第1話

 「みちるっ」

 呼びかけるとみちるは、落としていた視線を、くっと上げた。前髪の下の大きな瞳が、キョトンと不思議そうな表情を宿す。

 「ん?」

 「今日、お母さんと勇人さんと、ホテルにお泊りしとるけん、遊びに来ると?」

 とくとくとくとく・・・・・・、ほたるの小さな心臓が、小さな身体の真ん中で、足早に駆けていく。

 周囲は、箒を持った掃除当番の子たちや、走り回る男子、「残り遊びするひとー!」女の子の上げた人差指に集まる子たちで、賑わい始めていた。

 ホームルームを終えて、ほたるは一目散にみちるのところへやってきたのだ。なんとしても、他の子がみちるを遊びに誘ってしまう前に、と。

 「ホテル!?」

みちるの唇の、端と端が上がった。そして間髪なく、

 「行きたい! 行きたい!」

 丸い目を、更に大きく開いて、言葉のリズムと一緒に何度だって首を頷かせる。

 「行くばい。じゃあお母さんに後で電話しとくよ?」

 「うん!」

 行きたい! 聞いた瞬間、ほたるの緊張は柔らかな砂が風で飛ばされるように、どこかに消え去っていった。心臓だけが、余韻のように、まだ小刻みに打ち続ける。

 良かったぁ! 気分屋のみちるは、こんなとき、今日は行きたくない、なんて正直に言って、あからさまに乗り気じゃない顔をすることもある。そんなときの悲しい気持ちは、とても怖い。だけど、今日は絶対に、みちるを招待するんだ。ほたるは決めていた。お母さんが、「お友達も連れてきていいんだよ?」そう、言ってくれたときから、決めていたのだ。

 「ホテルって、豪華なとこ!?」

 「うん! すごいよ! 部屋なんて、うちと全然違くって、廊下も迷路みたいっさ」

 「ええー!」

 みちるの瞳はこんなとき、どうしてか少し潤んで、きらきら光って見える。

 一緒に探検しよう、と言いかけたけれど、杏里と麻里子がそこまで歩いて来ていたから、その言葉は飲み込んだ。

 「えー? なになに、何かあるん今日?」杏里が聞く。

 「ううんー」みちるはさらりと言った。

 「じゃあ残ってドッジボールしないって、雷太たちに誘われたけん、ちょっとしてかんと?」

 あ! と一瞬思う。雷太たちとドッジボール・・・・・・それもほたるにとっては、とっておきに魅力的なのだ。それでも、今日は、みちると。

 「あー。どうしよっか?」みちるが、こちらを振り返った。ほたるが戸惑っているうちに、彼女はまた、杏里たちのほうを向き直って続ける。

 「やりたいけど、今日うちら二人とも早く帰って来いって言われてるけん、今日は帰るかなー」

 「えーそっか残念」

 「そのほうが、いいよね?」みちるがまたじっとこちらを向く。ほたるはただそれに小さく頷いた。

 バーンッ!

 その、少し下向き加減の頭に突如、強い衝撃が落ちてきたから、ほたるは危うく前につんのめりそうになった。

 「えぇ! ほたる大丈夫?」

 「待ってーすごい音した」

 「いったぁ・・・・・・」痛みの余韻が、じわんと輪を描くように、頭に響く。その向こうにぼんやりと、杏里たちの声が聞こえた。衝撃の瞬間は、何が起こったか全くわからなかった。けれど、「雷太ちょっとやりすぎ!」麻里子の声で状況を飲み込めた。

 「ハイっ、グランド行こうでー、グランド」

 雷太が、白いドッジボール用のボールを、自分の右手と左手で、軽く投げ合いながら、にやにやと立っていた。つり目の一重瞼が二つ、悪戯な笑顔に巻き込まれて、くしゃりと線のごとく、細まる。その視線は、ほたるの顔からは少しだけ見下ろす位置にある。

 「いったいなー!」

 「うお、あぶねー」

 ほたるは雷太の頭を、平手でぶとうとする。雷太はそれをひらりとよけてかわした。

 「人のことボールでぶっといて!」

 「ぼーっと突っ立ってるほうが悪いけん」

 「ぼーっとなんて突っ立ってない! こっち向いてたんだから、顔なんてわかんないじゃん」

 「普通の顔が、ぼーっとしてるけん、夕子はっ。はやく行こうで、グランド」

 夕子というのは、ほたるのことだ。ほたるの名前は、本当は、夕子というのだけれど、ほたるの前の苗字、蛍川からとって、皆ほたるって呼んでいる。だけど、雷太はほたるのことを夕子と呼ぶのだった。

 「今日は行けないから」

 「え、なんで?」

 「なんでもいーでしょ。用事があるけん」

 「はー!?」その雷太の声にかぶせるように、杏里がちゃちゃを入れた。

 「雷太はほたるがいないとつまんないんだ」

 「ちっげーよ! んなわけねーだろ! こんなブス!」 

 「ブス!? 自分は目ぇ線のくせに!」

 雷太は、急に知らないという顔になり、くるりと踵を返すと向こうに歩き出した。その両手で、相変わらず小刻みにボールを投げ合いながら。

 「なに、あいつ。ほんとありえない」

 「絶対ほたるのこと好きだよねー」隣の杏里がはしゃいだ。

 「ねー!!」麻里子まで、大きな声で一緒になる。

 「好きじゃないよ。だって私のこと好きだったら、ふったりばっかしておかしいばい」

 「ほたる、鈍い! 好きだから、そうするんだってー」

 「そうかな」

 「てか、ほたるも顔赤い?」

 「え、赤くないし全然!」すっ、と頬に触れてきた杏里の手を、すぐに右手で払いのける。

 「だって私、あいつ嫌いばい」

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