💋サーファーズ・ダイアリーズ🏄🏻
乃上 よしお ( 野上 芳夫 )
第1話 女は海である
『それじゃあ、仕事が終わってから
迎えに来てね! 恵子 』
涼介は、渋谷の少しはずれの代々木公園近くの交差点に車を停めていた。
まもなく、恵子が来るはずだった。
昨日からメールをやりとりしていて、今晩、会おうということになったのだ。
この、新しい女性を待っている時間が、涼介は好きだった。
それは、新しい車を買って納車されるまでの間の、ワクワクとした思いで待つ気持ちに似ていた。
黒い四駆は、二インチだけリフトアップされていた。それが、夜の街灯に照らされて、頼もしく光っていた。
——この車で、今晩はどこまで行くことになるのだろうか?
涼介は、やけに明るい月の光を浴びながら思った。
——俺はミスター・ムーンライトだ。
今夜はいいカレントがきている。
涼介の胸は新しい出会いに高なっていた。
......恵子はラジオのアシスタントの仕事を終えて、帰るところだった。あまり身体は疲れていなかった。
疲れたのは心だけだ。
さっきまで先輩についての見習いという立場で仕事をしていたので、だいぶ気だけは使ってしまった。
——そう言えばメル友に、海にでも行く?と言っていたヤツがいたっけ。
家に帰っても親がうるさいだけだし、気晴らしのドライブもいいかな。
彼女はそう考えていた。
待ち合わせ時間の午後十時に、二人は出会った。
恵子は、かけだしのDJだ。
薄い色のついたメガネをかけて、編み込みのニット帽を被っている姿は、いかにも、それらしい格好だった。
きちんとした自己紹介をした涼介が、恵子には意外だった。
——サーファーで営業の仕事の男か。
恵子は涼介が茶髪か金髪の長髪だと思っていたが、彼は黒い短髪だった。
肌の色も黒かったが、筋肉質のしなやかそうな身体をしていた。
恵子が予想していたTシャツではなく、涼介はブルーの襟のあるポロシャツだった。よく似合っていた。
恵子にとっては、久しぶりに会う、普段から太陽の光を浴びている男だった。
「どこに行こうか?」
涼介の行きたい所はホテルだったが、なにせ初対面の相手だ。
彼はさぐりの会話を始めた。
「海に行きたい」
恵子は言った。
涼介は、自分のよく知っている千葉の海へと車を走らせた。
恵子には、想像していたよりも涼介がしっかりした人間にみえた。
最近では、恵子が付き合っていたのは業界の人間だけで、チャラいヤツらばかりだった。
恵子は、仕事をチラつかされながら、オンナを要求されることに、疲れ切っていた。
だからたまには、普通の会社で働いている男と、普通の話がしたかった。
「まず、食事でもしようか?」
涼介がきいた。
「そうね」
恵子が言った。
「いいところがあるから」
涼介はそう言うと、途中の葛西で高速を降りて、彼の知っている店に向かった。
その店は雑居ビルの二階にあり、少し安っぽいキラキラしたビニールやプラスチックの装飾が天井から垂れ下がっていたが、初対面の人がリラックスできて話しやすく明るい雰囲気がある。
そこで流れているムーディなR&Bが好きで、涼介は此処に時々来ていた。
恵子は、よく飲み、よく話した。
彼女は二年ほど前から、フリーでクラブのDJをしていたが、それは土、日曜日だけのことで、平日は実家の喫茶店を手伝っていた。
今度のクラブイベントには、ぜひ友だちも連れてきてほしい、と恵子は涼介に頼んだ。
彼は連れて行けそうな面々を頭に思い浮かべて、五、六人での参加を約束した。
——コレだけでも来たかいがあったかな。
恵子は思った。
仕事がら、恵子にとっては、交友関係を広げ、イベント動員数を確保することが、とても大事だった。
——好きなことを仕事にするのは、なかなか大変だな。憧れをカタチにするのは大変だけど、恵子にはぜひ頑張ってほしいな。
涼介はそう思った。
恵子はクラブDJ一本でいきたいが、いまはイベントコンパニオンや司会業もこなさざるをえなかった。
