短編集
やなぎ
終わりを告げる
目を開ける。
真っ白な空間には僕一人。僕はゆっくりと動き出して、一つだけ色が付いたものを見付けた。それは茶色の表紙のノートだった。
僕はそれを手にとって開く。中から小さな鉛筆が出てきた。これにも色が付いている。
僕は鉛筆を拾って、椅子に座る。真っ白い椅子と机は、鉛筆とノートを目立たせている。
辺りを見渡して、この空間には、この机と椅子とノートと鉛筆だけしかないと知る。白い空間。白い机、白い椅子。色がついているのはノートと鉛筆だけ。茶色と黒。
ふと、僕は手を見た。僕の手はこの空間と同じように白い。真っ白な、手。
体はどうだろう。首を回して下半身と肩を見た。手と同じように真っ白だった。
顔を触ってみる。目と鼻と、口。耳と髪の毛の感触。僕は一体どんな姿をしているんだろう。顔の形は分かった。
だけどそれだけだ。僕は一体どんな姿をして、どんな人間なのだろう。分からない。
ノートを見る。僕はノートにこの空間のことを書いた。
僕が書いた文字は汚いのか綺麗なのか分からない。読める字だというのは分かる。でもそれだけ。
ここには僕以外誰もいないから。どうやって綺麗とか、汚いとか分けるんだろう。
分からないことだらけだ。どうして僕はここにいるんだろう。僕がここにいる理由はなんだろう。分からない。
ここにいれば何か分かるかな。分かるといいな。僕は目を閉じた。
『真っ白な部屋はとても綺麗。机と椅子と、茶色のノートと黒い鉛筆しかなかった。僕の身体はこの部屋と同じように白い。僕はどうしてここにいるんだろう。僕がここにいる理由はなんだろう。次に目を開けるときには何か分かるといいな』
目を開ける。
なんとなくだけど頭がぽやぽやする。起き上がると何かが体の上にあった。白い布。でも少し分厚い。何だろう。
僕は立とうと膝を曲げる。脚に柔らかな感触があった。下を見ると体の上にあった少し分厚い布。これも何だろう。
少し考えて、思い出した。これは布団、というものだ。体を冷やさないための、布団。でも、こんなのあったかな。
布団から出てノートを手に取る。少し前に書かれていた内容の下に布団のことを書こう。
あ、寝ていたから昨日って言ったほうがいいかな。
僕には時間の感覚はない。時間は過ぎているだろうけれど、僕には必要ないかもしれない。だから目を閉じる前のことを昨日ということにしよう。
僕は空間を見渡す。見慣れないものが目に入った。それは棚だった。
何かを入れる棚なんだろう。だけど僕にはノートと鉛筆しか入れるものがない。
棚は長方形で、上から均等の広さの空洞がある。色はやっぱり白くて、僕と同じ白さ。
僕は触って形を確かめる。硬い、冷たい棚は、昨日まではなかった気がする。
棚から離れて僕は布団の上に座る。ふわふわとした感触。棚と違って暖かさを感じる布団。柔らかな、包まれる感覚。
どこかでこれを知っている。どこで知ったんだろう。知りたくて、布団の中に潜ってみる。でもやっぱり分からない。
僕は布団から出て椅子に座った。机に向かって、ノートに鉛筆を立てた。
書いたのは布団と棚のこと。棚は冷たかったけれど、布団は暖かいことを書いた。
僕がいるこの部屋は、何か理由があるんだろうか。
僕はノートを閉じて、鉛筆を置いて、布団の中に入る。布団は暖かくて、すぐに目を閉じた。
『目を開けたら布団と棚があった。布団の中は暖かかった。何かを感じたけどそれがなんだか分からなかった。次に棚を見た。棚は何も入っていなかった。次の時には何か入れてみようかな。何かあるのかな。この部屋にいる僕は一体なんだろう。ここにいる意味は一体なんだろう。次はそれが分かるといいな』
目を開ける。
そこは目を閉じる前と変わっていない。僕は布団から出る。布団の中は暖かいけれど、動かなければ何があるのか分からない。
僕は布団から出て見渡す。棚に目を止めた。赤い、何かが目に入った。
僕はそれを手に取る。印象的な赤。記憶に残る赤。記憶? 記憶って、なんだっけ。
