偽りのグリーンバック

苺原 永

第1話 2025年-旅立ち


  人々が血眼になっている、喧騒としたシカゴにありながらひときわ荘厳でどんよりとした気品を感じさせるドレイクホテル。そのスウィートルームで目がさめた。この部屋はホーンテッドマンション(お化け屋敷)の部屋のように、霧が流れているかのような重い雰囲気のする部屋だ。カーテンを閉め切っているので、暫くはここがどこで、今が昼なのか夜なのかもわからない。頭の中の分析回路がキレを戻すには、それなりの時間が必要である。うっすら見える花柄のウォールペーパーのパターンを眺めていると、徐々にではあるがやっと回路の通りがよくなり、シャープさが戻ってくる。今、置かれている状況と現実をイコールで結ぶには更に時間が必要だ。正直なことを言うと、心の中では現実に戻りたくない自分がいるのも事実である。

思い出のこのホテルで一人さびしく天井をじっと見続けている。高級ホテルには似つかわしくない雨漏りで描かれた無規則な柄のひとつのシミが、自分の心の乱れと似ている様に思う。カーテンを半分だけ開けると、窓からの木漏れ陽とは逆に虚しさが差し込んでくる。暖かく海藻のようにゆれる日差しも、部屋の豪華な調度品も、とても一人でいる寂しさとは和まない。 じっとベッドで涙を拭くこともせず横になっている自分に、もう帰ってこない思い出がのしかかってくる。 マホガニー色のドローワーの重厚感がとてもつらい。いまのマイケル・マッケンジーには。

この荘厳さと、このかび匂いような雰囲気がマイケルは好きだ。アメリカでは大きいこと、新しいことは常に憧れを持って囃される。そのくせ、建国からの時が短い歴史に苛立ちを示し、「歴史」 というものに対し極度で敏感な神経を持っている。元々、ヨーロッパからの移民で構成されてきた国家と国民であるから、世界の歴史に憧れがある。エジプトで文明が生まれてから約5000年、それに比べアメリカでは、たかが250年ほどである。マイケルの先祖はマッケンジーと言う苗字から判る通りアイリシュ系の移民の系統だが、先祖から聞き伝わった話は、彼にとって、おとぎ話に似た響きがある。

このホテルはもともと、「ビッグジョン」の愛称でシカゴ市民に愛されている100階建てのジョン・ハンコックセンターの向かいにあり、ミシガン湖に面している。景色がよく、シカゴのどの高層ビルから見える夜景はすべて壮観で有名ある。碁盤の目のような光の帯、遥かかなたをマコーミックプレイスと言う展示会場の隣の小さな飛行場で眼下に着陸している軽飛行機、周りがすべて雲に囲まれ上空は満天の星…

メトラ(Metra=シカゴ通勤列車網)のレールのつなぎ部分の「ゴトン、ゴトン」という音と、警笛がいやに渋味を出している。このシカゴという町の独特の雰囲気がマイケルは大好きであった。マフィア時代の昔からの古いビルや、マイケル・ジョーダンのブルズの栄光を忘れ去られそうで決して消えず、いまだ感じることができる。妙に味がある街である。ビッグ・アップルの愛称で呼ばれるニューヨークとはお互いに、大阪と東京のように常に比較され、お互いに認め合いながら嫌い合う仲である。

しかし、この町への短い「歴史」から最も大切な思い出がひとつマイケルから消えようとしている。 消し去らなければ明日は来ないかもしれない。自然に、弾丸をマガジンから抜いたのは、自分でも怖くなる。


恭子との家族中心の結婚式は日米の地理的中間位置に上手に配置されたハワイで簡単に済ませた。ハワイはもともと恭子との思い出が盛り沢山の場所だ。その2週間後、マイケルの両親が住むこのシカゴで今度はマイケルの家族を中心とした人々を交えて結婚式をした。そして、ヨーロッパへの新婚旅行。その後、マイケルは一旦、仕事に戻り、一ヶ月後に再度休暇をとって第二の新婚旅行をすることになっていた。新婚旅行にでる前の日、一日だけをこのドレイクホテルで過した。愛し合うこと以外、何もする必要もなければ、気もない。今でも、人生で一番幸せの日だったように思う。恭子もそう思っていたらしく、態度に出してくれた。

なぜかとてつもなく腹が空いたので二人はミシガン湖のネービーピアに行った。暖かい春の陽を背中に受け、アベックや家族連れを縫うようにすり抜けながら、湖の香りと小洒落た店から漂うシュニツェルとベークドポテトの匂いを幸せと感じていた。あの時は、何をしても、何を見ても幸せに感じることができた。そんなフィルターが世の中にあろうとは思いもしなかった。将来の不安は勿論あったしマイケル自身の立場が、二人の将来を深い霧の中に包み込んでいたのも事実だが……。それでも、当たり前かもしれないが、新婚だから本当に幸せだった。ネービーピアの人々は笑い、大人は子供とじゃあれあっている。時計はゆっくり回り、全ての物がスローモーションで動いている。

ミシガン湖畔には、露天商やレストランが並び、昼からワインとダークビール、そしてアイリッシュコーヒー、と二人は豪華なイタリアンのコースを楽しんだ。ここはにぎやかな一角だ。特に何かをする目的もなく、空に浮かぶ二匹の鰯雲のように、ただブラブラと歩いて、眠くなったら公園のベンチで彼女の膝枕で寝た。ポップコーンのはじける匂いと、もっと練習した方がいい若いアーティストの奏でるアコーディオンの音が日曜日の午後を飾り付ける。行きもしない観光スポットを恭子はガイドブックで調べている。気になるのは、刈り込まれた草がちょっとチクチクする位である。中クラスの船が停泊できるピアのそばに設置されたアミューズメントパークで、明日から新婚旅行だというのに、大きなゴリラの縫いぐるみを当てて二人で噴出したのを覚えている。そのゴリラを持って歩かせられたのは、言わずとしれたマイケル。「はいどうぞ」 と偶然会った女の子に縫いぐるみをあげていた彼女の優しい目が、湖畔の波のように輝いていたのを今でも思い出す。


そんな幸せな思い出が、今はつらく苦い感情の元となっていることに強烈な憤りを感じる。ドレイクホテルのベッドに横たわりながら、どれくらい声を出さずに泣いていたのだろうか。すべて今では消えそうな淡いパステル調の色となり、その内、色あせて消えてしまうかもしれない。そうあってほしいとさえ思う。



2025年11月23日午後4時30分出発の西行サウス・ウェスト・チーフ号に乗るため、イリノイ州のシカゴ川西、アダム通りとカナル通りの交差するところにあるアムトラック・シカゴ・ユニオン駅にタクシーで向かう。「ユニオンステーションに向かってくれ」 と、発進を促す。無言のニューヨークのタクシードライバーと違い、ここでは「イエス・サー」と敬意を払ってくれる。

ユニオン駅はヨーロッパの寺院を思わせる駅である。ここでも、歴史の浅いという負い目から、わざと古めかしいヨーロッパスタイルの建築物を建てたのであろう。移民の建築家が望郷の心で設計したのに違いない。浮浪者や旅行者、それに無垢な子供の手を引く親子ずれやヘッドホンを付けた若者の集団などで駅はごった返している。ラッシュアワーには少し早いのに、駅は混雑している。小荷物預かり所や銀行、理髪店、旅行鞄中心の小物雑貨店などが、ファーストフード店に混じって並んでいる。アメリカで大理石の石畳の上を歩くのは駅、法廷と銀行と決まっている。駅の構内に流れるアナウンスメントは独特の深い響きで流れているし、列車の形状とともに重いインパクトがある。

「サウス・ウェスト・チーフ号を予約しているマイケル・マッケンジーです。座席指定券をお願いします」。 

コンピューターに名前を打ち込んで検索しているクラークはどう見ても150Kgはありそうだ。ラインプリンターから吐き出される座席指定のチケットを渡しながら、このクラークはにこりともせずに、「良い旅を!」と流れ作業の締めくくりの言葉を言う。その地下の切符売場の前に立ちながらマイケルは上司のジョージに感謝した。予約してあるので切符の心配はない。CIA(中央情報局 )、アジア対策本部、国家安全保障問題担当大統領特別補佐官であり、マイケルの上司であるジョージ・アレンは、この出張を言い渡す前に、

「マイケル、お前も辛かったのだから、飛行機なんか乗らないでゆっくりとアムトラックで行って来い。思い出すのは苦しいかもしれないが、逆に、断ち切るいいチャンスになるだろう」 と、言ってくれた。