将来は、地元のFM局で番組を持ちたいとも思っていた。
恵子の声が実家の店で流れて、それを父母やお客さんが聴いて喜ぶ姿が見たかったのだ。
夢を信じ続ければいつか実現出来るということも、恵子は親や地元の知り合いに証明して見せたかった。
彼女の実家は川崎大師の駅前の喫茶店で、そこには他に喫茶店がないため、お店は忙しかった。
彼女の姉は嫁いでいて家にいないので、お店はお父さんとお母さんで切り盛りしていた。
そこに、恵子が手伝いで入るようになったのだった。
恵子が涼介に言った。
「お母さんが料理上手なんで、お店の美味しいカツサンドをぜひ食べに来てね」
なかなか結婚せずに遊ばれてばかりいる恵子が心配で、親は近所の人から勧められて、彼女を結婚紹介所に登録してあった。
恵子は、会社員のまともな彼氏を連れていけば、ちょっとは親が安心してくれるのではないかと考えた。
恵子が店にいて親を見ていると、毎日数十回も父は母からダメだしをくらっていた。
母は、朝から何故自分は喫茶店の嫁に来たのか?というグチをはじめて、犬の散歩や洗濯の事まで、父に文句を言い続けるのだった。
恵子はその話を涼介にした。
「お父さん偉いね」
涼介が言った。
——よく我慢できるもんだ。
聞いている恵子もストレスがたまるだろうな。
涼介はそう思った。
——でも、結局のところ、恵子の両親は仲がよいほうだと思う。
涼介は、恵子の気立ての良さを感じていた。
だから恵子は、きっと両親から愛されて育った娘だろう、と涼介は思った。
愛されたことのある人は、また別の人を自然に愛することができる。
しかし、愛されたことが無い人は、愛さなければならない人に対してさえ、不器用で愛せなかったりするものだ。
恵子は、お店の有線放送を聴いて育ったので、自然と音楽に親しむようになり、中学生の頃には、ターンテーブルを回し、ミキサーで音源を加工したりしていた。
お店のお客さんの中に業界の人がいて、運よくDJデビューできたが、それだけで食べられるところまではいっていなかった。
恵子の実家の喫茶店には色々な人たちが来る。
朝は常連のリタイアした高齢者たち。
お店にとっては、大切なリピーターだ。
毎朝きまった時間に来て、きまったものを食べる。
散歩の帰り道に寄ったり、新聞をゆっくり読むために来ていたりする。
恵子の家族と、そこでほんの一言二言だけでも、話をしたいという独居老人も多かった。
恵子は彼らにかわいがられていた。
昼間はビジネスの打ち合わせや契約で、テーブルのあるお店を探してやってくる人たちが集まる。
そして、男女の待ち合わせ場所としても、彼女の喫茶店は街の中で大切な機能を果たしていた。
恵子は幼い頃から、お店の中で展開される泣き笑いの人間ドラマを見てきた。
「お母さん、どうしてあの人泣いてるの?」
幼い頃、恵子は店内で泣いている女性を見て、母親にきいた。
——別れ話でもしていたのだろう。
それを聞いて、涼介はそう思った。
そんな環境で育った恵子は、気さくで、人懐こい人間になり、短時間で人を見抜く力も養われていた。
涼介は恵子のメガネにかなったようだった。
彼は余計なことを言わないが、ちゃんと恵子の話を聞いているし、必要な場面では適切なアドバイスをしていた。
時間が経つにつれて、恵子はますます涼介に心を開いていた。
恵子の実家の喫茶店からは、川崎大師に向かう参道が続いている。
とくに正月は混み合うところで、毎年たくさんの屋台が立ち並んでいた。
色とりどりのダルマがならび、広島焼きや甘酒店の並ぶ商店街は、恵子の大好きな風景で、そこの店のほとんどの人たちが顔見知りだった。
今年の正月のおみくじで、恵子は大吉を引き当てた。
——待ち人来る、と書いてあったのは、涼介のことかも知れない。
そんな思いが、恵子によぎった。
人の縁とは不思議なものだ。
昨日まで知らなかった二人が、こうして出会い、時と共に理解を深め合っている。
恵子は運命を信じている、と涼介に話していた。
——出会いは、運命なのか?
