3:持つべきものはクラスメイト
バスは、雛番中央を離れ、定刻通りに発車した。
東区方面を目指し、乗客を運んで国道を直進していく。
およそ二、三分、車体に揺られると、すぐ次の停留所に到着した。
降車と乗車で何人か、客が入れ替わる。
その中に、よく見知った顔があった。
藤凛学園の制服を着用した女子生徒だ。
さらさらして長い黒髪を、白いリボンでポニーテールに結い上げている。かすかにまなじりの下がった瞳には、深い海のような穏やかさが湛えられていた。
「あら、おはようございます純市くん」
「おはよう、遥歌」
その女の子――
朱乃宮遥歌は、車内を歩いて、こちらへ近付いて来た。俺や希月とは背中合わせになる位置に立ち、優しげな微笑を浮かべて挨拶を寄越す。
いつ会っても、この子の落ち着いた物腰は変わらない。
初めて知り合った子供の頃から、同じ高校でクラスメイト同士になっても、ずっと。
「それに希月さんも、おはようございます」
「おはよう、朱乃宮さん」
遥歌は、希月にも同じように声を掛けた。
律儀なやつである。
もっとも、その律儀さは、クラス内における役割を考えると、歓迎されるべき素養なのかもしれない。
彼女は、一年一組の学級委員長なのだった。
「……そういえば、希月さんと同じバスの中でお会いするのは、初めてかもしれませんね」
今更ながら、遥歌は奇妙な違和感に気付いたらしく、小首を傾げてつぶやいた。
「希月さんのご自宅も雛番でしたか?」
「あっ、違うよー。私、この路線のバスに乗るのは、今朝が初めてだから」
希月の答えは、事実をそのまま端的に述べたものだ。
けれど、聞き手が要領を得るには、決して充分な説明じゃなかろう。
遥歌が即座に事情を飲み込めず、きょとんとしてしまったのも致し方あるまい。
さて、ここまでの特殊な経緯を、どうやって説明すべきか……
俺が一瞬、あれこれ思考を巡らせていると。
「実は私ね、逢葉くんとは今後結婚を前提にお付き合いしようと思っているんだよ」
希月絢奈は、忌憚なく自らの計画を発表した。
空気も読まず、場も弁えず。いかにも何でもないことみたいに。
「それで、今朝はひとまず
俺は、恐る恐る、目だけで車内の様子を探った。
すぐ近くに居た乗客が数名、こちらをぎょっとした面持ちで見ている。
「お、おい。いきなり第三者に聞かせたら勘違いされそうなことを言うなっ」
「なあに、逢葉くん。私が君に対して、結婚を前提にした交際を申し込んだのは、紛れもない事実じゃない」
「でも、俺はその場で断っただろ! 何度も言わせるなよ!」
「だから繰り返すけど、私はそれに対して、あきらめたりしないよって言ったじゃない。それで、今朝は状況改善策のひとつということで、一緒に登校してるんだよ」
「おまえにとっては改善策でも、俺にとっては泥沼だなっ!?」
互いの主張は平行線だった。
会話すればするほど、つい語気が荒くなる。
余計な衆目を集めてしまい、かえって悪目立ちしてしまいそうだ。
仕方ないので、ここはいったん堪えて黙ろう。
ただ、そこで遥歌のことが気になった。
今のやり取りを聞かされて、何を思っただろうか。
この子には、何となく知られたくなかった気がする。
俺は、首だけで振り返って、再び遥歌の反応を窺った。
遥歌は、当初はっきりと驚きを示し、少し困っていたようだ。瞳の奥には、かすかな戸惑いの気配が感ぜられた。
けれど、すぐに平静さを取り戻したらしく、いつもの柔和な笑みで口元を綻ばせる。
「まあ、それじゃ希月さんは、純市くんのことがお好きなんですね? そんなふうに、自分の気持ちを相手へ伝えられるのって、とても素敵なことだと思います」
「うふっ、ありがとう! 朱乃宮さんなら、そう言ってくれると思ったよっ」
我が意を得たりと言いたげに、希月はイイ顔を向けてサムズアップしてみせた。片手は通学鞄で塞がっているので、そのために吊り革からもう一方の手を離している。
バスの走行中に危ないからやめろ。
「見ててね、必ず逢葉くんを攻略してみせるから! そして、いずれ私は手に入れるんだよ――人妻・既婚者・永久就職という不動の社会的地位を!」
希月は、右の拳を頭上に突き上げ、高らかに宣言した(やはり吊り革は掴んでいない)。
