53話 ソレイユ編⑥ 神の降臨
「よう来たな、ゾーンバイエ。狼人族の長老より既に聞き及んでおるとは思うが、お主にここまで来てもろうたのは――」
「その件ですが、ババ様。俺は――」
「待て、ゾーンバイエ。お主の意見はあとで聞く。その前に先ず年長者の話を聞くのが礼儀であろう」
「…………」
「此度の件は命に関わる問題じゃ。そこを無理強いするつもりなど、こちらにも毛頭ない。されどそれを決めるのは、このババの話を聞いてからでも遅くないのではないか? もしかすると、お主の考えも変わるやもしれんのだからな」
「……分かりました。俺なりに結論を出してはいたが、話を聞きましょう」
「若いのに鋭い良い目をしておるのう、イッヒッヒッヒ……」
真っ直ぐ見つめてくるゾーンバイエの目に、私は強い意志を感じていた。
さすがは一族の長を務める者だ。今日を迎えるにあたり、自分なりに熟考してからここへ来たのだろう。
しかも、答えは『
さきほど切り出そうとした言葉や、態度からもそれが窺える。
だけど、私はこの男の考えを変えねばならない。
それが失敗に終わっても、別の手段を講じればいいという甘い意気込みでは、この男の意志は覆せないだろう。だから私は背水の陣で説得に臨む。
『これが失敗したら、もう2度とハロルドには会わない』
そこまでの想いを代償に……
この男の失敗には死がつきまとう。それと比べればたわいもない、取るに足らない決意なのかもしれない。
でも、私にとってハロルドとの決別は死にも等しい。
本来の体を失っている私が賭けられる対価としては、順当なものだと私は思う。ここまでの十数年間、私はそのために立ち止まらず歩み続けてきたのだから……
もちろん勝算はあった。警備兵がリビードに殺されたことで、狼人族はことさら立場を強く意識せざるを得なかったからだ。
ババア様の持つ知識をフルに使い、それが意味するところをゾーンバイエに突きつけてやれば、この男の心は変わる。絶対に変えることができる。
そう信じて、私は言葉を紡ぎ始めた。
「では、少し私の長話につき合うてもうらうとするかいのう。話というても、一方的に私がお主に話して聞かせるわけではない。お主の意見も交えながら、お主の考えに誤りがないかを判断してもらおうと思っておる。そこで先ず聞きたい。お主は今この世界に於ける、獣人たちの立場をどのように考えておる?」
私の問いの意図を探るように、少し間を置いてからゾーンバイエが返答を口にした。
「……その件に関して、ババ様がどういう了見を持っているかは分かっている。人の社会を見渡せば、我ら獣人の立場の弱さは明白だからだ。だが、それは生まれ落ちた時既に宿命づけられていたものだし、我らの体質の問題もある。魔物と同じように駆逐されることのない分、エルフの仲立ちがあるこの国は、恵まれていると俺は思っている」
「…………」
「それに、今は棲み分けもはっきりしている。森に追いやられていると嘆く者もいるが、俺たちの生活スタイルを考えれば必然といえるし、人間との間には互いの生息域を侵さぬという暗黙の了解もある。森の仲間を
長くエルフと共にいるせいだろう。ゾーンバイエには、獣人よりもエルフ寄りの考えが根付いているようだった。
確かに、エルフというバランサーが機能している限り、環境は大きく変わらない。今以上の暮らしを望まないなら、そこに問題は無いと言い切ることもできるだろう。
でも、それを支えているのは獣人ではない。
そんな当たり前のことに、ゾーンバイエは気づいていない。いや、近しいエルフの存在がそれを忘れさせている。
だけど、この先ずっとそれが続く保証など何処にもない。ゾーンバイエには、エルフと獣人が同じ立場にないことを分からせなくてはならなかった。
私は相手の言葉尻をとらえ、そこから揺さぶりをかけることにした。
「どの種族とて同じこと……か。イッヒッヒッヒ、それは今回起こった警備兵殺害のことを言うておるのかえ?」
私の指摘に、ゾーンバイエが目つきを鋭くした。
それを尻目に私は続けた。
「お主らズレハの森の狼人族が、エルフと懇意にしているのは知っておる。そして、今回の件でエルフが動いてくれておるのもな」