参道にある家で育てば、それなりに信心深くなるのは当然だ。
涼介はそう思った。
涼介には神仏の気持ちがよく分からなかった。
——とてもいい人が早死にしたり、損をしたりしている。
神様はそんな時にも、沈黙を守り続けて手助けをしてくれない。
ズルい人が得をしたり、長生きをしたりしているのが、この世の中ではないか?
涼介はそう感じていた。
だから、理不尽に損をしないためにも、涼介は努力を怠らずに備えをして、チャンスが巡ってきたら、迷わずにそれをゲットしようと思っていた。
そんな考え方が、恵子との今日の出会いを生んだし、色々なイイ思いを自分にもたらしてくれたと涼介は考えていた。
恵子は、人の寿命や運命というものは、あらかじめ神仏により決められていて、人間が努力で左右できるところはごくわずかだと思っていた。
ただ、神仏に祈り不変の決意と行動で前進すれば、難しい願いもかなうことがあると信じていた。
不可能にみえる目標を成し遂げられたとする。
それさえも恵子は、あらかじめ神仏がご存知だったというのだ。
とにかく、恵子は自分の行く道を信じて歩き続けていた。
——まさかDJがこんなに保守的な考え方を持っているなんて!
涼介には驚きだった。
——女性は占いが好きだ。
涼介はそれを思いだした。
今まで涼介が出会ってきた女性のほとんどが、手相や星占いの話を好んだ。
特に、結婚や恋人との出会いの話になると、ドライなキャリアウーマンが、とたんに少女の顔で運命論者になってしまう姿を涼介はみてきた。
——確かに世の中には変えられないものもあるさ。
海に行って、いい波がくるかどうかは運しだいだ。
その日の天気さえ、人間には変えられないからな。
涼介はそう思った。
この点では、彼もそれなりの運命論者だったかも知れない。
涼介は身の安全のために、自分の腕と足首にミサンガをつけていた。
それには、海の沖に出たとしても、必ず帰ってきて、無事に岸にたどり着く事が出来るようにという願いが込められていた。
どんなに気をつけていたとしても、海の上では、突然に足がつって動けなくなってしまうこともあるからだ。
最近ではサメも多くなってきていた。
海は、涼介に人間の小ささを教えてくれていた。
静かな海、荒れ狂う海。
そのどちらにも、人間は服従するしかなかった。
——荒れ狂う海をあなどって、いったいどれくらいの人々が命を落としただろうか?
強大な自然の力に刃向かえないことを涼介は知っていた。
彼は海や自然に畏敬の念を持っていた。
それは女性に対しても同じだった。
女は海であり、自然の一部だったからだ。
涼介は女性から様々なことを教えられてきた......
頑なに心を閉ざしてしまった女性を変えることが、どれほど難しいことか。
女性に自分を合わせることの大切さ。
そして涼介の誠意が通じたなら、女性は心や身体を開いて報いてくれる事も。
心を許して身体を預けてくれる女性は、夏の温かい海のように、涼介を包んで癒してくれた。
......サングラスを外した恵子の瞳は輝いていた。
それは夢を捨てずに、夢の実現のために歩んでいるものだけが持っている光を放ち、ある種の力を宿していた。
その光が涼介を圧倒した。
——彼女を抱きしめたい......
涼介は、やっと見つけた大きなダイヤモンドの指輪を、初めてはめてみる時のような、ワクワクした感情で恵子を見つめた。
涼介には具体的な夢は何もなかった。
今日を精一杯生きて、後悔しないで済むようにすること。
それだけが彼のモットーだった。
だから、恵子のように、自分の好きなものがあって、それを仕事にして一生懸命生きている人が羨ましかった。
——好きなことを仕事にしている人なんてごくわずかしかいないさ。
涼介はそう思っていた。
——満員の地下鉄に乗って毎日仕事に行く人たちの中で、どれほどの人たちが小さい頃から好きだったことを仕事にできたのだろうか?
