第二十三話「海」
5 「終局、世界の果てを越えて」
――潮騒が聴こえた。冬の、それも、今まさに新たな年の日が……海から出ようとしていた。
……それが、意識を取り戻した俺が最初に見た光景。共に目覚めたアイと一緒に見た光景。――海への道は、開かれたのだ。
「――見事だ」
声がする方を振り返る。そこには、当然の如く鮮凪アギトが立っていた。
アギトは、慟哭を顔に刻み付けたままこちらに歩み寄ってくる。
「――神崎カイ。結界内にて、多くの出来事を遠くから見ていた。その顛末まで。……そして、それらを経たお前の本気を見てみたくなった」
そう言って、アギトは荒野を踏破した。
「俺が立つこの地点より先が、お前たちの『未来』だ」
砂浜にて、初日の出を背に立ちふさがる鮮凪アギト。――その目は、俺の内側を見据えているようだった。
「――お前はもう、他者の心を見透かすことはできないのだろう」
その推測に、是と答える。どこで仕入れてきたのかは知らないが、その言葉は正しい。――俺はもう、人の心を覗き見る能力を失っている。再現世界は、能力の喪失によって崩壊したのだ。
……いや、厳密には喪失ではないのかもしれない。俺自身、まだ完全に理解したわけではないのだ。今の俺が、一体何を成せるのかを。
「――フム、お前自身、未だ掴みきれていないようだな。迷いはないが確信もない。だがしかし、その変化は理解している……というあたりか」
その分析にも是と返す。喪失ではなく変化。あるいは回帰。ともかく、俺に備わった能力は、その在り方をより『始まり』に近いカタチへと変化させていた。
「ここに展開されていた世界はいわばお前の『潜在願望』。お前の本質である、内側への潜行がもたらした世界。黒咲アイの観測した並行世界をベースにお前が作りだした、お前の願望が凝縮された世界。黒咲アイのではなくお前自身のための世界――それがあの世界だ」
その言葉に一番驚いていた――というよりも唯一驚いていたのがアイだった。自分の観測した並行世界が再現されていると信じて疑わなかったアイは、その事実に驚愕したのだろう。
「……たしかに、妙に神崎君に優しい世界な気はしたけれど――それでもそれは私の思いでもあったし、私にとっても理想郷であったことは間違いないです」
その言葉は力強く、かつてのふさぎ込んでいた彼女の面影はほとんどない。
「それは当然だ黒咲アイ。神崎カイにとっての理想郷とは、きっと、お前と心から笑い合える世界なのだからな」
「――――」
顔を赤らめて沈黙するアイ。……だが解せない。一体何がどうなってこの男はこんなにもおしゃべりになってしまったのか。
「なあ、それぐらいにしてくれないか鮮凪アギト。それは俺が話すべき事柄だったはずだ」
「――そうだな。話しすぎた。今我々がやることはただ一つゆえ」
そう言って構えを取るアギト。そうだ。だから、今のことを考えよう。俺とアイの前に立つ破界の顎――それを乗り越える術を。
「わかった。今やるべきことがわかった」
今はただ、目の前の男に勝利することだけを考える。それだけのことだ。
「神崎君、でも、あの人」
「ああ、けど――」
それだけ言いかけて、俺は既に開かれた心――その内側へと潜行する。無意識下での行動だったが、どうやら俺は、今まで幾度となくこの行動を繰り返してきていたようだ。それは他者の心を覗き見た時。俺は他者の心に潜行し――そして、その記憶を自己解釈すべく、自分の心にも潜行していたのだ。
それが記憶武装を生成するメカニズムだった。この一連の動作を、俺は瞬時に行っていたのだ。
そしてそれは、再現世界生成の際にも当然行われていた。……否、あの世界は刻一刻と更新され続ける世界故に、俺は常に潜行によるアップデートを行っていたのだ。
そして、常軌を逸した潜行の果てに俺は――――自身の始まりを観測していた。それは俺が生まれる大元。全てが始まる地点。いわばビッグバンにより生まれた宇宙、その始点とも言える地点。俺はそこに行き着いた。この世界を構成する者は全て、それこそ宇宙も含めて全て――何かから与えられたソースにより構成されている。俺は潜行の果てに、自身のそれを見たのだ。……鮮凪アギトが果てを目指したのとは反対に、俺は原初へと潜行したのだ。
――そういった過程を正しく理解し、俺は原初へと回帰した己が能力をついに認識した。
「けど――大丈夫だ」
全てを理解した。俺の中の全てを理解した。本来ならばそれで終わっていたのだろう。だが、今の俺は違う。俺は、心を閉ざすことを止めた。疑うのではなく、他者とふれあい、そして信じる。口で言うのは簡単だけれど、俺にはとても難しいこと。それを、俺は始めたのだ。まずは、アイを信じることから始めた。次は――そうだな、友達を信じることにしよう。そのためにも、今は前に進まなくては。
「俺は全て――『理解』した……!」
「そうだ――それでいい……!」
それが合図。――今、たった一撃の戦いが始まった。