「…………」
「おそらく、エルフの仲介があれば、それほど大事にはならずカタはつくじゃろう。じゃが、今回の件には狐人族も絡んでおる。我らはただでは済まんじゃろうな」
「そんなことはない! 今回の騒動の解決にはカリューが動いてくれている。カリューはエルフを統べる族長アグアの弟で、エルフの中でも一目置かれる知恵者だ。あいつが動いてそのような結果に終わる筈がない。ババ様、その件については心配には及びません」
「オーホッホッホ、絶大なる信頼よのう。確か、アグアとカリュー、そしてお主は幼馴染であったのう。共に幼い頃を過ごし関係性を築いたお主ら狼人族は、エルフに守られ今後も安泰というわけじゃの? カーカッカッカ」
私の返答にゾーンバイエは、いたく憤慨している様子だった。
構わず私は続けた。
「今回の件も、今後についても、エルフと深い関係性を持つお主ら狼人族は、その庇護のもと災いを被ることはなかろう。じゃが、エルフは獣人すべてを守ってくれるわけではない。今回の件がお主ら狼人族と無関係の獣人が起こしたことであれば、果たしてどの程度我らを擁護する動きを見せたことか」
「…………」
「獣人といえど、他種族についてはあまり関心が湧かんかえ?」
「そんなことは――」
「よい、よい。実際そんなもんじゃ。私も長老たちを束ねてはおるが、一番関心が深いのは我が一族、狐人族のことだけじゃ。しかしのう、ゾーンバイエ。人間にとって我らは十羽ひとからげじゃ。獣人の誰かが睨まれれば、狐人族も、そしてお主ら狼人族も無関係では済まされん。対岸の火事と高みの見物はできんぞ?」
「もちろん、それは――」
「じゃが、エルフは別じゃ。我ら獣人とエルフは同一視されん。なぜじゃか分かるか?」
「……それは、エルフがこれまで勇者として幾度も魔王を討伐し、人間との良好な関係性を築き上げてきたからだろう」
「その通りじゃ。エルフは我らのように人から軽視されるどころか、尊敬を受け崇められることさえある。同じ人外でありながら、なぜこれほどの差が出るのか? それはエルフがこれまで築き上げてきた歴史だけでなく、それを可能とするある出来事が関係しておる。それが今回、お主に託そうと考えておる禁断の実に繋がるのじゃ。ほとんどの者が死に絶える強い毒性を持つこの実を、なぜ我らが欲し、また一族の者を犠牲にしながら与えようと考えるのか――」
「それは俺も知っている。エルフの始祖アビスが禁断の実を食べたことで、アビスは神にも匹敵する力を得たと言われている。そして、その血統を受け継ぐからこそ、エルフは今の繁栄を築けたのだと」
私はゾーンバイエの言葉に深く頷いてから、続けた。
「それは我ら獣人にも伝わっておる話じゃ。にもかかわらず、エルフは決してその事実を認めようとはせん。真相を濁しておる。その理由は、万にひとつも我ら獣人から超人が誕生すれば、エルフの優位性が失われるからじゃ。それは奴らにとって面白くない話じゃろう。世界の勢力図も大きく塗り替わることになる」
「待ってくれババ様、エルフはそのような――」
「エルフと懇意にしておるお主が、エルフの肩を持ちたい気持ちは分かる。じゃが、それならばなぜ、エルフはそこを濁す必要がある?」
「……それは、実を食することに死の危険がつきまとうからだろう。エルフが俺たち獣人に与えてくれている環境は、俺たちにとって十分過ぎるものだ。敢えて危険に身をさらしてまで、超人化を目指す必要は獣人にはないと考えていてもおかしくない。たとえ真実、アビスが禁断の実から力を得たのだとしても、むやみにそれを語れば俺たちを煽ることになる。エルフたちの態度は当然だと俺には思える」
「……クックックックック。カーカッカッカッカ!」
突如、笑い出した私に、ゾーンバイエは疑問の声を上げた。
「ババ様。何がおかしい?」
「いやいや、飼いならされておるのう、ゾーンバイエ。まるで犬っころのようではないか?」
私の言葉に、ゾーンバイエが瞬時に顔色を変えた。
「ババ様。いくらババ様でも、言葉が――」