両手で抱えられた赤い本は、何かを語りかけているみたいに目立っている。僕はこれを知っている。だけど、思い出せない。
だってこの本は、僕の物じゃない。僕はここにいるだけ。日に日に増えていくモノを見て、触って、考えるだけ。これが今の僕がいる理由だから。だから、分からない。
僕はそっと、赤い本を開いてみる。パラパラと紙が重力に従って落ちていく。僕は、適当に紙を捲るのを止めた。そのページには、何も書かれていなかったけれど、疑問には思わなかった。
ここは何もない場所。僕が知らない間に増えていく。それが何なのか、僕は知っているけれどその理由を僕は知らない。分からない。
知っている、とは思う。けれど分からないだけ。
僕がどうしてそれを知っているのか、どうしてそう考えるのか、僕には分からない。
ただ、そういうものがあるということだけを知っている。
本の開かれたページは、何も書かれていない。表紙を見ても文字はない。
この本は、何だろう。何故この本だけこんなにも赤いのか。僕の白い手は、赤い本に触れるだけで形が分かった。丸みを帯びた白い手はまるで小さな子どものようだ。
子ども。僕は子どもなのか。子どもの手は、こんなにも小さくて丸いものなのか。何だか初めての感覚だ。
僕は本を棚に戻す。存在を主張している赤い本はたった一冊だけでも、確かにその存在を目立たせている。
僕は棚の前から離れて机に座る。鉛筆を持ってノートを開いた。
今日は本のことと僕のことを書いた。本の存在。赤。記憶。僕という存在の謎。
きっと次に目を開けるときは他にも色々と増えているかもしれない。僕が書いたノートにそう書き足して僕は布団に潜る。
暖かな布団は、何かに包まれている温もりを思い出させる。それが何かは、やっぱり分からない。
分からないほうがいいかもしれない。僕は目を閉じた。
『今日は本が一冊増えていた。赤い、赤い本だった。その赤色は、とても印象的で、記憶に残るような色だった。僕はその本を手にとって開いてみた。何も書かれていなかった。そこで変なことを考えた。僕はどうしてここにいるんだろう。僕という存在は何だろう。どうやら僕は子どもらしいけど、それ以外は何も分からない。記憶ってなんだろう。どうして分からないんだろう。次は何か分かるといいな』
目を開ける。
少しだけ暗いと感じた。布団の中にいるからだ。僕は小さく丸くなって横になっていた。無意識にそうしていたようだった。
布団から顔を出す。白い部屋の中は変わっていないように見える。僕は布団の中から出て、辺りを見渡すために立ち上がる。
棚に置いてある赤い本が目に入る。やはり白色の中だと目立つ色だ。
けれど僕の興味はすでに本に向いていない。
僕は何か変わっていないかと見渡す。凹凸感のあるものが、目に入った。
凹凸感のある何か。棚の左側に出来たそれは、色が付いていない。
僕は触って形を確かめる。壁と言っていいのか、触った感触は冷たい。でも、他の壁に触れるとざらざらとした感触。なのに、この変わっている壁の部分だけ、つるつるとした感触だ。この違いは一体なんだろう。
上の部分に手を伸ばす。上には届かない。僕の身長より高い位置にある凹凸のもの。僕はそれをなんと呼べばいいんだろう。
感触の違う壁に目をやる。すると壁が何かを映し出した。そこに映っているのは僕の手だ。
僕はギリギリまで顔を近づける。映った顔は、特に目立ったところのない顔。こういうのは平凡な顔、というのが正しいのか。
色は白だから分からないけれど、今まで知らなかった僕の顔。そうか、こういう顔だったのか、と一人で納得する。元々一人でいるのだから仕方ないことだ。
けれど僕の中にある疑問が増えた。僕がここにいる理由。僕の名前。僕という存在。僕は何も知らない。全部ここで知った。
ここは僕にとってどういう場所なんだろう。
机の上にあったノートを手に取る。開くと、ここにいた時からの感想。増えていく文章。疑問。ここは空間と呼ぶのではなく、部屋と呼ぶこと。頭の中に浮かぶ言葉の数々。