恵子の話を聞いていると、彼女がとても幸せに恵まれた娘であると、涼介には感じられるのだった。
時々、なじみの店長も、二人の会話に入ってきた。
しばらくして、音楽がアップテンポに切り替わる。
店長の仕業に違いなかった。
彼は気をきかせて、時おり、客の恋の成就のキューピッド役を買ってでた。
そして、カップルのシチュエーションにあわせて曲を変えたりするのだ。
彼はレスラーのような強面で体格もよかったが、根はきっと優しいのだろう。
涼介はこの店長に、こっそりと魔人ブーとアダ名をつけていた。
「ヤバいね!」
この曲を恵子は気に入ったようだ。
心臓の鼓動のようなパーカッションが響くEDMだ。
涼介は酒の酔いのせいだけでなく、音楽のリズムに合わせて自分の心拍数が上がっていくのを感じた。
ブルー・ムーンのカクテルグラス越しに、恵子の身体が曲に合わせてリズムをとり、上機嫌に軽く揺れていた。
さすが魔人ブー・マジックだ。
......Imagine......
......Imagine......
スピーカーから何度も繰り返される言葉。
——なんという挑発的な曲だろうか?
涼介は夢想する。
誰もいない砂浜を恵子と走る。
二人にはもう理性などなくなっている。
その先にあるものは......
涼介は、この曲が終わったら店を出よう、と恵子を誘った。
店から出ると、涼介は念のために、また、恵子に行き先を聞いた。
「海に行きたい」
と 彼女は言った。
高速道路をひた走る。
二人は宇宙船の乗組員のように、暗い星空の中を疾走していた。
......恵子は寝ているのだろうか?
涼介は彼女の手を軽く握ってみた。
「寒くないかな?」
彼がきくと、
「......大丈夫」
恵子が答えた。
彼女の手がしっとりと汗ばんでいるのは、涼介の気のせいではなかった。
熱い夜になりそうな予感がした。
......海の匂いが届くようになると、そろそろ下道に降りる頃だ。
涼介にとって、この辺りは、自分の庭のようによく知っている所だった。
真っ暗な畑の中の近道を抜けて有料道路の高架線の下をくぐる。
あたりはうっすらと明るくなり始めていた。
「ヤバイね」
恵子がまた言った。
今夜一緒にいて、恵子が何かに感動すると、ヤバイ、というのだと涼介はわかっていた。
目の前に広がる海は、たしかにヤバかった。
海は静かなナギで、誰の足跡もついていない砂浜は、昇りはじめた太陽の光に照らされて、キラキラとダイヤモンドを散りばめたように輝いていた。
誰にも汚されていない海は、神が創造したままの姿をみせて、二人に迫っていた。
恵子はその光景に胸打たれていた。
涼介は、道路から砂浜に向けてハンドルを切り、突っ込んでいった。
苦もなく車は砂の上を疾走した。
波がタイヤに届きそうなくらいのところで、涼介は車を停めた。
月面着陸した宇宙船のように、車のワダチだけが、この場所では唯一の人工的な痕跡だった。
——この朝、ここに初めて降りたつのは、僕たち二人だけなのだ。
涼介は思った。
他には誰ひとり居なかった。
頬をなでる潮風に、恵子は目を細めて身を任せていた。
寄せては返す、波のリフレインを、エロティシズムが強すぎるといって取り締まるものはいない。
しかし、波の魔力は女を罪深く誘惑する。
この強弱のある潮の満ち引きというものは、女の感情のリズムそのもののようだ。
男女の行為そのもののリズムであると、涼介は感じることさえあるのだった。
永遠に繰り返される潮騒の音は、人間を一種のトランス状態へと導いていくようだった。
しだいに、海の魔法は、女をオンナにしてしまう。
恵子は、もはやどこを触られても、抗うつもりがなかった。
優しい涼介の手の動きに酔いはじめていた。
——髪を撫でてみる。
柔らかく細い恵子の髪は、潮風に吹かれて彼女の顔に絡みつこうとしていた。
それを一本一本、涼介は優しくかきあげていた。
その時の、顔に触れる涼介の指の感触を、恵子は楽しんでいるようだった。
不思議なことに、海では全ての存在が、生まれたままの姿になろうとする。
誰も、海ではことさらに着飾ろうとしない。
