51話 ソレイユ編④ サラの神木


 シンラの森に戻った私は、その足でサラの神木へと向かった。

 ルルカが一週間森を不在にしたことについては、別に気にすることはなかった。この森で誰かがいなくなるのは、それほど珍しくはないからだ。

 神木についた頃には、既に周りは明るくなっていた。私は、神木の警備兵の姿が見える場所まで来ていた。


 警備はもちろん国から派遣された人間が行っている。基本的に人間は亜人を信用していないからだ。

 瘴気の影響で魔物に変わる獣人に信用が置かれないのは当然として、なぜエルフまで信用されないのか? それはやはり僅かでも異なる外見や、長過ぎる寿命、獣人と生活圏を共にしている事実など、人間という種から見た、排他的思考から生まれた必然の結果のように思われた。

 それでも、魔王討伐の勇者として過去幾度も選出され、国の平和と秩序を共に守ってきた事実は歴史として広く認知されたものだったし、そのためエルフを敬い信仰する者は多く存在する。

 だけど、その数は国の権力に近づくほど少なくなり、魔王討伐後、時を重ねるほど同様の結果をもたらした。


 勇者とは世界の救世主だ。魔王が討伐された直後なら、誰に請われずとも、人は勇者に対して心の内から溢れる純粋な敬意の念を自然と示す。でも、それは時と共に風化し失われてしまう。

 猫は3日で恩を忘れるという。人間はどうか?

 全てを一括りにはできないけれど、総じて言えるのは、当初抱いた思いを維持し継続し続ける存在など、どこにもないということだ。

 魔王が滅び平和が蔓延した世界では、エルフという力の価値は徐々に薄れてゆく。逆に力を持っていることが人間に脅威とすら認識され、敵意を向けられる要因になる。

 エルフが国の内政にあまり干渉せず、森で暮らすという信条を持ち合わせてなければ、今のように友好的な関係は到底築かれなかったと、私は思う。


 忘却はこの世界に於ける重要なファクターの1つだ。この能力がなければ、人は突き当たった壁への恐怖を捨てられないし、心が挫け折れた時に、そこからはい上がれなくなる。

 忘れるからこそ、どれだけ傷つきボロボロになった心も立ち直るし、だから人はまた苦難や困難に立ち向かえるようになる。それを乗り越え、先に進めるようになるのだ。

 でも、記憶や経験の中には、残しておきたいものだってある。そこに区別を持たない忘却は、私たちが失くしてはならないものまで奪い去ってしまう。

 それがために人は恩を忘れ、今の自分を形成する礎となった全ての事柄に対する感謝を忘れる。

 そうして魔王を滅ぼし、世界に平和を取り戻したエルフの功績は、人々の記憶から消え去ってしまうのだ。

 

 同時に、現状この場の警備がお粗末になっている理由もそこにあった。

 神木と魔王の関連性は人間たちにも知られている。異常な再生能力を誇る神木を排除するのは不可能だったけれど、所在地を突き止めている国はそこを厳重に警備しているし、ここエタリナも昔はそうだった。

 だけど、その持続にも限度がある。なぜなら魔王の脅威は全世界を巻き込むほど大きなものじゃなかったからだ。

 世界はたびたび魔王の恐怖にさらされているけれど、国レベルで考えると、それほど頻繁に起こる出来事じゃない。そのせいで滅びた国があるとはいえ、影響が国外に及ぶことはほとんどなく、基本的に魔王はそれが現れた国の災厄と考えて差し支えなかった。

 ことエタリナに関してだけいえば、前回魔王が現れたのは六百年以上も昔の話だ。

 過去蹂躙された爪痕もほとんど残らないこの国にとって、魔王とはもはや昔話に過ぎなくなっている。

 必然、神木の警備は年を経るごとに縮小されてゆき、今ではたった3人で国の安全を担保する、形骸化したものになっているのだ。


 どうして人は、忘れたくないこと。忘れてはいけないことを忘れてしまうのか?

 忘却対象を任意に選べたとしたら、世の中はどう変わるだろう?

