§3 孤独ではない

§3-1 大人になるにはまず勉強だ



 土曜日になった。

 今日からあたしは塾に通う。まずは本日、どのクラスに入るのか決める実力テストを受ける。

 自信は、実は、少しある。

 前の学校ではたぶん一番頭がよかったと思う。

 転校するまでの半年は真面目に通っていなかったけれど、テストは全部九十点以上だった。

 あたしの頭なら、勉強しなくてもある程度はいけると思っている。

 それは今のところ、背が低くて性格が悪くてたいして美人でもないあたしの唯一の長所であり、自慢であり、そしてきらきらと輝く絶対的な鋼鉄のプライドだった。


 伯父さんは休日出勤だ。

 今月はあたしのせいで度々有給休暇を取ったから仕事が立て込んでいるのだと思う。少々申し訳ない。

 そんなあたしの表情に気づいたのか、朝の食卓で伯父さんは妙に伸びやかに笑った。

「少しでも僕に申し訳ないなあと思うなら全力でテストに挑んでおいで」

「たぶん頑張ればいけると思います、はい」

 あたしは素直にそう答えたけれど、そう頑張らなくても塾でトップのクラスには入れるんじゃないかなと思っている。

 甘い目論見だろうか。

「自信たっぷりだね。そういう性格の悪いところが菊花によく似てる」

 ママの名前だ。

 ときどき、伯父さんの言葉からママの面影がふわっと漂ってくる。そして伯父さんはあたしの姿に、死んだ妹の記憶を重ねている。

「君の母親は、子どもの時から頭はいいけど意地悪で皮肉屋で高飛車な最低最悪のクソッタレの妹でね。それでもいきなりすべてを捨てて家出しちゃったときはショックだった。再会したときにはすでに彼女の腕には赤ん坊の君がいて、未婚で子どもを産んだというし、傍には花冠の女騎士さながらに凜々しい奈那さんがいた。奈那さんのことはそれよりも前から知っていたけれど、妹がこれからは奈那さんとムスメの三人で暖かな家庭を築きますなんて言うからおじさんショックで気絶した」

 そういう事情は初めて聞いた。

 この逸話だけでもママがどれだけ強情で強靱な人間だったのかがよくわかる。あたしの中に、ママの血が流れている。伯父さんの血も流れている。

「ママが暴れん坊ですみませんでした。いきなり家出して子どもを産んじゃうわ、よくわかんないけど奈那さんと恋愛しちゃって不倫して彼女を離婚させちゃうわ、それで最期は病気であっさり死んじゃうし」

「まったくだ。僕の人生前半戦は菊花に振り回され続けたようなもんだから。本当にすっちゃかめっちゃかのお姫様だった」


 胸がきゅんってなる。

 伯父さんの気持ちが少しわかった気がして、嬉しいような、ちょっとせつないような不思議な感じがする。こんなふうにあたしを大事に思ってくれるなら、もっと奈那さんが生きていたときにあたしたちと仲良くしてほしかった。

 伯父さんはもしかして、ずっと奈那さんと疎遠だったことを後悔しているのだろうか。

 こんなちゃんとした大人の男の人も、後悔ってするのだろうか。


「伯父さん、あの、訊いてもいいですか。怒らせたらごめんなさい」

「何? なんだか怖いな」

「奈那さんは本当にただの絵の先生だったのかな。たくさんお金を持っていた、なんてことは、ない、ですよね? 何処かに金塊が埋まってるとか」


 伯父さんはちらりとあたしを見た。


 その表情にあたしは真実の在処を探す。

 でもあたしだってこんなこと訊きたくない。嘘つかれても本当のことを言われても、もしかしたらあたしは傷つくかもしれない。

「そういうお金は無いよ。君を引き取る前に彼女のご両親や弁護士さんと話し合いをしたけれど、とても質素で感じのいい方々だった。隠し事や不誠実はないと思う」


 ああ。

 あたしは小さく息を漏らした。

 伯父さんの言うとおり、奈那さんのご両親はそんな悪い人には見えなかった。


「奈那さんが絵の仕事の傍ら副業をしていたことは僕も知ってるよ。たぶん妹も同じことをしてた。前に妹には特殊な才能があったって話したよね? 大きな報酬がもらえる仕事だと聞いているけれどその大金を何に遣っていたのかはわからない。彼女たちの仕事については、いつか、もう少し時間がたってから話そうね」

