§4ー3 小さな箱



 塾のあと八時過ぎに帰宅したら、伯父さんはまだ帰ってきてなかった。

 あたしたち三人のなかで最も料理の上手い真南が、腕によりをかけてハンバーグを焼いていた。

 あたしのカレーなんて比べものにならないクオリティだ。

「お疲れちゃーん。初の塾はどうだった? ついていけそう? 解けない問題があったらお兄ちゃんのぼくが教えてやるからな」

「わー、ごはん美味しそーう」

 あたしの声は少し上ずっている。

 真南に言わなくちゃいけないことがたくさんあった。しかもそれは急を要することだった。でもどうやって切り出せばいいのかわからないから、喉の奥が緊張する。

「父さんは遅くなるって電話あったから先に食べちゃおう」

「うん。いただきます」

 食卓の上には、あたしと真南のふたりぶんの食事。

 最近ようやく馴れてきたいつもの光景だ。でも、今夜は何だか違う。あたしはテーブルの上と真南の表情を交互に眺め、耳を澄ませて、そして気づく。


「真南、鳴ってる」

「ああ、うん知ってる」


 真南がリビングのソファの上に放り投げているスマホが、さっきからずっと鳴り響いているのだった。

 不穏な着信音をかき鳴らして電話が震える。すぐに留守録サービスに繋がる。そして沈黙。

 でもその一分後には、また同じように鳴ってる。

 その間にメッセージの着信音も混ざる。さっきからずっとその繰り返しだ。でも真南は一度も手に取ろうとしない。

「あやめ氏、嬉しい知らせと説教のどっちを先に聞きたい?」

「説教を聞く」

 あたしはひとつの覚悟を固めて真南に答えた。

 真南が焼いたハンバーグは肉汁たっぷりなのに香ばしくて、口に含むと幸せになれる。

 そしてコンソメスープは、インスタントではない味がした。いったい真南はどうやって作ってるんだろう。そして彼がこんなふうに料理上手になってしまったのは、離婚してしまった伯母さんのせいであり、そのおかげなのかもしれない。

 真南は昨日見たアニメのあらすじを説明するときのような声で、「じゃ先にお兄ちゃんが説教するけど」と顔を上げた。


「あのねあや。ケータイっていうのは、おもちゃやゲーム機とは違って、もっと大事な、どちらかというと財布に近い持ち物なんだよ。ケータイデンワって個人情報の塊なんだ、だから落としたり壊れたりなくしたりしたら大人は大慌てするだろ?」


「……うん」

「だから、ちゃんと自覚をもって管理しなくちゃいけない。小学校だって、ケータイの所持は黙認してるけど本当は禁止だろ? 校内で使ってるところを見つけられたらソッコーで没収だ」

 ここでまた真南のスマホがメールの着信音を鳴らす。

「どうして厳重に管理しなくちゃならないのかというと、ケータイの中には自分以外の人間のデータもたくさん入ってるからなんだよ。友達や家族の番号やアドレスや、思い出の写真や、メールやメッセージのやりとりだとか。だから、初めてのケータイで友達に自慢したいのは判るけど、簡単に他人に触らせるようなことは」

 あたしははじめから、真南が何を言いたいのか判っていた。

 いきなり怒鳴りつけずに、あくまで、あたしの無知が原因で引き起こされた事故だと思っている。だから怒らずに、まずはケータイを手に入れて日が浅いあたしに教えてくれている。

 あたしは弁解したい。

 そして謝って、責任をとりたい。

 また着信音が流れてきた。

 今度はメールではなく電話の着信だ。

 あたしは食卓から立ち上がってリビングに走る。ソファの背もたれをジャンプで飛び越えて真南のスマホを取り上げ、通話マークを指先で叩いた。


『やっと繋がった。若月くんなんで電話取ってくんないの、森高ですけどー』


「小春。あたし」

『は? 誰? あやちゃん?』

「あたしのケータイから真南の電話番号とアドレス盗んだでしょ、なんでそんなことするの」

『若月くんに電話してるんですけど。若月くんと代わってくれる?』

「真南は迷惑してる。何してんの、キモいよ小春」

『若月くんのこと真南なんて呼ばないでくれる? 何? 妹ぶってんの? それとも彼女気取り?』

「あのね小春」

『バッッッカじゃないの! あんた勘違いしてるの? 若月くんの彼女だと思ってるの? ちょっとこれマジうける。勘違い女マジうける、これみんなに言うから。晒すから』

 みんなに晒すって意味わかんないし。……

『しね!』

 小春の甲高い声が鼓膜に響き、言い返す言葉も見つかなくて大きく口を開けたところで、電話は切れた。

 やばい。

「何て顔してるんだよ」

 あたしの顔を見ないまま、真南が背中を撫でてくれた。

「着信拒否すると昔のように家に乗り込んできそうだから、とりあえず今夜は無視で乗り切る。またしても父さんに相談だなあ。また森高のところの両親とバトっちゃうなあ、前に揉めたときにもらった接触禁止の念書、たしか父さんが持ってるはず」