なぜか乗客のあいだから、ぱらぱらと疎らな拍手が起こる。こいつの気勢に乗せられたみたいだ。
おかしい、みんな騙されてるぞ……。
ちょっと可愛い女の子が恋愛宣言してみせたら、それだけで大義名分が成立してしまうような風潮、良くないと思います。
そんな有様を見て、遥歌はくすりとまた笑みを零す。
「希月さん、是非頑張ってくださいね。――お二人が幸せになれるように、私も応援していますから」
○ ○ ○
雛番中央通り三丁目から三十分ほど乗車し続けると、やがて六花橋に着く。
そこでバスを降り、僅かに国道を外れて坂道を上ると、藤凛学園高等学校は目の前だ。
無駄に広い前庭の真ん中を、並木道が直線的に貫いている。
現代的なデザインを採用した白い校舎は、朝日を浴びて誇らしげに輝いているかに見えた。
正門を通って昇降口を潜り、東校舎の一年一組を目指す。
三人揃って、教室へ入った。
俺たちより先に登校していたクラスメイトは、あまり多くないみたいだ。
いつもより多少早い時間だから、当然かもしれない。
自分の席に着いて、しばらくすると担任が姿を現し、
それが済んだら、この日の授業のはじまりだ。
化学、英語長文、現代文、数学Ⅰ……
と、眠気で時折ウトウトしつつも、黙って黒板の文字や数字をノートに書き取っていく。
四時限目の終了時刻は、十二時十五分。
チャイムが鳴ると、昼休みになった。
クラスメイトは皆、思い思いに羽根を伸ばしている。
さて、俺はどうしようか、と考えていたら、声を掛けてきたやつが居た。
同じ一年一組の男子で、よく日頃つるんでいる棚橋悠太である。高校に進学して以来、互いに気安く軽口を叩き合える友人だ。
「よう、逢葉。これから昼飯だろ。弁当なのか?」
「いや、今日は持ってきてない」
いつもなら弁当持参なのだが、実は今朝に限って母親から受け取り損ねていた。
何たって、予期せぬアクシデントに見舞われたからな。
「だったら尚、丁度いいや。一緒に学食で食べね? オレも持ってくるの忘れちまってさ」
どうやら、俺が弁当を持ってきていたとしても、同じように誘うつもりだったみたいだ。
大方、教室以外の場所だと、一人で食べるのが寂しいからに違いない。
断る理由もないので、承知して共に教室を出る。
そういえば、希月のやつはどうしているのだろう。
昼休みに入るなり、そそくさと席を外していたようだが……。
朝の調子だと、この時間も俺のところへ来て騒ぎ立てるんじゃないかと警戒していただけに、いささか意外だった。
学食では、俺が塩からあげ定食を、棚橋がチーズカツ定食を注文した。
カウンターで料理を受け取り、トレイで運ぶ。
途中で、給水器からコップに水を注ぐのも忘れない。
窓際の席を素早く確保して、各々昼食に
やがて、そこへ思い掛けない二人連れが近付いてきた。
「あら、純市くん。今日はよく教室以外でもお会いしますね」
一人は、朝のバスでも一緒になった遥歌だ。手に持つトレイに乗せているのは、海老グラタンとサラダのセットか。
隣に連れ立っている女子生徒は、
篠森も、同じ一年一組のクラスメイトである。
物静かな性格だが、たしか学業成績は、クラス内でも次席のはず。図書委員兼文芸部員でもある。背丈は小柄で、ふわふわした栗色のロングヘアが、リスのような愛玩動物を連想させた。
ちなみに一年一組の成績首席は遥歌で、見ての通り篠森とは日頃から仲がいい。
「差し支えなければ、ここで相席させてもらいたいのですが」
いつもの穏やかな物腰で、遥歌が頼み込んできた。
学食内を見回すと、いつの間にやら他のテーブルはどこも埋まっている。
特に混雑する時間帯だし、無理もないか。
「俺は別に、かまわないけど――」
「朱乃宮さんと篠森さんなら、もちろん大歓迎だよ」
確認するより先に、棚橋は喜色満面で安請け合いした。
相手が女子だと、清々しいほど現金なやつである。
それで、遥歌は俺の横に座り、篠森は棚橋の隣席に腰掛けた。
「そういえば今、朱乃宮さんはここへ来る前にも、
皆で食事をはじめると、にわかに棚橋が首を捻りながら訊いてきた。これでなかなか
