また妹に彼氏ができた?


 俺が芳乃の教室へと足を運ぶようになってから、ひと月近くが経った。

 生活に大きな変化はこれといってなく、復縁の件も湊の警戒レベルが半端ではないため停滞を余儀なくされている。正直わざわざ宣言なんてするんじゃなかったと思わなくもないが、やはり俺とあいつの間柄でそういう、コソコソ暗躍するような真似は、アンフェアな気がして嫌だったのだ。だからこの件に関して、後悔はない。

 小さな変化は、二つほどあった。


 一つ目――俺が静志麻あやねのことをあやねと、名前で呼ぶようになった。

 毎日のように懲りもせず、なにかと粗を見つけてはからかおうとしてくるので、一週間も経たないうちに自然と気を使うのが馬鹿らしくなったのだ。

 それが案外功を奏したのか、多少は友人として距離が縮まったような気がしないでもない。


 そして、二つ目――ここ数日で、芳乃の依存レベルが一段階、下がったような。

 そんな気がしている。

 毎日一緒に弁当を食べてはいるが、「あーん」をしてこなくなった。

 毎晩同じベッドで寝てはいるが、腕枕は要求してこなくなった。

 放課後は必ず一緒に下校していたのに、最近は「あやねと遊ぶから」と言って、一緒に下校しなくなった。

 ……そんなレベルだが。

 芳乃の態度はいつもどおりで、急によそよそしくなったとか冷たくなったとか、そういうことは一切ない。

 ただ行動パターンだけが、微妙に慎ましやかなものへと変化したのだ。


 俺はこの変化を、ついに訪れた兄離れの兆候と見ている。

 この調子なら俺は近い将来、妹漬けの毎日から解放されるだろう。

 そう思っていたのに……


 彼女の突然の来訪が、事態はそう単純ではないと、俺に現実を突きつけた。


「あら、お兄さんお一人ですか?」


 俺が三年の教室でひとり帰り支度をしていると、衣替えを済ませたばかりでまだ見慣れない冬服姿のあやねが、悠々とした足取りで俺の席までやってきた。


「そうだが……そっちこそ、芳乃と一緒じゃないのか?」

「……はい? 芳乃ちゃん、まだ来てないんですか?」

「は? なんで芳乃が来るんだよ? 芳乃はこれからおまえと遊ぶんだろ?」

「……えっ?」

 なんだ? 妙な反応だな。

「え、あの、お兄さん。芳乃ちゃん、お兄さんになにか言ってました? 放課後の予定とか……」

「あぁ、今日もあやねと遊ぶから俺とは一緒に帰らないって。ここ何日かはそんな感じだよな?」

「…………」

 当事者であるあやねに問いかけてみるが、反応が鈍い。

 何事か黙考している様子だった。

 それからあやねは、どこか怯えているような、なにかを恐れているような目で、俺を見た。


「……同じ、なんです」


「なにが?」

「私が芳乃ちゃんを遊びに誘ったら、『放課後はコウくんと帰るから』と、そう断られました」

「……それ、いつのことだ?」

「つい、さっきです」

「……」

「私にしてみれば、芳乃ちゃんがお兄さんと一緒に下校していたのは前から知っていたので、少しも違和感はなかったのですが」

 違和感、か。

 俺も「放課後にあやねと遊ぶということ」に限っていえば、兄離れの兆候以前に、友達なのだから当然くらいの認識でしかなかったが……


「だが今こうして、図らずも俺が聞いた話との食い違いに気づいてしまった」

 食い違いに気づいてしまった今、その認識は改めなくてはならない。


「ええ、正直いきなりで混乱しています……私はただ、少々お二人のいちゃつきっぷりをからか…鑑賞しに来ただけで、こんな事態になるとは思ってもみませんでした」

「あいつ、今どこにいると思う?」

「さあ……ですが芳乃ちゃんが教室を出て行ってから、まだそれほど時間は経っていません。もう外にいるとしても、あまり遠くには行っていないかと……」

 あやねにいつもの覇気はなく、どこか心ここにあらずといった感じだった。

「まだ校内のトイレとかに残ってる可能性は?」

「あぁ……そうですね。たしかにその可能性はあります、失念していました。ただ――芳乃ちゃんがトイレにいたからといって……」

 その先の言葉を、あやねは呑みこんだ。

 言いたいことはわかる。

 たとえ芳乃がどこにいようと、


 


「……事情はどうあれ、本人に訊いてみないことには始まらないだろ」

 そう考え、俺はズボンのポケットからスマホを取り出したのだが、

「待って! ……ください」

 その手を、ガシッと掴まれる。

 はじめて触れたあやねの手のひらは、ひんやりとしていて気持ちよかった。


「まずは、私が。芳乃ちゃんに、本当に嘘をつく意志があったのか。あったとして、どこまでつき通す気があるのか? それを、私に確かめさせてもらえませんか?」

 いつになく真剣な面持ちで懇願してくるあやねに、俺は一も二もなくうなずいた。

「わかった。任せる」

「ありがとうございます、お兄さん」


 あやねは俺の手を解放すると、肩に下げた鞄からスマホを取り出した。

「LINEでメッセージを送ってみます」

 言うが早いか、器用な指さばきで文字を打ち始める。

「画面覗いていいか?」

「どうぞ」

 許可が下りたので、俺はあやねのそばに寄り、画面を覗きこんだ。


――――お兄さんとは無事に合流できましたか?