 そんなことを私は少し考えてみた。


 苦しい思い出をこよなく愛するドMを度外視すれば、誰もが良い思い出だけを記憶に残すことになる。そして、精神的、或いは肉体的に心地よいと思える場所で立ち止まり、歩みを忘れてその中に埋没するだろう。

 でも、快と不快は波によって生じるものだ。心地よさが常態化してしまえば、もはやそれは心地よさではなくなる。それを頭で理解できたとしても、断ち切るのは難しい。多幸感の強い経験は簡単に人を依存させるからだ。

 わかっちゃいるけどやめられない。必然それは何度も繰り返されることになり、心地良さに閉じこもるたびに次第に精神は脆弱になってゆく。そこから出た世界に広がっている、不快に耐えきれなくなってしまう。

 そして、最終的には心地よさが感じられなくなってもなおその中に閉じこもる、進退ままならない不幸な存在になってしまうだろう。

 当然上手くバランスの取れる人間も中にはいるのかもしれない。でも、大多数の人間の意思はそれほど強固にできていない。

 そんな世界が正常に機能する筈もなく、忘却内容を任意に選べない今の世界は、なるほど理にかなっているのだな~と、私は感じるのだった……


 そこで、はたと私は気づく。いったい私は何を考察しているのだろうかと。

 今私はたった1人で過去を振り返りながら、自分の記憶に意識をトレースしているところだ。そこに誰かの意見が差し挟まれることはないし、私の知らない出来事が起きる筈もない。

 だとしたら、今考えたようなことが私の記憶の中に混じっているのはおかしい。だって、そんなことに私は全く興味がないのだから。

 少し前にも覚えた私の中にある違和感。私はその正体が何であるかに気づいた。

 それはどこにでもあるけれど、知性にとっての宿敵であり、決して相容れることを許されない存在…………カオス。

 徐々にその存在感を露わにし始めたカオスに不快感を覚えながら、私は記憶に余計なものが混入しないよう、深呼吸して気を静めてから回想に戻った。


 神木前の警備は予想通り1人だった。交代で1人だけが警備に当たり、残りの2人は神木の脇に建てられた見張り小屋で休んでいるからだ。

 警備状況に変わりはなかったし、1人なら私が遅れをとるとは思えなかったけれど、相手は人間だ。油断はできなかった。

 獣人は人より遥かに身体能力が高いのに、この世界は人間に支配されている。その理由はいくつもあるけれど、最も厄介なのは魔法だった。

 人間の使う魔法は多種多様だ。獣人がどれだけ高い能力を誇ろうと、魔法は簡単にその溝を埋めてしまう。普通なら3秒でケリのつく弱い人間でも、魔法はそれを補い、獣人を凌駕する力を人間に与える。

 そんな魔法を使いこなす人間たちは、獣人にとって非常に手強い相手となる。

 それは私が獣人になって、初めて得た知識だった。


 仮に魔法が使えなくても、ここに詰める警備兵なら魔法石くらい持っている可能性があった。そして、その魔法効果が致命的なものだったら、私は計画を初めから練り直さねくてはならなくなる。

