第二章 魔神探しと呪い

第18話

 ヴァイオレットの前には、壺がある。端が欠けて、色褪せ、古ぼけた大きな壺だ。大らかな丸みを持った壺の表面には、細やかな絵が付けられている。森の中、立派な角を生やした鹿と、それに導かれる若者。そんな絵柄だとなんとか分かるけれども、長い年月を経たせいか、それとも土の中に埋まっていたせいか、所々掠れてしまっていた。

 そんな壺の横には、時代の違いそうな荒々しい模様のかめが、さらにその横には薄ぼけた石の置物が、そしてきらびやかな装飾品が——ガラスの展示台の中に整然と収められ、続いている。それぞれにはきちんと名札があり、説明文が付いていた。

 それらを眺めるハッカが、チャボを挟んだ向こう側で首を傾げる。

「——これ、何?」

 まばらに顔にかかる前髪の下で、眉がしかめられる。彼が視線を注いでいるのは、石の置物だ。下顎から太い牙をむき出しにした厳めしい形相。直立姿勢で衣服を身に付け、手に武具のような物を持っているから、人間を象っているようにも見える。けれどその顔は人ではない。激怒した、悪鬼か何かだ。これも古い物で、石が磨耗して輪郭が曖昧になっていた。

 真ん中に立つチャボが、腕を組んで、なんでもなさそうに言う。

「神様に決まってるじゃん」

「……え?」

 思わずハッカがチャボを見上げる。

「神様……て、ティー=リー? これが?」

「そうだよ。ん? ティー=リー神以外のなにさ?」

 聞き返されて、今度はチャボの方が不可解そうにハッカを見た。珍しくも、ハッカが目に見えて狼狽える。

「鳥には、見えないけど?」

「ああ、なんだ。いろいろいるんだってよ、ティー=リー神は。

 これはえーと怒ってるわけだ。悪いことした人を」

 チャボが確信に満ちた口調で、乏しい語彙の説明をする。

 ティー=リーは全なる神。一般に知られているのは、孔雀や雉のように首が長く、尾羽もすらりとした白い鳥の姿だ。しかし実際は----というのもおかしな表現だが、神話や昔話に語られるティー=リーは、全ての生命と繋がっている故にどんな姿にもなれる、とされている。

 例えば、森で道に迷った善良な人を、雄鹿に化身して道案内したり。醜い老婆や美女になって、人の心を試したり。恐ろしい鬼の姿で、悪行を戒めたり——。

 そうやって様々に姿を変えながら、全ての生き物を見守り、そして人間を教え諭してきたのだ、と。

 ちなみに——ヴァイオレットはたどたどしいチャボの説明を聞きながら、ガラスの向こう側を見る。そこには置物に名札があって、これがティー=リーの怒りの像であると分かるし、前面の壁にはそれらの詳しい説明文も掲げられている。ハッカがズボラなのではなく、字が読めないのだ。そして、チャボも。そこがヴァイオレットには少し不思議で——つまり彼は、もともと知っていたらしかった。……正直、意外だ。

 そんな正しい説明を聞いても、ハッカの表情は晴れなかった。いっそう戸惑った様子で、展示品を見比べる。

「え、でも、じゃあ、決まった姿は無いってこと? ならどうして、目の前に現れたそれがティー=リーだって分かるのさ??」

「言われてみると、そうだなー……」

 予想外の疑問を投げ掛けられて、チャボも首を傾げ始める。それから間もなく、うなずきと共に掌を打った。

「名乗るんじゃね?

 『我こそは神なるぞー』てさ!」

「すごい詐欺師っぽい」

「あっはっはっ! でも確かに! 白い鳥も本当の姿じゃないんだって。ならさ、本当の——真の? 真の姿とかって、あんのかなー」

 二人のやり取りを並んで聞きながら、ヴァイオレットは静かに息を抜いた。

 ここは、とある島にある博物館だ。それなりの規模があって、観光の目玉の一つにもなっているから、ちらほらと客の姿も見受けられる。

 チャボとハッカの二人は、いかにもならず者といったいつもの服装ではなく、それらの観光客に紛れるような、目立たない格好をしていた。ヴァイオレットも、ワンピースこそいつも通りだが、その上に町娘風の上着を重ねて、長い髪も一つに結っている。その手には果物を盛るような手提げの籐籠があった。