 あたしは両手で顔を覆った。


「真南ごめん。小春が、あたしのケータイを手にとって、ただ、番号とアドレスを交換してくれたんだって思ってたら真南の番号とアドレス知られてしまった。小春はあたしの、転校してから最初の友達で、最初に話しかけてくれて、あたし、嬉しくて、あたしは前の学校でいじめられてたし、それで話しやすくて、最初はいい子だなって思ってたの、優しくて、ふわふわしてて、親切で、いつもあたしのことを気に掛けてくれて、真南みたいにアニメやマンガの話をするときキラキラしてて。真南と去年そういうことがあった子だなんて知らなくて」

「そっかあ。森高は相変わらずだな」

 真南は複雑な顔でちょっと笑って、あたしを食卓に促した。

「二年前、小学校の図書委員会でイッコ下の森高と知り合って仲良くなったんだ。ぼくが五年生であいつが四年生だった。あいつは相手によって態度をコロコロ変えたりすぐキレるところがあるから友達いなくて孤立してたらしいんだけど、ぼくとは学年も違うし、それになぜか妙に趣味が合って。最初は委員会で顔をあわせるたびにマンガの貸し借りをするだけだったんだけど、ぼくも森高も親が共働きで夜遅くまで家でひとりだったからさ、そのうち電話したり親がいないときには家に呼んでゲームするようになって。あの頃は母さんの海外転勤が決まって両親が別居するか離婚するかでケンカばかりでぼくは寂しかった。こういうのって男友達には言えないから森高に愚痴ったりしてた。本当に辛くて、母さんはとうとう離婚届を置いて出て行っちゃったし、怖くて寂しくて毎晩ひとりで泣いてた。それでなんというかこう、だんだんと森高とは互いに好きかもみたいな雰囲気になって。六年生の夏頃までそんな感じだった」

「それで?」

「そしたら学校でぼくたちのことが噂になって、恥ずかしくて、ぼくは森高から離れることにした」

「恥ずかしいのはわかるけど、それでどうして小春から離れようとしたの」

「それは」


 真南はゆっくりと、視線を伏せた。


「……森高がぼくのことを彼氏だと言いだして、昼休みにも絡んでくるしベタベタしてきて急に怖くなったから。というのが建前で、でも誰にも言えなかったけど、本当の理由は」

 真南は静かにあたしを見つめ、言った。

「森高が性格悪くて言動が異様で皆に避けられてたから、それで、ぼくも彼女と同じ人間だと皆に思われちゃうんじゃないかと心配になって、彼女みたいに無視されたりいじめられるのが怖かった」


 あたしは勢いよく席を立ち、真南の頭を握った。

 長崎くんの頬を叩いたときと同じ衝動がこみ上げる。

 真南は逃げない。

 あたしはゆっくりと力を抜いて、その髪をくしゃりとかき混ぜた。

 誰にも言えなかったけど、と真南は言った。

 今まで誰にも言わなかったことを、あたしに言ってくれている。だからあたしは真南の言葉を受け止めなくちゃ。


「そっか。そうだったんだね」

「ぼくが距離を置くようになったら森高がキレちゃって、毎日うちに押しかけてピンポンダッシュするわ、家の電話はガンガン鳴らすわ、教室でもヒステリー起こすようになって先生も持てあましちゃって、最後はぼくのお父さんと森高の両親が学校に呼び出されて、校長先生の前で話しあいをして、森高の親が念書を書いてハンコ押して、それを父さんが受け取って。うちは家電の番号を変更して、ぼくは小学校を卒業して終わり、のはずだったんだけど」

「……」

「たぶん全部ぼくが悪い。怖くなって急にあの子を突き放したから。森高の味方になってあげられなかったし、見捨ててしまった」

「そんなことないよ」


 そんなことない。

 そんなことないんだよ。

 あたしは自分に言い聞かせるように、真南に囁く。

 小春のほうが悪いんだ。

 あたしは胸の中でそう呟いた。だって長崎くんや他の子たちも言ってた。小春が悪い。性格が悪くて意地悪で、ひとのものを盗むし嘘をつく。小春の悪いところをたくさん並べてみた。あたしのケータイを勝手に触った。アドレスのデータを盗んだ。真南の写真を見た。

 それだけじゃない。

 あのクソ女は、燎平からきた最初のメールも勝手に読んだ。

 頭の裏側が、ぎゅっ、と熱くなる。

 そうだ許せない。

 あたしが心を込めて送った「元気ですか」の問いかけに、「元気です」と答えた燎平。その短い一言を小春は盗み見て、短いとか顔文字がついてないってバカにした。知らないくせに、小春は燎平のことなんて何もしらないくせに。