 できれば今の体は無傷のまま事を終えたい。そう考えていた私は、ルルカを使って3人が無防備になる状況を作り出そうとしていた。

 その方法でルルカが傷つけられることはあっても、おそらく殺されはしない。

 もし万が一死んだとしても、どのみち彼女の命はここで断つつもりなのだ。それを理由に計画を変更するつもりはなかった。

 私に背中を押されたルルカは、拙い足取りながらゆっくりと警備兵に近づいてゆく。そして、予定通り相手に発見された。


「おい、誰だ!? それ以上こっちに来るんじゃない!」


 ルルカは警告を無視するように歩みを止めない。うまく歩いて行くルルカに内心拍手を送りつつ、私は状況を見守った。

 その時、警備兵が声を荒げながら、腰から剣を抜いた。


「なんだお前! 聞こえていないのか!? け、警告を無視するな! それ以上近づくと、た、た、ただでは済まされんぞ!」


 滅多に遭遇しないハプニングに、感情を昂ぶらせる警備兵。それでも警備兵の動揺は、それほど長くは続かなかった。

 フラフラしたルルカの足取りに眉をひそめた警備兵は、視点の定まらない表情にも気づいたのだろう。少し落ち着きを取り戻して、ルルカに呼び掛けた。


「おい、お前……?」


 それに応じないまま、ルルカは警備兵のもとまで辿り着いた。

 警備兵が肩を抱きとめた時、ルルカと警備兵の視線が重なったように見えた。そこに敵意は無かった筈なのに、それだけで警備兵は一歩後ろに飛び退いた。

 余程根性が座っていないのか、警備兵はそのままの姿勢で固まると、突っ立っているルルカにしばらく疑いの目を向けていた。

 少し間を置いてから、意を決するようにルルカの肩に指先でチョンと触れた警備兵は、それを何度か繰り返してから、ようやく肩の力を抜いて安堵の表情を浮かべた。


「な、何なんだよ~、まったく。お、驚かせるなよ……」

「…………」

「大丈夫か? 何かの病気なのか?」

「…………」


 いくら言葉をかけてもルルカからの返事はない。すると、警備兵はルルカの身を案じるように何度か肩を揺すった。

 そこまでしてもリアクションをしないルルカに、ようやく害は無いと安心したのだろう。警備兵はリラックスしながら手にした剣を鞘に収めた。

 すっかり拍子抜けした警備兵は、頭を撫でたり顎を持ち上げてみたり、ルルカをぞんざいに扱い始める。もちろんルルカがそれに反応を返すことはなかった。


「ハハッ……俺が何をしようと、されるがままだな」


 言いながら警備兵の視線は、ルルカのたわわな胸の膨らみに向けられる。そして、1度生唾を飲み下したあと、おそるおそるそこに手を伸ばした。

 リビードを虜にしたルルカのボディは、とても魅力的なものだ。獣人なだけあってスレンダーではあったけれど、ハリのある肌には染み1つ無かったし、引き締まったウエストに対比して強調されるバストは、両手でも持て余すくらいのボリュームだ。

 全体的に露出が高い服装は、特に胸元が大きく開けていて、1度そこに目をやってしまえば、視線をそらすのは容易ではない。

 なまじ何をしてもルルカが無反応なのを知っている警備兵は、自分の欲望のままに思いを果たそうとしていた。


「おい、何かあったのか!?」


 その時、警備兵に声をかけ、その場で飛び上がらせると同時に「わ~! わ~! わ~!」と声を漏らしながらの激しい動揺を誘ったのは警備兵だった。いつの間にか残りの2人も見張り小屋から出てきていたのだ。

 どぎまぎした態度で「な、な、なんだお前たちか。お、驚かせるなよ……」と漏らした警備兵は「怒鳴り声が聞こえていたのに、急に静かになったから、心配になって見に来たんだ」と警備兵に声をかけられ、顔を赤らめながら「い、いや、別になんでもないんだ……」と警備兵に誤魔化した。

 因みに元々外にいた警備兵に最初に声をかけた警備兵と、2番目に声をかけた警備兵は別の警備兵で、次に発言したのは最初から外にいた警備兵に、最初に声をかけた警備兵だった。


「そんなことより、そいつはいったい何なんだ?」


 そう問いかける警備兵に答えようとした警備兵は、顔に突き刺さる警備兵の視線に警備兵の方を見た。そこにあった何かを勘ぐるような警備兵の目つきに警備兵が動揺したところで、警備兵がもう1度答えを促した。

 そこで警備兵は、自分の動揺を警備兵にけどられまいと、澄ました顔で警備兵に向き直って警備兵の質問に答えようとした。その態度に警備兵は警備兵が警備兵に答えるより先に警備兵に歩み寄ると、警備兵の肩を掴んで警備兵を振り向かせ……

 

 って、あああ~~~もう、ややこしい!

 っていうか、わけが分からない!

 いったいどの警備兵が何をして、どうなってるの!?


 すっかり混乱した私は、それぞれに名前をつければ済むことに気がついた。

 何と単純なことだったんだろう。

 私は最初からいた警備兵に『ブーメ』

 あとから来た警備兵にそれぞれ『ランテ』『リオス』という名を割り振って、今後は警備兵を名前で区別することにした。


「それって狐人族だよね? ここは奴らのテリトリーなんだ。僕たちはここから帰れないんだし、いくら獣人とはいえ、下手に手を出して報復されないとは限らないよ?」

「お、俺は別になんにもしちゃーいないっ!」

「でも胸に触ろうとしてたよね」

「――ッ!?」

「おい、ちょっと待てよ。それよりこいつ、何か様子がおかしくないか?」

「そ、そうなんだ! だから俺はどうしたんだろうと思って――」

「なるほど。この目は薬物の後遺症かな。軽くほっぺをつねってみても全然反応がないや」

「って、お前いつの間に!?」

「それで思わず手を出しちゃったんだ」

「て、て、手なんか俺は出してない!」

「でも出したかったんでしょう? こんな風に」

「って、あ、お前っ! 1人だけ抜け駆けしやがって、俺にもやらせろっ!」

「れ、冷静になれよ、お前たち! こんなところで狐人族に手を出したら――」

「それはさっき僕が言ったセリフ。バレたらまずいとは思ったけど、この状態だったら大丈夫。但し、誰かに見られるのは上手くないな。サラの木に近いから誰も近づいて来ないとは思うけど、場所は移した方がいいだろうね」