 つい、不満がこぼれる。

「わたし、神話の勉強がしたいわけじゃない」

『まあそう言うな。

 行き詰まっているときは、原点に返ってみるのも一つの手だ。一から見直すことで、新しい発見が得られることもある』

 声は籠の中からした。

 声といっても、控えめな、濁った鳥の鳴き声だ。半分布で覆われた籠の中から、赤と青の羽が飾りのように飛び出している。布を被ったアルグが、ほんの少し、赤い頭を覗かせていた。

「…………」

 そういうこともあるのかもしれない、と思う。けれどこのトリの言う事は、どうしてか素直に受け取り難い。見た目が鳥だからなのか、元は敵だからなのか。なんにしろ、不満を滲ませたままうなずけず、ヴァイオレットは押し黙ることになる。

 ——魔神の手掛かりを探す。

 そう意気込んでみたものの、ここまでまったく上手く運んでいなかった。この博物館を訪れたのも、その一環には違いない。しかしギイドが残した資料の指し示した場所かといえば、そうでもなかった。

 考えてみればあたりまえだった。

 ヴァイオレットはそう時間を掛けずにギイドの資料を読み解くことが出来た。ところがそれは、あまり役に立つものではなかったのだ。

 ギイドが大事な物を残して、どこかへ行くはずがない。それが帰る予定のある自分の根城だったとしても、だ。あの何もない部屋を見れば、それは明白だった。

 ヴァイオレットが目を通したところ、あの資料に書かれていたのは、ほとんどがコードリッカに関する事柄だった。コードリッカの地理、歴史、観光名所になっている太古の遺跡、神話との関わり、それに魔神。資料を読めば、コードリッカに魔神の封印があると予想できて、それが心臓で、二つ目の〈鍵〉もそこにあるだろうと分かるけれど——というか、つまり、それは既に終わった話なのだ。

 ヴァイオレットはもちろんがっかりした。しばらく机に伏したまま、動けなかった。結論を導き出した際の、ギイドの勢いある筆跡が、いっそ悲しかった。

 そんなわけで、他に当ても無く、いやいや……しぶしぶ……、アルグの情報とやらを頼る他なかったのだった。

 ここに来たのも、だからアルグの指示だ。古い時代の遺跡や独特の景観がある自然の観光名所、それから博物館・資料館などなど。ここ数日の間、ヴァイオレットはそんな所を連れ回されている。

 どうやらアルグの仕入れた情報というのは、コードリッカの家に残されていた画帳の風景とか、日誌にあった旅の記録とか、そんな曖昧なもののようだった。恐らくアルグは、オルレイン・ザラトールの足跡を辿るつもりなのだろう。ヴァイオレットもそれに意味がないとは思わない。神話の真実に辿り着いた彼の旅程をなぞるのは、むしろ近道なのかもしれない。しかし、それが確かな何かに繋がっているとは言えなかったから、一人で調べるつもりだった。それなのに----。

 ヌーとチャボとハッカの三人が、出掛けになってついて来ると言い張り、譲らなかったのだ。彼らの言い分は、こうだ。

「ちょうど退屈してた」

「おれたちやるコトないからさー」

「——暇、とも言う」

 さらには。

「嬢ちゃん、いま魔法使えないだろう」

「世の中ぶっそうだからねー」

「——護衛……」

 その上、いつの間にかアルグとも仲良くなっていて、そのトリまでが彼らの味方をしたものだから、始末が悪かった。

 ヌーは暴行で、ハッカは窃盗で指名手配されているし、チャボに至ってはあちこちの花街で出入り禁止を食らっているらしい。彼らに比べればきれいそのものの履歴を持つヴァイオレットとしては、正直連れて歩きたくない。特にヌーはその巨体だけでかなり目立つ。彼らが妙な騒動でも起こさないか、いらぬ心配をしなければならなかった。——そのヌーはというと、博物館という場所があまりにもそぐわないので、宿で留守番をしてもらっている。

 そうしていろいろ回ってみてはいるけれど、

 やっぱり何の手掛かりも得られていないのだった。

 眉間に力が籠もるのを自覚する。

 ヴァイオレットはこっそりため息を吐き、また歩き始めた。磨かれた床を行く足音が、静かな館内によく響いた。

「……簡単に行くとは、思っていなかったけれど……」

 でなければ、とっくの昔に魔神が復活して、世界は終わっていただろう。十年以上前にあった魔神争奪戦の時だって、かなりの人数がそれぞれ必死になって探したはずなのに、大した成果は上げられなかった。だから、これが普通だ。分かっている。焦る必要は、無い。