「現状に満足していると話すお主の目に、その思考に、私の言葉に反論できる余地がどこにある? その発言には、エルフに対する恩義も含まれておるのじゃろうが、そもそも力さえあればすべては解決する。それが無いからこそ、お主はエルフにゴマをすり、媚びへつらい、お伺いを立てねばならんのじゃ」
「媚びへつらってなど――」
「では、対等と申すのか? お主ら一族のどこにそのような力がある? まさか互いに助け合っているなどと思ってはおらんじゃろうな?」
「…………」
「エルフは生まれながらに魔法まで使いこなす、力の素養に恵まれた種族じゃ。総じて高い知性もあり、それぞれの個体が概ね美形であることもまた、人間から羨望の眼差しを向けられる要因となっておる。過去、人間と共に幾度も魔王を退けた功績は、今も当然のように語り継がれており、内政に干渉することなく森で暮らすのを信条としながらも、軽々しくあしらうことのできない、確固たる地位をこの国で築き上げておる。それがエルフという種族じゃ」
「…………」
「対するお主ら狼人族とて、優れた種族には違いないが、エルフと比較すれば見劣りは否めん。お主などは、エルフにも十分対抗できる能力を備えているが、それでも、お主と互角以上に渡り合えるエルフが、アグア以外にもこの森には何人かおる。エルフに混じれば、お主レベルの存在など、ごろごろ転がっておるということじゃ」
「…………」
何も言い返せないゾーンバイエを、私は更に言葉で追い込んでゆく。
現状に甘んじてもらっては困るのだ。
私は獣人の力の無さを、ゾーンバイエに痛感させねばならなかった。
「お主らが森で担っている仕事についても、別段エルフの助けになっているわけではない。たとえそれがなくなったところで、エルフにとっては痛くも痒くもないからじゃ。その仕事は、お主らに生き甲斐や目的意識を与えるために、温情で担わされているものじゃ。エルフだけでも十分に賄うことができる」
「…………」
「じゃが、エルフのやっている仕事は別じゃ。そのほとんどをお主や、獣人の誰もが担うことなどできん。人間との関係性も、瘴気を跳ね除ける体質も、過去より受け継がれてきた技術も、密に連携するための魔法も、エルフの仕事を担うのに必要な、ありとあらゆる力が獣人には足りん……足りておらんのじゃ! 果たしてこの関係を、本当に対等と呼べるのかえ?」
「…………」
「それでも、お主と懇意にしておるアグアやカリューなどは、口ではそう言ってくれておるやもしれん。じゃが、対等というのは持ちつ持たれつの関係があってこそ成り立つものじゃ。持たれ続けておるお主ら狼人族を、エルフの総意がそう認めておると思うのか? あらゆる面で我らを上回るエルフに、お主らがしてやれることなど何もない。今回のようなことが度重なることで、お主らは次第に引け目を感じ、対等に言葉も交わせなくなる。そして、いずれはただ従順にエルフの命に従う、番犬のような存在となり果ててしまうであろう。狼の牙は抜かれ、孤高の魂を持った狼人族という種は滅びることになるのじゃ。お主は長という立場にありながら、狼人族が滅びゆくのを、ただ指をくわえて見ておるつもりなのか?」
私の言葉に悔しそうに歯噛みしながら、それでもゾーンバイエは何とか言葉を返してきた。
「ババ様……エルフは……俺の知るエルフたちは、そんな奴らでは――」
「だとしても、その状況が永遠に続くとでも思っておるのか?」
「――!?」
「確かにお主の言う通り、お主の代は問題なく過ごせるじゃろう。じゃが、狼人族はお主の代で終わりではない。そして、エルフとの関係が永続的に良好であるとも限らん。ズレハから離れた、ここシンラの暮らしを見れば、そんなことは一目瞭然じゃ」
「なっ……なんだと……!?」
放任状態のこの森では、好き勝手しているエルフが幾らもいる。上に立つ者のやり方ひとつで、そこにある正義は変わるのだ。
何かに頼っている限り、委ねている者はそれに振り回されることになる。
現状、そこまで酷い状態ではなかったけれど、そうなる可能性はゼロではない。ゾーンバイエにそれを意識させるため、私は敢えて詳細を語らずに続けた。
「じゃが、それはエルフのせいではない。力を持たぬ我ら獣人の抱える咎といえるものじゃ。それを変えるには、我らが力を持たねばならない。獣人の中から力を持った者が生まれなくてはならないのじゃ」
