ココアみたいに甘い妹


「少しは落ち着いたか?」

「……うん」

 ダイニングテーブルを挟んで向かいあう、俺と芳乃。

 芳乃は両手で持ったマグカップを口元に運び、俺はそんな妹の姿を片肘をつきながら眺めている。

「お兄ちゃんの淹れてくれるココア、やっぱりおいしいな……」

 どこかしみじみと、芳乃は言う。

「やっぱりってなんだよ。おまえそんなにココア好きだったか?」

「言ったことなかったっけ? わたし昔から、お兄ちゃんが作るココアは世界一おいしいって、ずっと思ってたんだよ」

 恥ずかしそうに告白しながらも、視線はけっして俺から外そうとしない。

 その目は、その笑顔は、やはり母さんと湊にだけ向けられていたものだ。

 俺の勘違いではない。

 その証拠が、“お兄ちゃん”だ。

 なにがお兄ちゃんだよと思う。

 ずっと昔はそう呼ばれていたこともあった気がするが、ここしばらくは「ねぇ」と「ちょっと」がデフォルトで、最近では「あんた」呼ばわりが主流になってきていたというのに。

 芳乃が俺に対し素直に感情をぶつけてくるという構図は、新鮮を通り越して気持ち悪いくらいなのだ。


 おもむろに、芳乃が立ちあがった。

 なぜか、俺の隣の椅子に移動した。


「なんだよ」

「別に。ただなんとなく」


 そう言いながら芳乃は、椅子の間隔を詰めてくる。

 ちら、と俺の反応を窺うように上目遣い。

「…………」

 俺は無視して自分のココアに口をつけた。

 芳乃は肩を寄せてきた。


「やめろ、暑苦しい」

 俺は席を立ち、さっきまで芳乃が座っていた椅子に移動した。

「むぅ〜」

 むぅ〜、と口で言って、芳乃は俺を睨みつける。

 睨まれているのに、視線にまったく棘が感じられないという矛盾。

 構ってほしそうに、ぷくっとわざとらしく頬を膨らませている。


 正直な話――対応に困る。

 こんな状況ははじめてだから。

 俺に甘えようとしているのはわかる。

 その“甘え”に、遠慮が交じっているのも……わかる。

 母さんに対しては、もっと直球で大胆な甘え方をしていた。湊と二人きりのときも、おそらくはこんなものでは済まないだろう。

 今の芳乃は慎重に距離をはかるように、自制しながら、多分に正気を残しながら――甘え過ぎないように甘えようとしている。

 もっと全力で甘えてきてくれれば、俺も全力で「うざい、失せろ」と突き放すことができるのに。

 それなのに芳乃は、俺の心情を慮る。

 俺に突き放されないよう、細心の注意を払っている。


 つまり芳乃のは……冗談半分の戯れなんかではなく、本気で甘えたがっているのだ。


 だからこそ、対応に困る。

 本当にタチが悪い。

 どうしろっていうんだ。


 またも、芳乃が立ちあがった。

 そのまま俺の隣へ移動――

 するのかと思いきや、芳乃は俺の背後に立った。


 両の肩に載せられる重み。

「マッサージしてあげる。たまには兄孝行しないとね」

「凝ってねーよ。父さんにしてやれよ、喜ぶぞ」

「えー。でも、お兄ちゃんにしたい気分なんだもん」

「やめろって、暑苦しい」

 少々マジなトーンで言うと、芳乃はすんなりと手を退けた。


 それきり、次のアクションはなく。

 言葉もなく。

 かすかな息遣いと気配だけが、背後に佇んでいる。

「…………」

 沈黙が続く。


 実際のところ、俺たちの兄妹関係は、良好と呼べるものではなかったと思う。

 傍から見れば、敵対とまではいかなくとも、対立しているくらいには映っただろう。

 それが芳乃の一方的な対抗意識によるものだったとしても、関係ない。

 俺が妹に向きあおうとせず、関係を改善する努力を怠っていたのは、まぎれもない事実だ。

 兄らしいことなんて、これまでろくにしてこなかった。

 しようとも思わなかった。

 だから……まぁ。

 たまには兄としての自覚を持ってみるのも、必要なことなのかもしれない。


「突っ立ってないで、隣、座れよ」


 十秒ほど、迷うような間があって。

「……いいの?」

 遠慮がちな問いかけを、俺は一笑に付した。

「いいも悪いもあるかよ」

「……ありがとう」

 芳乃はそっと俺の隣の椅子を引き、控えめに腰を下ろした。

 すかさず俺は椅子を寄せ、距離を詰めた。

 芳乃が真意を確かめるような目で、ちら、と俺を窺い見る。

 その視線を、俺は真っ向から受け止めた。


 ほとんど体当たりするみたいに、芳乃がしなだれかかってきた。


 今度はちゃんと、受け入れた。

「……ねぇ」

「ん?」

「しばらく、こうしててもいい?」

「好きにしてくれ」

「…………お兄ちゃん、だぁい好き」


 涙のにじんだ声で、芳乃は囁いた。

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