 でも……——。

 太古の遺跡を見た。博物館でその出土品も見た。そこには確かに、古の神話や文化の形跡が刻まれている。しかしヴァイオレットには、それらの何が手掛かりになるのか、よく分からなかった。どこを見ればいいのかすら、分からない。いったい何を探せばいいのだろう……。

『まあなあ』

 と、籠の中からも、悩ましそうな声がする。少し視線を向けると、アルグは群青色の目を細めて、じっと座っていた。そうしていると「夕飯のおかず」にしか見えない。それにちょっと重たい。

『例えばそれらしい柱があったとしても、そこが本当に〈扉〉の場所なのかどうかは、〈鍵〉がなければ確かめられない。ならば先に鍵を手に入れようと思っても、それを探すのがまた大変で——』

 魔神の封印を解く鍵は、色の付いたただのガラス玉だ。その価値を知らなければ、普通の装飾品のようにしか見えない。わざわざ話題にするような品でもないから、人から人へと渡るうちに紛れてしまう。また一方で、その真の価値を知っている者ならば、簡単に人に見せたり、手放したりはしないだろう。

 そして、人々が空に住処を移してから、もう何百年にもなる。その間に積み重ねた歴史だってかなりのもので、ここのような博物館に収蔵されている品々の大半は、そうした近い時代のものなのだ。それ以前の——大地に暮らしていた時代の遺物なんて、ほんの片隅にしかない。あまりにも、数が少なかった。永遠に失われている可能性だって、否定はできない。

『他の時代のものが参考にならないわけでもないが。稀少だからこそ、一つ一つを丁寧に調べる必要があるのだよ』

「…………」

 それは、存在しないはずのものを探し求めているような、途方も無さをヴァイオレットに感じさせた。

 そんな状況なのに、オルレイン・ザラトールという人は、どうやって神話の真実とやらに辿り着いたのだろう。よく、辿り着けたものだと思う。感服するというより、ただただ謎だった。

「……執念の、なせる業……」

『せめて情熱と言ってやってくれ』

 それはギイド様も……——。

 彼らと同じだけの熱量がなければ、何も、得られないのかもしれない……。

 ヴァイオレットは喉を詰まらせるような想いに駆られて、腹に力を込めた。

 今はとにかく、進むしかない。

「次に行きましょう」

 すると籠から唸るような声が聞こえた。

『次か……』

 気持ちを新たに踏み出した一歩は、そこで止まる。

「……もしかして、無いの?」

 その言葉は、思った以上にヴァイオレットの心を揺さぶった。籠を振り返り、平静な声音を取り繕って聞き返す。アルグは何事か、考え込んでいる様子だった。いつの間にかチャボとハッカも後ろにいて、顔を見合わせている。

『いや、そういうわけでもないのだが……。

 ギイドが残していった資料、あれは魔法院にあったものだろう?』

「そうなの?」

 そんなことまで、ヴァイオレットには分からない。アルグは『恐らく』と嘴を縦に振った。

 神話研究家兼冒険家のオルレイン・ザラトールが事故で死んだ時、その遺体や所持品は全て魔法院が引き取った——否、押収した。その当時すでに、彼の研究の危険性について勘付いていたからだ、とアルグは言う。その持ち物には、そのとき彼が何に興味を持ち、調べていたのかが分かる詳細な記録があったし、魔神の封印を解く鍵の一つがあった。現在もそれらの品々は、魔法院で厳重に管理されている。

 そうした大凡の経緯は、ヴァイオレットも聞いたことがあった。部屋の真ん中で籠に向かって立ち話をするわけにもいかないので、端に寄ってから、ヴァイオレットは怪訝な眼差しをトリに向けた。

「まさか、その鍵を盗むなんて言わないでしょう」

『まさか』

 簡単に言って、アルグも籠の中から見上げる。

『そこにあると分かっているのに、誰も手を着けていないのは、それだけ徹底して守られているからだ。ギイド本人の手が借りられるならまだしも、この状況でお嬢さんをそんな所へ送り込んだりはしないさ。仮に盗み出せたとしても、魔法院から目を付けられたのでは、動き辛くなる』

 ギイドが持っていた資料は書き写しで、そのものではない。しかし書き写せているのだから、鍵だって盗ろうと思えば盗れたはず。それをしなかったのは、その辺を考えたからだろう。そう、アルグは付け加えた。