「う~、堪まんね~な、こいつの身体」

「こら、こら。こんなところでベルトを外すんじゃない」

「お、俺にも触らせてくれ!」

「ストップ、ストップ! とにかく中に入ろう。中に入ってからなら、好きなだけやらせてあげるから。でも、身体に傷をつけたりしたらダメだよ」

「俺が1番だからなっ! ってか、このまま担いでったら早いか。よっと!」

「あ、俺も、俺にもやらせてくれよ!」

「フフフッ、2人ともそんなに溜まってたの? まあ、こんな辺境警備に回されて、たまにはいいことあっても罰は当たらないよね」


 その言葉を聞きながら、彼らの運命を知る私は、そんな勝手な理屈がまかり通るほど世の中は甘くない。そう思っていた。

 ルルカを連れて3人は見張り小屋の中に消えた。

 見張り小屋といっても、屋内が幾つかの部屋に分かれているのが外観からわかるくらい、それは大きな建物だった。

 私は警備兵たちが入った部屋の外壁に身を寄せ、そこから聞こえる物音から中の様子を判断することにした。

 神木の周辺は、神木の再生能力同様、環境の恒常性が異様に高くなっている。だから、外から持ち込んだ物は森の浸食を受けることになる。

 必然、割合最近に建てられた見張り小屋は、早くも老朽化が進んでいた。

 そのせいで気密性の失われた小屋からは、中の音がわずかに漏れ聞こえてくる。私の聴覚を持ってすれば、それで様子を探るには十分だった。

 私は事が終わるまで、そこで身を潜めて待つことにした。


 外にいる私の耳には、警備兵たちのはしゃぐ声だけでなく、ベッドのきしむ音や衣擦れの音まで聞こえた。

 その時私は1人苦笑を漏らしていた。

 いや、苦笑の前にひと言だけ言葉を漏らしている。

「えっ、はやっ!?」という驚きの声を漏らしたのだ。


「時間をかけてたっぷり可愛がってやる!」

「俺のことが忘れられなくしてやるぜ!」

 

 そんなセリフを皮きりに、いよいよ彼らの行為が始まったと思った時には、私の耳に「ふ~~~」という何かをやり遂げた声が届いた。


 …………え?


 耳を疑い、状況が理解できないところに「つ、つ、次は俺だから」という私の疑問に確証を与える響きが伝わってくる。

 でも、それもまた驚きを後押しする要素に過ぎなかった。人が代わったと思ったのも束の間、またしても私の耳に「うっ……」という呻き声が届いたからだ。

 刹那ともいえる短い時間で2人が行為を終えたのだと理解した私は、その時思わず口から感想を漏らしたのだ。

 中に聞こえてはまずいと、即座に自分の口を押さえつけたものの、溢れる疑念は止まらない。私は心の中でツッコミ続けていた。


 ま、まさか、もう2人終わったってこと!? 

 世界新? 世界記録に私は立ち会ってるの!? 

 記録には残るけれど、記憶には絶対残らない! 

 忘れられなくなるどころか、覚えていられるわけがないっ!

  

 そんな目から鱗の出来事が、中では繰り広げられていたのだ。


「パン、パン、パン、パ、うっ……」

「代われっ!」

「パン、パン、パン、パ、うっ……」

「チェンジ!」

「パン、パン、パン、パ、うっ……」

「任せろ!」


 リズミカルに次々と交代するものの、誰1人として長持ちする者がいない。

 よくもまあ、世界記録保持者が3人も同じところに集まったものだ。

 私はとんだ三擦り半劇場に、呆れかえっていた。

 たとえ自我を失っていても、身体に生じる感覚を不快には感じないだろう。それがルルカへの最後の手向けになればいい。そう考えていた私は、ルルカに対して謝罪の念を抱くと共に、役立たず3人を瞬殺することで気を紛らわそうと考えていた。

 

 たいして待つこともなく、物音は止み静かになった。

 3回りはしただろうか?

 だとしても、時間にして普通の者なら1回目が終わってないかもしれない。そんな思いが頭を過ると共に、私は既に動き出していた。


 おそらく、まだ裸のまま休んでいるであろう4人のいる部屋に、私は窓を突き破って侵入した。

 最初に私と目が合ったのは、窓から1番近いソファーに腰掛けていたランテ。

 即座に振り抜いた私の鋭い爪で切り裂かれた彼は、驚愕の表情を浮かべるまでもなく、首から下に別れを告げていた。

 次に犠牲となったブーメは、私の顔を認識できたかもしれない。ただ、あまり良い思いはしなかっただろう。そのせいで私の爪が自分の目に突き刺さるところを、視力を失う寸前まで見ることになったのだから。


 瞬間ともいえる速度で2人を始末した私は、隈なく部屋中に目を配りながら、自分の犯した致命的なミスに気づいた。そこには私とルルカ、そして2人の警備兵の死体以外に人影が無かったのだ。

 いつの間に部屋を出たのか、或いは元々部屋には立ち入らなかったのか。その部屋のどこにもリオスの姿が見つからなかった。

 回数から考えて、絶対に3人揃っていると考えた私が浅はかだった。ブーメとランテは、たった2人でもこなしていたのだ。


 まさか……まさか、早漏の代償に『絶倫ぜつりん』を授かっていたなんて!?


