第32話 鼠の断末魔:羊の鎮魂歌
「まず分身体の特徴は、言うまでもなく妄執です。目標に向かって、分身の集団が大挙して襲撃する」
目が回る。視界が白い。
シィプの声が、近くにも遠くにも聞こえる。
気付けば、舞子は地面にうつ伏せに倒れていた。
体の表面よりも、体の中が痛い。耳にもダメージが入っているのか、ざりざりとした不快な音がする。
片方の鼓膜が破けてしまったらしい。
「しかも全部の分身体が本体。一体が消えたら、他の一体に統合して情報を無駄なく伝えることができる。だからこその無限の学習能力。そのための脳のチューンアップも念入りに行っていたでしょう。私たちの方があなたを学習しようとしても追いつきません。
ただし、です。あなたが学習していない人間が、この屋敷には二人いることに思い当ったんです。一人は奈良センジお嬢様。もう一人は……わかりますか?」
声を出そうとすると、喉になにかが引っかかる。
それは血の塊だ。吐き出してから、息絶え絶えに舞子は答える。
「……こ、後輩、か、にゃ……リンゴ、だっけ?」
シィプは首を横に振る。
舞子を憐れんでいることを、偽りなく表情で伝えていた。隣にいるリンゴも似たような顔になっている。この場においては、シィプに任せて傍観を決め込んでいるようだ。
シィプは、ゆっくりと告げる。
「あなた自身ですよ。舞子。その頭脳なら、もうわかるでしょう」
「……あ」
確かにわかりやすかった。
分身はすべて消え、あとに残っている舞子は一人だけ。それはつまり『すべての舞子が一瞬で一網打尽にされた』ことを意味する。
何をされたのかは舞子にはわからない。
背中に爆弾でも張りつけられていたのかもしれない。だが、舞子の能力の性質上、それに気付くことは絶対にない。
自分自身は絶対に敵にならない。だから能力の視界に入らないのだ。
「で、でもどうやって……マイコたちを全滅させたの?」
「紙爆弾。超薄型で軽いヤツ。爆発の影響が及ぶ範囲は狭いですが、手紙の封筒にも入れられる暗殺用のヤツです。しかも対象を焼かず、爆発の衝撃のみで内臓をズタズタにするから建物にも優しい」
「いつの間に全員に……っ!」
途中で、また喉に血の塊が引っかかり、会話の邪魔をする。
意図だけは伝わったようで、シィプは手向けとして言う。
「全員に張りつける必要はありません。一部の舞子に張りつけるだけでいいんですよ。だってあなた、分身体を『服ごと複製』してるじゃないですか」
「……はは。なるほどにゃあ」
うつ伏せに寝ていた舞子は、笑いながら仰向けになる。
「分身元に紙爆弾を張りつければ、そいつが生み出す分身にも紙爆弾がくっついてる。起爆スイッチの周波数も同じだから、一個のボタンで纏めてドカン。面白いこと、考えるにゃあ……」
「学習能力において、私たちはあなたに敵わない。だけど得るものは決してゼロじゃない。あなたは私のことを知り尽くしてましたが、それでも勝てたのは――」
「あなたが相手をしていたのが私たちだったからよ」
シィプの後ろから、ベリーショートの髪の少女が現れる。まだ寒いのに、少し薄着だ。服装は色気のないTシャツとホットパンツ、そしてガラの入っていない白いパーカーを羽織っている。
奈良家次期当主、奈良センジ。十三歳の幼い少女だが、その眼光に威厳と強い意志を宿している。
「……私の家を舐めないで。なんで侵入なんかしたの?」
「言う必要はないにゃあ」
「ん。そうか。そら、そうね」
センジは首に手を当て、肩周りの筋肉を解しにかかる。
傍らでその様を見ていたリンゴとシィプは、揃って真意を掴みかねていた。まるでこれから戦いを始めるかのような雰囲気。
勝負には勝ったはずだ。だが、なにかおかしい。空気に充満している緊張感が消えていないのだ。
状況を掴みかねているリンゴは、センジの次に気付く。
――舞子の顔色が良くなってきている?
