ビッチ妹のデレ期はうれしくない


 俺と視線がかち合った瞬間、湊はこれでもかというほど露骨に顔をしかめ、踵を返そうとした。だが、湊に続いて入ってきたあやねによって、行く手を阻まれる。


「どいてくれ、静志麻さん」

「行かせませんよ、古井出くん?」


 強引に突破される前に、俺は声を張りあげた。


「湊! あの“宣言”――おまえと芳乃を復縁させる件についてだが――」

「何度も言ってるだろ、俺の気持ちは変わらない! よっちゃんとやり直す気なんて、俺にはない!」

「だろうな」

「だろうな、って……」


 俺は芳乃を抱えあげ、お姫様だっこしながら湊へ近づいた。


「聞いてくれ、湊。変わったのは…………俺の気持ちなんだ」

「……コウちゃんの気持ち? なにさ、ようやく諦めてくれたってわけ?」

 湊は警戒を崩さないまま、かすかに唇の端を釣りあげて言う。

「あぁ、諦めた。むしろおまえがその気になっていたとしても、諦めてもらわなくちゃならない事情ができた。というわけで、あの“宣言”は撤回する。あの話はなかったことにしてくれ」

「…………」

 湊の表情に、明らかな困惑が浮かぶ。

「事情って……コウちゃん、いったいどういうつもり?」

「それをするために、おまえを呼び出した」

 俺は湊から目を逸らさず、ハッキリと言った。


「俺が、芳乃と付きあうことにしたんだ」


 時が止まったかと思うほどの静寂が、屋上を支配した。

 感情を失ったかのように表情を硬直させていた湊は、やがて……

「……はははっ!」

 乾いた笑い声をあげて、一歩、後ずさった。


「先に言っておくが、嘘や冗談なんかじゃないからな?」

「嘘だ」

「こんなこと、本当は人に言うようなことじゃないんだろうし、親にも言う気はないんだが……親友のおまえにだけは、報告しておくべきだと思ったんだ」

「嘘だ!」


 湊は声を張りあげ、鋭い眼差しを俺に向ける。

「だってコウちゃん、言ってたじゃないか? よっちゃんの幸せを第一に考えてるって! そんなコウちゃんが、そんな道を、安易に選ぶはずがない!」

「安易じゃない。俺は、俺たちは――本気だ」

「ありえない」

 湊は顔を伏せ、静かに首を振った。


「だったら、静志麻さんのことはどうなるんだ。きみたち、本気で愛しあってたんじゃないのか?」

「あぁ、そうだな、確かに俺とあやねは本気で愛しあっていた。だがな、あやねとはついさっき別れたんだ。だから、別に問題はないはずだが?」

「別れたって……! それ、本当なの!?」

 振り向いた湊が、あやねに訊く。

「ええ、本当のことです。つい先ほど、振られてしまいました」

「……静志麻さんは、それで納得してるの?」

「納得はしていませんが、仕方ありません。お兄さんは私ではなく、芳乃ちゃんを選んだのですから……」

 あやねが寂しげな表情を浮かべ、目を伏せる。


「どうして……」

 湊は再び、俺を見た。

「本気で愛しあっていたのに、どうして別れたりしたんだ……!」

「……」

「答えてくれよ、コウちゃん!」

「あやねの愛は、重すぎたんだ。湊、おまえにならわかるだろ?」

「……っ!」

 湊が息を呑む気配があった。

「ダメだ、コウちゃん……断言する! 今別れたら、絶対に後悔することになる!」

「もう遅い。俺はあやねじゃなく、芳乃を愛すると決めたんだ」

「笑わせないでくれよ、静志麻さんから逃げたきみが、よっちゃんの愛に耐えられるとでも?」

「おまえこそナメるなよ、俺と芳乃は兄妹だぞ? そんじょそこらのカップルとは、覚悟が違う」

「そんなのっ……」

「仕方ないな」

 俺は肩をすくめ、芳乃を見た。芳乃は感情の読めない瞳で、俺を見返した。


「俺たちの愛をそこまで疑うというのなら、証拠を見せてやる」

「……証拠?」

「芳乃」

「んん……」


 芳乃は俺に抱えられたままもぞもぞと動き、俺に顔を寄せようとする。

 そんな芳乃に、俺は傾けた顔をそっと近づけ、唇を奪った。


「なっ……!」


 驚きの声を漏らす湊のことは気にせず、俺は芳乃とのキスに集中する。

 舌を入れ、歯茎を舐め、歯列をなぞり、伸びてきた舌に自らの舌をこすりつけ、絡めあわせ、唾液を啜りあげる。

 開いた唇を密着させ、頬を蠢かせ、境目がわからなくなるくらいに口内で舌を往復させる。

 何度も何度も何度も何度も。

 味わう。堪能する。愛おしむ。

 俺は湊に見せつけるように、数分間にわたって本気のキスを続けた。


「嘘や冗談で、生半可な覚悟で――こんな本気のキスができると思うか?」


 ベトベトになった口元を手の甲で拭いながら、俺は言った。

「…………」

 湊は最早返事もままならないほど閉口している様子だった。


「古井出くん、ここまで見せられては、私たちも認めるしかありません。お二人の愛は……本物です」


 あやねの言葉に、湊は我に返ったように口を開いた。

「だっ、だからって! 実の兄妹が付きあうだなんて……」

「おまえの懸念もわかる。少なくとも、俺たちはもう、普通の人生は歩めない。世間の目を気にしながら、コソコソと隠れるように生きていくことになるだろう。籍を入れることも、華々しく式を挙げることも叶わない。子どもは作れても、俺たちと同じかそれ以上の苦労を味わわせることになると思う」