 私は1人取り逃したことに焦りを感じながら、奥に通じる扉に注目した。

 そこにはおそらく最後の1人リオスがいる。扉の向こうからは、人のいる気配が伝わってきたからだ。

 ガラスを割って侵入した私に、リオスが気づいていないわけがない。それなのに、扉の向こうにいるリオスはこちらの部屋に入ってこようとしない。その理由はいくつもなかった。

 1番可能性が高いのは待ち伏せだろう。扉の向こうで罠を張り、私が来るのを待ち構えているのだ。

 

 だけど、どうして私の存在がバレたのか?

 私は気配を気取られるようなヘマはしてない筈なのに……


 いや、そうじゃない。

 突如現れたルルカに、おそらくリオスは疑問を感じたのだ。

 3人もいれば、そこを訝しむ頭を持った奴が1人ぐらいいてもおかしくはない。

 そして、念のためにと罠を仕掛け、何かが起こるのに備えていたのだ。

 その抜かりの無さは警戒に値する……

 私はどうすべきかを迷いながら、その場から動けずにいた。

 すると、視線の先にあった扉が静かに開かれた。奥から姿を現したのは、私の予想した最後の警備兵リオスだった。

 

「あれ? すぐに来ると思って、扉の向こうで待っていてあげたのに、どうしちゃったの?」


 リオスの姿を視界におさめた途端、私は自分の愚かさを悔やんだ。ここには何度も足を運んでいたのに、警備兵のことを詳細に調べておかなかった自分の過ちを……

 リオスは警備兵の恰好をしていなかった。その身には緑のローブを纏い、手にはロッドが握られている。そこには魔法使いの装いに身を包んだ、リオスが立っていたのだ。

 魔法使いは最も警戒していた相手だ。身体能力だけなら凌駕する人間の能力を、魔法は同等、或いはそれ以上に向上させる。

 だからといって絶対に勝てないわけではなかったけれど、相手の用意周到さは私に敗北すら予感させた。


「まさかとは思うけど、こっちの部屋なら僕に勝てるなんていう、思い違いをしちゃ~いないよね?」


 言葉と共に漏れた相手の笑みに戦慄を覚えながら、私は咆哮バインドボイスを放った。

 わずかな時間だったけれど、不意打ちでのバインドボイスが成功すれば、相手の動きを止めることができる。私の速度を考えれば、致命傷を与えるだけの時間は十分にあった。

 でも、私は動かなかった。……いや、動けなかった。


「あ~、残念だね。このローブを着ている間は、いくつかパッシブスキルとして魔法が発動してるんだ。獣人の持つバインドボイスなんかは、この森では基本だから、当然その対策も組み込まれてる。でも、このローブの優れているところは、音の遮断域を限定しているところにある。だから僕の声が届いてるだろう? 君も喋っていいんだよ。それができるようにしてあるんだから」


 私が動かなかったのは、バインドボイスが効かなかったのを悟ったからじゃなかった。

 咆哮を上げると共に間合いを詰めるつもりだった私は、既に何かに拘束され、動けない状態にあったのだ。


「魔法使いは臆病者が多い。それは近接戦闘があまり得意でないせいなんだけど、僕もその例に漏れず、相手の近くに姿をさらすのは好きじゃない。その僕が自らここに出て来たんだ。もっと神経を研ぎ澄まして警戒すべきじゃなかったのかな? まあでも、僕と一緒にこの部屋に入ってきて、君を拘束したのは姿の見えない生物インビジブルクリーチャーだから、君が超感覚でも備えてない限り拘束は免れなかったけどね」


 よく喋る。まるで女のように。

 でも、それはリオスの自信の現れ。私を拘束しているクリーチャー以外にも、リオスは必勝の段取りを既に終えているのだろう。それだけの準備ができる時間を私は与えてしまった。

 だけど、私はこんなところで計画を頓挫させるわけにはいかない。

 私の思いはこの程度の苦境で諦めてしまうほど……軽くない!


