転成
七夏
序章
職業『女優』
日本の総人口は一億二千万人程度だが、ほぼ間違いなく三分の二以上の人間が
あるキネマ評論誌に彼女の記事が載っていた。見出しはこうだ。
『皇緋ジュリアは人に非ず。非凡の塊であり、人間たらしの天才だ。』
この言葉は如実に皇緋ジュリアを表しているが、彼女を知らない浅学な人間のために説明しておこう。
年の頃は不明。かんばせは正しく芸術。石膏のように白い肌は艶やかで瑞々しく、浮き出た毛細血管の青と赤がいじらしい。すっきりとした顎のラインに程よい肉づきの頬は健康的な印象を与え、形の整った高すぎない鼻やふっくらとした果実のような赤い唇に控えめな女性らしさを感じる。けれど意思を感じさせる鋭角な眉と、長い睫に囲まれた黒い大きな瞳、墨を溶かしたように黒く長い髪は、自分を値踏みする大衆諸君に「何様だ」と挑んでくるような印象を与える。
報告によれば「あなたをこの目に映すことを許してほしい」「どうぞもっと蔑みの目を見て欲しい」など被虐心を擽られ、発狂した男たちも少なくはなかったとか。
顔の美しさもさることながら皇緋ジュリアの凹凸のはっきりとした艶めかしい肢体は男ならず女までも魅了した。
皺ひとつない長い手足に張りのある乳房、両手で鷲掴みできそうなほどの細腰は正しく柳腰。けれど尻はふっくらと丸みを帯びており、彼女の体のパーツで唯一母性を感じさせた。
男には劣情を、女には憧れを抱かせたけれど、誰もジュリアを「手に入れる」ことができない。
見ることも、憧れることも、触ることもできるけれど、それだけ。偶像なのだ。ただ聖母マリアのような清廉な信仰を集めるものではなく、マグダラのマリアのような清廉というイメージを持たない、人間を惑わせる惡の華の偶像。
ジュリアという惡の華は自らの色香で多くの人間を惑わせた。とりわけ男はその色気に抗いがたく、陶酔する。彼女の匂い立つ色香は花の甘い蜜では生易しい、脳にまで届くような白い百合の花のあのねっとりとした、いや、そこに血を混ぜたような麝香そのものだ。
ニオイに騙された男は数知れず、幾人かはその甘美と恍惚に悪酔いし精神病棟に入院、自殺までしているとか。
そこに存在するだけで強烈な異才と存在感を放つジュリアだが、本業は女優。演技についての評価も記しておこう。
彼女の代名詞と言えば江戸川乱歩の『黒蜥蜴』緑川夫人。あの女怪盗をやらせれば右に出る者がおらず、明智小五郎を出し抜いたときに見せる愉悦の演技は一度見たら忘れられない。明智という正義に自分という卑しい盗賊が勝った。「お前の推理など自分には及ばない」そんな悦が唇と瞳を少し動かしただけで鮮烈に、そして強烈に見る者の目に焼き付いた。
かと思えば谷崎純一郎の『春琴抄』の春琴師匠のような静かな女性の役も素晴らしく上手い。盲目であるために目で語り掛ける演技が出来ないのだが、ジュリアはそれを自らが醸し出す雰囲気で補った。平素、画面を通してこちら側に流している色香を体の動きで、唇の動きで、呼吸すべてを使って放った。その威力たるやスクリーンで鑑賞していた観客に鋭敏に突き刺さり、鼻血を出した者、失禁した者、失神した者、中毒になった者、様々な病院送りが出た事実がある。
これを総じて『
皇緋ジュリアは「毒婦」というのが相応しいのか、それとも「ファム・ファタール」という言葉が正しいのか。
正解はどちらも。
両語共に男を破滅に導く女という意味であるため、大衆紙は皮肉を込めて彼女をこう評した。
皇緋ジュリアは「運命の毒婦」なのだ、と。
ジュリアは話題に事欠くことのない大物女優。アラしか探し出さない人格に問題がある批評家たちの論評にも賛辞を書かすほどの威力を持っている。承前の映画評論誌の見出しなど、正しくその一例だ。
さて、皇緋ジュリアの特異性についてはこれで十分理解してくれたと思うが、彼女が他と明らかに違うところが一点存在する。
それは、皇緋ジュリアはすでに三度死んでいるということ。
意味が分からないなどと言うことなかれ。言ったであろう?
皇緋ジュリアは人に非ずなのだと……。
転成 七夏 @nananatsu7
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