再び変わっている壁を見る。凹凸のついた壁は明らかに他とは違っている。僕はこの凹凸のついた壁のことを、ノートに書いた。
ペラペラと捲れた紙は四枚。一日一枚書いている。なんだか不思議な感じだけれど、僕は机から離れて布団に潜る。頭まで被った布団の柔らかさに、僕はすぐに目を閉じた。
『今日は変なものを見つけた。デコボコしていた何か。でも、そのデコボコの間に何かつるつるしたものがあって、それは僕の手を映していた。顔を近づけてみると、僕の顔がそこに映った。初めて見た僕の顔はなんだか不思議な感じだった。今まで自分の顔を見ることなんてできなかったからかもしれない。いろいろと疑問が増えたけど、次はもっと面白いことがあるといいな。そうしたら全部わかるかもしれない。少しだけ、楽しみだ』
目を開ける。
布団の中は暖かい。ずっとこうして包まれていたい気分だけれど、何かが変わっていると思うと、少しだけ気分が高揚した。
布団から顔を出す。途端に見えた色に目を見開いた。
前の時までは壁の白と本の赤しかなかった部屋に、様々な色が付いていた。
机や本棚には茶色、椅子は黒。壁は白いままだ。だけど前のときに見た凹凸のものは四角の形に添って白に近い、少しだけ暗い色をしている。
僕は不思議に思って、それに近づく。色が増えたせいか、前の時より僕の顔は見やすくなっていた。
よく見るとこれは透明のものらしい。確か、ガラスっていうものだと思う。
じゃあこれは窓、かな。手に触れて押してみる。ピクリともしない。
違うのかな?答えがないから分からない。
次に本棚を見た。本が増えている。そしてその背表紙には様々な色がある。とても綺麗な虹色だ。
その中の赤い色。あの本だけは、どうしても気になってしまう。
手にとって開く。前まではなかった絵があった。
それは青だった。薄い水色というべきかも知れない。でも、最初に思い浮かんだのは青だ。
青い背景に白い、綿のようなものが浮き上がっている。
僕はそれを食い入るように見ていた。引き寄せられるように、手で絵に触れる。
紙の感触。本の重さ。その絵は、僕の中にある何かを知らせる。
窓を見る。その奥の色は、本当は青ではないのか。この本の絵のように、青々とした何かのはずだ。
そう思うけれど、確かめる方法がない。僕は本を戻してノートを開いた。今日は色々あったからたくさん書ける。たくさん書いて、僕は布団に入る。次のことを考えながら僕は目を閉じた。
『今日はいろんな色が目に入った。白、茶色、黒、白に近い暗い色、赤、青、水色。たくさんの色に僕は囲まれている。前の時に見たデコボコの壁みたいなものは窓のようだった。だけど何かが足りない気がする。何だろう。あと、赤い本には、絵が増えていた。青と白の絵。一面の青に浮ぶ白。あれはなんていうんだろう。何処までも続く青に浮ぶ白いもの。あそこにいけたら何か分かるかな。僕の中にある、何かが分かるかな。次のときは、もう少しそのことを考えてみるのもいいかもしれない。』
目を開ける。
昨日と同じように色が僕の視界に入る。布団から起き上がって、僕は目を擦る。
なんだか頭がぼんやりしているけれど、僕はすぐに目の前を見た。
窓がある場所の反対側、棚がある場所の隣の壁。そこに新しいものがあった。
四角い、緑色のもの。ぽっかりとそこにある緑のそれは、他のものと違っている。
大きさは僕より少し大きい。僕の身長より大きいものは棚以外で初めて見た。
触ってみるとひんやりと冷たい。少し力を入れて押してみる。動かない。
じゃあこれは何だろう。頭をひねって考えてみるけど、答えは浮かばない。
緑色の四角いものに沿って、触ってみる。ぺたぺたと音を立てながら、僕は何かないかと調べる。
すると僕の右手側、僕の背より少し低い場所に、穴があった。
丸い穴。大きさは僕の掌くらい。何かを入れる穴か、それとも何かがあった穴なのか。