「グゥルルルゥオオォォォッ―――――――ッッ!」


 雄叫びを放つと共に、私の体は獣化を始めていた。

 全身が深い毛と厚い筋肉に覆われ、狼さながらに突き出た口からは鋭い牙が覗く。外見はひと回り以上大きくなり、身体能力は人の形態をとっている時の数倍にも膨れ上がった。

 でも、多少たじろいだ様子は感じられたものの、私の体を拘束するクリーチャーの戒めを解くには至らなかった。


「それは想定内だから。そいつは拘束する以外に脳の無い単細胞だけど、代わりに捕えた相手は決して逃がさない。そのためだけに特化した――」


 リオスのくだらないごたくを聞くつもりはなかった。そして、私が獣化したのは、筋力だけで拘束を解こうと思ってのことではなかった。

 左右に首を振った私は、鋭い牙で素早く自分の両腕を根本から咬みちぎった。拘束されてなかった頭の可動域を利用して、腕の束縛を逃れるのが獣化した目的だった。

 両腕を失ったことで、さらに自由な可動域を得た私は、一旦首を後ろに振ったあと、反動を利用して思い切り体を前に倒した。それで胴体部分を拘束するクリーチャーを無理矢理引っ張りながら、牙を足元まで届かせた。

 姿が見えないとはいえ、足の何処を捕縛されているかは感覚で分かる。私はそのまま足に絡みつくクリーチャーに食らいつくと、次々に戒めを解き放った。

 それでも胴体部分の拘束を解こうとしないクリーチャーに感心しながら、かがんで一気に全体重を下方向にかける。胸まわりを拘束していたクリーチャーの手(触手?)は、その勢いで少し上に押し上げられ、待ち構えていた私の牙にキャッチされた。瞬間的に私はそれを咬みちぎった。

 腹も拘束されていたけれど、そこまで戒めが解かれれば十分だった。

 私はその姿勢から両足の筋力を最大限使って、まるでロケットのように飛び上がる。ひねりを加えた勢いあるジャンプで、完全に拘束から逃れていた。


 両腕から血を撒き散らして飛翔する、私の目指す着地点に立っているのはリオス。その表情は驚愕の色に染まっていた。

 それもそうだろう。この間僅かに数秒。これほどの早さで私に迫られるとは、想像もしていなかったに違いない。

 リオスの首に食らいつきながら着地した私は、一瞬の迷いなくそれを食いちぎった。残された体からは噴水のように血が吹き上がる。それを浴び、血に染まる足元の床を眺めながら、ようやくそこで私はひと息つくことができた。

 床には血に紛れて、うっすらと魔法陣が描かれている。それは魔法が発動途中にあった証拠だった。おそらくあと一歩遅ければリオスの魔法は発動し、今とは違う結果になっていただろう。危ないところだった。

 そうと知って、苦笑を浮かべようとした刹那、魔法陣がまばゆい光を放った。

 同時に足元の魔法陣から現れた何か。

 それが何だったのかを、その時の私は見ることができなかった。なぜなら、それは現れると同時に、私の首だけを残して全てをその中に飲み込んでしまったからだ。


 魔法陣から飛び出した何かは、私の体をひと呑みにすると、そのまま現れた場所に舞い戻り、魔法陣共々消えてしまった。まるで水上を飛ぶ虫が、水中から飛び出た巨大な魚に一瞬で捕食されるような。それは、そんな光景だったに違いない。

 私の頭は床の上をコロコロと転がり、扉に当たって動きを止める。それを合図に扉がゆっくりと開いた。入ってきたのは、警備兵の格好に身を包んだままのリオスだった。


「ありゃりゃ、酷い光景だね。せっかく僕のローブを貸してあげたのに、ドッペル君ではやっぱり役不足だったか」


 そのまま中へ一歩踏み出そうとしたリオスは、床に転がる私の頭に気づいた。

 獣化の解けた私の頭を足蹴にしながら、慎重に死んでいるのを確認すると、ようやく安心したのか、髪を掴んでそれを拾い上げた。

 そして、自分の顔の前まで持ち上げると、笑みを浮かべながら私の首に話しかけた。


「ドッペル君を介して教えてあげたじゃないか。魔法使いは臆病だってね。こんな狭い部屋で対峙するなんていう愚行を僕が犯すと思うかい? まあ、思っちゃったからこういう結果になったんだろうけどね」


 リオスはひとしきり私の顔を眺めると、それで興味を失ったように、無造作にそれを放り投げた。でも、なぜか首は床まで落ちずに空中でピタリと止まった。

 そして、くるりとリオスに向き直ると、目をカッと見開いた。


「ぬおおぉぉぉっっ――――!?」


 それに驚いたリオスは、その場に尻餅をつくと仰け反りながら激しく動揺する。

 だけど、すぐさま眉間にシワを寄せ、訝しげな表情を浮かべた。

 その原因は、宙に浮かんだ私の顔にあった。見開かれた目は白目を向いていたし、首は空中で左右にリズムをとるように振られていたからだ。

 その原因に思い当たったのだろうリオスは、溜め息をついて立ち上がると、私の首まで近づいてきて虚空に向けて拳を振り下ろした。まるで、誰かの頭を殴りつけるように。

 だけど、それはすかされ、何度やってもリオスの拳は空を切る。相手は不可視の存在だ。居場所を知るのは術者といえど難しいということなのだろう。


「お前と遊んでる暇はない! 用は済んだんだからとっとと帰れ!」


 苛立ちながらリオスがそう言い放った途端、魔法陣が現れた。そこに何かが吸い込まれたと思った時にはクリーチャーの気配も消えていた。同時に、宙に浮いていた私の首は、支えを失いそのまま床に落ちた。