マイケルの複雑な心理を詳細に計算している。きめ細かな配慮が必要な特別補佐官と云う職業病なのかもしれないが、ジョージ・アレンは部下の精神状態を配慮できる男である。マイケルは気持ちの優しい上司を持ったことに感謝している。

ワシントンD.C.からカリフォルニアまで横断する途中にシカゴがある。シカゴの郊外であるアーリントンハイツには母と妹家族が住んでいる。家族に会える機会を与えようとジョージは考えたに違いないが、今は一人で直面する「断ち切る」 という気持ちの整理に立ち向かいたかった。母と妹は女性であるので、必要以上に感情的になるに決まっている。今回は避けて通りたいと思っていた。最初は、家族に会うことがこんなに重荷になるとは思わなかったが、辛い旅になるかもしれないので、しっかりと清算する意味でもこのまま会わずに旅を先に続けることを選んだ。それなのに自分でも何故か分からないが、自然とあの思い出のドレイクホテルに泊まってしまった。自分の弱さか、恭子との思い出があまりにも巨大なのか……。



アメリカでは列車での移動は稀である。日本の国土に比べおよそ25倍もあり、日本はカリフォルニアの一州とほぼ同じ大きさでしかない。しかも、日本では国土の70%が山岳地帯か小島で人が住めない。一方、約2.5倍の人口がアメリカに住んでいるだけである。日本の都市構成は平たんな川沿いの平野にできた海沿いの街に密集しているため、交通手段としては明らかに列車網が発達しやすかった。事実、日本の殆どの都市は海沿いの城下町が発祥であり、50州の2,3の大都市が点在しているアメリカとは交通手段が違ってくる。この為、アメリカで列車旅行をするのは時間に余裕がある老人組みかよほど駅のつなぎが良い旅行客である。

マイケルが選んだ行程はシカゴからデンバーやソルトレイクシティーを経て、カリフォルニア州オークランドまで約3900キロメートルという長い道のりである。案内された寝台車は「CZ」 と呼ばれるカリフォルニアゼファー号のダブルデッキ式ステンレス製の車両。アムトラックの号車表示が少し解りづらいが、なんとか、自分の席にたどり着いた。ボーディング・パスを見ると、車輛ごとに全米の州名が付けられているらしく、マイケルの乗車車輌名は「アイオワ」 であった。勿論、これだけ長い距離の移動では寝台列車となり、カリフォルニアまで時間を気にしない旅である。気にすると気が遠くなる。食事はダイナーと呼ばれるパノラマウィンドウの2階にある車両で、不自由はないし寂しさも感じない。部屋にトイレ・シャワーが付いているので快適である。恭子が乗りたがったこの列車には、果てしなく流れる景色という魅力があった。今のマイケルには唯一の慰めである。恭子が、ゆっくりアメリカを見たい、と言ったから選んだ方法だ。自分を含めアメリカ人はどうも旅を楽しむ方法をあまり知らない。飛行機も列車も早く着く方法で決める。のんびり楽しむという感覚を恭子が主張した。

「ハネムーンにどうして飛行機なの?アメリカをゆっくり見ようよ」 と。一本取られた感じだ。

思い出の列車移動は、これから、中西部の牧草地帯、コロラド川や今にも崩れそうなガケの下を走るシエラネバダ山脈・ロッキー山脈を、時間をかけてゆっくりと通り抜けていく。流れ行く景色が時を忘れさせてくれる。

マイケルは昨夜の赤ワインと1ポンドプライムリブを自分に戒めるようにたいらげた。半狂乱の男に見えたかもしれない。満腹感もあって、それに慢性化しつつある疲れから、部屋に戻ってから気がつかないうちに寝てしまった。ぐっすりと。これが目的だった。特に最近の何日かは寝不足気味を引きずっていたので、今日は爽快感があったが、なぜ、寝られなかったかという理由はひとつも改善されていない。内面的には相変わらずすっきりとしていない。胸の中に鉛があるように重い。

しかし幸いだったのは、どこから来たのかは知らないけれど、典型的なアメリカ人という雰囲気のご夫人の誕生日パーティーに巻き込まれて、かなり遅くまで「飲めや歌え」 に付き合わされ、表面的とは言え楽しい時間をすごしてしまった。エージェントとしては褒められた行為ではないし、むしろ落第かもしれない。自棄になっていた訳ではないが、気分を変えたかった。それに、列車の定期的な揺れが睡眠薬効果に拍車をかけたようだ。

いま、朝の10時をまわっている。シャープにしないといけない……と思い冷水で顔を洗う。

サンフランシスコでは日本から国家公安委員会国際テロリズム対策課の人間が来ることになっている。環太平洋における平和の維持と安定のための極秘会議である。ソ連がロシアに変わり、昔の様な二大超大国による冷戦期は無くなったが、比較的小さな、しかし、アクの強い「悪の枢軸国」 と呼ばれる国や組織が世界でも幾つも増えた。アジアでも北朝鮮を筆頭に隣国の脅威となる国が生まれている。中国も自由貿易を背景に一見、安全国になった様に見えるが、未だに人民による選挙一回も行われていないし、共産党本部には軍部圧力が見え隠れしている。共産国の狡賢さは健在である。特に情報統制する国は一般国民の反発をおそれている状態が続く。そこに危険が潜むのである。

マイケルは自分の個室に鍵を掛け、体が欲しているはずのカフェインをとるために、アメリカではめったに飲むことができない強くてコクがある旨いコーヒーを求め、にダイナー車両に向かった。幸い、エスプレッソあったので、ヨーロッパで飲める本当の味は期待していないが濃い味がするのでオーダーした。 ただし、実はレギュラーコーヒーよりカフェインが低いのも知っていたので、朝の気だるさをどれだけ洗い落としてくれるかは疑問だった。

「おはようございます、マッケジー様」 

「おはよう、ジョージ」 

「夕べは、かなりお食事もワインもお召し上がりのようでしたが、今朝はいかがでございます?」 

「いやー、ちょっと過ぎたかな?」 と、マイケルは失態をしなかったか心配して聞いた。

「いえいえ、乗車された時は、ちょっと暗い方だと思っていました。しかし、昨日はわれわれのような者まで声をおかけ頂き、ジョークを交えて本当に楽しい時間でした。我々も、このような仕事をしておりますが、やはり、お客様が楽しい時間を過ごされているのを見るのが一番です」 

「それは、良かった。じゃあ、今日は特別うまいエスプレッソを頼むよ。ベーグルをつけてくれ」 

テーブルについて、やはりうまくないエスプレッソをすすりながら、今朝、乗務員がどこかの駅で拾ってきた新聞を読むことにした。



ざっと新聞に目を通す。マイケルは モバイルタブレット を使用しているが、シームレスに流れる最新のニュースより新聞の方が好きである。理由は簡単で、単に慣れているからである。一日中パソコンの前に座っている情報分析課の連中と異なり、食事しながら手が汚れていても読めるし、ペンで直ぐにメモをしたり、切り取って保存したりしておくこともできる。モバイルタブレットではそうはいかない。同様のことはできるが面倒な作業が伴う。いつも表面を綺麗にしておかないと、すぐに脂ぎってしまう。確かに、情報の早さでは即時性があるが、新聞紙には爪を切るときに使ったり家の中で靴の泥を落としたり、また一緒に捨てられると言う気軽さもある。マイケルは朝のコーヒーを手にした時の相手は新聞紙と決めているのである。 

まずマイケルにとって目を引くのは仕事柄、アジアのニュースである。

「北朝鮮でまた暴動が起こっているなぁ」 

少し前まで、北の国内のニュースはほとんど政府が抑えてきた。いや、抑える事ができていた。北にも、インターネットや携帯電話のカビがはびこるように広がり、ニュースが漏れる事が多い。今日の新聞では脱北者が相次いでいる、と伝えている。半分は北に捕まり連れ戻された様だ。脱北しようとして捕まった人々は明らかに地獄が待っている。オリンピックやサッカーのワールドカップで無様な負けを喫すると選手は炭坑に送られる運命である。そういう国なのである。対外的な面子を重んじ、事実の漏洩を極力抑える。自由や人権より、まず、国ありきの国家なのである。共産国である。

