町では普通に過ごせそうで、今のところいじめが起きる気配がなさそうで、よかった、と。



「なぁなぁ、空也」

「……な、なあに、奏太」

 二時間目の休み時間。前の席の男子が席を立った隙を見計らいそこに座った奏太が、親しく話しかけてくるのに、僕はどもりながら答える。

「昼飯一緒に食べね? お前転入してきたばかりで、昼をどうするかとか決めてねーだろ?」

「あ、うん」

「よし、決まりだな。一緒に食べるぞ! 弁当? 売店行く? この学校ちっさいけど、一階の片隅で、昼だけおにぎりやパンを売りに来てくれる近くの駄菓子屋のお婆さんがいるんだよ。これがさ、すっげぇー美味しくってさ。しかも安いんだよ! 全部百円なんだぜ。まあ、おにぎりもパンも中に何が入っているかわからない、ロシアンルーレット的なものなんだけど。いや、たとえ違うか? まあいいや」

「僕は、来る途中にコンビニでパン買ったから」

「どうせ買うなら売店のほうがお得なのに残念だったな。明日から売店で買えよ。俺はよく買ってるからさ。ああ、でもこれだけは言っとくぜ」

 わざとらしく言葉を切ると、奏太は真面目な顔で、

「売店はすぐ売れ切れる」

 楽しそうに言い放った。

「売店な、安いんだけど、五十個しか売ってないんだよ。だから、毎日が勝負なんだ! チャイム鳴ってすぐに席を立ち――あ、ポケットにお金入れるのは授業中にやるんだけどそれはいいか――早歩きだ! 廊下は走っちゃいけませんって、ここの生活指導の先生すげぇ怖いから、絶対に走るなよ。早歩きだ! それで一階に行く。一年生は一番階段に近いから一番有利にみえるけどな、三年生を見くびるな。三年生の中には、この為だけに競歩を極めているやつがいる。そいつらは走っているんじゃないかっていうぐらい早いんだ。俺も何回か追い抜かれたんだけど、風のようだった……。まあ、あれは手に負えない。勝つことは不可能だから、勝とうとは思うな。それでも、その次ぐらいにはついてやるぜ精神で行くんだ! そうすれば、どうにか手に入る! まあ、手に入らないことがあるから、そのためにコンビニでパンを一個買っているけどな!」

 自信満々隠親指を立てて言う奏太を見て、僕は売店を使わないことに決めた。

 食べてみたいという気持ちはあるが、そこまでして欲しいとは思わない。僕じゃ絶対に手に入れることはできないと思うし。

 二時間目の休み時間はそんな感じで終わった。



 また奏太が来るのかな、と期待半分で始まった三時間目の休み時間。

 前の席の男子が席を立った隙を見計らってやってきたのは、女子生徒だった。

 肩ほどまで切りそろえた髪の毛を無造作に後ろで一括りした、緑色の眼鏡をかけた少女は、満面の笑みで前の席に座った。

「やあやあ、転入生くん。こんにちは」

「……こんにちは」

 なぜここで挨拶を? と思ったが素直に答える。

 女子生徒は眼鏡の奥から、少し鋭い瞳で観察するかのようにこちらをじろじろ見てくる。

 挨拶をしたきり何も言わないで僕を観察してくるものだから、どうしたらいいのかわからない。

「うしっ」

 何かを納得したらしい女子生徒は眼鏡の縁を指で押し上げる動作をしたあと、ビシッと僕を指さし言うのだった。

「あなたは受けね!」

「何を言い出すんだ、阿呆」

 何やらわけのわからないことを言った女子生徒の頭に、龍之介が華麗にチョップを決めた。

「いったぁっ。龍之介が、あたしの頭を割ろうとしたぁ」

 女子生徒が大きな声を出したものだから、クラス中の視線が集まる。

 だけど、すぐに「なんだ」「委員長たちか」「いつものことかぁ」と視線はすぐに逸らされた。

 呆れた顔をした龍之介が、ため息をつく。

「夕芽、お前は女子の委員長だろうが。同じ委員長として、俺は恥ずかしいぞ」

「うう、りゅうめ! あたしの神聖な儀式を邪魔しないでちょうだい!」

「何が神聖な儀式だこのオタクが」

「ええ、そうよ。オタクよ。それが? 何か問題でも? でもこれは大切なのよ。まあ、二次元じゃなきゃ意味ないけど、それでも時々この男の子は受けと攻めどっちなんだろう? て考えるわけ。それ以上は思わないけれど。だって、リアルの男子って、だっさいんだもの。でも二次元の男の子に置き換えると、萌えるのよね。なんでなのかしら」

「……問題ありまくりだ、馬鹿め。意味が分からんわ」

「りゅうの言葉遣いのほうが問題大ありだわ! 阿呆め、って何? 馬鹿め、て馬鹿って言った方が馬鹿なんだよっ! ていうよくある言葉を言って欲しいわけ?」

「ほんっと仲いいよなぁ、二人って」

 寄ってきた奏太が、感心したように言う。

 二人はそれに反応して、

「だって幼馴染だもの、りゅうとはね。仲がいいのは当たり前よ」

「仲がいいかはともかく、付き合いは長いからな、しょうがないだろ」

 当たり前のように言い放った。

「幼馴染、なんだ」

 呟いた僕の言葉に、女子生徒はにこやかに答える。

「ええ、そうよ。あたしとりゅうは家が近くでね、よく遊んだのよ。……あ、そういえば、あたしの名前言ってなかったわね。あたしは笹岡夕芽。このクラスの女子の委員長をやっているの。何か困ったことがあったら龍之介に話してね。あたしは女子の悩みは聞くけど、男子の悩みは聞かない主義だから。相談されても困るわ」

「え、あ、うん。はい、わかった」

「うふふ。何だろう。朝にあなたをはじめて見たときから思っていたのだけれど……仕草が小動物みたいで可愛いわね!」

 わさわさと頭を撫でられる。

 僕はどう反応していいかわからずに、なされるがままになっていた。

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