むしろ、一枚、また一枚と、着ている服を脱ぎ去っていき、許されるなら、一糸まとわぬ裸になりたいと願ってしまう。
二人はお互いの着ているものを全て脱がし終わっていた。
人魚のように、白くしなやかな恵子の身体が、朝陽に照らされて眩しく輝いていた。
いま地上に初めて降り立つアダムとエバのほかには、海と大地があるだけだった。
生きとし生けるものたちは、海から生まれ、また海に帰り同化していく。
時には屍さえも、海は飲み込んでしまい、新しい生命体の栄養分として溶かし込んでいってしまう。
——女は海だ。
今ここで、海と同化した恵子の横顔を見ながら、涼介はそう思った。
恵子の中の、何か海と同じ要素で出来たものが、いま目の前で海と同期していた。
そして涼介は、自分自身がその海の中にこれから入り込み、溶けてしまうような気がしていた。
恵子は、さっきまでのくったくのない笑顔から、意味深に沈黙するオンナの顔に変わっていた。
その身体からは力が抜けて、何かを受け入れる用意が整っているというメッセージを、涼介に向けて発信していた。
涼介は彼女の手をしっかりとつかみ、もう一方の腕を彼女の肩へまわして引き寄せた。
恵子のオンナの身体からは、その熱気が伝わってくる。
そして、顔をゆっくりと近づけた。
唇が触れる直前に、恵子は大きく息をして、両胸をハッキリと動かした。
彼女は首の下の鎖骨までしっかりと動かして呼吸をすると、次第にそのあたりをピンク色に染めていった。
近づけた唇はまだ触れてはいなかったが、恵子の身体の奥のほうから、何か女の成分がたくさん詰まった息がでてきた。
最初のキスは、触れるか触れないかというもので、二回目も同じだが、少し長くなった。そして、三回目は、重ねた唇をもう離すことができなくなっていた。
お互いの唾液が絡まりあうまで、確かめるように何度も吸いあった。
——恵子は甘酸っぱい味がする。
涼介は思った。
——さっき彼女が飲んでいたバージンメアリーのせいだろうか?
トマトの酸味だけではない。何かもっと強い刺激のあるものが入っていた。
——ライムだろうか......
——それとも、恵子自身が隠し持っていた別のオンナの武器なのだろうか?
それは間違いなく刺激的な味だった。
涼介も恵子も、さっきまでの理性は何処かに遠のいていた。
涼介は、恵子のこぼれそうな胸を優しく手で覆った。
車の外から入ってくる海風の匂いを嗅ぎながら、涼介は女自身から漂う匂いと、そのしょっぱさを思い出していた。
それは海の持つものと同じだった。
手を伸ばして彼女を確かめてみる。
恵子の持つ海はすでに満潮だった。
十分に潤いながら、涼介が来るのを待っていた。
海はそこにいるサーファーを沖へと誘い、まだ体験したことのない素晴らしい世界を見せようとしていた。
涼介の手は、岩間から潮を吹き上げる海と化した恵子の身体を、闊歩する蟹のように歩きまわっていた。
寄せては返す波の流れで、岩間からは絶えず潮が溢れていく。
我知らずのうちに次第に開かれていく恵子の唇を、また味わってみる。
彼女の唇は柔らかく涼介に吸い付いてくる。
恵子は胸でさらに大きな呼吸をして、涼介の手の動きに合わせて、腰を動かし始めた。
その動きは意識的なものではなく、無意識で何かに動かされているようだった。
ゆっくりとした腰の動きは、深い快感に集中する時だけ止まった。
その時には、恵子の岩間だけが、涼介を吸い込むように動いていた。
女が愛の営みに頭の中まで没頭できている時には、身体が感じるままに、寄せては返す快感の波に身を任せるものだ。
その波は、時に小さく、また大きくなって、繰り返し押し寄せるのだった。
恵子はいま、この心地よい波の上に涼介と共にいた。
そして、一番大きな波が押し寄せるのを、二人は待っていた。
それは、なかなかこなかった。
何度も小さな波に乗りながら、待っている時間も、二人には幸せだった。
時計が止まってしまったような、宇宙空間に二人だけしか存在しないような静寂は、不思議な感覚である。
——ほんとうは、この静けさと安らぎに出会いたくて、僕たちは此処に来たのではないだろうか?