「…………」
「そして、それを変えるチャンスが、今お主の目の前にはある。こんな機会が、いつでもあると考えるでないぞ、ゾーンバイエ。この実はいつ成るとも知れず、目に触れることもなく生涯を終える者など五万とおる。この実が成った今この時代に生きてさえ、実と対峙できる者は限られておるのじゃ」
「…………」
「そんな中、お主はそれを手にし、奇跡に挑む機会を与えられた。それがどれだけ幸運なことか分からぬお主ではなかろう。運命と諦め、今を受け入れる前に、お主にはまだできることがあるのではないか? 焦がれても巡ること叶わぬ機会に接し、なおそれが無縁のものとお主が断ずるのなら、ババがお主にかける言葉は、もうありはせんがのう……」
終盤は一方的に説き伏せる感じになってしまったけれど、内容は十分ゾーンバイエにも伝わったと私には感じられた。
ゾーンバイエは聡い。ハナから獣人の抱える問題など分かっていた筈なのだ。
だけど、ズレハというぬるい環境と、同じく聡いエルフが身近にいたことで、ゾーンバイエの目は曇らされていた。
それを取り払ったババア様の考えは、この世界に於ける獣人の立場を的確にとらえたものだ。よほど愚かでない限り、今の話が理解できないわけがない。
そして、ゾーンバイエはそれが分からないほど愚かではない。ここまでくれば、もう私が背中を押す必要はなく、実を託すだけで良かった。
「その実は持ち帰ってよい。もし、お主が決断できずに、或いは食べずに腐らせてしまい、今回の機会を逸することになっても、それはそれで構わん。獣人すべての夢は潰えることになるが、今この国にお主以上の適任者がいない以上、それが失われるのならば、それは我ら獣人が背負うべき
こうして、ゾーンバイエとの会合は終わった。
最後はゾーンバイエに決断を委ねることになったけれど、ゾーンバイエがあの実を食べるのを私は確信していた。
私はババア様からルルカに体を乗り換え、その時が来るのを待つことにした。
ゾーンバイエが決断を下すまでに、それほど時間はかからなかった。その日の夕暮れには、ここエタリナに魔王が誕生したのだ。
それが分かったのは、瞬く間に周囲が瘴気で満たされたからだった。
同時に私の体は意図せず勝手に獣化を始めていた。それは抑制の効かない衝動のようなものだった。
それに身を任せながらも、私は内心焦りを感じていた。体の変化が獣化を終えてもまだ止まらなかったからだ。
普段の獣化より、体は更にひと回り以上大きくなっていた。細部や色目は見たことのない変容を遂げ、その姿は邪悪で禍々しいものに変わっていた。
そして、取り込んだ瘴気の影響は、体だけでなく精神にまで及んできた。凶暴な思念が私の意識を塗り替え、塗り潰してしまおうと猛烈に押し寄せてくる。
だけど、それは私には届かなかった。
既に呑み込まれていたルルカの意識は、混然となってどこにあるかも分からない。それでも、私は私という意識を保っていた。体の自由を失うこともなかったのだ。
でも、完全に瘴気の影響を食い止めてはいなかった。それが体内に取り込まれた時から、私は恐怖という感情を一切感じなくなっていたのだから。
目の前には、私と同じく魔物と化したババア様がいた。自我を失いまるで人形のようだったババア様は、瘴気に混じった強い思念の影響を受け、意思を持ってどこかへ向かおうとしていた。
それがどこなのかは私にも分かる。指向性を持った悪意は、破壊と殺戮をもたらすために、人の住む町や村へ向かおうとしていたからだ。
ゾーンバイエの事が成ったら、ババア様の首は刎ねるつもりだった。瘴気が無くなれば、もとのババア様に戻るとはいえ、その先に未来なんてないのだから。
だけど、魔物化したババア様の息の根を止めるのは、相当骨が折れる。場合によっては、返り討ちに遭うかもしれなかった。
そんなリスクはとても犯せない。私にはまだやらねばならないことがあるからだ。
そう考えた時、ババア様を殺すことの意味に私は思い当たった。そして、果たしてそれが本当に正しい行いかどうかを自問してみた。
