【紗織】
(あいつ、大丈夫なのかな……)
とりあえず僕は部屋に戻ることにした。次の電車を待つか、何にしても対策を練らないといけない。
時刻表を見ると、あと最低一時間は待たないといけなかった。
この昔の貧乏学生の下宿みたいな殺風景な部屋で、あと六十分、じーっと待っているのがいいか、それとも線路に沿って歩き出したほうがいいか決めなくてはいけない。
気ばかり焦り、一時間もこんなところでじっとしているのは辛い。だからといって、また廊下を徒歩で歩き出すと現在地や目的地などすぐに見失ってしまう。何せ十字路、三叉路、五叉路の迷路なのだから。
するとやっぱりおとなしくここで次の電車を待つしかないか……。
卓袱台の前に座り込むと僕は考えた。迷路だけにヘタに動かないほうがいいのかもしれない。
それに、めぐみだってバカじゃない。鉄道の路線図なんて、きっとどの駅にもあるだろう。途中下車すれば同じものが簡単に入手できるはずだ。あいつだってあいつなりに何とかするに違いない。
よし、しかたない。ここはひとつ、体力をちょっとでも温存するつもりで電車を待とう。やむをえず僕は腹を決める。
畳に尻をつけたまま、改めて僕は部屋の中を見回す。
わけのわからない部屋の中で、こうやって腰を落ち着けているのも何かヘンな具合だ。ともあれこれから僕はどうすべきかもっと真剣に考えなきゃいけない。
一番重要なのは「まだ何も起こっていない」っていうところだろう。
単にこの家はあやしい、紗織さんの身に何かがあったに違いない、とこっちが勝手に思っているだけで、じっさいには無断で屋敷の中に侵入してきてる僕たちのほうが今のところよっぽどあやしい。このままコソ泥みたいな真似を続けていいもんだろうか。今のところ「犯人」は間違いなくこっち側なのだから。
しかし、それにしてもどうして僕たちはまだ捕まらないんだ。この屋敷に住んでいるのは膝栗毛卓也氏と紗織さん、それに何人か何十人か、ひょっとしたら何百人かの使用人だろう。使用人の誰ひとり僕たちのことに気づいてないんだろうか。セキュリティ忍者は今もいるんだろうか。この屋敷、セキュリティの甘さを補うために迷路みたいな構造にしてるんだろうか。わからない。でもそうとでも考えないと納得がいかない。
はっきりわかったことは、この屋敷の主である膝栗毛卓也氏が噂通りの変わり者だっていうことを実感としてはっきり認識できたことだ。変わり者どころか相当な変人だ。
屋敷の中に鉄道を敷いているのも、単に移動が便利だからというだけじゃなく、きっとこの屋敷を自分だけの街、それとも王国にしたかったに違いない。卓也氏は自分だけの王国を作って、その中に閉じこもって暮らしたかったんだ。
父親がそんなだから娘の沙織さんもいつも寂しげでミステリアスなんだということが今ならよくわかる。
不意に僕は、その紗織さんとたった一度だけ言葉を交わした時のことを思い出した。
それはある日の放課後のことだった。
一日の授業が終わって教室を出ると、紗織さんと、彼女を崇拝するいつもの取り巻き連中の女子たちが廊下の前を歩いていて、僕は自然とそのうしろを歩く感じになっていたのだった。
下校するわけだから校門を出るまで当然歩くルートは同じになる。それがどうも女子どもには許せなかったみたいだった。ちょうど門の前あたりに差しかかったところで、取り巻きの代表であるめぐみのやつが急にこっちを振り向くと僕をすごい形相でにらみつけてきたのだ。
「ニコゴリ、あんたさっきから何あとをつけてきてんのよ」
「え? 誰がつけてんだよ」
あまりのいいがかりに一瞬驚いた僕だったが、次にムラムラ怒りがわいてきて、ついこっちもケンカ口調になった。
「つけてきてんじゃないのよ」
めぐみは口をとがらせて僕のほうに一歩ずいっと前に踏み出してきた。
ほかの女子連中もそのうしろから非難の目をいっせいに僕に突き刺している。
「おいおいおいおい待ってよ。道を歩いてるだけでストーカー扱いするって」
「目がイヤらしいんだよ、あんたのその目」
そうめぐみがいうと、ほかの女子どももうんうんと顔を見合わせうなずきあっているではないか。ああ冤罪もはなはだしい。ふつうに歩いているだけで犯罪者扱いはひどすぎる。
「おまえなあ、僕がほんとにそんなやつに見えるのか。ちいさなころから僕のことはよく知ってるはずだろ」
僕はめぐみにそういうと、
「幼なじみだからって、特別な関係みたいにいわないでよね。迷惑だし」
「今迷惑してんのはこっちだよっバカ」
「バカはそっちでしょ、このストーカーバカッ」
「バカはともかく僕はストーカーじゃないっ」
すると、それまでひとり、輪の中心でずっと黙っていた紗織さんがひとこと、ポツリこういったのだった。
「……もういいのです」
その声にハッとなっためぐみが、思わず紗織さんを振り返った。
「……私は、ニコゴリさんは別にあとをつけていたんじゃないと思います」
「紗織さん……」
「ニコゴリさんは悪くありません。みなさん、私のことを気づかってくれてありがとう。さあ、行きましょう」
女子連中は急にみなおとなしくなった。めぐみもまるで彼女の言葉に魔法の呪文が含まれているかのように従順になり、スゴスゴと輪に戻っていった。
「……ニコゴリさん、ごめんなさい」紗織さんが僕にあやってきた。
「あ、いや、別に、いいよ」
僕はこの時はじめて彼女とまともに視線が合ったのだった。
その目はまだ誰も見たことのない秘境の湖のような色をたたえていた。紗織さんは表情に乏しく、感情表現が苦手のように見えるぶんだけ孤高の気品がいっそう際だっていた。そんな彼女に見つめられて、僕はすっかりドギマギしてしまったのだ。
「でも、あなたと鶯谷さん、いつも仲がよくていいですね。私、うらやましい……」
「えっ……」
紗織さんはそういうと寂しそうに微笑んだので、僕はさらに面食らった。笑った顔を見たのもはじめてなら、めぐみとの関係をそんなふうにいわれたのもはじめてだったからだ。
一同が背を向けて去っていったあとしばらくのあいだ、僕は呆然として動けなかった。
正直にいうと、僕もまた紗織さんに魔法をかけられたような状態になったのだった。
これ以降僕は、妙に彼女のことを意識するようになってしまったのは事実だった。
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