エルサリカ魔術戦記 盤上のレドラス

滝神淡

プロローグ

 落ち葉や草を踏み締める音が撒き散らされる。

 深夜の木々の間、鍛え抜かれた体躯の者が走る。

 顔全体を闇に紛れる紺のフードが覆い、眼光のみが確認できた。

 その目は羽虫も見逃さぬとばかりに鋭く細められ、しきりに周囲を窺っている。

 フードの裾は肩まで伸び、疾駆に合わせて揺らめいていた。

 その下も同系色で纏められている。


 フードの奥より漏れ出る息は荒々しい。

 焦りか、既に長い時間走行してきたか、或いはそのどちらもか。

 確実なのは、眼光の鋭さと息の荒々しさから尋常ならざる殺気が立ち込めているということだ。

 しかもその殺気はスポーツ等の安全が考慮された中で発されるそれではない。


 明確な殺意。

 およそ普通で平穏な生活を送っていればまず見かけないもの。

 腰には刀の鞘。

 そこに納まっていた刃は既に抜き放たれ、ごつごつとした右手に握られていた。

 なだらかな曲線を描く造形美ある刀身だった。

 その刀身は黒い。

 月明かりがあっても見え辛いだろうが、木々の間では更に視認が困難だ。

 まるで、この時振るわれるのを想定したかのような、刀。

 纏った殺気は、それをぶつける相手には躊躇い無くこの得物を振るい、斬り、或いは突き、命を奪い取る……そこまで残忍に張り詰めたものがあった。


 フードの者は何人もいた。

 それぞれが走ったり、立ち止まって周囲を見回したり、木の上部へ目を向けたりしている。

 捜しているのだ。

 闇に紛れる格好で、闇に紛れる得物を持って。

 殺気をぶつける相手を。

 その刀を振るう相手を。


 木々の中、一人だけ顔を露出している者がいた。

 フードの者を一名従え、悠然と歩を進めている。

 足裏が落ち葉や草を捉える度サクッ……サクッ……と僅かな音を立てる。

 陽光溢れる中ならばそれも自然を愉しむ一要素かもしれないが、夜闇の中では寂寥感を漂わせていた。

 露出した顔は暗がりでもなかなかに端整だと判別が付く。

 中性的な顔つきに柔和な笑みを湛えた口元。

 赤茶色の髪を中くらいの長さに整え、橙の瞳は穏やかだ。

 しかし発された声は穏やかとはいえ、険が込もっていた。

「まだ仕留められないのか?」

 その言葉は単純な質問には聞こえなかった。

 非難、叱責、侮蔑……様々な可能性を連想させる含みを持たせた言葉。

 それが傍らのフードの者に向けられていた。

「……申し訳ございません。まさか見失うとは。事前の情報よりも手練の可能性が」

「早く仕留めろ。対象を提示されたらそいつを仕留める、それが仕事だろう?」

 質問は即座に命令に変わった。

 フードの者は焦り、手近な配下に早く仕留めるよう指示を出した。


 必死に捜索を続ける紺フードの者達。

 その一人が慎重に周囲に目を走らせていると、不意に鈍い音が耳へ侵入してきた。

 耳から脳へと音が届けられるやすぐに指令が全身に行き渡り、臨戦態勢で音の方へ向き直る。

 視界の先には同志であるフードの者が二人、映った。

 その内一人は、飛んでいた。


 否、


 頑丈そうな木の幹に激突し、再び鈍い音が広がる。

 そして飛ばされていた一人は人形のようにずるずると木の根元へ崩れ落ちた。

 ただならぬ緊張が迸る。

 最初の鈍い音一回と激突音一回で、崩れ落ちた者がなった。

 ただの一撃でその現象を引き起こしたのだ。

 現象は見れば分かるが、だからこそそのあっけなさに何が起こったと疑問を投げ掛けたくなる衝動に駆られた。

 だがそんな思考をしている暇は無い。

 それだけの手練であれば隙など作ってはいられない。

 一瞬の隙が命取りになる。

 視界には崩れ落ちた者を含め二人のフードの者が映っていたが、視線を滑らせ対象を捜した。

 飛ばされた者の飛ばされた軌跡を元に辿れば対象がいる筈である。

 滑る視界の映像の中、一瞬、高速で動く影が視界をよぎった。

 見付けた……緊張が最高潮に達する。

 またも鈍い音。

 動く影を追尾し、捕捉できた時には同志がもう一人、飛ばされていた。

 仲間を簡単に二名も失ったという困惑、怖れが茫洋と広がり始める。

 仲間を倒されたことに対する怒りも、こうした裏の仕事に身を置く者とて僅かながら、あった。

 視界には捕捉した、もう奇襲は効かない。

 先程の同志達のようにはゆかぬ……!

 フードの者は刀を両手で持ち直し、切先を対象に向けた。

 構える手は自身の右脇腹辺りに据え、走る。

 他の同志達も気付き、次々向かってきている。

 足音、落ち葉を踏み締める音、息を吐く音。

 対象がすぐに視界を占有。

 集中力を極限まで高め、対象以外を意識から除外。

 声には出さないが裂帛の気合で対象の喉笛へ刃を繰り出して。

 時が止まった気がした。

 対象の口の端が獰猛に歪んでいる。

 それがあまりにも鮮烈に脳に焼き付いた。

 それだけが残り、次の瞬間には視界が暗転していた。


 一息で三人。

 奇襲があったとはいえ異常だ。

 赤茶髪の傍らに立つフードの者は驚愕を隠せなかった。

 事前の情報では剣術に特記事項は無かった。

 しかし、これは明らかに剣術の達人。

 また一人やられた。

 また一人……

 おかしい。

 失敗する?