ババア様は、もう十分過ぎる時を生きた存在だ。それなのに、もしここで私が命を絶てば、ババア様は俄かに新たな生を受けてしまう。何歳かも分からない化け物が、倍の寿命を生きることになるのだ。
ババア様にとって、それはラッキーなことかもしれないけれど、他の者にとっては迷惑以外のなにものでもない。殺さない方が、世の中にとって良いことなんじゃないか? そう私は思ったのだ。
だから、私はババア様を人里近くまで誘導することにした。ババア様の最後を人間に託すことにしたのだ。
遠目にフォーレストの街並みが見え始めた時、そこで私はババア様を野に放った。
凶悪な思念に導かれて、ババア様は勝手にフォーレストに向かっていった。
フォーレストはかなり大きな町だ。万を超える常駐兵団が備えられている。よほど強力な魔物ならともかく、そこまでの数の兵を相手に、ババア様が無事帰還することはおそらくないだろう。
それでも、もし万が一にも生き延びることができたら、その時はババア様の持つ運に敬意を評し、探し出して私が止めを刺すことにしよう。
そんなことを考えながら、私は町に向かってゆくババア様の背を見送った。
そして、急いでシンラの森に引き返した。
魔物となった私は移動も快適だった。特殊能力も発動しているようで『もしかしたら、ランドマスターを呼べるんじゃないかしら?』……そんな予感すらあった。
森に戻った私は、エルフ族のゲートを拝借して森の東ゲートまで移動した。そこから更に東に向かって、まる一昼夜駆け続けた。
そして、目的のジルコンドアに辿り着いたのだった。
そこがジルコンドアであることに間違いはなかった。人間が立てた看板も見受けられたからだ。
『女神降臨ポイントへようこそ! あなたも女神に出会える……かも!?』
女神の降臨場所は、国によって決まっている。それが知られている国は、名所として観光スポットになっていることも多い。エタリナもその国の1つだったけれど、見物に来ている人間がそこにいる筈もなかった。
女神が降臨してくるということは、その国が魔物で溢れているのと同義だ。偶然観光に来ていたのならまだしも、人里から遠く離れたジルコンドアに、わざわざ見にくる余裕は誰にもない。用事があるのは、女神に会いに来た私くらいのものだろう。
人がいないのは好都合だったけれど、そこには1つ問題があった。それはジルコンドアの大きさと、いつ女神が降臨してくるか分からないことだった。
ジルコンドアは縦3キロ、横100キロ以上に渡って広がる、大地にできた巨大な亀裂だ。おそらく自然ではない何らかの要因でできたと言われるこの亀裂の上空から、雲を裂いて女神が降臨してくると伝えられている。
それを専門に研究している学者もいて、エタリナの降臨ポイントはジルコンドアで間違いないようだったけれど、正確な場所までは分からない。看板には『周辺、おすすめスポット!』と書かれていたけれど、そんなものを鵜呑みにはできなかった。
私は自分の直観に従って、もう少しだけ東に進んでみることにした。
亀裂に沿って歩きながら、私は女神がいつ頃現れるかを考えていた。
魔王が誕生するより先に女神が降臨してくることはない。そんな事実があるだけで、その時期についてはかなりの幅があった。
調べた限りでは、3日と開けずに降臨してくることもあれば、ひと月、或いはそれ以上遅れて降臨してくることもあった。
過去最悪と言われ、メギドの災厄という名で知られる1800年前の降臨は、魔王が現れてから実に半年以上も遅れたという。
そのせいで、当時栄華を誇ったソドムとゴモラという2つの大国が、同時に現れた2体の魔王によって滅ぼされた。
だけど、今回私はそれほど降臨が遅れるとは思っていなかった。そんな確信にも似た予感が私の中にあったからだ。
30キロほど東に進んだ辺りで、私はインスピレーションに導かれて足を止めた。
獣人のルルカが勇者に選ばれる筈もなく、私が女神に会うチャンスは、降臨してくるこの時をおいて他にはない。この機会を絶対に逃すわけにはいかなかった。
1度足を止めた私は、更に全神経を研ぎ澄まして、この場所で間違い無いかを自問した。それで答えが出るわけじゃなかったけれど、できる限りのことはしておきたい。そう思ったから。