 ぜったい許せない。

 自分に暗示をかけるようにそう繰り返してみたけれど、どうして、気が重いのだろう。どうして小春を責める被害者のあたしが胸を痛めているのだろう、罪悪感に囚われるのだろう。

 あたしは明日からの学校生活を想像して溜息をついた。

 罪悪感の原因は、たぶん、あたしが直接の当事者ではないせいだ。あたしが知っている事実の出所は、目の前にいる真南の昔話も含めてすべて伝聞だった。

 もしも小春が本当に最低最悪な女だとしたら、あたしは本当に許さない。そのためには自分の目と耳と心で確認しなくちゃならない。

「あした学校で小春と話してみるよ。小春はあたしと真南がつきあってるって誤解してるの。だからあたしに嫉妬してるの、誤解がとけたら判ってくれるかも」

「もう面倒くさいからそう思わせとけば?」

「え?」

「イトコ同士は結婚だって出来るんだし、つきあっててもおかしくないし」

「何言ってるんだよ、あたし真剣に話してるのに。それに真南は妹属性なんでしょ!」

「おう、さっそく新しく覚えた言葉を使ってる」

 暗くて重い話題だったはずなのに、最後になって急に真南がそんなことを言いだすから、ふわっと空気が和らいだ。

 あたしが奈那さんと面白おかしく暮らしていた頃、伯父さんと伯母さんは離婚の話し合いをしていて、真南はそれが辛くて寂しかったんだ。

 ハンバーグをたいらげたあと、あたしは食卓に頬杖をついて真南の表情を眺めた。

 もっと早く真南と頻繁に会えたらよかったのに。

 あたしが前の学校で辛かったときに。真南が両親のことで辛かったときに。そしたらやっぱり最初は喧嘩しただろうと思うけど、きっと、小春の代わりにあたしが遊んでやったのに。寂しくないよって言ってあげられたのに。


「ところで真南、最初に嬉しい知らせか説教のどっちを先に聞く? って言ってたけど。嬉しい知らせって何」

「あ、そうだ」

 真南はいきなり歓声をあげた。

「見なよ、これ」

 浮かれた調子で封筒を差し出す。無言で受け取って中身をひらくと豪華なカードが入っていた。

 招待状だ。

「何?」

「舞踏会の招待状。今日ぼくのロッカーの扉に刺さってた」

「これってあれでしょ、田端翔馬の生徒会……」

 真南はあたしの指先からカードを取り上げる。そして恭しく両手で掲げた。

「その会合に呼んで貰えるんだって! こういうパーティに何度か招待客として参加して雰囲気掴んで、実際に活動に入れてもらえるのはその後になるんだけど」

 あたしは食卓越しに身を乗り出して、真南から招待状を奪い返した。

「でもどうして翔馬が真南を招待しなくちゃならないの? 真南はあのひとをボッコボコにしちゃったんでしょ、罠じゃないの? 待ち伏せされて復讐されたらどうするの?」

「あ、そっか。てっきりぼくが有名人になったから舞踏会に招かれる資格を得たのかと。でも復讐といってもなあ、銃で狙撃されたらさすがにやばいとは思うけど、それ以外だったらまるで負ける気がしない。そもそもこのパーティ会場、主催者の自宅だし」

 あたしの隙をついて真南がまたしてもカードを奪った。

「自宅? 田端家ってこと?」

「あやも来るだろ? このパーティは必ずパートナー同伴って決まってるんだよ。ぼくはこういうところに付いてきてくれる彼女はいないし」

「アニオタだからモテないもんね」

「うるせえよ」


 ぴろりんぴろりんとメールの音。

 再び始まった森高小春のメール責め。


 あたしと真南は同時に彼のスマホを眺める。

 そしてたぶん同時に同じことを考えていた。もしも森高小春はああいう子ではなかったら、もしも彼女がずっと真南と仲良く出来ていたなら、もしも真南が彼女の手を放さなかったなら、誘われるのはあたしではなく小春だったはず。

「自宅ってことは、燎平もいるのかな」

「そりゃいるだろうな」

「それなら」

 あたしは、ここでひとつ吐息した。胸がざわつく。顔が熱くなってくる。

「それなら一緒に、行ってやっても、いい」

 夕飯のあと、真南に命じられて食器を片付けている間、あたしはぼんやりと妄想していた。

 着飾ったあたしを見たら燎平はどんなふうに思うだろう。あたしはどんなふうに見えるだろう。

 可愛いって思ってもらえるだろうか。

「あや、今度はおまえのケータイ鳴ってる!」

 真南の叫び声があたしを現実に引き戻した。

「え」

 リンロンリンロンと陽気なベルの音が響いている。

 あたしのケータイの着信音だ。


 これがホラー映画なら、スタッフロールの後のバッドエンド。

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