『私が言いたいのはそこではなくて。

 ギイドと魔法院の関係性だ。

 奴の魔法は天然モノだと思うのだが』

「どういう意味?」

 聞き慣れない単語に、ヴァイオレットは首を傾げる。

『何らかの儀式によって魔法を会得したのではなく、実際に死に瀕したことによって、魔法を使えるようになった人間、という意味だ。そういうことも、稀にある』

 普通に生活をしていても、事故や病気で死にかけることはある。そうした危うい状態から生還した人の中には、本当に——天恵くらい稀にだが、不思議な現象を引き起こせるようになっている人がいる。それが魔法の大本の始まりでもあった。そうした臨死体験を任意に、確実に、そして安全に行うのが、魔法を習得するための儀式だ。

 魔法院ではそうした歴史ももちろん学ばされる。普段気に留めない事柄なので、直ぐに思い至らなかっただけだ。ヴァイオレットは納得してうなずいた。

「本当にいるのね」

『有名どころだと、トレクシア王国の王子だな。確か魔法院の幹部にもいる。他にも何人か——。

 とはいえ、天然モノでも力があると分かれば、その扱い方を覚えるために魔法院で学ばされるものだ。だからきちんと把握されているはずなのだよ』

「危ないものね」

 魔法の力が制御もできずに放っておかれたら、周りの人だけでなく本人にとっても危険だ。

 ふと見れば、ヴァイオレットとアルグが話し込むものだから、置いて行かれたチャボとハッカが近くの展示物を順に眺めていた。

 うむ、とうなずいてアルグは続ける。

『で、ギイドの場合だが。天然なのを良いことに、モグリで魔法を習得したのかと思っていたのだが——』

 そもそも魔法は、魔法院の学校以外で教えてはいけないと決められている。安全になったとはいっても儀式はそれなりに危険を伴うもので、そして魔法自体も危険だからだ。従って、表向きは全ての魔法使いが魔法院に所属し、また管理されていることになっている。だから犯罪に魔法を使いたいような輩は、魔法院以外で儀式を受け、身に付ける——らしい。ヴァイオレット自身は違うので、実はよく知らない。

『本部にある資料を持ち出せているのを見ると、正体は魔法院の関係者とも考えられるのではないか?』

「——モグリなら、魔法院とはできるだけ関わりたくないはずだから……?」

『うむ。まあ単に、あれが図太い神経をしているだけかもしれないが。

 どうする? 本部に行けばギイドについて、何か分かるかもしれないぞ。鍵を盗むのでなければ、警備も厳重ではない。忍び込めないこともないと思うが』

「ギイド様……。

 魔法院……——」

 ヴァイオレットは考えようとして、直ぐに首を横に振った。考えるまでもない。

「冗談言わないで。

 わたしもあそこの学校を途中で投げ出したの。正式に卒業していないのに、魔法を使うのは犯罪でしょう。それに、あなたを連れてそんな所へは行けないわ」

『そうか。

 それならお嬢さん』

 なんのこだわりもなく、アルグは話題を変えた。つぶらな群青色の瞳で小首を傾げ、ヴァイオレットを見つめる。声の調子まで、暢気なくらい軽くなる。

『ここらで少し、私の方の用事も手伝ってはくれないだろうか』

「…………」

 ヴァイオレットは菫色の瞳で、黙ってアルグを見返した。言うと思った、というのが本音だ。協力を頼んだときから、それくらいの予想はしていた。交換条件のようなものだ。

 あまり良い顔はせずに、ヴァイオレットは聞いた。

「……なに?」

『ぼちぼちこの呪いをどうにかしようと思って。慣れれば鳥でいるのもなかなかに楽しいものだが、やはりいざという時には不便なのでね』

 このトリの「いざ」とは、魔神くらいしか考えられない。アルグはコードリッカで魔神に敵わなかったのを、気にしているということか。呪われたままでは、全力で魔法を使えない。

『私に呪いをかけた魔法使いの一人が、ちょうどこの島にいるのだよ。なに、手間は取らせない』

 ちょうど——と言うが、行き先を決めたのはアルグだ。この島に来られるように、道程を調整したとしか思えない。そしてそれを気付かれないとも思っていないのだ。全て、計算ずく。

「…………」

 ヴァイオレットは考える。

 できれば先を急ぎたい。でも、アルグに協力してもらっているのも事実だ。このトリがいなければ、目的地を決めるのもままならない。

 ギイド様なら、簡単に踏み倒しそうな恩だけれど……。

「——……少しなら、かまわないわ。手早く済ませてね……」

 ヴァイオレットは小さくうなずいた。

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