【恐怖】
どこにも逃げられない。どんどんグツグツいう音がおおきくなってきた。
たぶんもうそこまで来ている。部屋に入ってきたらイヤでも戦うしかない。
障子戸は開けっ放しになっている。今から閉めたってしょうがない。袋の鼠とはまさに今の僕だ。
必然的に僕は押入れの襖を開けると、中に入ってすばやく閉めた。
何をやってるんだ僕は。こんなとこに入ってどうしようっていうんだ。もはや冷静な判断もできなくなっている。ほとんど衝動的な行為だった。
グツグツいう音が部屋の前までやって来たような気がする。
通りすぎるのか。このまま通りすぎてくれ。
しかし音は心なしかさらにおおきく間近に迫ってきた。
部屋の中に入ってきたんだ!
クソ、やっぱりさっき廊下を覗いた時に僕の姿を見られたのに違いない。
どうする? こんな狭いところに身を潜めてたんじゃ戦えない。
狭くて暗い押入れの中で、僕は自分の体から一生ぶんのアドレナリンが放出されていくのがわかった。
ふと僕の手に箒の柄が触れた。緊張のあまり僕はそいつをしっかり握りしめていた。
押入れはからっぽだと思っていたら、どうやらこれだけぽつんと置かれてあったようだ。
でもこんなものを武器にでもするつもりか。お笑いぐさだ。ここまで来たら敵が襖を開ける前にこっちから飛び出して相手の隙をつくしかない。この箒で化け物の急所を突けば多少効果はあるかもしれない。あとはタイミングだ。いつか。今か。もはや確実に怪物はこの部屋の中に入ってきている。部屋の中をグツグツと移動している。僕は箒を持ち上げると、そいつを構えた。
その時僕は、押入れの中がほの明るいことにはじめて気がついた。まわりをよく見ると、側面の壁が漆喰ではなく、板張りになっていた。
薄明かりが板の隙間から漏れていたのだ。
(もしや……)
僕はそっと板と板とのあいだに指を突っ込むようにすると、音をたてないように慎重にそいつを外そうとした。
やっぱりだ。こいつははめ板だ。パカリと一枚の板が外れ、その向こう側が見えた。
下へ降りる階段がある。隠し通路にちがいない。僕はあわてて一枚一枚はめ板を外した。もう静かにそれをやってる心のゆとりはない。
ギリギリ胴体が抜けられる状態になったので、僕は両足から先に隠し通路に体を突っ込んだ。
箒が引っかかった。バカだな僕は。何を後生大事にこんなものをいつまでも持ってるんだ。でも万が一ということもある。僕は箒を手放すことなく隠し通路に出た。
いかにも地下に降りていきますよ的な雰囲気の狭い階段だった。僕は転がり落ちるように下に降りていった。
これで安心か。これでひと安心なのか。最大の危機を乗り越えたのか。助かったのか。
どうやらそうでもなさそうだった。
階段を降りた突き当たりは鎧戸になっていた。
そいつが押しても引いてもビクともしないのだ。
「クソッ! 開かないじゃないか」
振り返り、見上げると、階段の上からすでに何かが迫ってきていた。
触手の怪物だった。
「グルルル……」
あの声だ! もう完全に間違いない。
怪物は触手で器用に襖を開けると身をかがめて押入れの中に侵入し、残りのはめ板をぶち破るとこっちに向かって降りてきたのだ。
ここにきて、僕ははっきりと怪物と対峙することとなってしまった。
それは遠目に見た時よりもさらにおぞましい生き物に僕の目に映った。
形容しがたいドロドロに溶けかかったような半透明の体。しかも足がない。
顔面に当たる部分はやけにつぶらな黒い複眼が大小合わせて八つほど、その下に節のある長い長い触覚、さらにその下には口とおぼしき穴があって、中から薄い歯のようなものが規則正しく並んでいる。いや、これは歯なのか、むしろ鱗に近い。
そのぐるりに繊毛というか絨毛というか、細かな毛のようなものが取り巻いていて、そいつが規則正しく波打っているのを見るに及んで、僕の気持ち悪さは最高潮に達し、思わず胃の中のものが逆流しそうになった。
怪物の口のような穴からシャーッという音が洩れ、唾液なのかなんなのか、粘りけのありそうな液体が悪臭とともにダマになって飛び出した。それと同時に歯のような鱗のようなものが一斉にニュッとこっちに向かって長く伸び突き出された。どう考えてもそれは好意的な意思表示には見えない。
威嚇だ。それとも捕食の準備か。
こんなものに捕まったら本当におわりだ。
もはや完全に逃げ場がなくなった。
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