 すると、すぐに返事が返ってきた。


{うん、できたよ(*^^*) 今いっしょに帰ってるところ!


「…………」

 俺とあやねは、無言で顔を見合わせた。

「……芳乃ちゃんには、あと何人かお兄さんがいらっしゃったりするのでしょうか?」

 冗談とも本気ともつかないトーンで、あやねは訊いた。

「芳乃のきょうだいは俺だけだ。姉も弟もいない」

「……そうですか」


 これはさすがに、確定的だった。

 勘違いや行き違いといった言い訳は、完膚なきまでに封じられて。


     芳乃が友達に嘘をついた


 ――ただ、そんな事実だけが浮き彫りになった。


 その後も二、三、怪しまれない程度に探りを入れるようなやり取りを続けたが、芳乃は一貫して本当のことを言わなかった。

 芳乃には嘘をつく確固とした意志があり、また貫き通す覚悟も見て取れる。そう判明した。


 ここまで頑なだと、気になってくるのはやはりその理由だ。

 芳乃は俺たちに隠れて、なにをやっているのか?

 俺たちには言えないようなことをやっているのでは?

 芳乃のことは全面的に信じているつもりだが、まったく疑念が湧かないといえば嘘になる。


 やり取りのあいだじゅう、終始難しい顔をしていたあやねは、無言でスマホの電源ボタンを押した。

 俺は再び、自分のスマホを取り出す。

「……直接問いただすんですか?」

「いや、もう少し探りを入れる。主に、今どこでなにをしているのかについて。もし芳乃が本気で俺たちに言えないようなことをしていた場合、下手に踏みこんで余計に壁を作られないとも限らないからな」

 できることなら、しょうもないオチであってほしいが。

 そう願いながら、俺は通話履歴から芳乃の番号を呼び出し、発信した。


 スマホの受話口を耳に押し当てると、あやねが顔を寄せてきた。

 肩と肩が密着する。

 芳乃とは違ったいい匂いが、すぐ近くからふわりと漂ってくる。

 電話は三コール目で繋がった。


『もしもしっ? コ……お兄ちゃん、どうかした?』

「いや別にどうもしないが。なんとなく声が聞きたくなった」

『なにそれなにそれっ、コウく……お兄ちゃんそれほんとっ?』

「あぁ」

『そうなんだっ、うれしい♡ 待っててね、なるべく早く帰るからねっ』

「いやいいよ、あやねと遊んでるんだろ?」

『……うん、そう。あやねといるよ?』

「あぁそうだ、ついでだから代わってくれないか?」

『えっ!? あ、あやねに? なんで?』

「あいつ年下のくせに生意気だろ? いい機会だからお灸を据えておこうと思って」

 トンッ。

 脇腹を上品な感じで、肘で小突かれた。一瞬ぶん殴られるかもと思ったが、意外に控えめだったな。


『お、お兄ちゃんあのねっ? あやね今、席を外してて……』

「ていうかおまえら、今どこにいるんだ?」

『学校の近くのカラオケ屋さんに、今着いたところだよ?』

「ふぅん、行ってもいいか?」

『えっ!?』

「冗談だが。それよりあやねはいつ帰ってくるんだ?」

『え、えっと……なんかね、あやねお腹痛いって言って、急いでトイレに駆けこんでいったから、たぶんお腹壊しちゃったんじゃないかな? あやねって一度入ると長いから、たぶん一時間は戻ってこないかも?』