 その光景を見届けたリオスは、やれやれというように1つ大きく息を吐いた。

 リオスに帰還させられたのだろうインビジブルクリーチャーは、意外にもお茶目な奴だったのだなと、その時私は思った。

 でも、このクリーチャーがもたらした寸劇は、私にとって好都合に作用した。

 なぜなら、この出来事のお陰で、リオスの警戒心はおそらく日常レベルくらいまで低下したからだ。


 部屋の中を見回すリオスの視界には、仲間のいたたまれない姿が映った筈なのに、そこにリオスは何の感慨も抱いていないようだった。

 リオスが目を止めたのはルルカ。この部屋の惨状を目にしながら、いや、それ以前に慰みものにされた事実もあったのに、部屋に横たわるルルカの目は、それら全てが何も映らなかったように、濁り無くただ見開かれているだけだった。

 それに気づいたリオスは、ルルカのもとまで歩み寄ると、興味深そうに上から見下ろした。


「薬物障害かと思ったけど、どうやら違うみたいだね」


 リオスはその場にかがみ込むと、ルルカの剥き出しの胸に手を当てる。そこには確かに脈打つ心音が感じられた筈だ。


「まるで人形みたいなのに、やっぱり生きてるんだ。ゴーレムといえば魔法の大家レイバーン家の十八番だけど、ドルニアの流れを汲む僕は、そっち方面はあんまり詳しくない。それに人形みたいに見えるだけで、こいつは歴とした獣人だ。魔法の後遺症じゃないのかもしれないな……」


 そう漏らすと、リオスはその場から立ち上がり、くるりとルルカに背を向けた。


「まあ、いいや。僕には関係のないことだから。死んだ狼人族の目的も少しは気になったけど、命あっての物種だ。危険を冒してまで、狼くんに聞くほど興味もない」


 そう言って、そのまま扉に向かおうとしたリオスは、死んでいる仲間にもう1度だけ目をやった。その顔に怒りや悲しみはなく、蔑むような表情だけが浮かんでいた。


「まったくバカな奴らだ。わざわざ獣人なんかで紛らわさなくても、あと少し待てば任期も――」


 そこで唐突にリオスは話すのをやめた。その時、リオスは気づいた筈だ。自分の見ている世界が逆さになっていることに。


「……な……んで……?」


 バカと見下すのではなく仲間に情けをかけてやれば、結末は変わっていたかもしれない。

 私はそんなことを考えながら、ハンドルをきるような手つきで素早く両手を動かした。そして、リオスの首をねじ切ってしまった。

 私とは、もちろんルルカのことだ。リビードの死と同時に体を乗り変わった私は、ルルカの空虚な意識の裏側に隠れて、反撃の機会を窺っていたのだ。

 まさか、この体に舞い戻るとは想像もしてなかったけれど、抜け出た状態が無害そのものだったので、たいして傷つけられることなく、すぐに使えるスペアの体として利用できたのは、私にとって幸運だった。


「それにしても……」


 やらなければならないことはあった。だけど、私は自分の体に染みついた体液と匂いから来る嫌悪感に、先ずは体を洗い流そうと部屋をあとにした。


 見張り小屋に備えつけられた浴室で体を清めながら、私はふと思い返していた。

 先ほど使った『ハンドル』という言葉について。

 ハンドルをきる。……ハンドルとはいったい何のことだろう?

 それ以前に、リビードが戦ってる最中にも『ロケット』なんて言葉が出ていた気がする。まったく意味の分からないそんな2つの言葉を、どうして私は使ったのか?

 そう思った瞬間、頭の中で変な声が聞こえた。


『だってしょうがないじゃないか~』

 

 えなりくん?


 それ以外に、たとえを思いつかなかったのだからしょうがない。

 そんな強い思いと共に、私はカオスに飲み込まれそうになる。それを振り払い、穢れをこそぎ落とすように念入りに身体を洗ってから、私は浴室を出たのだった。


 そのまま裸でいるわけにもいかず、私は元々身に付けていた衣服に手を伸ばした。

 どうやら2人とも着ているものには興味が無かったらしく、多少の綻びはあったものの、着るには支障のないレベルで放置されていた。

 でも下着は……


 やだ。グショグショに濡れちゃってる。

 口にでも含んだのかしらか? とてもはく気にならないわ……

 

 やむなく私はノーパンでいることにした。


 だけど、なんだかスースーしちゃう。

 超ミニだから、誰かに下から覗かれてしまうかも?

