夙川の桜

@kuratensuke

第1話



夙川の桜

                 十津川 会津


ある春の日の事、神山は暇を持て余し、甲陽園の家からほど近い夙川の花見と洒落込んだ。早春の風はまだ肌に刺さりコートがなければ歩く事も出来なかった。

甲陽園の山手の家から少し道をうねり歩きながら、坂道を下って来ると右に折れて道なりで甲陽園の駅に着く、道すがら右に左にと梅や桜のつぼみが見てとれて、家々の庭からは必ずというほど好い香りがする。

目神山に差し掛かると公園が在り、そこの桜はまだ蕾から五分咲きだが特に美しく感じられた。

甲陽園に着くと切符を買い、飲み物と軽い食べ物を買う。電車が来るまで十分ほどあったので角のたばこやで愛飲するKENTも買う。長閑で静かな駅が今日は何やらざわついた感がある、どうも桜の花見客が多いようだ。

ここから苦楽園まで行くと、桜の時期はいつも満員の人だかりである。短い間だが車窓を楽しんでいると案の定、人だかりの苦楽園の駅に着いた。駅を降り、わざと人気の少ない川が在るのと反対の方を歩いた。駅から西側は、商店街などが立ち並んでいたが歩いて行くと人気が段々となくなり歩きやすくなってきた。ふと、反対の通りに目をやると、黒いコートを着た年老いた老人が、杖をつきながら歩くのが見えた。かなりの大男なのだが背中が曲がり、杖がなければ今にも倒れそうだ。年の頃なら八十をゆうに超えているだろう。神山は父親と変わらない老人が、今来た人だかりの道へこのまま行くのかと心配になり、反対の通りに渡り、老人の後を付けて行くことにした。

老人は、仕立てのいい黒のフロックと銀の犬の柄が付いステッキを持っていた。

帽子も黒のボルサリーノ風のものである、どこかの金持ち風ではあったのだが、靴がいただけない。ニューバランスかなんかのスポーツシューズでいかにも登山かなんかの風体である。茶色のチノとチェックの厚手のシャツを着ている。これはこれで良いのかもしれない等と考えたりしながら、更に後を付けて見た。老人は、苦楽園の踏切を渡り、川の東側から夙川に降りて北に向かう。途中何度か酒に酔った花見客とぶつかりそうになりながら、それでも北の方へ歩いて行く。少し風体の悪そうな男が来ると神山は間に入り、難を上手く避けながら鉄橋の下まで歩いてきた。

鉄橋の下は少し段が在り、狭くなっているので特に注意が必要だと老人の後ろに回り、歩くのを補助していた。狭い道も無事に過ぎて、広い湾曲した大きな河原敷きに出た。ここまで来ると人出はぐっと少なくなり花もまばらになってくる。

それでも老人はどんどん北に行こうとする、何処まで行くのか見当がつかずにいたが、漸く河原端のベンチを見つけて腰を掛けた。ここは頭の上に桜が大きくせり出て、美しい花を咲かせていた、絶好の花見場所じゃないかと神山は思った。

ステッキを顎にあててしばらく此方を見ていた老人は、神山に会釈をして来た。此方も思わず会釈を返し隣に座る。プーンとポマードの懐かしい匂いがした。ふと見て見ると先程のいただけないとばかり思っていた靴は、ニューバランスの最新のモデルでベロア調のかなり高級なものであった。又よく見ると、フロックコートの下には仕立てのいい、ツィードのジャケットを着ている。それもかなりの使い込みようで、色禿があったり、少し解れがあったりしている。神山の記憶では、死んだ爺さんからツィードは英国農夫の着るものだから雨ざらしにして半年も経てばいい風合いになると聞いた事が在る。

ヘンリープールか何かであろう、厚みの中に高級感と使い込んだ風合いがにじみ出ていた。

「ありがとう、ボディーガードしてくれたんやね」と老人が話しかけて来た。

「いやいや、少し気になって」と神山は返した。

 老人はそう言いながら、おそらくキューバ産の高級な葉巻を懐から出してきた、神山にも一本勧めたのでおもわず頂戴した。ボディーガード代、なんて浅ましい考えを持ちながら、吸った事も無い葉巻に火を付けた。

途端、火もつかず、黒く焦げただけの神山の葉巻だが老人は慣れた手付きで、葉巻の片方を金属製の小さな穴開けナイフで穴を開け、取り出したジッポのオイルライターで火を付けいい香りを出している。

神山も借りて穴を開け、漸くキューバ産の高級葉巻を燻らせた。老人の名は白州と言う、長い間ヨーロッパ各所で紅茶のバイヤーを生業にして来たとのことだった。神戸の店を後継ぎに譲り、今は夙川の家で妻と二人暮らしらしい。桜の香りのする香をフロックから取り出すと、徐に火を付けて、河原の石の上に置いた。手を合わせ暫らく黙とうした後、神山に向かって、

「用事も済んだし、これも何かの縁じゃ、バーが在るからお礼も兼ねて少し飲みに行こう」と言う。

神山も暇を持て余していたのだから断る理由もない、何よりもこの老人に興味がわいてきている。無論後を付いていくことにする。少し来た道を戻ると、花見客の雑踏があった、今度はあからさまに手を携えて白州老人を助けた。苦楽園の駅に着くと右に曲がり、公園の様な空き地を行くと左手の線路沿いにタイムと言うバーがあった。

階段を上るので後ろから落ちないよう見届けて後から神山は従う。

中に入ると、レトロな感じだがモダンな感じもして心地良さそうな空間があった。大正末期から昭和初期を想わす空間である。マスターも白のジャケットに黒の蝶タイをしめている、シェイカーを振る音がやみ、こちらを振り返ると、

