妹の友達に耳元で
昼休みになった。
多少億劫ではあったが、行くと言ってしまった以上は行くしかない。
行かなかったらどうせ来ちゃうだろうし。
俺は弁当箱片手に、一年の教室が並ぶ四階の廊下へとやってきた。
芳乃のクラスである二組の前に、女子生徒が二人立っているのが見える。
俺の接近に気づいたのか、女子生徒のうちの一人がぱたぱたと駆け寄ってきた。
もちろん、芳乃だ。
そのまま俺に抱きついてくる――かに思われたが、芳乃は俺の目の前で急停止すると、ぷいっ、と顔をそむけた。
一瞬前まで俺を見つけてうれしそうな笑みを浮かべていたくせに、いきなり頬を膨らませ、これみよがしに不機嫌さをアピールしてくる。
「なんだ、どうした?」
「
「ぷいっ、じゃわからないんだが?」
「
「…………」
「……
「またな」
「やだぁ! 行かないでっ!」
腕どころか全身にしがみついてくる芳乃を引き剥がし、俺は再度訊いた。
「で、なんで怒ってるんだ?」
「……待ってたのに」
「ん? あぁ……」
そういえば前の休み時間、湊との話が長引いて、芳乃にはほとんど構ってやれなかったんだっけか。
「悪かったよ」
「むぅ」
ぽんぽんと頭を撫でてやるが、どうもそれだけでは納得してもらえないらしい。
「次からはもう放置しないから、許してくれ」
「ほんと?」
「あぁ」
なでなで。
「……明日からは?」
不安と期待が入り交じった目で問いかけてくる。
「毎日来るから心配するな」
「ぜったい?」
「あぁ、約束する」
なでなで。
「弁当、一緒に食べるだろ?」
俺は手にぶら下げた弁当を掲げてみせる。
「……うん、食べる」
「だったら早く機嫌直せ、な?」
「……うん、直す」
「…………」
そう言ったきり、その場を動こうとしない芳乃。
なにかを訴えるように、じっと俺を見つめてくる。
「…………」
なでなで。
「…………」
なでなでなでなで、くしゃくしゃ、ぽんぽん。
「機嫌直りました」
「そうか、それはよかった」
満足してくれたみたいだ。
「芳乃ちゃんは本当にお兄さんが好きなんですね?」
……実のところ、さっきからちらちらと視界に入っていて、気になってはいた。
教室の前で佇んでいたもう一人の女子生徒が、芳乃のそばまでやってきて声をかけた。
ショートボブの、どことなく落ち着いた雰囲気のある子だ。
「えっ!? そ、そんなことないよ? 普通だよ?」
「とてもそうは見えませんよ? 心なしか、古井出くんや田宮さんが相手のときよりも、甘えっぷりがエスカレートしているような?」
「わたし甘えてなんかないもん……」
「そうなんですか? でもお兄さんとお話しているときの芳乃ちゃん、ちっちゃな子どもみたいでしたよ?」
「ふ、ふーん? あやねにはそう見えたんだ?」
「誰の目にもそう映っていると思いますよ?」
そんな親密さを感じさせる応酬を見て思い出したが、この子、前の休み時間に芳乃が声をかけていた子だ。
普段から仲が良いんだろうなと、
女は自分と近い顔面偏差値の人間とつるみたがる、なんていう説があるが、目の前の二人を見ていると、それも妙に納得してしまう。
このレベルの美少女は、学年単位でもそう何人もいないだろう。
「ていうかわたしっ、むしろコウくんに怒ってるくらいだったよね? じゃない?」
「だから、甘えてはいない、と?」
「そ、そうだけど?」
……芳乃は、なにをそんなに頑なになってるんだよ。
顔を赤くしているところを見ると、別に甘えている自覚がないとかではなく、単に友達に「お兄ちゃんに甘えている場面」を見られ、指摘されたのが恥ずかしいのだと思う。
だったら公衆の面前で堂々とベタベタしてくるのをやめろよ、と強く言いたい。
他人の目に対する警戒心が低すぎる。
「でしたら、訊いてみましょうか?」
芳乃の友達が、俺に向き直った。
口元にはうっすらと、妖艶な笑みが浮かんでいる。
品の良さを感じさせる佇まいは洗練されていて、年上の女性と対面しているような気分になってくる。
歳が上に見える、という意味ではない。
歳相応のあどけなさははっきりと見て取れるのに、醸し出す空気感によって実際よりも大人びて見えるのだ。
「申し遅れました。私は芳乃ちゃんと同じクラスの
言って、丁寧に頭を下げる、静志麻さん。
「……もう知ってると思うが、芳乃の兄の相沢
「ふふ、はい。こちらこそ、仲良くしていただけるとうれしいです。これからよろしくお願いしますね、お兄さん?」
にこりと笑んだその顔は、やはりどこか妖しげな色を孕んでいるように見えた。
「それで、お兄さん? お兄さんはどう思われます?」
「どうって……芳乃が甘えてるかどうかって話か?」
正直、そんなの別にどっちだっていいんだが……。
「むしろコウくんがわたしに甘えてる? みたいなとこあると思うしっ……」
芳乃にとってはそうではないらしい。
「ええ。この際ですので、はっきり言ってあげたほうが芳乃ちゃんのためでもあると思うんです……ふふふ」
静志麻さんのほうは面白がってるだけのように見えるが。
「そうだな……俺にも、芳乃は甘えてるように見えるよ。静志麻さんの言うとおりだと思う」
「ですよね、ですよねっ? ほら聞きました芳乃ちゃん、やっぱりお兄さんの目にも甘えているように映っているそうですよ?」
「ううう……」
静志麻さんはとてもうれしそうだ。こいつら本当に友達か?