過去から引きずっている問題に起因している事情から、近隣諸国や国連に暴動に対する援助を仰ぐ状態ではない北朝鮮にとって、自国の治安と虚無のイデオロギーが最大テーマであろう。これから向かうサンフランシスコでの会議でもこの点が最大の焦点となるはずだ。正式には朝鮮民主主義人民共和国委員長(国家主席)および朝鮮労働党の総書記、キム・ウンテ(金応泰)が失脚してから早や、5年がたつ。しかし、国内は以前にもまして不安定であるし、軍と民間の組織にはかなりの闘争が繰り広げられている。国民は貧困を極め、異常気象と干ばつからの食糧不足も充満し、餓死者が過去最大の数に上っている模様だ。政府も軍も機能していないように見える。数年前まで完全に抑え込まれていた暴動が、今や数多くレポートされている。中国も同じであるが、選挙が行われた事がない独裁国家が最も恐れる事は、人民や軍によるクーデターである。従って、国内への「都合が悪い」 情報には完璧な統制がかけられる。国外で知りえる暴動等の情報はごく少量で、政府への相当量の粛正が国内で起こっている筈である。


会議は各国のエゴイズムと建前論が会議を占め、なんら成果なく終わる可能性もある。また、それぞれの国には別々の事情もあれば財力も異なる。過去の例でいくと、北に対する態度は米国が強硬派で、中国と大韓民国が穏健派、日本が中間を位置することになるであろう。しかし、なにか「大きな出来事の始まり」が会議で起こるかもしれない、という予感がする。あまりにも今の北朝鮮は不安定である。爆発寸前といったところである。正しい情報の収集とそれに基づいた各国の足並みがそろった行動が切に望まれている。この会議で決めたことが正しくおこなわれれば、少しでも北朝鮮の飢餓で苦しむ人々を救うことが出来るはずである。会議に集まるのは、情報機関や保安院の連中であるが、会議の結果が、それぞれの国を動かすのに十分な地位の連中である。もちろん、自国の利益が優先されるが、国連の難民保護の世界的な動きが強くなり始めているし、経済的に世界の中心になった中国の朋友国であり、極東アジアでの平和に非常に重要な北朝鮮の問題だけに、各国ともくすぶりかけている火を早く消したい筈だ。



「ジョージ、おいしいコーヒーだったよ。それに、ベーグルの焼き加減は絶妙だったよ。ありがとう。ビル(勘定書)をお願いする」 と、云ってチップを用意する。サービスが気持ちよかった事と、こういう特有な場所では多少、チップを多めに払うようにしている。彼らは、これで生計を立てているのだ。どうせ、5ドルぐらいだから多めに1ドルでいいだろう……。アジアやヨーロッパを旅することの多いマイケルにとって、このチップの制度はもう効果が薄らいでいると感じている。アメリカやカナダ以外のチップの制度が無い国々の方が、断然サービスが行き届いている。奉仕に対してチップをもらう事に慣れている連中ほど奉仕の内容が乏しい。

そんな事を考えながら財布から1ドル札を捜しているときに、急に誰かの錐が刺さるような強い視線を感じた。CIAのエージェントになる前は、海兵隊でさまざまな特殊任務のトレーニングを受けたが、その中に自分の置かれている環境を理解するプログラムの一環として「視線を感じるとる訓練」 があり、そのお陰で自分に向けられた視線を敏感に感じることが出来る。視線のみならず五感に関するトレーニングを受けた。もっとも、女性のほうが男性より断然にこの訓練は得意である。いつも、見ている側と、見られている側の差異だろう。

もちろん、何かの思い違いもあるかもしれないので気がついていないふりをして代金プラス1ドル分を財布の中をさがし続けた。しばらくして、直視はできないので流れる景色を見るようなふりをして、チラッと視線の方向を見たが、男女のカップルがテーブルにいて、女性がこちらを見ているようだ。さらに、彼女の方向から、ほのかに香水の香りがしているようにも思う。この香りには脳裏に引っかかるものを覚えた。彼らとマイケルの間には誰も座っていないからこの香りが二人のほうから来ているのは間違いない。あらゆる可能性を考えて見たが、はっきりとした決め手はまだ無い。

「ありがとうございます、マッケジー様、コーヒーのお替りをお持ちしましょうか?」 

と、ジョージ。その時、視線はもう感じない。

「いや、もう十分頂いた。ありがとう」 

新聞をとり、代金をテーブルに置いて、出ようとする際に確認したが、さっきのカップルはやはりもういなかった。

嫌な予感がする。残念ながらこういう悪いことの予感の場合、当たることが多い。気を引き締める必要がある。



部屋に戻る途中、このカップルを見なかった。しかしまだ、彼女の物と思われる香水をところどころで匂う。同じ方向に戻っていったのは確実だ。全神経を働かして注意する必要がある。身に及ぶ危険がどの程度なのか不明だし、ひょっとしたら、マイケルの単なる思い込みかもしれない。

「あの香水をかいだのは、いつ、どこだったか?確証はないが、この匂いには覚えがある」 と気にかかる。

たかが、カップルの女性が自分の方向を見ていただけかもしれない。そうであって欲しいと思いながら列車内の通路を、揺れに用心しながら進む。そうでなければ、男としてうれしいことが起こることだってあり得る。

CIAの秘書のカレンが、心優しい秘書であることは有名だが、ファーストクラスの個室を用意してくれたのにはちょっと驚いた。CIAとはいえ、また、自分が大統領補佐官だとはいえ、ビジネスクラス扱いが普通である。カレンが気を使って少しでも気が休まるように手配してくれたのだ。

これから戻って、会議の準備をしなければならない。仕事は山ほどある。超高速のモデムとCIA独自のソフトを積んでいるPCがあるから仕事は速いと思う。WiFiや携帯電話の信号は、未だにトンネルや山脈をぬって走っている際、不安定になる。モバイル機器を使って仕事をする際に障害がでるが、逆に車中での定期的な振動が意外に、思考能力を促進させる。

部屋の前にたどり着いた。ここで、また、香水のにおいを感じた。しかも、強めに。確かに、妙である。この香水を付けたのが視線を感じた時の女性の物であると思われることと、ここの匂いの強さから言って、確実に彼女らしき人間がマイケルの部屋の前に短時間であってもいたことの可能制が高い。それにこの匂いは脳裏にのこる何か苦い思い出に繋がっている。訓練を受けたエージェントとしての黄色信号を感じる。エージェントはこういった直感は大事にするものである。何かある。

半信半疑ではあるが、念のため、仕掛けておいたトリックをチェックしておこう……と、ドアのゴムの部分に挟んで置いた爪楊枝(つまようじ)を探した。原始的でアナログ的なトリックではあるが仕掛けるのが簡単で、意外に効果がある。ドアの下の部分に、爪楊枝の先がちょっと見えるくらいの位置に固定しておき、そっとドアを閉める。これで、爪楊枝がドアのゴム部分で固定され、ドアが開けられると落ちる仕掛けになっている。普通なら絶対に誰も気が付かない。007は髪の毛でこのテクニックを使っていた。

やはり、爪楊枝が見当たらない。今度は赤信号だ。爪楊枝がないということは、ドアがあけられ、誰かが部屋に入ったということであり、何かがとられたか、何かが仕掛けられた可能性がある。いずれにしても、誰かが何らかの目的で入室した、という疑惑から革新に変わったということである。車掌が開けた可能性がなくもないが、可能性は非常に低い。プライバシー侵害に関することをすればアメリカでは大問題になる。

アドレナリンがドッと出る。汗もにじんできた。まずい、何かある。自分に「落ち着け」 と命令して、何をすべきか考えた。物取りならともかく、まず、最悪は爆発物である。走っているカリフォルニアゼファー号での爆発物は非常に危険である。列車が爆発すること自体、危険であるし、更に線路は山間に沿って走っており、大体の場所で片側が谷になっている。高架橋の上かもしれない。悪くすると乗客、乗員の大多数の命を危険にさらす事になる。最悪、乗客の全員が、谷底に落ちることも想定しておかなければならない。それだけは絶対に避けたい。

とっさにマイケルは、そばにあった冷水のディスペンサーのプラスティックコップを引き抜いて、ドアに当てる。通常、爆弾はドアに仕掛けることが多いので、ドアから聞こえてくる細かな音を拾う為である。ドアに爆薬を設置するのは、窓側に設置すると爆発力が外に逃げ、効果が低くなるからである。列車の音を無視しながら、注意深く聞いたが時限爆弾の音はしていないように思う。もともと、時限爆弾を仕掛けるとしたら、彼のようなCIAのエージェントなどの、特定の人間を狙うやり方ではないし、逆に、列車を爆発させる無差別殺人を行うのであれば、何も個人の部屋でなく、どこでも仕掛けられるはずだ。出来るだけ車輪に近くに仕掛けるはずである。それに、線路に仕掛けたほうが絶対に楽だし、成功率が高い。