「窓際の席にお座りください、桜が最高に奇麗でしょう」

と、言われて私たち二人は窓の目の前に見事な桜の木が一本在る、絶好の椅子に腰をかけた。

ライトアップされて桜はさらに美しさを増している。気が付けば日も落ちて夜桜になっていた。マッカランの十八年ものをロックで頼み、何杯か飲んだ。ワンフィンガーの私なのだが白州老人はツーフィンガーでぐいぐいやる、体を気にしていたのだが本人は気に留める様子も無く胡桃を上手に割ってあてにして食う。

暫らくそうして仕事の話やら、家族の話に花を咲かせていると、白州老人がポケットに手を入れた拍子に様子がおかしくなった。

「どうかしましたか」神山がすかさずに聞くと、

「忘れ物したようじゃ」そしてまた先程の河原に行くと言い出した。

これはついて行かざる負えないなと思い、神山も店を後にして白州老人について行く。

先程の河原に戻るとそこはもう夜の帳が完全に降りて、辺りには人影も無く、漸く街灯の明かりで足元が見える程度であった。先程の線香を置いた辺りにポケットから紙包みを出して、置こうとするとこぼれ落ちる小さな豆粒ほどのお菓子の様なものがあった。

白州老人は、慌てて線香の近くに寄せ集めた。よく見て見ると、卵ボーロ、乳ボーロとか呼ばれていた子供の、特に赤ちゃん用の離乳菓子の様である。不思議そうに見ている神山に白州老人は、重い口を開いてくれた。

「紙巻きあるか」と言う。

「たばこですか」神山は言った。

ふところからKENTを出して差し出した。

そして白州老人は先程のベンチに腰を掛けて、顎を犬の柄のついたステッキにのせて話し出したのだ。KENTを吸いながら神山も同じベンチに座る。

「わしが十歳になる頃じゃった、戦争の最中で神戸空襲にあい、命からがらで此処まで逃げて来たのじゃ。背中に泣きわめく弟を背負い、妹の手を引っ張って、芦屋の家から何処を如何逃げたのか判らなかったのう。その内に防空壕に逃げ込んだのじゃが、いよいよ爆撃は激しさを増してきてわしだけが生き延びたのじゃ。防空壕の入り口は母ちゃんとばあちゃんを取り残したまま爆撃でふさがれてしまい、途中まで手を繋いでいた妹の手にはすでに体が無く、軽くなってしまっていた。手を放そうとしても妹の手はなかなか離れてくれなんだ。まだ温かくひじから先は、無くなってもわしは離さまいと決めて、兎に角、火を避けるために海岸沿いを無我夢中で走ったのじゃ。爆撃の恐ろしさは暫らく続いたのじゃが明け方になって漸く終わった。もう妹の手は無くなってしまっておった。背中で泣いていた弟の声も、もうせんかった。離したく無かったのじゃよ。朝露にどんどん冷たくなる弟の体を手放すことは出来んかったのじゃ。

西宮の浜辺りから夙川沿いに山に向かって歩くことにした。逃げまどう人の波をくぐりぬけながら高架をくぐって、漸くこの河原に着いたのじゃ。」

白州老人は、一息ついてKENTを燻らせながら話はさらに続いた。

「この河原まで来るとそりゃもう死臭と言うか、人間の死体が焼けるにおいが酷かったのじゃ、辺り一面に死臭がする。焼ける匂いと、そしてじゃ、甘く香る桜がなんとも芳しく、天国と地獄を一緒に見たような何が何だか分からない状態じゃ、桜は死体のうず高く盛り上げられた横で美しく、可憐に咲いていた。弟を弔うのは、この場所じゃとわしは思った。高く上がる死体の火を暫らく見ていると、温かい火の気配と共に幸せだった芦屋の家が映し出されてきたのじゃよ、母ちゃんは台所で何か晩御飯を作っている、ばあちゃんは繕いものに余念がなく、妹は人形相手に飯事をしていた、弟は、寝ながら足を上げたり下げたり、楽しそうに笑うんじゃ。そうこうしていると親父が帰って来た。郵便局員の親父は玄関の土間に座り、ゲートルをはずして、皆が一緒になって狭くなった8畳間に上がり、どっかと座り込んで胡坐をかき、機嫌好く今日の仕事の話をしている。その内にかあちゃんが酒と肴を持ってくる。そこで、声がして我に帰ったのじゃ、兵隊が数人煙草を吸いながら、大声で軍歌を歌っているのじゃ。こんな時に呑気に歌なんか歌いやがってとわしは思った。腹が立ったわしは、川原敷きにあった小石を一つ掴んで兵隊に投げつけたのじゃ。兵隊は怒ってわしを殴りつけに来たが、背中の目が開いたままの弟の亡骸を見て、逆に小銭をくれたのじゃよ。わしは弟を降ろして、目を閉じさせた、そこには弟の可愛かった笑顔はもうない、土色になった弟を帯紐と一緒に火にくべたのじゃ。火にくべてしばらくは見届けていたのじゃが、涙で前が見えなくなった。そうして、叫びながら河原を走って逃げたのじゃ。

結局、親父は戦争からは帰って来ず、生き残ったのはわし一人だけだった。」

横で聞いていた神山は居たたまれずに、川原に降り立ち、目がしらを拭いた。

そして、また白州老人の元へと戻った。

しかし、白州老人の姿はもうそこには無かった。さっきまで座っていたのに気付かなかったが、小さな大小の石を重ねただけの地蔵が赤い涎掛けをしてベンチの横手に鎮座している。

ベンチの上からせり垂れた桜の香りと、地蔵からはKENTと桜の香の香りが辺りに漂うばかりで、茫然と了解を得ない神山を夜の帳だけが包んでいた。

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