私は研ぎ澄ました感覚を頼りに、もう5キロだけ東に進み、そこを拠点に決めて女神を待つことにした。
飲まず食わずで過ごす必要はなかったけれど、そうした方がより野生の感覚が研ぎ澄まされる気がして、私は何も口にしなかった。
……といっても食べ物は持参していない。湧水すらない周辺の状況に、私は少し不安を感じていた。
瘴気のおかげで、最初の3日くらいは、それほど体力の衰えを感じることもなかったけれど、何もせず、ただ待つという行為が精神にかける負担は、決して小さいものではなかった。
待つのは嫌いではなかった筈なのに……
それから何も起きることのないまま、1週間が過ぎ去った。そろそろ何かを口にしなければいけない気はしていた。
瘴気といえど無敵の体に変えてくれるわけじゃない。人ならばとうに死んでいるだろう。
それでもここは大地の亀裂以外、見渡す限り何もない荒野だ。食べ物を手に入れるには、相当南下しなくてはならない。往復に要する時間を考えれば、その間に女神が降臨してくる可能性は十分にあった。
こんな
自分の命をながらえるために、その千載一遇の機会を逃していては、本末転倒もいいところだ。
やはり、このままここで待ち続けるしかない。きっと命が尽きるまでに女神は姿を現す。そのツキがあると、私は信じることにした。
更に数日が過ぎた。もう殆ど身動きが取れないくらい、私は衰弱していた。
自分の読みが甘かったのはとっくに認めていた。最初からもっと入念に計画を練り、最低でも1ヶ月くらいは問題なく待てる準備をしておくべきだったのだ。
ここまでの道のりが、あまりにうまく行き過ぎたせいで図に乗っていたのかもしれない。でも、最後の最後で詰めを誤ってしまった。最も肝心で、最も注意を払わなくてはならなかったのに……
そこで、はたと私は気づく。今までもそれほど上手くいってなかったんじゃないだろうか?……ということに。
そう。私の詰めの甘さは今に始まったことじゃない。これまで幾度も無謀を繰り返しながら、私はそれを力技で推し進めてきたのだ。
それを乗り切るツキは確かにあったのかもしれない。
でも、無駄遣いが過ぎたのだろう。ここに至るまでに、そのツキも全部使い切ったのかもしれない。もしこのままここで朽ちてしまうなら、それが答えなのだろうと私は思っていた。
こんなところで体を失えば、代えの体が見つかるまでに死神に捕まるのは目に見えていた。そして、今回の失敗は私の死では終わらない。他人の生を弄び、理の枠を離れて好き勝手していた私が、普通の運命を辿れる筈がないからだ。
そこまで考えた私は、ようやく自分が絶望の淵に立っていることに気づいた。
涙が流れると思ったけれど、それすら出ないくらい私の体は乾き干からびていた。
私は仰向けで体を起こすこともできぬまま、ただ目の前に広がる空を見ていた。
そして、心の中でハロルドに思いを馳せた。
ハロルドとは、ついに再会を果たせなかった……
でも、今の心境になって我ながら思うことがある。彼に対して、私はもっと打算的な思いでここまで来たのだと思っていた。
彼は私を精神寄生体へと作り変えた原種だ。そのことに対する依存や執着が私から失われることはない。
彼と離れてから10年を越える月日が過ぎたけれど、精神寄生体という種については、未だ私の知らないことがたくさんあったし、体の入れ替えには常に恐怖が伴う。
肉体の死が終わりでない以上、同種の存在であるハロルドが近くにいるのは、私にこの上ない安心感を与えてくれたし、私はそれを必要としていた。
彼にはそれ以外の魅力もたくさんあったけれど、私に精神寄生体という縛りがなければ、それは断ち切ることができるもの。そう思っていた。
でも、ハロルドとの再会を諦め、すべてを受け入れる覚悟を決めた今、それでも私の中にはまだ残るものがあった。
それは彼に対する恨みつらみなんかじゃなく、自分がしてきたことに対する後悔でもなかった。
そこにあったのはただ彼に会い、そして触れたい。そんな純粋な想いだった。
すべての利害を取り除いたとしても、私の中にはまだ彼を愛する心があったという事実に、私は気づいたのだ。
それは恋愛感情とも違う、何かもっと無垢で紛れのない、それでいて求める力の込められた想いだった。