念のため、部屋に掛けておいたスーツのボタン型集音マイクの発信機から音を拾うため、手元のパームトップPCを作動させる。サウンドアナライザーで分析する。やはり、列車の音以外、特に時計のような規則的な音はしない。音のしないデジタル時計を使う可能性もあるがノイズを拾って、誤動作が多いのと配線しにくいのでプロが使うのはアナログ時計であろう。時限爆弾の可能性はほぼないといっていいだろう。いつ爆発するかわからない時限爆弾の可能性が低いのは一安心である。しかし、マイケルを狙ったとすると、今度は、ドアを開けた途端にドカーンという仕掛け爆弾の可能性がある。何もないかもしれないし、物取りの可能性も残っている。そうあってほしいが、確認してからでないとドアは開けられない。



これは厄介である。車両の端に設置してある緊急連絡用の電話の受話器をとる。電話の向こうではあわてた様子の車掌らしき人の声が聞こえてきた。

「どうかしましたか?」 

「ああ、悪いが至急に寝台列車のF23号室の前に至急に来てくれ。非常に重大な問題が発生したようだ。まだ、確証がないから、あわてず、静かに来てくれ」 

「失礼ですが、どなたでしょう?」 

「F23号室のマイケル・マッケンジーだ。早く着てくれ!この列車自体が危険にさらされている可能性があるのだ!」 何か、ごそごそしている。多分、乗客員名簿を確認しているのだろう。確認が出来たようだ。

「はい、至急そちらに参ります」 

車掌は1分もしないうちに現れた。すでに顔は緊張している。「私は、車掌のケヴィンと申します。どうかしたのですか?」 

「詳しいことはわからないが、事実として誰かが部屋に侵入した形跡がある」 香水の匂いの話は理解しないだろうから説明せず、爪楊枝のトリックを教えることと、自分がCIAのエージェントである証明カードを見せた。

証明カードはKマートでも売っているが、多分、車掌は映画か何かで見たことがあったのであろう。すぐに信じた。

「まず、この部屋に誰か入った可能性はあるかな? たとえば車掌の君たちが入る可能性は? 点検とか掃除とかという理由で」 

「いえ、それは絶対にありえません。列車が発車する前はお客さまの受け入れ準備で入りますがそれ以外には考えられません。後は、ルームサービスなど、お客様が部屋にいらっしゃる時だけです。マスターキーは私達車掌と、各駅の責任者以外持っていません。つまり、この列車では、お客様か車掌しかキーは持っていないはずです。部屋の掃除やお客様に用があるときには、マスターキーで開けるのは決まりに反していますので、お客様しか開けられないと思います」 

「分かった。しかし、このドアは簡単な鍵を使っているので、ちょっと訓練を受ければ空けられるよ」 

「CIAの方がおっしゃるのではそうなのでしょう。すぐにお開けいたします」 と、キーを入れようとした。

マイケルは即座にケヴィンを強く押しのけた。ケヴィンの体がはじけたポップコーンのように吹っ飛んで倒れた。マイケルは自分が海兵隊で訓練を受けた屈強の体をしていることを忘れていた。ケヴィンの目は「何をするのですか!」 と、おびえた目で訴えている。

「ケヴィン、急に押し倒して済まない。このドアには爆弾が仕掛けられている可能性があるのだ。一応、時限爆弾ではないようだが」 

「爆弾」 と聞いたとたん車掌の目はさらに大きく開き、血の気が引いて行った。黒人の顔でも、血の気が引くと判るものだと分かった。

「ばっ、爆弾ですか!一体なぜ、そんなことになったのですか? 一体どうすれば……」 

「ケヴィン、ケヴィン、落ち着け。今から言うことに正確に答えてくれ。それには、まず落ち着いてくれ」 

「わ、分かりました、マッケンジー様」 

「マイケルと呼んでくれ」 リラックスさせるためにはファーストネームのほうが良いだろう。

「はい、分かりました。で、マイケル、質問とは?」 

「まず、この列車のことについて聞くが、今の列車速度と、車両数を教えてくれ。さらに、乗客と乗員の合計人数は?」 

「はい、10時40分にデンバーを出たところです。いま10時45分くらいですから、自動速度調整で時速40マイル(65Km)くらいで走っているはずです。今日は団体が入っていますので12車両です。これから山岳部分をぬって走行しますのでゆっくりです。あ、それから全員で350名くらいです」 

「分かった。つぎに、この部屋のドアを使わず入れる方法はあるかな? たとえば、窓から?」 

「無理です。窓は固定されていて開くことができません。それに、割って入るのも走行中の列車では無理です。屋根からぶら下がるにしても、ロープを固定するフックになるものがありません。窓は厚めのハーフインチ(1.27cm)の厚さですから」 

「そうだな、部屋で点検した際、見て知っていたが、念のために聞いてみた。では、つぎの質問だが、ファーストクラスにはデンタルフロスがあったが、デンタルミラーはあるかな?」 

「何ですか? よく理解できません」 

「ほら、歯医者が使う、歯の裏側を見る丸いミラーだよ」 

「えーと、それなら確か、車掌室の救急箱に常備しているはずです」 

「それでは、次のことを至急やってくれ。まず、デンタルミラーを取ってくる。つぎに、この車両から、乗客を出来る限り遠ざかる車両に移してくれ。前後に分かれると思うので同乗している車掌仲間に連絡して、手分けして行ってくれ。君たちの冷静さが乗客に安心感を与える事を忘れない様に。さらに、運転手に事情を話して、列車、特にこの車両をトンネルの中で停車させてくれ。さっき、山岳部分といったが、ロッキー山脈のことだろう? ロッキーにはトンネルが多いだろう?」 

トンネル内で爆発したとしても、全車両が谷底へ落ちることだけは防げる。爆発付近では、崩落はあるかもしれないが。12輌の長さの列車は文字どおり蛇行しながら山脈を縫うように走っている。列車のジョイント部分は前後には強いが、ねじりには弱く、一輌でも回転するとあとの車輛はバラバラになって落下する危険性がある。

「そのとおりです。分かりました。すぐに実行します。後は何かありますか?」 

「いや、爆弾の専門部隊には俺から連絡しておく。FBIや地元の警察関係から電話が入るようにするから、出来る限り電話に出てくれ。さあ、早くデンタルミラーを取ってきてくれ。それから、君が、あわてないことだ。パニックを起こさせないトレーニングを思い出して冷静にな!乗客には、『ちょっとした問題で念のために移動してくれ』 と、言えばパニックは起きないだろう」 

「はい、分かりました。では!」 と車掌は走り去った。車掌には冷静を促したものの、本当に冷静さが必要なのは、これから複雑な作業を行う自分の方だ。危険な任務は慣れているが、350人の命が自分にのしかかっていると思うと小刻みな震えと湧きでる玉の汗が全身を濡らす。



まず、上司のジョージ・アレンへの連絡をすべきだろう。軍用で高感度タイプのチップを市販されているレシバーに組込んだ携帯電話を取り出し、番号をキーインする。CIAの携帯電話は、盗聴を防ぐ意味で特殊な電波で4箇所の海外にあるサーバーステーションを経由して連携されるため、通常の携帯電話に比べるとつながるまでに多少、時間がかかる。

30秒ほどしてジョージの秘書のカレンがでた。「マイケル。今、アムトラックでしょう。何かあったの?緊急回線で電話をするなんて!」 

「ああ、緊急事態だ。ジョージはいないのか?」 

「いま、すぐに帰ってくるわ。ちょっとナイアガラを見に行っただけだから」 

CIA内でも必ず、不在になる際は、所在場所を分かるように義務づけられている。「ナイアガラを見に行く」 と、いうのは、トイレに行ったことを意味している。

「カレン。では、待っている間に次の連中の連絡先を調べてくれ。重要なことなのでメモを取って聞いてくれ。まず、CIAの爆弾に詳しい奴とコロラド州地区管轄のFBI責任者と、最後にアムトラック沿線の地元警察の責任者を調べてくれ」 