普段の生活で忘れていた、ほんとうの自分を取り戻すために。
男がオトコになり、女がオンナになるために。
海に同化して、自然にかえったオスとなりメスとなる姿は美しかった。
動物なら、繁殖行為を汚いとか綺麗とか格付けすることはない。
むしろ愛の営みは、新しい生命を生み出す神々しい行為であり、合体した男女の姿こそ、もっとも神に近いのである。
身体の奥底から湧き上がる感情の持つ力は好ましく、一人でいても決して生まれることのないパワーだ。
この見えない力に名前をつけるために、人はそれを愛と呼んできたのだろうか?
——それなら、いま僕たちは愛に包まれている。
いま、二人が包まれている空間は、
まるで、海の大きな波がつくるチューブの中のグリーン・ルームのようだった。
そこは、神が海の上にほんの一瞬だけ創り出す奇跡の部屋だ。
それは、恐れを超えて神の懐にやってきた幸運なサーファーだけに与えられる。
その中では、誰もが一瞬の中に永遠の時間を感じとり、神と対面したことを信じるようになる。
音の無い静寂が支配する場所で、神聖なものとされているのだった。
涼介は、身体の奥底から湧いてくる、恵子と、もっとひとつになろうとする衝動に突き動かされていた。
彼女の白くて柔らかい乳房を噛んだり、彼女の丘のように隆起したお尻をつかんだりしたかった。
その全てが神聖なる愛の儀式の表現なのだ。
だから、大地が地震で揺れるように恵子の身体が揺れることや、恵子から溢れでる潮の流れも、すべてが愛とは何であるのかを涼介たちにはっきりと示すためのものだった。
大きな波に乗る時に、恵子は声をあげた。
恵子の身体の奥下の方から快感のイナズマが生まれ、彼女の背骨を抜けて上りつめて脳へと達していく。
電気ショックを受けたように、恵子は何度か全身をピクンと痙攣させた。
恵子のアゴの力は抜けていて、半開きにしたままの開いた口もとからは、唾液が流れ落ちそうだった。
涼介は顔を寄せてそれを吸いあげて飲み込んだ。
恵子は満足そうに大きく息を吸い込んだ。
身体を合わせたままで、二人は共同コンサートで奏でた楽器の音の余韻に浸っていた。
しばらくして、涼介がまた腰を突き上げると、その都度、恵子は小さな可愛い声をあげた。
それを何回か繰り返すうちに、我慢できずに涼介の宇宙ロケットのスイッチが入る。
いち度点火されたロケットは、信じられないような推進力で、宇宙の彼方へと恵子を連れていこうとしていた。
恵子の両手は、しっかりと涼介の背中を爪を立てながらつかんでいた。
そして、二人は、遠くへ、遠くへと飛んでいくのだった......
涼介が出会う女たちは、それぞれに社会的立場を持っていた。
しかし皆が、時々ただのオンナになり、自らの欲望に忠実に生きてみて、自分らしくオンナを演じ切ってみたいという願望を抱いていた。
涼介は、女たちとメールをしながら、彼女たちが、いつしか自分を信頼してくれて、全てを開け広げにしても大丈夫なのだということを、伝えるだけでよいのだった。
寄せては返す波のように、女たちの中には広大な海があって、生存と新しい生命の創出、種の存続の本能をあらかじめインプットされていて、性の営みの相手を無意識のうちに求めざるを得ないようにみえた。
オンナにしてくれる男とひとつになることが自分たちの宿命である、と女たちは悟っているようだった。
いつ頃から、女たちがその宿命に気づき始めるのかはわからない。
初潮を迎える思春期の入り口にたたずむと、彼女がどんなに抵抗したかったとしても、女はオンナの体になってしまう。
そして、それは女としてのスタート地点に過ぎず、これからの長い波乱万丈の女のステージを、見事にオンナとして演じ切りたいと、全ての女性が思っているのだった。
彼女たちは、今の自分が、女としてどの辺の位置にいるのかを、常に自問自答している。
日々変動している経済市場のように、自分の美しさに自信がある時には、売り手市場となり、より着飾り、よく外出するようになる。
男の視線を感じながら、自らの美に酔いしれる瞬間ほど、女として幸せなことはない。
彼女が結婚していようと、結婚していまいと、女としての喜びを味わうことは、彼女の当然の権利であると思っているのだ。
その美を誇りたい自己顕示欲が強ければ強いほど、自分の顔やパーツに気に入らない所があれば、許せなくなってくる。
他人がほとんど気がつかないような小さな目尻のシワひとつでも、それを新しく見つけた時の焦りは尋常ではない。
そのシワが、もうひとつ増える前に、彼女には女としてやっておくべきことが、まだあるのだ。
