トイレっと

七兵衛

トイレっと

 二郎は腹を抱えていた。連日の猛暑や、本能むき出しでLOVE真っ盛りな蝉の声。夏という季節に発生するありとあらゆるストレスに耐えながら、二郎は兄の一郎とともに、腹を抱え脂汗を流していた……


 二郎は今年から仙台の大学に通っている。盛岡の両親は反対したが、兄の一郎の家に住むという条件でなんとか許しをもらい入学を果たした。

 一郎は工業高校を出てすぐ仙台で一人暮らしを始め、いまはロボット部品を作る工場で働き身を立てていた。そしてアパートの二階、キッチンと別の2部屋との間に短い廊下がある間取りの家の、北向きの4畳半の部屋に二郎を住まわせた。少々手狭だと二郎は不満に思ったが、一郎は昼間働きに出ていたし、二郎も大学があったので気にしなくなった。

 

 それは文月の終わりのある日のこと、数日前に壊れたクーラーが修理からいまだ戻らず、猛暑は家を蒸篭とし、饅頭も裸足で逃げ出す暑さで、2人を蒸していた。顔はさながらお猿さんである。

「いっちゃん、もう2時だよ……」

「……」

「ケイさん、本当に昼に来るって言った?」

「黙っとけジロ……」

二郎は言い返さなかった。その気力もなかった。

 

 このケイさんというのは恵子という名の娘で、一郎の恋人である。恵子は一郎より二つ年上で背の高い娘であった。一郎に比べ小柄な二郎は初めこそ緊張していたが、恵子の姉御肌然としていてパリッとした性格のおかげですぐに仲良くなったので、その後度々三人で食事する仲になっていった。

 ところでこの前日に、兄弟の休日が重なる日だと知った恵子が、2人に手料理を食べさせたいから昼は家で待つように、という趣旨の電話があったので、はじめて恵子の手料理が食べられることになり2人は朝飯も食べずに昼を待った。扇風機にしがみついて……。恵子を待ちながら、延々奪い合っていたので、ついに扇風機も目を回してしまい、今に至るというわけであった。

「……ケイさん、忘れちまってねえか?」

「恵子はそんな奴じゃねえ。まあ、暑さで具合だけは悪くしてねえといいけどな……お、噂をすればだ」

二郎にはわからなかったが一郎は足音で気づいたらしく、蒸し饅頭をやめてすばやく玄関に立った。

 いつものようにチャイムが2度鳴り、一郎は恵子への労いの言葉を口の中で反芻しながらドアを開けた。

 「ごめんなあ、遅くなって。うわ、中もあっづ……」

恵子は右手に荷物を持ちながら、汗で張り付いたノースリーブを左手で掴み、襟元から風を送っていた。兄弟は目に毒−眼福−だと思いつつ、決して口には出さなかった。2人とも年頃の男子だった。

「クーラー壊れちまったんだ。すまんなあ」

「扇風機もね……、それよりケイさん、腹減って仕方がないよ。早く飯にしようよ」

「任せといてジロちゃん、今日は冷やし肉そば作っちゃうよ!」

「ほお、冷やしねえ。暑い日には最高の響きだ」

 一郎は腕を組んでしきりに頷いた。

 それから恵子は台所で、1度煮た鶏肉をもう1度醤油で煮た後、先に作っていた出汁と合わせてよく冷やし、浮いた灰汁を丁寧にとっていった。よく氷水でしめた蕎麦と一緒に器へうつし、なにやら油や味噌のようなものを加え、ゴマだれで和えた大盛りのサラダを添えた。

「はいできた! ささ、いっぺえ食いな」

さあ、くうべ! と3人は箸を手に取った。兄弟には食べ慣れないものだったが、なかなかに美味しかったし、朝から耐えていた腹の虫たちは、胃の腑を訪ねるもの全てを受け入れる寛容さに目覚めていた。例え不思議な味のする味噌のようなものであっても……


「はあ……食った食った。どうだ、うめかったべ?」

恵子の満面の笑みを受け2人は激しく頷いた。そして恵子が食器を洗いに立った。

「……マイブラザー、俺はあの笑顔を守りたい」

「…飯自体は美味かったがんす」

「話が早いな兄弟。話は簡単だ、恵子はこの後仕事に行く、つまりもう少しこうしてりゃあいいってわけよ」

この兄弟は互いの拳を打ち合わせ、誓い合った。


果てしない十数分、腹痛に耐えぬくことを。



 恵子はその後20分してから仕事に行く準備をすると言って帰っていった。兄弟は待った、とにかく待った、恵子の背中を見送りながら……二人ともあまりに耐え忍んでいたので、顔がさながら白ナスのようになっていた。そして、その時はやってきた。