「マイケル、いまジョージが戻ったわ。いま言ったそれぞれの責任者は調べておくわ。今、替るわね」 

しばらくしてジョージがでた。「マイケル、何が起こっているのだ」 

「ジョージ、恭子の事件を覚えているでしょう。あの事件以来、ひょっとして恭子は事故死ではなく、俺が狙われていて、恭子はその身代わりになった気がしていることは話しましたが、今、俺の乗っているカリフォルニアゼファーの俺の部屋に無断で入った奴がいます。爆薬を仕掛けられた可能性があるので、これから確認と処理をしようと思います」 

さらに、カップル、香水のかおり、爪楊枝の件、車掌への指示などをかいつまんで話しておいた。トンネルで停止させる理由が、山間での谷間への列車の転落を防ぐ意味であることも伝えた。

「分かった。気をつけてやれ。それから、カレンから、何人かの連絡先が準備出来ている。どうすればいい?」 

「さすが、カレンはやることが早くて助かります。悪いのですが、この列車はロッキー山脈をぬって走っていますので、CIAの爆弾に詳しい人から、携帯ではなく列車の車掌の有線電話に順にかけさせてほしいのですが。後は、FEDS(FBI)や地域の連中はケヴィンという車掌に連絡を取らせて下さい。ジョージ、以上をお願いします」 

「列車番号は、こちらで記録されているので分かっている。すぐに爆弾処理責任者から連絡させる。後の連中は、ケヴィンだな、連絡させる。気をつけろよ。幸運を!」 

「助かります。ありがとう」 

3分くらいで、ケヴィンがデンタルミラー片手に戻ってきた。 

「すみません。時間がかかってしまって。実は、コロラド州警察とFBI、それに本部から連絡があり時間がかかったのです。まだ電話はホールドしています。列車の位置は本部でわかりますから、多分こちらに大至急向かうでしょう」CIAへの要求は間髪をいれず実行することになっているので対応は速い。

「分かった」 吹き出た汗がさらに大粒になってきたのが分かる。

「ケヴィン、俺に、列車内電話に連絡が入る。爆弾処理の連中から。君のウォーキートーキー(無線機)につないでくれるか? 携帯は電波が切れたりする可能性があるからアナログの電波で話したい。また、コロラド州警察とFBI責任者と地元警察の責任者には詳しく説明しておいてくれ」 

「分かりました」 と、言いながら、自分のウォーキートーキーをマイケルに渡した。

「では、社内のお客様の移動を始めます。連絡が入った時、何かあれば、マッケン……いやマイケルにつなぎます」 

「ありがとう。幸運を!」 



マイケルには重要な作業がロッキー山脈の山波のように残っている。しかも、神経を削りながらの繊細な作業である。一般の人間と異なり、極限の状態での判断力は訓練されているし、場数を踏んできたので、ある程度の冷静さを持って事に当たれると自信はある。しかし、極限の状態では 何が起こるかは予知できないものである。問題はその時の自分の対応能力である。

まず、愛用のスイスアーミーナイフをだして、ドアのゴムの部分を切り取る作業を始めた。 

ゴムは、ドアを力強く閉めてもダメージがないように、また、ドーンという音や振動が起きないように、ドアに取り付けられているショックアブソーバーの部分である。

昔は、開き戸式だったがいまは、ドアの外側を通過する乗客の安全のため、今は引き戸式になっている。 ヨーロッパの列車はガラス張りになっているが、このドアはプライバシーもあり、鉄のドアで内部を目視出来ない。したがって引き戸式になっており、ショックアブソーバーが必要になっている。そのため、爪楊枝トリックが生きたのである。

この引き戸式ドアには、ドア側とドアを受ける側の両方にゴムがある。 

爆弾を仕掛けるにはドアノブを使うことが多いので受け側のゴムの部分は切り取って安全であろう。 

「よし、ドアノブから1フィート(約30㎝)下の部分を1インチ(2.5㎝)幅で切り取ろう……」 と、スイスアーミーナイフを握り締めたとき、ウォーキートーキーが鳴った。

「マイケルか?」 

「はい、そちらは?」 

「覚えているか、マイケル? 君が海兵隊時代で訓練していた時にトレーニングしたジョン・スミスだ。いまは、CIAで爆弾処理を新米さんたちに教えている」 

「教官ですか?覚えています」 

「状況はある程度聞いている。まず、確認したいのは、時限爆弾ではないのだな?」 

「はい、これは、私個人を狙ったものだと思われます。時限爆弾では私をやれる可能性が低くなります。教官、ドアのゴムを少々切り取り、デンタルミラーで内部を見ようと思うのですが、どの部分を切ればよいでしょうか?」 

「そうか。では、ドアノブから1フィート下を切り取れ。1インチも切り取ればいいだろう。くれぐれも、ドア側のゴムを切り取るなよ。それから、切り落としたゴムのカスを部屋の内側に落とさないように!」 

やはり、自分の考えが正しかった。「分りました。今から作業を開始します」 と、言ってウォーキートーキーをいったん床に置く。

慎重に、慎重にゴムを切り取っていく。切り取ったゴムのカスを手前に落としながら。汗でナイフが滑って間違いを犯すと、即座に爆発するような代物かもしれない。そう思うと、余計に汗が噴き出す。もう少し、スイスアーミーナイフを磨いでおくのだった。切れが甘い。しかし、何とか1インチ幅に切り落とせた。

「教官、終わりました。 いまから、デンタルミラーを差し入れます」 

「まず、開いた穴から覗いて何も見えないことを確認しろ」 

「了解」 覗いたが、部屋が見えるだけで、時限爆弾関係の部品は見えない。注意の上に、注意をしながらデンタルミラーを差し入れ、観察する。あった。確かに仕掛けてある。仕掛け爆弾にちがいない。南米のジャングルにいるほど熱いはずなのに、汗がいまは冷たく皮膚からにじむ。

「えーと、細い輪ゴムのようなものが、張り詰めた状態でドアの側の部屋の壁に引っ掛けられています。その反対側はドアのノブの上にある爆弾と思われる箱についていますが、ゴムの先が、細い黒い線……多分、髪の毛のようなものに取り付けられています」 

「えっ、輪ゴムに髪の毛のようなもの?髪の毛はありえない。理由は湿度に応じて伸縮するから、違う素材だろう。しかし、やけに旧式な方法だな。アジアの共産国、特に中国や北朝鮮でむかし使われた方法だ。いいか、絶対にその輪ゴムと、君の言う髪の毛らしきものに触れるな。つぎに、調べてほしいことを色々聞く。まず部屋の広さ、爆弾の箱の色とそれをドアに爆弾を固定している方法、ドアの材質を教えてくれ」 

「はい。まず、部屋は12x15フィート(約4x6m)です。ドアに表記されていますので。それに、トイレとシャワー室付です。 つぎに、えーっと、爆弾はモスグリーンの8インチ(20㎝)くらいの正四角形の箱に入っています。また、フィルムベースのガムテープで、爆薬の8インチの長さの筒状4本に周りを囲むように止められています。ドアの材質ですが、ジュラルミン系で、内部には木目調の壁紙が貼ってあります」 

「分かった。それは、やはり2000年あたりから10年間ほど中国で生産された、米国製C4プラスチック小型爆弾またはセムテックスの模造品だよ。想像だが、まず間違いがない。そうだとすると、良いニュースと悪いニュースがある。良いニュースは、処理がやさしいことだ。多分、爆弾内部がむき出しだろう」 

「はい、そのとおり、中ははっきり見えます。で、悪いニュースは何ですか?」 

「その爆弾は、車両一台ぐらいゆうに吹っ飛ばす威力がある。その部屋の大きさから言って爆発の力がどう流れるかシミュレーションしてみると車両一台は粉々になる可能性がある。だから、細心の注意を払って次の作業をしてくれ。まず、爆弾の中心に、さっき髪の毛らしきものと君が言った線が結ばれていると言ったが、詳しくみてくれ」 

「はい。えーっと、烏口(からすぐち)状になった先がお互いに付いている状態で外側の先に髪の毛ではなくてピアノ線が固定されています」 

「ピアノ線というのは確かか?」 

「はい、多分間違いありません。多少、光沢がありますし、髪の毛ならともかく、細いピアノ線意外にこんな結び目が出来ません」 

「よし、次は、配線されているビニールワイヤーの色を見てくれ。赤が三本、緑が二本、白または黒が二本見えるか?」 

「はい、そのとおりです」 

「よし、最後の処理を指示する。まず、さっきゴムを切り取って出来た穴から15インチ(40㎝)上に大きめ……そうだな、3インチ幅の穴を開けてくれ。つぎに、瞬間接着剤とワイヤー、そうだな、洋服用の安物のハンガーのワイヤーでいいから用意してくれ」 

「分かりましたが、時間を下さい」 そのとき、ゆっくり列車が停止した。 

ケヴィンが指示通りやってくれているのだろう。 

しかし、瞬間接着剤とワイヤーを用意するにはケヴィンのヘルプがいる。とりあえず、彼が去った方向に走ってみよう。途中で見つかるだろう。ウォーキートーキーをオンにしたまま、走る。


10


ケヴィンはすぐに見つかった。必死でFBIや州警察と話している。

「俺が替わる」 と、ケヴィンに合図して、マイケルは受話器を取るとケヴィンに、「今、列車の止まっている場所は伝えたか?」 と聞いた。 

うん、とうなずいたので受話器に向かって「私はCIAのマイケル・マッケンジーです。至急、応援を出してください。今から、初期の爆弾処理をしますので、急いでください!」 と、言って電話を切った。もちろん、彼らを待って爆弾処理をするべきだろうが、時限爆弾ではないという100%の保証はないし車両一両の爆発なら自分がぎせいになるだけで処理できる。また、スミス教官の言うとおり旧式のものだとすると、なんらかの振動で誤作動を起こしかねない。一刻も早く処理すべきだ、と判断した。

「ケヴィン、後は彼らが列車まで応援を出すだろう。必要なものがある。瞬間接着剤と鉄製ハンガーのワイヤーだが用意できるか?」 

「ええ、ハンガーはこれでどうですか?」 と、車掌室のクローゼットらしいドアを開け、かかっていたハンガーを差し出した。

「よし、これで行こう」 

「瞬間接着剤は機関室にあるはずですので、取ってきます。金属用ですか、それとも、ゴム用ですか?」 マイケルには分からない。

「ジョン・スミス教官、聞こえますか?瞬間接着剤は金属用ですか、それとも、ゴム用ですか?」 

「金属用だ」 

「ケヴィン、金属用だ!」 ケヴィンは返事もせずに一目散に取りに行った。

「教官、ワイヤーはどうして使うのですか?」 マイケルは現場に戻りながら聞く。

「今から説明する。まず、ハンガーを1本のまっすぐな状態にしてくれ。工具はもっているか?ワイヤーカッターがあればよいのだが」 

「いいえ、スイスアーミーナイフだけです」 

「分かった。何とかしよう。ハンガーの状態から1本のワイヤーになったら、ちょうど螺旋状になっている部分が先端に出来るはずだ」 

マイケルは力いっぱいワイヤーを引き伸ばした。つながっている部分を無理やり引き伸ばし、何とか一本のワイヤーにした。

「はい、出来ています」 そこに、ケヴィンが瞬間接着剤を持って戻ってきた。 

ケヴィンから瞬間接着剤を受け取って、「それから、今、接着剤が届きました。グロマックス・インスタント・グルーと言う製品です。5cpsで粘度は水のように流れる軟らかいタイプです」 

「よし、それでいい。では螺旋状になっているワイヤーの先端から、10インチ(25㎝)のところで折り曲げてくれ。その10インチ幅いっぱいにワイヤーを水平にしたまま、十二分に接着剤をつけてくれ。すぐに乾くので、素早くさっき切り取って空いているゴムの部分に差し込んで、君の言う「烏口」 の部分に接着剤を流し込む。つまり、2枚の烏口をお互いが接触している状態に固定するわけだ。いいか、よく聞いてくれ。この2枚の歯が離れたら、君の乗っている車両は跡形もなくなる。それから、接着剤をビニールワイヤーに垂らすなよ。溶けて爆発を誘発する可能性があるからな!」 

「分かりました」 ケヴィンの方に向き直り、デンタルミラーを持ってもらう。

マイケルは、言われたとおりにワイヤーを曲げ、水平にしたまま接着剤を十分につけ、ドアのゴムの開放部分に差し込んだ。

  もう、汗がしたたりかけている。目も汗が流れ込んできて、多少痛い。手が震えている。ケヴィンも震えている。彼の目を見て大きくうなずき冷静になるように促す。無理なのは分かっている。自分にも言い聞かせているのかもしれない。折り曲げたワイヤーをゆっくり回転させると、接着剤がワイヤーを伝って先端の螺旋状に向かって流れだした。先端を烏口部分に持っていき、震えている手で必死に固定させる。 

接着剤は徐々にスピードを上げながら烏口に向かっている。 

デンタルミラーもワイヤーの先端も刻みに震えているが、作業をやるしかない。

最初の一滴がいま落ちた。

2滴目、3滴目と落ちた。続けて何滴も。もう十分だろう。

烏口全体に接着剤がいきわたっている。

「スミス教官、終わりました」 

「よし、よくやった。最後にワイヤーをどこにも触れないで引き出せば全て終わりだ。後は乾くまで待つだけだ。5分も待てばいいだろう。これで、一応、爆発は当面防げる。後処理は専門家に任せろ。地元の爆弾処理班が向かっていると思うが?」 

「はい、今、向かっているはずです」 

「ドアはそいつらが来てから開けろ。キーを差し込んでも大丈夫だ。幸い、キーとドアノブを連動させるタイプではなかったのが幸いしたな。また何かあれば連絡してくれ。何もないと思うが……では、これで」 

「スミス教官、感謝します。ありがとうございました」 

「マイケル、いつか、マンハッタンをいやって言うほど飲ませてくれ。貸しにしておくぞ!」 

「分かりました。ジャック・ダニエルのシルバーセレクトを一本用意しておきます。いやっと言うほどマンハッタンを飲んでください。いつか必ず」 ウォーキートーキーは切れた。

安堵感と、この軽いジョークのせいでフロアにドスンと落ちるように座り込んだ。 

隣にはケヴィンがすでに倒れるように、放心状態で座っている。

「ケヴィン、最後に非常に重大な任務を言い伝える」 

「えっ、何ですか?」 目が再び緊張している。

「ダイナー車輛へ行って、冷えたビールを1ダース持ってきてくれ。おごるから」 

真顔で聞いていたケヴィンが急に崩れるように、笑みを浮かべ答えた。「いえ、マイケル、On-the-house(店のおごり)です」 


11


ビール2缶目を流し終えたときに、地元の州警察とFBIのエージェント、さらに爆弾処理班と思われる一団が大挙してやってきた。狭い列車の通路では話がしにくいので、列車の乗降用ドアを手動で開け、暗いトンネルにでた。サーチライトがゆれる中で、事情を話し、他に爆発物がないかの確認、乗客への説明と誘導、列車の継続運行の検討、などを依頼した。乗客は一旦、下車させているが、爆弾の処理と他の爆発物の捜査が終わると、乗車させる予定である。爆弾処理班にはマイケルの部屋の仕掛け爆弾の形状や、処理した内容を伝えた。後は彼らが問題なく処理できる筈である。

FBIのエージェントには犯人の痕跡がないか、現場の検証などを依頼し報告をもらえるように依頼した。もちろん乗客員名簿からの割り出しも依頼したが、どうせ偽名であろう。20分後に結局、3時間遅れでカリフォルニアゼファー号は出発した。マイケルは上司のジョージ・アレンが手配してくれた海兵隊の軍用ヘリで、遅れを取り戻しながらサンフランシスコへと向かった。ヘリが着陸する場所がないので、ホバーリングできる地点まで移動して、日曜の魚釣りのようにゆっくり引き上げてもらった。

騒音の激しいヘリの機内でマイケルは今日、起こったことを整理してみた。まず、ダイナー車輛でフッと感じたカップルからの視線、香水のかおり、部屋の仕掛け爆弾がアジアで製造されたと思われること、他に爆弾がみつからなかったことからも分かるとおり、今回の爆薬はマイケル個人を狙ったものと言える。ということは、CIAの自分を狙ったのであり、やはり妻恭子の死も事故死ではなく何者かによる誤殺で、実際はマイケル自身を狙ったものであることに自信を深めた。マイケルがCIAのエージェントであることから、あのカップルがサボタージュ(破壊行為)を行う工作員である可能性が高くなる。涙と怒りがこみあげてくる。


工作員による活動の歴史は古い。第二次世界大戦中に、ドイツは英国の偽札を作り、世界中の市場にあふれさせ英国経済を破壊しようと試みたが結果はさしたる成果をあげなかった。破壊工作員を最も計画的かつ効果的に活用したのは、第二次世界大戦中の英国のSOEとアメリカのOSSである。どちらの組織も、敵国に対する破壊活動を行っているレジスタンス組織を支援する将校団を派遣して、裏でサポートしていた。最近ではアルカイダが有名であろう。これに対抗して米国ではトルーマンが署名して成立した国家安全保障法により、国防総省(ペンタゴン)が設置され、中央情報局(CIA)が発足した。1947年のことである。マイケルはまさしく工作員とたたかっている。国家安全のため中央情報局長官に国の情報活動を調整し国家安全を委ねた組織の一員である。

そのような最重要課題に取り組むために、特別の多重訓練を行い、拡散防止、反テロリズム、スパイ防止活動、国際的な組織犯罪および麻薬密売、環境および軍備の維持と改良を計画する。CIAは全世界から情報を集め、その後、情報アナリストによって分析され、重要項目はホワイトハウス、ペンタゴン内部の主要部署、国務省、議会および他の政府機関でトップレベルの米国の政府高官に報告する。これらの報告書は大統領と上級官僚に毎日提出される。今では、携帯の会話やメール、パソコンのコミュニケーションなどであらかじめ登録されている2万語以上の「言葉」 に引っかかるメールや文書はすべて閲覧されている。もちろん、工作員も暗号化された連絡方法を取り入れているが、解読システムも驚異的に発達している。同様にNSA(国家安全保障局)も同じような組織として存在している。

基本的には、CIAはあくまでも情報組織であり法執行組織ではない。それはFBIの仕事である。しかし、CIAとFBIはスパイ防止活動のような多くの問題について協力しあい、時にはCIAのエージェントが現場での指揮を取ることもある。


12


マイケルが恭子の事故死に疑問を持ったのは、自分がCIAに所属していることと、当日、恭子がコンパクトカーに乗りたがって、マイケルがグランドチェロキーを運転したときに起こっている2点である。マイケルは燃費の良いコンパクトカーをそれまで通勤に使用していた。

当時、マイケルは北朝鮮を含む極東アジアの情報収集に従事していたことが事件に関係しているのではないかと思っている。大韓民国にも行った。日本にも、タイにも、カンボジア、ベトナム、フィリピン、……アジアの担当で、麻薬、偽造紙幣、不正武器輸出、人身売買、そしてテロリズムなど総合的な分析責任を持たされている。当時でも今でも北朝鮮には陸続きの擁護派としての中国が立ちはだかる。今や、中国は米国の最も大きな商業関係にあり、一応友好国とされているが、共産国で影での対峙国でもある。軍事的のも拡大しつつあるちゅうごくの環太平洋戦略にも目を光らせている。中国は経済的にも軍事的にも陰で北朝鮮のバックアップを行っていたため、調査が難航している。

マイケルは、ペンタゴン(The Pentagon)勤務であった。バージニア州ラングレーのCIA本部から派遣されているが、活動内容が情報分析以外に、対応策を国防省と協議する。もちろん、CIAにも自分のオフィスがあるが、七割がたはペンタゴンで仕事をしていた。バージニア州のアーリントンにあるペンタゴンはアメリカの国防総省総司令部の庁舎のことで建物の形より英語で五角形を意味する「ペンタゴン」 と呼ばれる。この構造は庁舎内どこにでも短時間で移動できるように設計されているためである。ちなみに、CIAはカンパニー(The Company)という愛称で呼ばれることもある。9・11でアルカイダに乗っ取られた民間機突っ込んだ事でも有名である。

当日の朝、マイケルは国防総省総司令部での会議中に、妻の事故死を知った。

国防総省総司令部やCIAのエージェント自身や家族に事件が発生すると、州警察と表向きは協力してはいるが、実際には独自の調査も実施される。恭子の車には爆発物の痕跡やワイヤーなどの仕掛けがみつからなかったことから、事故と認定されたが、焼けただれたブレーキシャフトに米国では使われていない東洋で製造されたと思われる部品が一点発見された。もちろん、これだけでは決定的な証拠と認められなかったが、マイケルには何らかの黒い影を伴った故意の仕業のにおいがしていた。


13


サンフランシスコ空港より、CIAから手配されていたフォード車のV8 Eddie Bauerで会議の行われるハンドラリー・ユニオンスクエア・ホテルに向かう。このホテルは、サンフランシスコの中心地であるユニオンスクエアに位置しており、非常に賑やかな一角にある。観劇、ショッピング、レストラン、各種の観光ツアーなどと、観光客には何をするにも大変便利なロケーションだ。

全部で400室足らずの中型ホテルだが設備はしっかりとしている。ホテルのすぐ横には、サンフランシスコの「動くランドマーク」 として有名なケーブルカーの乗り場があり “チャイナタウン”を横目に、高級住宅街、“ノブヒル”の丘を登り、“フィッシャーマンズワーフ”のあるギラデリスクエアも近い。また、恭子と泊まった思い出深いホテルにも近い。このホテルは地元の州警察はもちろん、CIAやFBIもよく利用することから警備が厳重で、盗聴などの危険もない。


結局、会議の1時間前にホテルに着いた。

「いらっしゃいませ」 とチェクインカウンターのクラークが挨拶をする。

マイケル・マッケンジーと名乗ると、「はい、マッケンジー様。お待ちしておりました。キーでございます。あ、それからメッセージが届いております。荷物のサポートは必要でしょうか」 

「いや、いい。ありがとう。すぐに、クラブサンドウィッチとダイエットコークを届けてください。部屋は3階ですね」 

「はい、左様です。クラブサンドウィッチとダイエットコークは、すぐにルームサービスより手配いたします」 

エレベーターで3階に上り、一応安全確認をした後、部屋に入ると、すぐにシャワーを浴び着替えを済ます。

爆弾事件や心労が続いたのですっきりした。爆弾処理中に出た脂汗とビールによる発汗作用で出た不純物がベトベトしていたのだ。さらに、ヘリコプターではタービュランスのおかげで神経が張り詰め、知らずに全身汗をかいていたので、本当にさっぱりした。

届いたクラブサンドウィッチをほおばりダイエットコークを流し込む。そう言えばメッセージがあった。開封して読み始める。

「マイケル、久しぶりだな」 と始まっている。

誰だ……と思い、名前を確認する。「Masato Fujii」 となっている。

「雅人だって、何しにサンフランシスコに来ているのだ?」 と、言葉にして自問してみる。マイケルは複雑な表情をする。そうなら、もっと事前に教えてくれればいいのに……。

メッセージの続きを読む。

「国防省の連中から聞いた。列車爆弾か、大変だったな。積もる話もある。どうだ、会議の後は久しぶりで飲まないか? どっちみち今日は議題の確認だけだろうからすぐに終わる筈だ。ああ、それから今回は、日本の代表の一人が急病で俺が来ることになった。俺のメッセージを見て不思議がるだろうから知らせておく。ちなみに、おれの部屋番号は3556だ。いまから会議まで日本人の同僚を連れてチャイナタウン見物だ。どうせ通訳役だけどな。それでは、会議の後で。 来いよ! 雅人」 

そうか、雅人が来ているのか。それなら、チャンスだ。

雅人は恭子の実の兄だし、恭子の事故や今回の爆弾事件について俺の考えていることを相談できる。国防省の連中には内緒だが……。ただ、ジョージ・アレンには雅人に相談すること許可を取っておこう。


14


会議の後、マイケルは言われたとおりにバーのカウンターで、ハニーローステッド・ピーナッツなどのジャンクフードをつまみながら飲んでいた。アメリカのバーは何を飲んでも安いし、日本で言う「乾きもの」 のおつまみで請求されることはない。

アメリカ人だからではないが、バーボンのジャック・ダニエルのシルバーセレクトをロックで飲み始めていた。スミス教官におごると約束した、例の極上のバーボンだ。シリアル番号つきの銘酒で、バーボン好きの人間にとっては、たまらない。あまり日本では知られていないが、創始者のジャック・ダニエル氏とジェームズ・ビアード氏は、「二人はその生涯を、アメリカで最高の料理とお酒のために捧げた」 と語っていて、料理も有名である。南部のリブステーキに付け焼きするシロップにジャック・ダニエルのソースが使われていて、甘辛く、アメリカでは珍しく「おいしい料理」 の一つである。雅人に食わしてやりたいと、ずっと思っていた。

そんな事を考え、二杯目を飲みながら、雅人に話すことを整理していた。人にもよるだろうが、マイケルはアルコールが入ると考え事がスムーズに運ぶほうである。飲みすぎるともちろん思考回路は澱んだ流れになってゆき、まともな考えは出来なくなる。盃が進まないうちに話の準備を終わらそう。

しばらくすると、「ちょっとは日本の経済安定のために日本の酒でも飲めよ。」 と、いきなり耳元で言われた。

雅人である。

「雅人!元気そうだな」 と、軽いハグをする。

「元気と言われれば元気だが、ちょっと最近お疲れ気味かな」 と、手を額に当てる。

「そういうお前はどうやらアムトラックの列車での事件があっても元気そうだな。自分で爆弾処理をしたんだってなぁ」 と、聞いてくる。 

「おい、何でそんなこと細かいことまでなぜ知っている?国防省の誰から聞いたのか?」 

「よせよ、お互い『蛇の道はへび』 というじゃないか。俺と一緒に防衛庁情報本部副本部長の田中が来ている。奴の情報網は信じられないくらい広いのは知っているだろう?」

「副本部長のお出ましか、それで納得だ。しかし、日本はやけに大物がお出ましだな。ホストの俺の国からは国防省の連中と国家安全保障問題担当補佐官と俺だけだぜ」 

「正確には大統領補佐官だろう。彼は、自国の安全より利益を優先する。まあ、いわばビジネスマンだけど、大統領に直結だからな。大物じゃないのか?」 

「大統領補佐官もいろいろいるのは事実だが、俺の上司だから言うわけじゃないが、ジョージ・アレンはいい人だよ。俺のことをよくかばってくれる」 ジョージ・アレンはすでに軍用機でワシントンから来ていた。

「そうか。しかし、今日は恭子のこともあるし、それに関連して北の話もある。大統領補佐官にはオフレコで進めたほうがいい話だ。それでいいか?」 

「ああ、いいさ。必要なことは選んで、俺から報告しておく。お前と今会っている事は前もって伝えである。俺もちょっと気になることもあって、雅人と話をしたかったのだ。恭子のことで」 と、切り出した。

「分かった。マイケルからはじめてくれ。ところでここは安全か?」 

「よせよ、雅人。俺はCIAのエージェントだぜ。ここ一週間、うちの連中が爆発物と盗聴の専門家と一緒にすべてチェックしてあるさ」 雅人とマイケルとの間で聞く質問ではないだろう……ちょっと心外だ、という顔をして答える。

「いや、すまん。よしでは聞こう」 

「実は、恭子の事故結果の概略は報告してあるとおりだが、実はアメリカの車なのに製造のGMでは使用していない部品が一点見つかっていたのだ。俺が車の持ち主だから分かるが、そのような部品を取り付けさせたことは一度もない。その部品自体、あれだけの大きな事故を故意に引き起こさせる部品ではないようなので、たまたま、そこに落ちていた所に恭子の車が事故を起こした可能性あり、と報告されたのだ」 

事故と部品を思い出しながらマイケルは話を続ける。

「ところが、その部品に引っかかっていた俺がFBIに、プライベートに頼んで調べてもらっていたのだが、どうやらアジアのセコハン業者が使う部品らしいのだ。多分、成分から中国製だろうと報告してきたのだ。中国ではその部品に似た部品を正式に製造しているが、どうやら、改造されていたらしいのだ」 

「事故を引き起こせるような改造だということは北の可能性があるのか?北は日本車や外国車の中古に正規部品が手に入りにくいこともあって、中国や北で作った粗雑な部品を殆どの車につけている話は聞いている。北朝鮮には、そんな部品ばかりをあつめ、比較的程度のよい中古車のエンジンに載せて、新車として輸出し始めている、という情報もあるくらいだ。その手の類の部品に改造があったということか。」 

「ああ、俺はそうにらんでいる。その事と、例の一件が関係あるのではないかと思っていたのだ。それに、その部品はブレーキシャフトとブレードに誤動作を起こさせる箇所につけることが出来るそうなのだ。FBIの友達いわく、時間的なコントロールは出来ないが、ある程度の時間が経過し、ある速度に達した車は急にブレーキを効かなくすることが出来るそうだ。残念なのが、確固たる証拠がないことだ」 

「やはり、お前を狙ったと思っているのか」 

「ああ、そう思う。それと今日の列車での爆弾騒ぎで俺なりに確信したのだ」 と、続けるマイケル。

「実は、俺ははっきりと見てはいないが、列車にカップルが乗っていて、そいつらが、事件後の確認で、消えているのが分かったそうだ。乗客員名簿も偽名らしい」 

「そうだ、聞こうと思っていたのだが、どうやって事前に仕掛け爆弾があると分かったのだ?」 

「香水と視線、それに爪楊枝のトリックだよ」 

「お互い、視線に関しては訓練で分かるが、香水とは?」 

「CIAやSEALでは匂いに対しても訓練されるのだぜ。といってもエージェントの任務内容によるのだが、おれはトレーニングを受けたのだ。ずいぶんも前のことだが……。実は、日本で例の事件で雅人と一緒の捜査したときにあの匂いをかいでいる」 シャワーでさっぱりとした瞬間にどこで香水の香りを嗅いだかを思い出していた。

「まるで犬並みだな。で、どこでかいだ匂いだ?」 

「菱富組の事務所だ。爪楊枝のトリックは、お前も知っているだろう。誰かがドアを開けると爪楊枝が落ちる例のトリックさ」 


15


雅人は目を下げた。昔の忌まわしい事件を正確に思い出そうとしている。菱富組の事務所にアメリカのCIAまで連れて行って意気込んでいたのに、殆ど何も収穫がなかった。麻薬を追いかけ、北朝鮮とのつながりをある程度、確定したのにもかかわらず、寸前で、肝心な連中に逃げられた、という苦い思い出である。

自分の妹が、殺害されるのと事故死ではまったく妹の死に対する感じ方が違う。それにマイケルが言うように、あの事件と関連があるとなれば、妹の死に自分も関連があることとなる。つまり、自分とマイケルの存在が北のグループに知れたということだ。公務に携わるものが私情を持ち込んではいけないのは分かっているが、自分の公務が関係して妹を失ったとしたら、自分が許せない。守ってやらなければならない唯一の家族を失ったのだから。しばらくの沈黙の後、マイケルが気持ちを察して、そっと肩を握る。

「雅人、気持ちは分かる。俺も、もう2、3年悩んできたのだ。しかし、義理の関係とはいえ、お前は兄貴だし、お前を通じて知り合った雅人の妹の死を確証無しには言えなかったのだ。分かってくれ」 雅人は、今度は薄くにじんだ涙がこぼれないように天井を見上げて言った。 

「マイケル、俺も実は、お前たちの恭子の事故報告に疑いを持っていた。俺なりに、話を整理し、理解をしようと努めてきた。それで、聞きたいことがある」 

「何だ」 とマイケルがせかす。

「菱富組の事務所に行ったことははっきり覚えている様だが、そのとき、俺もお前も北朝鮮や組の連中に存在が知れたことにならないか?ヒットマンは判らないが、お前が狙われて、結果的に恭子が殺されたとしたら、菱富組から繋がっているような気がする。それに、実は菱富組の畠山剛が妙な動きをしている。どうやら、例の一件を、消し去ろうとしている雰囲気なのだ」 

「というと?」 

「消えたのだよ、畠山が……。しかも、今、しのぎを削っている相手にただ同然で商売を売ったりしている。もちろん、ヘロインは続けているようだが、見ないのだよ、畠山を。それにお前が正しければ、今度の明らかにお前を襲った爆弾未遂事件。おれは絶対に、何かあると第六感が騒いでいるのだ。ヘロインと偽ドル事件とのつながりがあることは確実なんだ」。 

雅人とマイケルはその夜遅くまで昔の事件と恭子について話し明かした。マイケルは黒人で、昔ほどではないが、やはり差別は存在する。CIAの中でも存在する。しかし、マイケルは「絶対に負けない」 覚悟は子供のころから出来ている。そして、お決まりの軍関係から政府関係に登りつめた。白人を追い抜いていった。そんな生い立ちや差別が実際にある事実を恭子は真剣に受け入れてくれた。それは差別を受ける側だけがわかる「愛」 の形である。

恭子にも雅人にも、偏見に対する憎しみと同時に、真の人種問題を知らない戸惑いもあった。ただ、二人は、自然に振舞うのに時間がかからなかった。マイケルは、本当は当たり前のことだが、感謝した。

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