そしてそれは、一緒に過ごしていた日々の中では気づかなかった、日常の中で生じるあらゆる雑念が取り払われたことで、ようやく見つけることができたもの。
形として明確に定義づけできるものではなかったけれど、それは確かに私の中に存在し、今も息づいている。それがあったからこそ私はここまで来れたし、私の生きた証になりうるものだった。
そんなものを自分の中に見つけた私は笑っていた。そこに想いを馳せるだけで、私は満たされ笑うことができたのだ。
この想いの灯し火は、消さずに抱いたまま逝こう。
その先に何が待っていても、この想いだけは決して失わずにいよう。
私という存在が、この世界から完全に消されて失われてしまうまで……
そんな想いが生じさせたのか、私の目の前には何かが浮かび上がって見えた。
それはおそらく幻覚だったのだろうけれど、そこにあったのは紛れもなく、私が焦がれ探し続けていたハロルドの姿だった。
でも、空からの光が強すぎて、逆光となったその姿は、ぼんやりとしたイメージでしかとらえられない。
私は、もう少し周りが暗くなって欲しいと……そう思った。
ささやかな、私の最後の願いを聞き届けて欲しいと……そう思った。
あまりに光が強すぎて、ハロルドの顔をハッキリ見ることができなかったから。
あまりに光が強すぎて……
あまりにも空からの光が……
…………光?
光に気づいた私は、一瞬にして意識を現実に引き戻された。
そして、視界に広がる空を見て、思わず息を呑んだ。
何なの…………この光は!?
空はこの上なく明るい。にもかかわらず、見渡す限り分厚い雲に覆われていた。
もちろんただの雲じゃない。金色に輝く目も眩むような雲で、空全体が覆われていたのだ。
来た!
私はついにその時が来たのを確信した。
俄かに雲は輝きを失っていったけれど、たった1ヶ所だけ、強い光を放つ場所が残った。
雲はその部分にだけ切れ間を作り、強い光が地上に向けて注がれる。そこには、あたかも光の道のようなものが完成し、空と地上とを繋いでいた。
そこに女神が降り立つのだと理解した私は、思うより先に駆け出していた。
多少、距離はあったけれど、届かない距離じゃない。
私は衰弱しきって体を動かせなかったのが嘘のように、全力で疾走していた。
だけど、僅かも駆けぬうちに右足の骨が砕けた。弱った体に無理を掛け過ぎてしまったのだ。
でも、そうなるのは承知していたし、それが私を止める理由にはならなかった。
転がるように倒れた私は、四つんばいになって即座に態勢を立て直した。
折れた足を引きずって、それでもほとんど速度を落とさず駆け続けた。
視線の先では、光の道をまるで滑るようにして、人型の存在が降りてくる。
その身を薄絹に包み、錫杖を手に凛と立つ後ろには、まばゆい後光が煌めく。
周囲のいかなる光よりも、なお神々しい輝きを放つその存在は、正に神。そうとしか形容できない存在感に溢れていた。
その姿に圧倒されながらも、私はなおも駆け続ける。
女神が地に降り立つと同時に、ギリギリそこに辿り着くことができた。
女神の影響力のせいだろう。私の姿は元の狐人族ルルカの姿に戻っていた。
「め……女神様……」
何とか言葉を紡ぎ出し、今一歩近づこうとした私に、女神は笑みの浮かんだ慈愛溢れる表情を向けてくれた。同時に、私の耳に女神の言葉が届いた。
「お前のような下賤の輩が、軽々しく口を聞ける存在ではありません」
やわらかい言葉の響きとは裏腹に、女神は冷徹にそう言い放つ。そして、手にした錫杖で軽く地面を打った。
瞬間、辺りに女神を中心とした、強烈な衝撃波が広がった。
それが私に届いたことにも気づかぬまま、私の身体は粉砕され霧散していた。
今まで世話になったルルカに別れを告げる暇も無いうちに、体は跡形もなく消え去ってしまったのだ。
「なぜ、あのようなモノがここに……」
そんな疑問を口にした女神は、俄かに思いを断ち切ると、目的の場所へと意識を向ける。
もちろん、そこに歩いて移動するわけがない。彼女の移動手段は転位魔法。使える者は神と崇められるほど高度なその魔法を、神である彼女が使えない筈もなかった。