 なんて、誰もいないからその心配はないか……ウフフ。


「――っている!? このくだり、いる!?」 


 私は思わず声を荒げて、そう叫んでいた。

 

 どうしてカオスがまだいるの!?

 先ほど追い払った筈のカオスが、まだ纏わりついていることに、私は驚きと共に激しい怒りを覚えた。

 たとえそこに悪意はなくても、懐かれるのは甚だ鬱陶しい。私はそこら中の空間にパンチと蹴りをお見舞いして、カオスの気配を念入りに断ち切ったあと、更に思考を精神統一で清めてから、ようやく回想を再開した。


 部屋に戻った私は、3人の死体を神木のもとまで運んだ。その際、ちゃんと分かりやすいように左にブーメ、真ん中にランテ、右にリオスが来るように配置した。

 その作業を終え、その時初めて3人に仮名を与えたことが無駄じゃなかったと、私は強く実感した。

 予定通り神木に人間の血を吸わせることには成功したけれど、神木の根元近くで殺せなかったのを私は少し悔やんでいた。随分血が失われていたし、色々とバタバタしたせいで、新鮮とも言い難かったからだ。

 人の血を集めるのが意外に困難だと気づいた私は、それを舐めていた自分を反省すると共に、もし、この3人の血で足りなければ、またこれをやらねばならないという事実に行き当たって、確かな疲労を感じていた。


 そして、それ以外にも考えねばならないことがあった。それは、リビードの体を失ってしまったことだ。

 禁断の実を入手したあと、リビードならズレハの森を自由に動き回ることができる。

 入魂じっこんと呼べるほどゾーンバイエと親しくはなかったけれど、同族なら食べものに混ぜる機会を作ったりと、策はいくらでも考えられた。

 だけど、ルルカではそれができない。種族間に交流がないだけでなく、昨日の一件で、私はエルフにも目をつけられている可能性があったからだ。

 だとすれば、ゾーンバイエのもとに辿り着くどころか、ズレハの森に入り込むのも難しい。

 それでもいよいよとなれば、手当たり次第に体を移り変わる方法もあったけれど、もっとスムーズで簡単な方法はないの? 私はそれを考えることにした。


 神木の真下で腕組みしながら思案する私は、結論が出ずに首を傾げる。

 その時、頭上から私の頭に何かが降ってきた。


 コツッ


 傾げた私の首を更に傾げさせたその衝撃は「あたっ」という私の言葉と共に、目の前の地面に転がった。そこにあったのは、網の目状に絡まる複雑な模様の外郭を持つ黒い球体だった。


「何これ?」


 それを拾い上げた私は、念入りにその球体を観察する。

 大きさは手の中に収まるくらいで、重さも見た目より多少あるくらいだった。

 ただ、外郭は固かった。木の表面にも似た固さを持っていて、中心に何かが詰まっているような感じがあった。重さもほとんどがそこから生じているみたいだった。

 感触を確かめた私は、今度は鼻を寄せて匂いを嗅いでみた。


「グホッ、ケッホ、ケホ……」


 嗅がなければ良かった。

 球体の中心からは、私が後悔するほど強烈な、肺に突き刺さる刺激臭が微かに放出されていた。中が発酵し始めていて、今から臭いがどんどんきつくなる。そんな感じの臭気だった。

 そこに危機感を覚えた私は、即座にそれを真上に放り投げた。そして、落下点目がけて一回転しながらの強烈なボレーをお見舞いした。

 ほとんど膝を曲げた状態で優しく拾い、そこから思い切り足を伸ばしたので、球体には傷をつけず、最大級の飛距離が出せる筈だった。

 私の強烈なキックを浴びた謎の球体は、真っ直ぐな軌道を描きながら森の遥か向こうに姿を消す。私はその飛距離を見て満足の笑みを浮かべた。


 この世界には変わった生き物がたくさん生息している。空には野鳥以外にも巨大な飛行種だって飛んでいるし、魔物だっている。おおかたさっきのは、それが運んでいたエサだったのだろうと私は思った。

 それにしても、あんな臭いものをよく食べる気になる。あれは正にウ○コと言っても過言ではなかった……

 そう考えた時、私はあれが実際に排泄物だった可能性に思い当たり、それが頭につき、手でこねくり回していたのを思い出して、大急ぎでまた浴室に向かったのだった。

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