 ドンッ。

 さっきより強めに脇腹を小突かれる。気持ちはわかるが、俺に当たられても。


「そうか、わかった。じゃああとで、俺のほうから連絡してみるよ」

『えっ!? そっ、それは、でも……あやね機嫌悪くなってるかもだし、やめといたほうが……』

 慌てる芳乃。俺があやねと話せば、本当は一緒にいないことがバレるリスクが高まるもんな。

「……と思ったが、よく考えたら俺、あやねの連絡先知らないな。話はまた今度にしとくか」

『うん、それがいいよ? 変にこじれちゃってもアレだし、できればわたしが一緒にいるときのほうがいいと思う……うん、絶対そのほうがいいよ?』

 いつでもフォローできるように、ということだろう。

「わかった、じゃあそうするな。……最後に、今日の夕飯の希望はあるか?」

『……豆腐ハンバーグ』

「了解」

 俺は通話を切った。


 俺から身体を離したあやねに、言ってみた。

「おまえって、実は双子だったんだな」

「双子どころか一人っ子ですので、よく似た姉や妹もいません」

「そうか……」

 冗談のつもりが、妙に深刻さのにじんだ返事になってしまう。俺もあやねのことをとやかく言えない。

 少なからず、芳乃の嘘にショックを受けている……。


「ひとつ、気になったことがあります」


 あやねが言った。

「芳乃ちゃんはお兄さんのことを、“コウくん”ではなく“お兄ちゃん”と呼んでいました」

「あぁ、たしかに俺もそれは気になった。コウくんって言いかけて、なぜか言い直してたな」

「二人きりのときだけ“お兄ちゃん”呼びだったりしますか?」

「いや、ここ最近はずっとコウくんだった」

「でしたら、おそらく……」

 あやねは俺の目をまっすぐに見た。



「……その誰かっていうのは、か?」

「その可能性が高いでしょうね。電話口で“コウくん”と呼んでいるのを聞かれるのが躊躇ためらわれる相手、ということですから」

「コウくんは不都合だが、お兄ちゃんならセーフな相手……万が一にも電話の相手が彼氏だと勘違いされたら困る相手?」

 芳乃が部屋に茶髪のチャラ男・田宮俊朔を連れこんだ日のことを思い出す。

 あのときも芳乃は、俺が兄以外の男に間違われるのをひどく嫌がっていた。いや、振られるのを恐れていたんだったか。

「ええ、芳乃ちゃんがその方とお付きあいしているのか、まだそこまではいっていないのかはわかりませんが、少なくとも、その方に好意があるからこその対応なのではないかと思います」


「だったら、なおさらわからない。なんで隠す必要がある?」


「……ええ、そこなんですよね」

「俺は芳乃に、常日頃から早く彼氏を作れと言ってる。だから俺が反対するから隠してる、という線は考えられない」

「彼氏がいない私に気を使って……とかでしょうか?」

 彼氏いないんだな、と思ったが、今は触れないでおく。

「あいつがそんな気を使うとは思えないが」

「ええそうでした……田宮さんとお付きあいし始めたときも、芳乃ちゃん真っ先に私に自慢してきたんでした……」

「あいつはそういうやつだよ」

 ほかに考えられる理由は……


「――その男、よっぽどヤバいやつなんじゃないか?」


「ヤバい、というと?」

「兄や友達に言ったら、絶対に反対されるような危険人物」

「……たしかに、芳乃ちゃんの男性を見る目に関しては、あまり信用できないです。古井出くんは別ですが」

 湊は別って、それ絶対田宮俊朔のこと指して言ってるだろ。

 だがたしかに、芳乃の見る目は俺も基本信用していない。

 この線は普通にありえそうだ。


「もしくは、“ヤバい”のベクトルが違う、ということは考えられませんか?」

「たとえば?」

「相手がヨボヨボのおじいちゃんだとか……」

「それはヤバいな」

 歳の差恋愛を否定するわけではないが、さすがに老人を紹介されてすんなり応援に回れる自信はない。

「あるいは、そもそも相手が男じゃないから言い出しづらい、って線はないか?」

「芳乃ちゃんにそのがあるなら、いちばん近くにいる私を選ぶと思うんです」

「なんなんだよその自信」

 ダメだ。真面目に考えていたつもりが、だんだん大喜利じみてきた。

 これ以上考えたところで進展は望めないだろう。


「……今日の夕飯のときにでも、もう少し情報を引き出してみるか」

 もしも本当に相手が危険人物だった場合、やはり直接問い詰めるような真似は得策ではない。それは最終手段だ。

 無論、芳乃に危害を加えるタイプの危険人物であれば早々に手を打つ必要があるのだが、芳乃の態度からそれは考えにくい。


「でしたら、お兄さん」

 あやねはおもむろにスマホを取り出した。

「連絡先を交換しておきましょう。なにか進展があったら私にも教えてください」

「わかった」

 出会ってからひと月ほど。俺は妹の友達と連絡先を交換した。



 別れ際、俺はあやねに声をかけた。

「できれば、あいつのこと……芳乃のことを嫌いにならないでやってくれ。嘘をついていたのには、きっとなにか訳があるんだと思う。やむにやまれぬ事情ってやつが」

「言いたいことはそれだけですか?」

「あぁ」

「わかりました。では、私からも一言いいですか?」

「なんだ?」

「どんな理由で嘘をついていたとしても、芳乃ちゃんのこと、怒らないであげてください」

「……あぁ」

「私の大切な親友のこと、よろしくお願いしますね、お兄さん?」

 そう言って、あやねは微笑んだ。


「ふふ、それでは」


 いい友達を持ったな、芳乃――なんて、親みたいな感想が頭に浮かんだ。

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