まぁ、他人をいじめるのが好きなタイプなんだろうな。
一方の芳乃はこれ以上言い返す言葉が見つからないのか、静志麻さんから視線を外し、代わりにすがるような目を俺に向けた。
まさしくそういうのが甘えてるってことなんだが……まぁいい。
俺は静志麻さんに向かって、訊いた。
「――で、それがなにか問題でもあるのか?」
すぅーっ……と。
静志麻さんの表情から、目に見えて笑みが引いた。
「……と、おっしゃいますと?」
ひどく平坦な声色だった。
「いや、そのままの意味なんだけどな? 芳乃は甘えてると思うが、それは別に悪いことじゃないし、誰かにとやかく言われるようなことでもない。なんたって、甘えられてる張本人が別に気にしてないわけだからな」
「……ええ、そのようですね」
「……別に静志麻さんのことを責めてるわけじゃないからな? 冗談で芳乃をからかってるのはもちろんわかってるし……それに、一旦甘えだすと周りが見えなくなる芳乃もどうかと思うし……」
なんでか俺が説教しているみたいな構図になってしまったので、雑なフォローを入れておく。
なぜ俺は初対面の下級生とこんな話をしているのだろうか……。
「いえ、いいんです。私が間違っていました」
静志麻さんはそう言うと、芳乃に向き直った。
「芳乃ちゃん、ごめんなさい。私、少し言いすぎてしまったみたいです」
「え……ううん、別にいいよ。あやねがドSなのはいつものことだし……」
「そうですか? ふふ、ありがとうございます」
「そんなことよりっ! 早くごはんにしよ! 時間なくなっちゃうっ」
「では、芳乃ちゃんは先に机のセッティングをお願いできますか? お兄さんのぶんも確保する必要がありますし」
「いいけど、あやねは? トイレ?」
「あと少しだけ、お兄さんをお借りしてもいいですか? どうしても言っておきたいことがありまして……」
「ふぅん、コウくんに? ――ねぇコウくん、あやねってばこんなわがまま言っちゃってるけど、いいの?」
「別に構わない……というか、どこもわがままではないだろ」
「だって。コウくんが優しくて命拾いしたね、あやね? あやねのわがままな願いを聞き入れてくれるみたいだよ?」
もしかして、仕返しのつもりなのだろうか。静志麻さんは意に介したふうもなく、「ええ、よかったです」なんて流しているが。
というかこいつら、本当に仲良いのか?
芳乃は最後に俺を見て「待ってるからね」と甘ったるい声で言い残し、教室へと消えていった。
「……言っておきたいこと、っていうのは?」
俺の問いかけに、
「たいしたことではありません。ただ、」
静志麻さんはかすかに――唇の端を釣りあげた。
「お兄さんって、シスコンなんですね?」
わずかに首を傾けながら、じっと俺の目を覗きこんでくる。
「そう見えるか?」
「違うんですか?」
「あぁ、違うな。あいつがブラコンだっていうならわかるが」
あの状態をブラコンと呼んでいいのかは、微妙なところではあるが。
「そうなんですか? でも……」
顎に手を当て、考える素振りを見せる。その指先は細くしなやかで、雪のように白く美しく、思わず目を奪われそうになってしまう。
「芳乃ちゃんに甘えられているときのお兄さん、満更でもなさそうな顔をしていましたよ?」
そう言う静志麻さんの表情は、満更でもないどころかたいへんに満足げだ。
こんなことが“どうしても言っておきたいこと”なのだろうか……。
こう言っちゃなんだが、わりと変な子だな。
「そんなつもりはなかったが」
「自覚がなかったんですね?」
「いや、そうじゃなくて……」
「少なくとも、嫌がっているようには見えませんでしたよ?」
まぁ、それはそうだろう。俺は芳乃に付きあうと決めたのだから。
ただ、そんな事情を妹の友達にまでいちいち説明するのも、なんかなぁ?
「それどころか……喜んでいたような? いえ、明らかに喜んでいました。妹に懐かれるなんて俺幸せ、という顔でした、あれは。間違いありません」
俺が黙っているのをいいことに、静志麻さんは勝手に話を進めていく。
やはりどこか楽しげだ。いや、明らかに
「なぁんだ、お兄さん、やっぱりシスコンじゃないですか?」
……友達の兄をいじめられるなんて私幸せ、という顔だ、これは。間違いない。
俺に答える間も与えず、静志麻さんはいきなり距離を詰めてきて、俺の耳元に顔を寄せる。
そして、
「そういうのって……ちょっぴり、引いてしまいます」
瞬間、ぞわりと……背筋に悪寒が広がった。
生温かい吐息とともに囁かれた言葉は、抑揚に乏しい、ひどく冷たいものだった。
「さて、そろそろごはんにしましょうか、お兄さん? 芳乃ちゃんがお腹をすかせて待っています」
俺から離れた静志麻さんは、何事もなかったように微笑んだ。
“どうしても言っておきたいこと”は、きっと今のでぜんぶ言い終わったのだろう。
「…………」
なんとも言えない微妙な気持ちを抱えながら、教室に入っていく静志麻さんに、俺も続いた。
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