「だったら……!」

「だがな、湊? 俺は、元からおまえに認めてほしいなんて思っちゃいない。これは相談じゃなくて、ただの報告だ。おまえに口出しする権利はない」

「っ……!!」

 湊は口をつぐみ、拳を握りしめ、顔を俯けた。


「じゃあな」

 それだけ言い残し、俺は押し黙る湊の横を通り過ぎようとした。


「それでもっ、ダメだ……!!」


「……」

 俺は足を止め、湊へと顔を向ける。

 湊の真剣な眼差しが、まっすぐに俺を射抜いた。


「コウちゃんじゃ、よっちゃんを幸せにはできないっ!!」


 その必死さが、迸る熱意が……あまりにも、おかしくて。

 俺は思わず、口元を緩めてしまった。

 だから、勘の鋭い湊は、気づいてしまっただろう。

 すべては、その一言を引き出すためだけの――ハッタリに過ぎなかったのだと。


「そうか? そこまで言うなら」


 それでも俺は、この三文芝居を続行する。

 湊の“本気”を、見極めるために。


「教えてくれよ、みーくん。俺以外の誰なら、芳乃を幸せにできるっていうんだ?」


 湊は、沈黙した。

 沈黙して、俯いて。

 フッと、その表情を緩めた。


「負けたよ、


 顔をあげた湊は、まるで憑き物が落ちたかのような、晴れやかな笑みを浮かべていた。

 それは俺がよく知っている、親友・古井出湊の顔だった。


「妹さんを、俺にください。今度こそ、必ず幸せにしてみせる」


 静かで、それでいて力強いその言葉に、芳乃の目が見開かれる。

 揺れる瞳はゆっくりと、俺に向けられる。


「あぁ、その言葉を待っていた。俺も、芳乃もな」


 光を取り戻したその両の瞳からは、芳乃の想いがありありと見て取れた。


「よっちゃん……いえ、相沢芳乃さん。もう一度だけ、俺にチャンスをください。俺とやり直してくれませんか?」


 なにかを問いかけるようにじっと見つめてくる芳乃に、俺はうなずいてみせた。

 ――行け。

 俺はそっと、芳乃を地面へと降ろしてやる。


「…………みーくん」

「よっちゃん!」

「っ……! みーくんっ!!」


 芳乃は一直線に、湊の胸の中へ飛びこんだ。

「……」

 もう、大丈夫だろう。これ以上見届ける必要はない。


 これで、すべて終わったのだ。


 俺は二人に背を向け扉に向かう。


「お疲れ様、兄さん」

「……あぁ。おまえもな」

 声をかけてきたあやねに、俺はどこかぼんやりとした頭で返事をする。

「あやね、ちゃんとお芝居できてた?」

「あぁ、うまかったぞ。ごめんな、演技とはいえつらい役回りを頼んで」

「ううん、あやねは平気。だって、芳乃ちゃんのためだもん」

「そうか」

 優しく頭を撫でてやると、あやねは気持ちよさそうに目を細めた。

「でも……」

「ん?」

「兄さんの唇は、あやねだけのものだから」

 潤んだ瞳で俺を見あげ、顔を近づけてくる。


「だから、あやねが上書きしておくね?」


 唇に伝わる、柔らかな感触。

 愛する彼女に、キスをされている。

 ……だというのに。

 俺はどこか、上の空で。

 気分はなぜだか、沈みきっている。

 まるで心にポッカリと大きな穴があいてしまったみたいだった。



     ♡ ♡ ♡