彼女の目的は勇者を選び、力を与え、魔王を滅ぼすこと。今回は3人が勇者として選ばれる。その最初の1人のもとへ向かおうとしていたのだ。
それらの思考が全て私には理解できた。その時私は、当初の予定通り女神の体に入り込むことに成功していたのだ。
女神が人と同じように肉体を保持しているのか? それについては、確かに疑問があった。
天界に住まう神々は、魔王が現れた時にだけ姿を現すのではなく、夢のお告げや人の精神に直接語り掛けるなど、普段でも接触のあることが、ベレッタの集めてくれた資料に記録として残っていたからだ。
その時の神々は、イメージとして対象に伝わる。そのせいか、神々の造形も様々で、あり得ないほど巨大だったと記されているものもあった。
そんな神から人間へのアプローチは、おそらく肉体を伴わない、思念や想念を使った意識への働きかけだったと予想できた。
でも、魔王が現れた時は違う。勇者を任命する折など、女神は一般の人間の目に触れる場所に姿を現わすことがある。
それが複数の目にとまることも多く、その時見えている神の姿については、各人ごとに大幅な差異が無いことが分かっていた。
つまり、少なくともその時の女神は、肉眼で視認できる、何らかの具現化された媒体を身に纏っていることが分かっていたのだ。
それが人と同じような肉体で、私の力が及ぶとは限らなかったけれど、それでも私はそれに賭けた。ハロルドを探し出すには神の力でも使わなければ不可能だと、そう思ったから。
そして、私は見事その賭けに勝ったのだ。
確かに、普通の人間とは違っているように感じる。
たとえるなら、オートマの軽に対する、ミッションのスポーツカーといったところだろうか?
……何なのだろう、いったい。
間もなく回想も終わろうというのに、この期に及んで、なぜ私は意味の分からないたとえをしてしまったのだろう?
おそらく、またもやカオスの影響を受けたのだと思うけれど、最後の最後までその存在感を示そうとする、カオスの自己顕示欲の強さには、ほとほと呆れてしまう。
私は最後の妄執とも呼べる、カオスの残滓に肘鉄を食らわせながら、思い出のページをめくり終えようとしていた。
それほど長い期間ではないけれど、私にも精神寄生体としての確かな経験と実績がある。
たとえそれが、どんなに困難なものだろうと、私はきっと女神の体を使いこなす。
そして、その力を駆使して、絶対にハロルドを見つけ出してみせる。
その時私は、そう固く心に誓った。
――そして今、私はここにいる――
「ノエル様、研究所でアバネ博士がお呼びです」
回想の終わりを待ち構えていたように、兵士が私を招きに来た。
まるで最後のステージへ私を誘うように。
「全ての準備が整ったということですね。すぐに向かうとアバネに伝えておきなさい」
「ハッ! かしこ、かしこまりました、かしこ!」
私の部屋から立ち去る兵士の後ろ姿を見つめながら、まさか彼もカオスの影響を受けているのだろうか? そんな思いが少しだけ私の頭を掠めた。
だけど、もはやどうでもいい。3年という長い年月を要したけれど、間もなく願いが叶うという所まで、私は辿り着いたのだから。
ここまで来れば、あとは知り合いの肩を叩くような気軽さで、最後の指示を下すだけでいい。そうして歯車が動き出してしまえば、カオスごときが流れを止めることはできない。
私、女神ノエルは、いつものように慈愛に満ちた表情で、口元に笑みまで浮かべながら、優雅な足取りで私室をあとにした。
普段なら空間転位するところを、少し浮かれていた私は、歩いてアバネのラボラトリーまで向かう。
城にいる兵たちにも笑顔を振りまいて、私の幸福を少し分け与えてあげよう。そんな思いが自然と沸き起こり、行き交う兵たちに驚きと至福の表情を喚起させる。
そんな私の行動の中に、これから起こることに対する贖罪の気持ちがあったのかは定かじゃない。
でも、たとえそんなものがあったとしても、彼らがそれで報われることも、私の気持ちが変わり未来が変わることも、決してありはしないのだけれど……
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