緊張感の正体がわかった。
まだ終わっていない。舞子には分身以外にも能力がある。
リンゴの体中から汗が吹き出す。舞子の方は、シィプ以外の全員が感付いたことを理解し、弱弱しい敗北者の演技を打ち切るように邪悪に笑う。
「……先輩。下がって」
「え?」
中途半端に不明瞭な注意が仇となった。リンゴの声に気を取られたせいで、シィプは舞子から目を逸らしてしまう。
舞子はむくりと上体を上げ、起き上がり、リンゴの動体視力では捉えきれないスピードでシィプに襲い掛かる。
こんなスピード、舞子は持っていなかったはずだ。いきなりギアが上がったかのように、強力になっている。
「先輩!」
見えないなりに、シィプに抱き着き、庇う。
シィプは驚愕に目を見開いている。やっと気づいた。リンゴの後ろに、襲い掛かる舞子の残像が見える。
舞子は右の拳をリンゴの背中に、乱暴に叩きつけた。
予測していたよりも遥かに大きなエネルギーが、リンゴの肉体を破壊する。
背骨は無事だ。だが拳は筋肉を破壊し、肋骨に決定的なダメージが走る。
素手が肉体にめり込んでいた。
「……ぶっ……ごっ!」
「リンゴさん!」
歯を食いしばって痛みに耐える。取り乱すシィプを見たリンゴは、飛びかけた意識が、辛うじて元に戻るのを感じた。
舞子は拳を引き抜き、口の周りについた血を拭って笑顔を作る。
「にゃははー! おーばーかーめー! マイコが爆弾程度で死ぬわけないじゃーん!」
「舞子っ!」
シィプは崩れ落ち、膝を付きそうになるリンゴを支えながら舞子を睨み付ける。
間違いなく死に体だった舞子からは、ダメージが消えていた。少なくとも立ち上がって戦闘を再開する程度には。
こんな能力、シィプ自身も初めて見る。
今の今まで隠していたのか。
「……タネは言わなくってもわかるよにゃ? ねぇ、シィプ?」
「何を……」
シィプは再度舞子を分析し直して、自分のミスと舞子の能力の正体を完全に理解する。
彼女の中に重なるようにして、生体反応が増えているのだ。
注視すればわかるはずだった。舞子の演技のせいで、その事実は巧みに隠されていたのだ。
「……分身の応用。戦闘能力の倍化。ああ、そうか! あなたは!」
「マイコの中にマイコを作るイメージ。今のマイコは、マイコ三十二人分なの」
分身ではない。舞子一人のすべての倍化だ。
シィプは舞子のことを知り尽くしていると思っていたが、それは大きな誤解だった。
パワー、スピード、再生能力、そして強化能力そのものが時間と共に倍化していく能力。これが舞子の切り札だった。
震えながら、顔から生気が抜けたリンゴが振り返る。
「舞子……まだやる気なら、俺たちだってそれなりに……ぐあっ!」
電撃のようなショックが走り、立ち上がろうとしたリンゴの足から力が抜けた。
舞子は楽しそうに、なおも笑う。
分身能力が消えているせいで、今はリンゴのことすら加虐の対象らしい。
「木星産の寄生植物の種だにゃん。学名付けられてないくらい新しいヤツ。かなりコストが高いから、あんまり使いたくないんだけど、再生能力持ち相手なら仕方ないよねぇ?」
戦いの中で学習した知識の応用だろう。寄生植物が、再生する傍から組織を傷付けていく。これではリンゴの再生能力は意味がない。
先ほど使わなかったのは、根本的なところでリンゴ本人を見ていなかったからだ。
だがもう誰に対しても、舞子は全力で対処できる。分身能力のために用意した妄執は必要ない。
いよいよ恐れてきたことが現実になった。シィプの顔から血の気が引く。
シィプは自身が傷つくことは構わなかった。場合によっては死んでもいいとすら考えていた。だが奈良家の仲間が傷つくことだけは絶対にダメだ。
自分の過去が誰かを傷付けたならば、それは自分が傷付けたことと変わりない。
「シィプ。リンゴを治療してやって。種を抜けばダメージは消えるわ」
センジは事もなげに、冷静に指示する。はっとなって、シィプは主を見た。その背中が随分と大きく見える。
「お嬢様。私は……私は……!」
センジの目は、シィプには向かない。今現在、奈良家の敵と化している舞子から、絶対に目を離すわけにはいかない。
「安心して。この雑種猫オンナは絶対に処理する。学習され尽くした二人はもう足手まといだし」
「雑種猫オンナ!? どこ見て言った? まさかこのクセっ毛を見て言ったんじゃないだろうにゃ!?」
舞子の地雷を踏んだようだが、センジは取り合わない。
傍らのシィプに再度言う。
「二度目はないわ。さっさと下がりなさい。じゃないと私がアンタを殺す」
「……申し訳ありません。お嬢様」
「失せなさい! 早く!」
シィプはぎゅっと目を瞑った後、意識を切り替える。
この後、きっと自分はメイドを辞めるだろう。だがそれまでは、センジが自分の主だ。そう強く感じながら、リンゴを連れて屋敷の中へと戻っていく。
後に残ったのはセンジと舞子の二人だけ。
「ぬふふ……元カノと今カノの戦いってところかにゃー?」
へらへら笑いながらセンジを見据える舞子。それにセンジは一切表情を動かさない。
だが舞子には、その反応すら面白かった。明らかにセンジは激怒していたからだ。
「……さてと。奈良家次期党首のあなたに訊きたいことがあるんだけどにゃ? 今そんなことできる感じじゃなさげだにゃー?」
「わかってるようでなによりね」
センジはふんと鼻を鳴らす。
「話している時間ももったいない。その間にあなたはどんどん強くなる。手加減なしで行くわよ」
「手加減なし、か。本当にマイコの能力だけが理由? 怒ってるから攻撃したいんじゃなくって?」
「もう喋らないで。吐き気がするわ」
直後、センジの背後から噴出する純粋な殺気。
それは舞子が今まで感じたことのないような感覚だった。シィプと初めて会ったとき以上の動悸が、舞子の息を荒くする。
――あ。一目惚れだ。
舞子がそう断定した次の瞬間、舞子はセンジに吹き飛ばされた。
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