 帰宅した俺は、無意識に芳乃の部屋へと足を向けていた。

 倒れこむように、ベッドの上にうつ伏せになる。


 帰り際、あやねにデートの誘いを受けたが、どうにもそんな気分にはなれず、こうしてひとり帰路についた。

 芳乃はこれから仲直りデートをするのだと張り切っていたので、当分は帰って来ないだろう。


「…………」


 静かだった。

 誰もいない家の中で、時計の針だけがかすかな音を響かせ続けている。

 こうしてじっとしていると、まるですべてが夢の中の出来事だったかのように思えてくる。

 芳乃に甘えられ続けた日々も、甘え続けた日々も、ぜんぶ……。

 俺は芳乃の枕に顔を埋め、肺いっぱいに芳乃の匂いを吸いこんだ。


 俺は…………寂しいのか?

 ちょっと俺のそばからいなくなったくらいで?

 別に会えなくなるわけでもないのに?


 馬鹿馬鹿しい。

 だいたい、これでよかったんだ。

 すべてが元通りになって、これでようやく平穏な毎日が送れるのだ、感謝こそすれ悲観することなんてなにひとつない。あんなデレ期みたいなもの、ないほうがいいに決まっているのだから。

 そうだ。

 芳乃ビッチ妹のデレ期なんて、うれしくない……

 俺は自分に言い聞かせるみたいに、心の中で何度も何度も、同じフレーズを呪文のように繰り返しつぶやき続けた。

 そのうちに、俺はいつしか微睡まどろみの中にいて。

 ガチャリ。

 という背後からの音で目を覚まし、身体を起こした。

 俺の目の前には、


「ただいま、お兄ちゃん♡」


 ――この部屋の主が、立っていた。

 思わず時計に目をやった。俺が家に着いてから、まだ十分も経っていなかった。

「おまえ……デートはどうしたんだ?」

 まさか早くも振られたんじゃ……なんて最悪な想像が一瞬のうちに頭をよぎるが、芳乃の答えは俺の予想だにしないものだった。

「お兄ちゃんが寂しがってるかもしれないって思ったら、いてもたってもいられなくなって。ドタキャンしちゃった♡」

「……いいのかよ、そんなんで」

「いいのいいの、デートなんていつでもできるんだからっ。それより今は、お兄ちゃんが心配だったから」

「…………」

 俺が無言でいると、芳乃はベッドの上にあがってきた。

 そして膝立ちの体勢のまま、俺の頭をすっぽりと覆い隠すように抱きしめた。


「大丈夫だよ、お兄ちゃん? わたしはどこにも行かないよ?」

「…………」


 俺は嗚咽を堪えるのに必死で、声を発することができなかった。

 それでも芳乃は俺の気持ちを察するように、優しく背中を撫でてくれて……また涙があふれそうになる。


「たとえいつか、わたしが結婚して。お兄ちゃんが結婚して。離れ離れに暮らすことになったとしても――」


 俺はとうとう堪えきれなくなって、声をあげながら芳乃に抱きついた。

 そんな俺を力強く、けれど優しく抱き寄せながら。

 とびきりの温もりに満ちた声で、芳乃は言うのだ。


「わたしはずっと、ず〜っと、いつまでもお兄ちゃんの妹なんだから♡」






清楚系ビッチ妹のデレ期はうれしくない ♡完♡

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