分からないけれど、これがこの壁と関わりがあるのは当たりだと思う。
穴に手を入れてみる。指が三本入った。力を入れて体を内側に引っ張る。ガタッと音がして壁が少し揺れた。
どうやらこの壁は、白い壁のほうとは繋がってないようだ。ということは、もしかしてこれは扉なのかな。
扉。この部屋から出る扉? この向こう側に何かがあるのかな。僕の知らない、何かが。
そう思うと、何だかいてもたってもいられなくなった。出たい。ここから出たい。その言葉が僕の頭の中を駆け巡る。
穴にもう片方の手を入れる。指が入りきらない。でも僕は力を入れて扉を揺らした。
ガタガタと揺れる扉。でも開かない。揺れるのに扉は隙間さえ見せない。
僕は仕方なく扉から手を離した。開かない以上、扉を動かそうとしても無駄だ。僕は少しだけ残念だったけれど、別のことを考えることにした。
窓に目を向ける。昨日と違って青が一面に広がっていた。あれは、昨日、本で見た絵にそっくりだ。
吸い寄せられるように近寄って、僕は窓に手をつける。青を見る。何処までも続く青は、どこか遠い世界のようだ。
世界。僕の世界はこの小さな部屋だけ。たった一人だけの、この世界の中だけ。
どうやったらこの部屋から、この空間から、この世界から出られるんだろう。僕はこの世界から出る方法を、見つけたい。
僕は窓から離れて机に座る。ノートを開く。
今日書いたことは外のこと。世界のこと。僕はたくさん書いた。今までいろんなことを書いたけれど、今日みたいに外のことを書くのは初めてだ。
僕はノートを閉じる。布団に入って、僕は扉を見た。あの緑の扉の奥に行きたい。そうすれば、僕は全部分かる気がする。
次はきっと、外に出られる。そんな気がして僕は目を閉じた。
『今日は緑色の扉を見つけた。最初は壁かと思ったけど、穴があった。僕の掌ぐらいの穴。そこに指を入れて動かしてみたけど、ガタガタと音がするだけで開かなかった。諦めて次に窓を見た。窓は昨日と違って青が広がっていた。綺麗な青だった。きっと、あのむこうには広い世界があるんだろうな。そう思うと、外に出たくなって、出られる方法を探そうと思った。次に目を開けるときは、出る方法を探そうと思う』
目を開ける。
僕は部屋の中心に立っていた。周りを見ると昨日と変わらない風景。でも、僕はそこから動かない。動けない。
僕は窓を見る。距離を置いたことで、青の色が濃いように見えた。
ふと、僕は手元を見た。僕の手には、あの赤い本があった。思わず開く。昨日まであった絵は消えていた。
再び真っ白になってしまった赤い本は、もうあの絵を映し出すことはない。それがなんだか寂しくて、僕は本を閉じた。
ここで過ごしたことを思い出す。数えて、今日で七。七日ここにいたことになる。
短いようで長い期間。ノートに書いた文字だって、ノートの半分も書かれてない。
だけど、あの言葉は僕の本心で、外に出たいと思ったことも、感じたことも事実だ。
だから、僕は、外に出たい。
どこか遠い世界の話。それは僕が作り出した世界の話。最初から、僕は知っていた。知らないふりをしていた。気づかないふりをしていた。それが、この世界の理由。
僕だけがここにいるのも、僕がそう作り出した。でも、その世界も、もう終わりにするべきだろう。
世界が壊れる。夢が終わる。僕が僕に見せていた夢が終わりを告げる。
窓が割れて、壁が崩れる。それに合わせるように机が、椅子が、棚が崩れるように壊れた。
僕はそれを見ている。床に亀裂が入っても僕は動かない。
そして、僕の体は崩れた床に合わせるように、仰向けに倒れる。いつの間にか消えていた天井に、青が描かれていた。
僕は手を伸ばす。あの青に触れたくて。けれど、届かない。
僕は落ちていく感覚に身を任せて、目を閉じた。
僕の世界の終わり。僕だけの夢の終わり。
さようなら、僕だけの世界。
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