 扉が閉まる音と共に二匹の白ナスは素早く床を蹴り、脱兎のごとく飛び出した。その始めの一歩は重なり合い、アパート全体に響いたかというほどに部屋全体をきしませた。一郎の方が廊下に近かったが、二郎が飛び出すと共に足首を後ろから掴み引っ張ったので床にしこたま鼻をぶつけた。しかし一郎も必死である、目に散る星を物ともせずに二郎の背中へ追いすがり、二郎の左足を掬った。掬われた左足は相方の右足に突っ掛かり、右足は相棒の左足と絡み合い、二郎は額から腹から膝頭から、これでもかと廊下の床に打ち付けた。一郎は伸びきった弟の背中を踏みつけ廊下の先、トイレに向かって手を伸ばした。


 ドアノブはトイレのドアノブだった、毎日使われてくたびれていたがまだまだ現役だった。だから、たとえ汗まみれの手が迫っていようと、いろいろとギリギリな人間の顔が近づいてこようと、それらが突然視界から消えたとしても、全く驚くことはなかった。ドアノブだから。


 二郎が廊下に伏せっていたのはコンマ何秒かだけで、すぐさま体を起こしていた。そして刻一刻とトイレのドアノブに近づきつつある一郎の大きな背中へと、飛んだ。二郎は一種の賭けだと思って浮遊していた。これで兄を牽制できれば自分の勝ち、しかし着地の衝撃で自分に限界がくるやもしれない……全ては一世一代の賭けだ、そう思った。

 

 一郎は己の身に何が起きたのかわからなかった、二郎の全身全霊全力の全体重をのせたドロップキックが背中に泥臭く決まったなんて理解する余裕はなかった。しかしトイレのドアが閉まりゆくのを見て、どうすべきかを察し、本能的な何かで動き始めていた。

 

二郎は勝ちを確信していた。床に落ちた際の衝撃に耐え素早く立ち上がると、トイレに滑り込みながらベルトを掴み下ろしながらドアを閉めにかかっていたからだ。しかし、ドアは閉まらなかった。そして隙間からなにか人ならざるものが手を差し込み、覗き込んでいたから。

「二郎、このドア……を掴んでいるのは……誰の手だ」

「……兄貴の」

手だ。と二郎が答えるのをぶった切って一郎は静かに、ただまくし立てるように言った。

「そうだ俺の手だ、指だ。毎日毎日俺が仕事で使っている商売道具みたいなもんだ。俺が仕事をすると給料が出る、給料で家賃を払う、飯を食う、その指が、ドアに挟まれて怪我したなんてことになったら大変だよな。やばいよな、働けないもんな、働けなくなったら給料が出ないな、金がなくなるな、飯が食えなくなるな家賃が払えなくなるなどうしようなお前もまずいよな、なあアケロヨイレロヨイタイジャナイカアケテオクレヨオアケロオ」

後ろの方はあんまり切羽詰まってたので喉からひねり出したような 声だった。実際すぐに仕事を辞めるようなことにはならないのだが、貯金も仕送りもあったのだが、正常な判断ができるような精神状態ではなかった。そしてそれは二郎も一緒だった。

  二郎は兄の手に怪我を負わせるのはまずいと思った、しかし二郎もかなり追い詰められた状況だったのでろくな解決策は思いつかなかった。二郎は閉めようとしていたドアから手を離す、するとこじ開けようとしていた一郎の腕によってドアは一気に開かれた、そして一郎素早く室内に入り込もうとした、がドアを開けた反動で両手が開ききってしまっていた。二郎はもう脊髄反射のごとく素早く行動した、右足を一郎のガラ空きの腹へ叩き込んだのだ。一郎はもんどりうって後ろの部屋へ飛んで、とうとう伸びてしまった。その部屋が自分の使っている部屋だとはかけらも二郎の脳裏をよぎらなかった。

 二郎はこんどこそ勝ちを確信していた。しかし空中で……二郎はあんまり素早く急いだので蹴りこむ際、ズボンを上げきることができず右足に引っ張られ左足も蹴り出してしまっていた。そしてトイレの床に尻餅をつく状態となりこれでもかと尾骶骨を打ち付け、そして……限界を迎えた。


 こうして、この烈火のごとく熾烈でなんとも意地汚い、下の階の住人に迷惑かけまくりな兄弟の争いは終わりを迎えた。部屋には蝉の声と蒸し暑さ、そしてほのかな臭いが広がっていた。しかし後始末に想いを馳せるものはなく、夜になり正気を取り戻した兄弟が、泣く泣くユニットバスの取り合いを始めるのはまた別の話である。 




 

 

 


 


 

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トイレっと 七兵衛 @hooky

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