それは、自分の女としての価値を認めてもらい、もっともっと愛されることだった。
どの女性も、まだ十分に、正当な愛を受けとってはいない、と身体で主張しているようだった。
女たちは、自分をオンナとして扱ってくれる男を常に求めていた。
涼介は、その女性の思いに応えたかった。
女たちの、オンナを演じ切り、オンナを満喫したいという願いをしっかりと受け止めてあげること。
それが自分の使命だと思っていた。
余計なことを詮索したり、訊いたりすることはしない。
女が自分のところに来て、普段の日常を忘れて、セックスという行為に集中して、それを味わい陶酔できるならば、涼介も幸せな気持ちになれるのだ。
メールの一語一句は、そのゴールへと向かう確認作業だった。
これから会う男が、安全で、健康で、楽しんだ後には、また日常に何食わぬ顔で戻れるという安心感が、セックスを存分に味わうための、女たちの重要な保険になっていた。
すでに、会う前の段階で、女たちは、涼介が身体を許してよい相手であるということを、わかってくれていた。
安心して、会ったり話したりできて、健康で安全な相手であることを、どの女も確認したがっていた。
だから、メールのメッセージの中から、本当にそれが確認できれば、会う、という事自体には、彼女たちに抵抗感は無くなっていた。
そして、その先に展開される、より深い肉体関係は、決して敷居の高いものではなく、すでにメールで築かれている精神的な信頼関係の先にある、ごく自然な、コミュニケーションのひとつに過ぎなくなっていた。
セックスでイク、ということは、身体の感覚ではあるが、それ以上に、女は脳内体験として、イクことを求めていた。
頭の中までシビれるような感覚に支配され、どんな日常を持っていたとしても、それら全てを忘れてしまうこと。
非日常へと完全にタイムスリップできた時ほど、女はいいセックスだったと涼介に言ってくれた。
メールのやりとりの中で、優しい言葉に涙する女もいた。
女たちは言葉を交わしながら、徐々に自分自身を別世界の住人へと変貌させていく。
だから、涼介の目的がほとんどセックスだけだったとしても、彼に後ろめたさはなかった。
女たちが、蝶のように、もう一人の自分になっていく為の重要なパートナー。
それが自分である、と涼介は理解していた。
女性の求める喜びを与えて、幸せを感じさせてあげること。
それが涼介の全てだった。
そうすることで、海が涼介に色々なことを教えてくれたように、女たちは涼介に海のような深淵を見せながら、様々な体験をさせてくれるのだった。
男は女によって男になる。
もし、男がどの女とも深く交わったことがないならば、彼は真の男とはなり得ていないのだ。
涼介は自分が出会う女性の一人一人を大切にしていた。
先入観や第一印象はいつも裏切られて、女たちはベッドの上で違う顔をみせる。
涼介はそれを見るのが楽しみだし、彼女たちの個性に対するリスペクトを忘れなかった。
......涼介が、くたくたになって東京に戻って来たのは、昼すぎだった。
恵子を無事に家に帰した涼介は、
ただ、ぐっすりと眠りにつきたかった。
家に帰ると、涼介は、眠りにつくまでの間に、恵子のことをまた思い出していた。
サーファーは、今くる目の前の波にどう乗るかで精一杯だ。二度と同じ波は来ない。そして一度その波に乗れたら、次は少しでも長く乗ることを考える。
——今、目の前にいる女を、真剣に愛するだけだ。俺の愛に過去形はない。あるのは、いつも現在進行形の愛だけだ。
涼介はそう思った。
この点で、恵子と過ごした濃密な時間に、涼介は悔いが無かった。
涼介は思う。
——あの、波の上にいる疾走感だけが、真実であるように、今、目の前の女を抱いているという事実だけが、自分の信じられる全てなのだ。
涼介は、時には自分が出会った女のことを、親しい友人に自慢することもあった。
「いてぇ」
と、海で擦りむいた脇腹を身体をひねりながら見て、それをまた友人に自慢したりするのに、それは似ていた。
「すげぇ波だったんだよ。
台風の前だったしさぁ。まぁ、帰ってこれただけでも良かったよ」
性悪な女に出会えば、荒れる海に翻弄されて、海の底に叩きつけられるような思いをすることもあった。
それでもまた、涼介は未知の波に乗るために海に行くように、新しい女たちに会いに行った。
人は誰でも、生まれながらのサーファーなのだ。
世の中という海の中を、実に巧みに溺れ死ぬこともなく、誰もが生きているではないか?