破壊衝動の顎が、俺に迫りくる。今までに見た何よりも激しい魂の奔流。それが形を成して、俺に迫っているのだ。何者をも――それどころか世界すら上回る衝撃が、前回同様俺の眼前へ迫る。有無を言わせぬ破壊の力がそこにあった。小細工の通用しない、世界にすら牙をむく破界の顎は、前回以上の凄まじき暴威を以て――ついに俺に到達した。
だが。……その一撃は、俺に触れることはなかった。それは、煙のように霧散した。
「…………」
「俺が真に望んだもの――それが理解だった。誰かを理解したい。誰かに理解されたい。その願望が生み出したのがこの能力だったんだ。心を覗き見ること――その始点は、誰かを理解したいということだったんだ。始まりの姿へと回帰した今、俺は正しくアンタの能力を理解した。理解したから、傷つかなかった。互いが互いを理解したから、俺たちはどちらも傷つかなかったんだ」
それこそが俺の能力、その真の姿。決して誰かを傷つけるものではなく、瞬時に攻撃動作を理解してあらゆる攻撃意思を止める能力。それが、俺の根本にある願い――『理解』が形を成したものだったのだ。それと同時に、この能力は戦っている相手にも波及する。相手が俺を理解したとき、俺の攻撃意思も止まるのだ。
俺が話し終えると、アギトはしばらく目を閉じ、そして開く。
「……決したな。戦いとしては中断という形が正しいのだろうが――しかし、どちらが勝利したのかといえばそれは明白だ」
自らの沈黙を破ったアギトは、言葉を続ける。
「――神崎カイ。勝ったのはお前だ。俺の全力を以てしても仕留めきれなかった時点で俺の敗北は決まったのだ」
そう言って、アギトは元来た道を戻り始めた。
「――別に勝ったわけじゃない。圧倒的な力を持つアンタを止めた……ただそれだけだ」
そう言った俺に対して、アギトは立ち止まり、首を横に振った。
「それだけではないのだ」
言ってアギトはこちらを振り返る。
「どうして二崎荒野を覆っていた結界が消滅したのだと思う?」
……その質問の答えは、既に出ていた。自分の能力を理解したことで、かつての能力も同時に完全理解したのだ。
「無意識下での行動であったから気づかなかったが、俺は結界展開の際に、フィルターをかけられるようだ。それによって、アンタの攻撃のみを直近の脅威として除外していたようだな」
そして――
「そして、結界の外側にはじき出され行き場を失った我が能力は――再現結界のすぐ外側にあった二崎結界を破壊したのだ」
続きを、アギトが語った。
……如何な破界の一撃であろうとも、異なる理を持つ結界内においてはその力を十全に発揮することはできない。ましてや結界の創造者たる俺に除外されたのでは、おとなしく外の世界に取り残されるしかなかった。――ただ、それでもその破壊力は凄まじかった。
「だけど、まさか外側からの余波で俺の結界に致命的な損傷ができるなんてな」
そう。余波による損傷。それによって俺の結界は形状維持が困難になってしまった。それをなんとか維持しようとしたために、結界は他に当てるべき素材を常に修復に当て続け――そして容量不足を引き起こしたのだった。
それが、あの時間停止の真相である。
「あれがなければ、お前たちは今も結界内にいたのだろうな」
「そうかもな――けど」
それを肯定しつつも、俺は言葉を続ける。
「俺はこうなってよかったと思う。こうなったからこそ、アイは停滞ではなく進歩を選んでくれたんだからな」
言いながら俺はアイを見た。アイは照れくさそうに笑っている。
「――――」
それをアギトはどこか遠い目をして眺めていた。……今までで一番穏やかな表情である。
「――さて」
アギトが話し始めた。
「組織もそろそろ結界消滅を確認しただろう。進むなら今のうちだぞ」
「――え。アンタ、味方してくれるのか」
突然の言葉に、一瞬言葉が詰まった。
「味方をするわけではない。先刻も言ったが、俺はお前に負けたのだ。お前がどう思おうとも俺は負けたと思っている。――故に、組織にはそう報告するつもりだ」
そう言ってアギトは元来た道を再び歩き始めた。
「――ありがとう」
思わず、お礼を言ってしまった。だが、感謝の気持ちを持ったのは事実。ならばお礼を言うのが筋というものだ。
それに無言で手だけ振って、アギトは帰っていった。
荒野の果てには、俺とアイだけが残された。
目の前には海へと続く道。新年最初の太陽は、既に俺たちを照らしている。
背後からは追手が来るかもしれない。
けれど、俺はもう、アイを傷つけさせない力を得た。
誰も傷つけずに済む可能性を秘めた力を得た。
この先の道のりは不明確だけれど。
それでも、彼女と一緒なら乗り越えられると心から思えるのだ。
だから今は。
「さあ――海に行こう、アイ」
手をつないで、潮騒を聴きに行こう――――。
フェイク・ユートピア、了。
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