 作戦が?

 十名投入して、一人を相手に?

 馬鹿な……!

 凍てついた空気がじわりと支配していくようだ。

 冷たいものがうぞうぞと背中を這い上がってくる。

 赤茶髪が苛ついた口調で喋りかけてきた。

「おい、まだ仕留められないのか?」

「いや、それは……」

 フードの者は既に、本能的に答えを察知していた。

 戦闘が行われている方へ視線を戻す。

 そちらでは重い音と共に、向かっていた同志が全て地に伏していた。

 とても勝てる相手とは思えない。

 ならば、もう退却すべき……


 サクッ……サクッ……


 足音が不気味に近付いてくる。

 体中に鳥肌が立つような気配。


 サクッ……サクッ……


 脳内で『危険、危険!』と警鐘を鳴らし始める。

 呼吸が浅く速くなっていく。

 対象の声が初めて発された。


「なぁ……ここは」サクッ……サクッ……「散歩に良い場所だと思わないか?」


 落ち着いた声。

 普通の声。

 だが、そんな声だからこそフードの者は余計危険を感じた。

 今この場で斬り合いをしたというのに、落ち着いた、普通の声。

 むしろ異常というほか無い。

 しかも、問い掛けてきた内容もおかしい。

 そんな言葉は陽の当たる場所で、日中で交わされるべき言葉ではないか。


 木々がざわめき出した。


 いや、違う。

 元々ざわめきはあったのだ。

 それを意識していなかっただけだ。

 だが目の前の対象がそれを引き起こしたと思えるほど、不気味で得体の知れない、それでいて底の知れない何かがひしひしと伝わってきていた。

 無意識に唾を飲み込み、大きな音を立ててしまう。

 何とか刀を構えるものの、きちんと刃の位置を固定することができない。

 対象の姿が木々の隙間から零れる微かな明かりに晒された。

 フードの者はその顔を見て、あることに気付いた。

 

 自分の傍らに立つ、この男に。

 フードの者は傍らの者に視線を移した。

 赤茶色の髪に橙の瞳だ。

 こちらは中性的で穏やか、そしてなにより端整な顔立ちである。

 一方、対象の顔はそうした特徴は無いもののこちらもだった。

 中性的な方が口を開いた。

「ハロルド……会いたかったぞ! やれっ!」

 命令が下された。

 フードの者はそれに従う。

 だが勝てる気がしない。

 それでも立場上引く訳にはいかない。

 板挟みの心境だった。

 彼我の距離は五歩程度で間合いに入る。

 全身に指令を出し筋肉を活性化。

 ぎちりと足の筋肉が唸りを上げ前へ踏み出す。

 何としてでも一太刀を……

「え?」

 思わず声が漏れた。

 彼我の距離が五歩程度なら互いに二歩以上は踏み込まなければならない。

 だが。

 一歩を踏み出した時点で対象が爆発的な踏み込みを見せ、既に間合いに入り込まれていた。

 踏み込む際の蹴りは豹のような猛烈な勢いで、踏み込んだ足は地面に鉄球の如く打ち下ろされる。

 地面が悲鳴を上げているのではと思う程ずしんと重く軋んだ音が聞こえた。

 次の刹那、対象の刀が閃いた。

 軌道は胴打ち。

 刀の重さを毛程も感じさせず稲妻の速さを以って刃の煌きが踊る。

 しかし、フードの者は逆胴(左脇腹)に衝撃を感じた。

 気付いた時には吹き飛ばされて宙を舞っていた。

 抉るような痛みを感じながら、悟る。


 速過ぎる……!


 胴打ちの軌道から転換、逆袈裟の軌道へ。

 そして逆袈裟の軌道から更に軌道を変形させて正反対の逆胴へ叩き込んだ……目にも留まらぬ神速で。

 剣閃は真に踊っていた。

 死の舞踊を。

 どかりと樹木に背中から叩きつけられる。

 全身から力が抜けていく。

 だがずるずると木の根元へ落ちながら、意識だけは最後まで手放さなかった。

 自分を倒した者の残心の様を見届けたかった。

 残心とは端的に斬撃後の姿、所作。

 そこに気を抜かぬ緊張や驕り高ぶらぬ謙虚、そして仕合う相手への感謝などが込められている。

 対象の残心の様は、美しかった。

 思わず感嘆を漏らしてしまう程美しかった。

 衝撃に打たれる芸術だった。

 自然と胸が高鳴り、必死にこの神がかりの芸術を記憶に焼き付けようと瞬きすら忘れてしまう程に。

 そして見れば見るほど魅了されてゆく。

 惹き付けられてゆく。

 振り終わったままの姿勢で佇むその雄姿は、荒々しくも優美な彫刻。

 刀の先まで神経が行き届いている様は完全なる一体感。

 刃の一部が月明かりに濡れ、魅了する波紋を露わにしていた。

 周囲の木々も、隙間から覗く空も、暗がりも、全てがこの一瞬を絵画として収めるための協力者に見えた。

 剣の道。

 道を追求し、手を伸ばし、そこで何かを見付けた者だけが持っているような、一線を超えた何か。

 そういうものがあると、感じられた。

 不思議と、倒されたにも関わらず爽やかな高揚感が頭を満たしていった。

 これだけの強さを持った者に敗れたのであれば致し方なし。

 刀が舞ったのだ。

 神速で舞ったのだ。

 それを間近で見ることができたのはむしろ光栄。


 対象は残心の様からゆるりと自然体の構えへと戻っていく。

 そして、刀を片手で持ち、対象は同じ髪色と眼の色を持つ中性的な方へと切先を向け、静かに言った。

「観光にしちゃあ物騒じゃないか、ファルナム?」

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