「単に今朝、通学中のバスで一緒になったってだけだよ。まあ、いつもは俺が一本か二本、遅めのやつに乗るせいで、案外同じ時間に登校することはないんだが」
「……ああ、そうか。おまえと朱乃宮さんって、家が近所なんだっけ」
「近所ってほどじゃねーよ」
「だけど、住所は同じ雛番中央なんだろ。で、出身も同じ
ヒナチューというのは、地元にある「雛番中学校」の略称である。
「だが、なんで今朝に限って、逢葉は早めのバスに乗ったんだ?」
こいつも大概、食い付いてくるな。
いちいち面倒なので、俺は無視して、昼飯を続けようとする。
けれど、棚橋の疑問には、代わりに遥歌が回答してしまった。
「何でも、希月さんが純市くんを自宅まで誘いにいらして、一緒に登校しようと持ち掛けたそうですよ」
「――希月さんって、うちのクラスの希月さん?」
棚橋は、一瞬、ぽかんとした表情を浮かべてから、訊き返してきた。
「え、早朝から希月さんが迎えに来たってこと? なんで、こいつの家に?」
わけがわからない、といった素振りで問いを重ねる。
安心しろ、俺も希月のことはわけがわからん。
「どうやら希月さんは、純市くんに好意を持ってらっしゃるみたいですよ」
一方、なぜか遥歌は、すっかり承知しているような口調で、余計なことを言う。
ふと見れば、篠森も何かに気付いた様子だった。
「あの、思い出したけど――たしかに、今朝は逢葉くんや遥歌ちゃんと、希月さんも一緒に登校してたよね。わ、私、三人が揃って教室に入ってきたのを、見掛けたわ……」
どうやら篠森は、あのとき俺たちよりも先に教室に居た、数少ないクラスメイトの一人だったらしい。
「おい、逢葉」
不意に身を乗り出すようにして、棚橋がこちらへ顔を近付けてくる。
どういうわけか、まるで裏切り者を糾弾するみたいな、険しい目つきで睨まれた。
「なぜ、希月さんみたいな可愛い子から、おまえがいつの間にか好かれてるんだ」
「知るかよ。こっちが理由を訊きたいぐらいだ」
「嘘を吐け! 本当は何かあったんだろ。交通事故で危ない目に遭いそうになったところを助けたとか、街で不良に絡まれていたところを助けたとか、道を歩いていたら曲がり角でたまたま食パンをくわえた彼女とぶつかったとか!」
「何もねーよ! おまえの発想は、ラブコメ漫画の読みすぎだ!」
あと、最後のやつは単体だと、フラグは立ってもただちに恋愛までは発展しない。
「でも、まったく何も心当たりがないんですか?」
遥歌も、食事の手を止めて、少し不思議そうな面持ちになった。
「改めて振り返ってみると、希月さんから好かれるきっかけになりそうな出来事だとか、互いに親しくなるような接点だとか……」
「ない。本当に、そういうことは何もなかったと思う」
だから、ますますわからないのだ。
それに希月は、俺に接近してきたことについて、「婚活の一環」だと言っていた。
あの子の行動原理を探る鍵は、むしろそのへんにありそうな気がする。
そして、俺には婚活というものがよくわからない。
くどいようだが、まだ高校生だからな。
ただ、メディアなどで報道されているイメージに従うなら――
俺たちが今話し合っているような、ある種の偶然に頼って恋愛をはじめるのとは、かなり異なるアプローチで交際相手を求める方法なんだと思う。おそらく。
……そんなことを考えていると、今度は篠森が控え目に別の意見を出してきた。
「あ、あの。――恋愛って、必ずしもはっきりした理由ではじまる必要は、ないものなんじゃないかしら……? 例えば、一目惚れ、というようなことも、あるだろうし……」
「一目惚れ。希月さんが、逢葉に一目惚れねぇ」
腕組みして、棚橋が唸る。得心いかない、と言いたげな顔つきだった。
「だ、第三者の憶測だけでは、他の人の考えてることはわからないかもしれないっていう、そういう話だから……」
篠森は、慌てて取り繕うように言う。
「似た者同士で価値観が近いから惹かれる場合もあれば、自分にはないものを持っている相手に憧れて惹かれる場合も、あり得ると思うし……。れ、恋愛には、きっと私たちが想像している以上に、ずっと色々なかたちがあるんじゃないかしら……?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます