その翼にのる

いわし

第一部  

第一章

第1話 空の港

 よく晴れた空に輝く太陽が、島の底のむき出しになった〈飛翔石〉を照らして、その深い青をきらめかせる。

 あまり大きくはないこの浮島——コードリッカにも空の港はあった。島唯一の玄関口である港には、既に二・三の船が停泊していて、船着き場の前に整備された広場は多くの人でにぎわっていた。

 積み荷をやり取りする水夫たちの明るい怒鳴り声。

 広場の屋台から漂う、美味しそうな香り。

 隣接する市場に並ぶ、あちこちの島から集められた特色ある品物の数々。

 そしてまた、一艘の船がゆっくりと桟橋に接岸しようとしている。

 それは見慣れた風景だった。

 そんな景色の一部になって、頼まれた荷物を抱え、人波に埋もれるように広場を行き過ぎようとしていた少年——ハルトは、ふと足を止めた。

 港を行き交う水夫たちの様子に、違和感を覚えたからだった。ほんの些細なものだ。数人の水夫が仕事も手に着かない様子でうろうろしている。

 ハルトはちょっと首を傾げて、空の青を映す透明な瞳で彼らを見つめた。

「すばしっこいガキめ」「どこに行きやがった」「荷物に紛れて勝手に——」「あんの猫っ娘!」「家出か?」「他の船に入り込まなきゃいいが」

 などど、途切れがちに『聞こえて』くる。彼らはごちゃごちゃと積まれた荷物の間で、何かを探しているようだった。その表情は明らかに苛立ち、また一方で肩をすくめ呆れを滲ませる。そして心配してもいるのだった。

 そうして眺めているうちに、ほんのちょっと気が逸れた。水夫たちが探している何かを、自分も見つけようとしたのかもしれない。その途端、周囲のざわめきが何倍もの音量になったかのように、いっぺんに頭の中に流れ込んできた。

 嵐の夜の風に似た、寄せては引く大量のざわめきに目眩がする。ハルトは抱えた荷物に意識を集中させて、目を閉じた。

 いつもは上手く避けられているのに。うっかりしてしまった。人混みは、少し苦手だ。


「——様、大丈夫ですか?」


 目を閉じた暗闇に、花のような声がするりと入ってきた。不思議と耳に心地良いその声に惹かれるように、ハルトはそちらに目を向けた。

 近くにある木製の長椅子に、男が座っている。声の主は、その傍らに立つ少女だ。年はハルトよりも少し上だろうか。紫紺のワンピースに、黒く長い髪。彼女は、背を丸めて長椅子に腰掛ける男を心の底から心配して、しかし遠慮がちに様子を窺っていた。

「無理、なさらないでください。

 普段あまり出歩かれないのですから。やはり、ギイド様御自ら出向かれなくてもよかったのでは——」

「大事ない」

 少女の進言を、男はくぐもった短い言葉で遮った。

「——少し、酔っただけだ。ここにはそれだけの価値がある」

「そう、ですか……」

 少女は納得していなかった。男の言葉に異を唱えたいわけではない。ただ、心配なのだ。男は言う間も額に細い手を添え、うつむいていた。肩に掛けた黒い外套の頭巾を目深に被っているから顔色までは分からないものの、ハルトが見ても男は具合が悪そうで、あまり大丈夫そうではなかった。

 少女の菫色の瞳が、男のほっそりした姿の上で迷う。やがて小さくうなずいた。

「でしたら、わたくし何か冷たいものを買って参ります。少し、待っていてください」

 言い置くと、少女は身を翻した。

 不意に目が合う。

 ハルトは一瞬どきりと心臓を高鳴らせた。少女の方はまるで気に留めた様子もなく、長い髪を風に広げて市場の方へ去って行った。

 後に残された男は、顔を上げもしなかった。全身を黒い衣服で包んだ姿はまるで影のようで、微動だにしない。ただ視線だけが、前を見据える。広場を行く雑踏を。ありふれた港の景色を。黒々とした冷めた瞳で。その眼差しが物語るのは——。

「あれ? ハルト?

 ああ、やっぱり。おーーい!」

「!」

 全く予期しない方向から突然声をかけられて、今度は心臓だけでなく体も一緒に跳ねた。いつの間にか見入っていたらしい。というより、つい目が離せなくなってしまったのだが。なんにしろ、ほとんど盗み見していたようなものだ。ハルトは気恥ずかしさに慌てて聞き覚えのある声の方を振り返った。

 見れば、先程やって来たばかりの船から、ぞくぞくと乗客が降りてくるところだった。その中に大きく手を振る人がいる。砂色の髪を短く切った二十代半ばの青年だ。背中に負った荷物の他に、車の付いた重たそうな鞄を引いてこちらに真っ直ぐやって来る。それはよく見知った人物だった。

「サビーノさん?」

「おう、久しぶり!

 もしかして、迎えに来てくれたとか?」

 サビーノは気さくに笑うと、見上げるハルトの栗色の頭を、まるで身長を測るかのような仕草で撫でた。

 ハルトはさっぱりと首を横に振る。

「知らなかった。頼まれて、お使いに」

 ハルトが港に——市場に来たのは、幼い頃から世話になっている宿屋でちょっとしたお使いを頼まれたからだった。あちこちの島を渡り歩いて行商をするサビーノは、そこの常連客だ。彼が語って聞かせてくれる脚色のふんだんに盛り込まれた外の島の話は、この島を一歩も出たことがないハルトにとって、貴重で、楽しいものだった。

 顔見知りではあるものの、普段連絡なんて寄越さないのだから、ハルトには彼の訪れを知りようがない。ここで立ち止まったのも偶然だ。

「まあ、そうだわな」(相変わらずだなぁ)

 そんなこと承知しているから、サビーノも簡単に肩をすくめて微笑む。それから船着き場の方へ目を向けた。

「それにしても、なんだか騒々しいな」

 なにかあったのかな、と言う。ハルトも再びそちらを見遣って、少し首を傾げた。

「密航だって」

「密航? わざわざ?」

 地上から遙か上空、空の中にあってそれぞれ孤立している浮島にとって、そんな島と島とを結ぶ定期船は、サビーノのような商人や物資を運ぶ交易の一端を担っている。重要な——そして一般の民にとってほとんど唯一と言える交通路だから、乗船の手続きは簡単だし、船賃はけっして高くない。土地の限られた小さな島で暮らすには、食料にしろ日用品にしろ、そうした物流が無ければ通常の暮らしもままならないからだ。

 だから、わざわざ隠れ潜んで船に乗るような危険を冒さなくてもいいはずだった。密航する者がいないわけではないが、そんなことをするのは罪人か——子供くらいのものだ。

 サビーノはふうんとだけうなずいた。さして興味を惹かれなかったようだ。ハルトが入れてしまいそうな大きな荷物を持ち直し、さっさと次の目的に気持ちと足先を切り替えた。

「このまま宿に戻るんだろう。だったら一緒に行こうぜ」

 ハルトはこくんとうなずく。石畳に車輪をがたがたいわせる商人の横を、並んでついて行った。

 ハルトが世話になっている宿屋・金枝亭は、港や市場近辺のにぎやかな外縁部や、そこから真っ直ぐ領主館まで延びる大通りとは少し外れた地区の、坂の中程にあった。どちらかといえば町に住む人々が利用する商店街の方だ。

 港の喧噪を離れて倉庫が並ぶ落ち着いた道を行きながら、サビーノは世間話を始めた。

「そうそう。この前預かってった、ハル坊お手製の木彫りの人形なんだけどさ。なかなか評判良くて、それなりに売れたんだよ。またいくつか譲ってくれないかな」(……なかなか、それなり——というか、かなり儲けさせてもらったんだけども。やっぱり、女子供は動物好きだよな。それにちょっと神秘的で、異国情緒ただよってるのがまたいいんだな……——はッ!)

 ハルトは、少年よりもずっと背の高い商人の顔を、小首を傾げて見上げた。そんなものだろうか。自分の作った物がどこか遠い島で売られている。欲しい人がいて、お金を出して買ってくれる。それはなんだか、くすぐったいような不思議な感じだ。

 と、そんなことを考えてぼんやりしていただけなのだが。サビーノが何故だか慌てて振り返った。

「いやっ、だからっ、今度はちゃんと値段付けるからさ! ——わッ!」

 そうして取り繕う暇もない。突然、横手の路地から人が走り出てきて、ぶつかりそうになった。驚いて立ち止まるサビーノを、飛び出した人物が危うく避ける——ものの避けきれず、後ろに引きずっていた重たい鞄に足を取られてしまった。

 軽い体が地面に転がる。

 まだ若い、子供といっていい年齢の女の子だ。旅行者だろうか。着ている衣服はどこか見慣れない形をしていて、そこに施された模様も独特の雰囲気を漂わせていた。

 そして、

 少女は地面に倒れ伏したまま、動かなかった。

「…………」

 ハルトとサビーノは一瞬言葉を失って、顔を見合わせた。

 それからサビーノが、急いで少女を助け起こした。

「おい、どうした! 大丈夫か!」

 膝に抱えて、日焼けした柔らかそうな頬を手の甲で軽く叩く。顔を覆っていた鶯色の癖毛が流れて、あどけなさの残る顔が現れた。目を閉じて表情に力はないものの、息はしているようだ。

 頭でも強く打ったのだろうか。ぐったりした少女は目尻に苦痛を示すと、サビーノの腕の中で微かに唇を動かした。耳を近付けてみても、漏れるのは細い吐息だけ。サビーノは弾かれたように顔を上げ、のぞき込むハルトを見た。

 ハルトはうなずく。

 彼女の心を占めているのは、イタイでもクルシイでもなく、ただツライという、見ているハルトまで切なくなるような、差し迫った想い。その原因は——。

「「——おなか、へった……」」

 言葉にならない声をなぞるように、ハルトは言った。

 サビーノが目を丸くして瞬きする。少女は力尽きて、また豊かな前髪の中にその表情を隠してしまった。少女を抱えたまま、嘆息する。

「しょうがねぇなあ」

 苦笑して、二人はまた顔を見合わせた。




     ▽ ▽ ▽


 ハルトとサビーノは行き倒れた腹ペコの少女を、とりあえず宿まで運ぶことにした。

 食事が美味しいことで評判の宿屋・金枝亭の主人夫婦は、両親を早くに亡くしたハルトにとって、今や親代わりのようなものだ。彼らの親しみやすい人柄は、馴染みの顔であるサビーノにとっても、こんな時気安く頼りやすかった。

 ハルトが少女を運ぶのに使った荷車を返して戻ってくると、腹ペコの少女は営業前の食堂の片隅で、木の床に直接寝転がっていた。運び込んだ時は壁を背にして座らされていたはずだが……。今はその気力もないらしい。完全にしおれている。意識は一応あるようだ。

 傍らの椅子に背もたれを前にして腰掛け、様子を見ていたサビーノと目が合った。彼は肩をすくめてみせる。宿屋の一人娘のミラがちょうど食堂に入ってきて、おっとりと声を掛けた。

「ハルくん、お帰りなさい。

 こんなになって……。女の子なのに、かわいそう……」

 何かの仕事の途中だったらしく、茶色の長い髪を後ろで一纏めにして袖を捲った、前掛け姿だ。その胸には、自宅で使っている花柄の座布団が抱えられていた。それを床で寝ている少女の頭の下に差し入れる。優しく下がった目元が、いつにも増して労しげだった。これも彼女が用意したのだろう。少女の近くの卓には、水を入れた木製の湯飲みとおしぼりが、所在なく置かれていた。

 食堂の奥にある厨房へ続く跳ね扉が開いて、お盆を持った中年の男が入ってきた。前掛けの似合う小柄な男は、この金枝亭の二代目店主だ。そして、評判の料理を作っている料理人でもある。娘よりもさらに下がった細い眼差しで、ぴくりとも動こうとしない少女を温かく見ると、その前に静かにお盆を置いた。深めの白い皿は湯気を立ち上らせる野菜のスープだ。残って固くなったパンが食べやすいように千切られて浮かんでいる。

「さあどうぞ、召し上がれ」

(おいしい、におい……?)

 少女は店主の落ち着いた声よりも、その香りに誘われてのそりと身を起こした。スープの皿に顔を向ける。暖簾のように顔の上半分に垂れ下がった前髪のせいで表情は隠されているものの、正直な喉がごくりと鳴った。

 一緒に置かれた木の匙を弱々しく手に取り、両手で胸の前に握って皿を見つめる。それから遠慮がちな視線が、目の前に立つ店主の顔を窺った。

(食べて……いいの?)

 店主は少しおかしそうに表情を綻ばせると、はっきりとうなずいてみせた。途端、少女の放つ空気が喜びに華やぐ。暖簾の隙間からのぞく瞳が、卵の黄身ような色だなぁとハルトはぼんやり思った。

 少女は早速スープに向き直った。手にした匙を握り直し、正面から皿をじっと見つめる。見つめたまま——手を、伸ばさなかった。迷い、躊躇う匙。華やいだ空気が、するすると萎む。

「なんだ? 遠慮してるのか? それとも警戒してるとか?」

 首を傾げたサビーノが、少女に尋ねた後、同じ疑問を乗せてハルトを見た。

 ハルトは首を横に振る。

 ハルトには分かる。

 サビーノはそんな彼女の様子が、見知らぬ人間から出された食べ物に気安く手を付けたものかどうか、悩んでいるように見えたのだ。しかしそれは違う。もちろん、それもいくらかはあるのかもしれないが、違った。

 彼女はただ、戸惑っているのだ。

 初めて目にした料理に、食材に。

(とても美味しそうな匂いがする。

 でも……これ、なんだろう。どうしよう……)

 そんな風に、味の想像ができなくて困っている。正体不明のモノを口に入れるのが恐ろしくて、踏ん切りがつかない。

 それが、分かる。

 ハルトの返事を確認したサビーノは、一つうなずくと立ち上がった。少女の傍らに膝を突き、不意に匙を持つ手を取る。

「そんならとりあえず食べなさい」

 そうして強引に汁をすくうと、多少こぼれるのも構わず少女の口に押し込んだ。

「!」

 あまりに思いがけない行動に、少女は抵抗できなかった。為す統べなく匙をくわえさせられ、少量のスープを口に含む。

 その瞳が、キラッと輝いた。

(お、美味しいっ!)

 ばっと皿に向き直る。

 口から生えた匙を取って、汁をすくう。

 それでも恐る恐るの手運びで、もう一口を口に入れる。

 それで確信できた。次の一口からは皿を手に持ち膝に抱え、勢いよく口に運び始める。汁だけでなく野菜やパンも一緒に。そしてあっという間に、一片も一滴も残さずきれいに平らげてしまった。

 最後には差し出された水も飲み干して、心底幸福そうなため息を漏らす。少女は静かに湯飲みを盆に置くと、両手を合わせた。

「××××」(ごちそうさまでした)

「気に入ってくれたみたいだね。良かった良かった」

 少々呆気にとられて少女の食べっぷりを見守っていた店主も、彼女が十分満足したのを見て取って、大らかに笑ってうなずいた。

「それにしても、あなた、どこから来たの? 見かけない格好だし、この辺の子じゃ、ないでしょう?」

 空になった水を注ぎ足しながら、ミラがふんわりと問いかける。それを受けて、サビーノも腕を組みつつ首を傾げた。

「そうですよね。

 他にツレはいないのか? もしかしてはぐれたからさまよって、腹を空かせてたとか?」

 左右から語りかけられて、少女はそれぞれの顔を見比べるようにオロオロと何度も頭を振った。それから少しうつむいて、両手の指を絡ませる。直ぐにばっと顔を上げると、ミラとサビーノを見た。

 そして口を開き、何事か話し始める。

 少女らしい声音。

 少し焦ったような早口。

 途中髪を跳ねさせてペコリと頭を下げる。

 それは分かる。分かるのだが……。

 ハルトはここにきて漸く事態が飲み込め、瞬きした。この場にいる誰一人、彼女の言葉を理解できないのだ。少女が一区切り話し終えたところで、店主、ミラ、サビーノは、気まずく顔を見合わせた。

 それは、異国の言葉だろう。

 いろいろな土地に行って商売をしているサビーノにも、あちこちの島から客の訪れる宿屋の店主親子にも、少女の使う言葉に聞き覚えが無かった。空で使われている言語は、根っこは全て同じなので、島ごとに多少の訛りはあっても通じないほどの違いはない。遙か遠い場所にある島の言葉でも、意味の予測くらいはできるものだった。

 そのはずが——全く分からない。

 単語一つ拾うことはおろか、言葉の流れや調子があまりに聞き慣れなくて、新しい音楽を聴いているかのようだった。

 言葉が理解できないのは彼女も同じ。周囲の微妙な空気もまた感じ取っているはずだが、少女は尚も必死な声で訴え続けた。

「あああ、ちょっと待った!」

 それをサビーノが、大袈裟な身振りで手の平を突きだし遮る。

「ハル坊、通訳! 通訳頼む!」

 悲鳴を上げるサビーノだけでなく店主やミラにも縋る眼差しを向けられ、ハルトは顎を引いてうなずいた。

 もちろん、幼少期よりこの島で育ったハルトにだって、この少女の使う言葉は耳慣れないし、耳から入る言葉だけではその意味は全く分からない。それでも、ハルトには彼女が何を言っているのか、何を伝えたいのか、その内容が、分かった。

 ハルトは他人の気持ちを知ることができた。

 人間に限ったことではない。動物や植物、生きているものであればなんでも。いま何を考え、感じているのか。読み取ることができる。

 それは〈天恵〉と呼ばれる、天から授かった稀有な才能だった。

 様々ある〈天恵〉のうちでも、ハルトの場合は生き物の頭や心の内にあるものを、言葉や言葉にならない雰囲気のような何かで感受する能力だ。だから小さい頃から人混みが苦手だった。耳で聞こえる普通の喧噪の他に、人々が——生き物が思い感じていることが、耳ではないどこかの感覚で『聞こえて』しまう。言ってみれば、とてもうるさくなってしまうのだ。今ではコツを掴んでそんな中での振る舞いを身に付けたものの、以前は頭ががんがんして気分を悪くすることも多かった。

 サビーノたちの視線を受けて、少女が初めてハルトを振り返った。きょとんとした眼差しに——実際には分厚い前髪の暖簾があって見えないのだが、ハルトは少々居心地の悪さを感じながら言った。

「えっと……。まずはお礼。『ありがとうございました。とても美味しかったです』。それから名前。キィナ=リュム=リオ、さん」

 その後に付け加えられた「部族」とか「戦士」とかいう単語は、よく分からなかったので省略する。

 己の名前は音が同じだから分かったのか、少女がはっとして居住まいを正した。そして不思議そうにハルトの顔をまじまじと見た。

「あと……。故郷を独りで旅立った。ある目的……使命かな、それの為に」

「まあ、ひとりで……」

「なるほど、キィナちゃんと言うんだね」

 今度は店主の口からも自分の名前と同じ音が飛び出して、少女は勢い振り返った。そうしてハルトと店主の顔を見比べると、己の胸に手を当てて言った。

「そう! わたし、キィナ!」

 店主はにこにことうなずき、ゆっくりと側にしゃがみ込む。

「うんうん。僕はナラハ。あっちがミラ。それからハルトに、サビーノだよ」

 一人一人丁寧に指さしながら教える。初めは首を傾げていた少女も、指先を目で追ううちに飲み込めて、示された人物の名前をたどたどしくも口にした。やっと言葉が通じた実感に、少女——キィナの表情から緊張が解ける。それから少し、肩を落としてうなだれた。

「見知らぬ空の地で言葉は通じず、勝手も分からず、無為に時を過ごしてしまいました。そのため用意していた食糧も底が尽きて、三日ほど何も食べられなかったんです。

 だから、あったかいご飯は天の慈悲のようで。本当に助かりました」

 と、言う。

 ハルトにはその上で、初めて乗った飛空船には酔うし、高い所は恐ろしいし、荷物の間の狭苦しい空間では落ち着けずよく眠れないし。たった一人、不安で……いっぱいいっぱい。そんな心の内も読み取れる。

 ——なんだか大変だったんだな。同い年くらいなのに。

 ハルトはしみじみとそんなことを思った。するとサビーノが、じとっとした目で見ていた。(通訳!)と無言のうちに促される。ハルトは慌てて通訳を試みた。

「えっと……。初めての土地。分からなくて。三日くらい食べられなかった。だから本当に感謝している、て」

「…………」

 今度は呆れた眼差しを寄越された。(なんだかなぁ。ぼんやりなんだよなぁ)などど思われてしまう。どうしてだろうか? ハルトとしては懸命にやっているつもりなのに。言葉というのは通じていてさえ難しい。そう思う。気持ちが読み取れたとしても、だ。

 そんな感謝の言葉とは裏腹に、言い終えたキィナの表情は重く、暗くなっていった。しょんぼりと肩を丸めてうつむく。

 そんな様子を、店主たちは「事情は分からないけれど、ここに来るまでに随分と苦労を重ねたのだな」と理解して、痛ましく思っている。ハルトは小首を傾げて、少々困った。たぶん、それは違うと思う……。

 少女はうなだれる。

(なんとか目的の島らしき所に辿り付けたのは良かったけど。一族の——ううん、世界の大事な使命を任されたのに、こんな理由で倒れるなんて。なんて情けないの……。やっぱりわたし、ダメな子なんだ……。しっかりしなきゃいけないのに……)

 ホントにここが目的地かどうかもはっきりしないし、などと一周して不安を増大させる思考にもんもんとなり、また情けなさに自己嫌悪に陥っている。

 そんなキィナの力ない肩に、店主は優しく手を置いた。

「そんなら、今日眠るところもないんじゃないかい? 良ければ、うちに泊まるといいよ」

「?」

 店主に指し示されるままに、キィナは上を見上げた。一階にある食堂の上は、宿屋としての客室がたくさん並んでいる。一室に上下二段になった寝台を幾つも据えた安い相部屋もあれば、寝台の他に机や棚が用意された個室もある。高級ではないが繁盛しているだけあってこざっぱりとした内装だ。

(いっぱいの寝床と空っぽの部屋。それにここ、食べるトコ。——宿屋さん?)

 そこまで考えたところで、胃袋が満たされ血色の戻ったキィナの顔から、再び血の気が引いた。首を横に勢いよく振る。切り揃えられたふんわりした髪が、それに合わせて扇のように広がった。

「だ、ダメです! これ以上ご厚意に甘えるわけにいきません! わたし、お金、持ってない、ので——」

 困り切った視線がさまよって、ハルトを向く。ハルトは短く「お金が無いんだって」とだけ伝えた。

 少女の狼狽は、見ただけでも十分に分かるものだった。店主は大らかに微笑みかける。

「いいんだよ。そんなこと気にしないで。

 今の時期はお客さんも少なくて空いているから、少しくらいぜんぜん構わないんだ。それでも気になるなら、払える時に払ってくれたらいいよ」

「そうよ。女の子を、放っぽり出せないわ」

 そんな店主親子の態度に、後ろ頭をかいてこっそり息を抜くのはサビーノだ。付け加えるように言う。

「良さそうな品を持ってるなら、おれが換金してやってもいいし」

「…………」

 ハルトの能力でも、さすがにこちらの言葉を理解させることはできない。それでも温かい心というのは通じるもので、意味を察することはできたようだ。暖簾に隠された下で、少女は考える。

(どうせ行く当て無い。だったらここにいる方が、ご飯の御恩を返せるかもしれない……)

 それからおずおずと、店主を見上げた。

「あの、では、お言葉に甘えて……。

 あ! せめて、何かお手伝いさせてくださいっ。雑用は慣れてますから。お役に立てることがあれば、言ってくださいっ」

 ハルトのたどたどしい通訳を聞いて、店主はうんうんとうなずいた。柔和に微笑みながら手を取り合っている。

「それにしても」

 そんな光景を余所に、サビーノが思案げに腕を組んだ。

「いったいどこから来たんだろうなぁ。

 聞いたことない言葉に、見たことない民族衣装。よっぽど遠い島なんだろうけど。

 まだ子供だし。無一文か……」

 はた、とサビーノは動きを止めた。瞬きして、ハルトと目を合わせる。彼の脳裏にはありありと、港で聞いた単語が思い浮かんでいた。

 ——密航……?

 和気藹々とする宿屋親子と異国の少女を前に、二人はその単語を口にできなかった。

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