ろくに泳ぎ方など教わったこともないのに、なんとなく水をかいて、もがきながらも前に進んでいく。
だから、その辺から二メートルくらいの板を持ってきて海に浮かべて、 その上に犬を載せて浮いていたら、それはもうサーフィンをする犬、ということになる。
涼介とサーフィンの出会いも、そんな気軽なものだった。
涼介は、海から近い新興住宅地に生まれた。
共働きの親たちにとっては、子供が金のかからない海で遊んでくれていることが、とても都合が良かったらしい。
近くのコンビニには、シャワーがあり、ボディボードも一年中売っていた。
天気のいい日には、子供たちは自転車でボードを抱えて海へいく。
しばらくすると、抱えているのはボディボードより大きなサーフボードになっていた。
このあたりの場所の波が、年々荒くなってきていることを、地元の子供たちはよく知っていた。
海沿いに幾つかのリゾートホテルが建ち並び、護岸工事の不手際から、波が砂浜をどんどんと削っていた。遠浅で緩やかな波が来ていた浜辺が、いつしかガクンとした深みを伴う、高低の激しい砂浜を形成していた。
波は以前より高く来るようになった。
幾つもの、予想外に大きなサンドバーに潮がぶつかるようになっていたのだ。
サーファーが波のトップから落ちると、激しく海の中で揉まれて、容赦なく海底の砂利に身体を叩きつけられて擦り傷が絶えなかった。
豊かな海が変わっていくことを、涼介たちにはどうすることもできなかった。
大人たちと街の力が、海を変えていった。
そして、サーフボード一枚で食べていけるはずはなかった。
大きくなるにつれて、勉強する者、アルバイトで忙しい者、それぞれの理由で、意味もなく海岸で時間を費やしていく者は少なくなっていった。
やがて、海の街から若者たちは都会へと旅立ち、ほんのたまにだけ、昔みた海に帰ってくるようになる。
ある年の夏休みの昼下がりの事だった。
涼介は、ひとりで観光客が来ない淋しい浜辺にいた。何度かのライディングで疲れ果て、寝転んで薄目をあけて海をみていた。
一人のボードを抱えて歩く男が視界に入ってきた。
彼は黙ってボードの上に身体をうつ伏せに横たえると、ゆっくりと左右の腕でパドリングをはじめた。
どこまでいくのだろう。
海は静けさだけが支配するナギだった。
ただ、男が水をかく、パシャ、パシャ、という音だけが聞こえた。
キラキラと輝くグラッシーな海の上を、男の身体はなめらかに滑って行く。
どこまでも......
あの男が投げかけた最後の視線を、涼介は忘れることができない。
彼の目の中には、恐れや不安は一切なかった。
未知なるものに、悠々と挑みながら旅立っていく名も無き勇者の目だった。
しかし、あの男が帰って来るのを誰か見た者はいるのだろうか?
ただ海へと消えて行ってしまったのだろうか?
途中で停泊してある舟に乗ったのかもしれないが、何処へ行ったのかはわからない。
涼介は、それ以上深く考えることをやめて、また眠りについた。
——自分の旅はまだまだ続くだろう。そしてまだ見ぬ未知なる女と海が、自分を待っているに違いないのだ。
💋サーファーズ・ダイアリーズ🏄🏻 乃上 よしお ( 野上 芳夫 ) @worldcomsys
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