 そんなことで止められたらもやもやする。

 でも深追いはしない。伯父さんはいつか必ず話してくれるはずだ。

「へんなこと訊いてごめんなさい。怒らないでくれてありがとうございます」

 伯父さんは小さく肩をすくめてみせた。

「塾まで送ってあげられないけど、気をつけて」

「あの、お詫びに晩ご飯はあたしが作ります。料理はあまり得意じゃないけど」

「楽しみだ」

 立ち上がりざま、伯父さんはあたしの頭をくしゃくしゃと撫でてくれた。

「生意気が過ぎるけどいい子に育ってくれてよかった。奈那さんは僕と違って子育て上手だな」

 あたしのことを褒めてくれているのではない。きっと奈那さんを褒めてくれているのだ。

 期待を裏切っちゃいけない。

 失望されないようにしなくちゃ。

 嫌われないようにしなくちゃ。

 勉強もがんばる。家事も手伝う。新しい小学校には毎日通う。まじめな子どもになって、いい学校に入って、いい大学に入る頃にはきっと自立できるはず。きっとその頃にはひとりで生きていけるはず。

 大人になるにはまず勉強だ。

 自立した女になるには、何を置いてもハイレベルの学歴。天国のママと奈那さんもきっとそう思ってるはずだ。





 塾の教室は、学校とは違う匂いがした。

 こんな時期に受験のため塾に入るなんてきっと少数派だとあたしは考えていたけれど、そんなことはなかった。あたしと同じ時期に入塾手続きをして今日テストを受ける生徒は、他校生も併せて十人いる。ぎりぎりまで部活をしていた子や親に放り込まれた子がほとんどだ。

 テスト開始時間まであと五分。

 受講生は全員そろったらしい。それぞれ好きな場所に着席してぼんやりしていた。

 人間は顔じゃないっていうけど、あたしは、学力は容貌と雰囲気に出ると思っている。美人だとか不細工だとかそういう意味ではなく、生まれつき勉強のデキる人間というのはそういう顔であり、そういう佇まいをしている。

 そこであたしは、この教室にいる十人を眺めた。

 まず後ろの席に座ってスマホをいじっている女と、斜め前に座っているジャージ姿の男の背中。このふたりだけはオーラが違う。子どもの世界には、そういう、何の努力もなくカーストの頂点に立つことが約束されている人間が平気な顔して生きているのだ。

 かくいうあたしも、学校の勉強だけでいうなら優秀だ。でもだからといってそれじゃこのままの調子でいつか東大の理3に入れるかといえば絶対に無理だ。確実に無理だ。

「確実に無理だ、」

「え、何か言った?」

 ジャージ姿の背中が振り返る。

 坊主頭の浅黒い少年だ。

 インドの修行僧みたいだなと思った。

「あ。若月さんだ」

「あー」

 人懐っこい表情を向けられたけれど、その顔に心あたりはない。

「同じクラスの長崎だけど。若月さんもこの塾に通うの?」

「うん。……ごめん、あたし男子の名前まだ全部覚えてなくて」

「それなら今日から覚えてよ、よろしく。塾でも同じクラスになれるといいね、そしたら宿題の協力できるし」

 そう言って、犬のようにへへっと笑った。


 なんて流暢な社交辞令。


 こういう男の将来は決まっている。高校でも大学でも人気者、超一流の総合商社かメーカーに就職して、順調に上り詰めて合コンで超モテモテ、先輩には「最近フットサルどうすかぁまた誘ってくださいよ」と懐いて上司には「ゴルフいっすねー」なんて尻尾をふってお局女子には「オレ最近カフェ巡りが趣味なんスよ」なんて屈託なく話しかけて可愛がられ、三十代にして年収は一千万、

「年収は一千万、」

「いやいや若月さん、宿題で年収一千万って何の話だよ」

「あ、ごめん」

「いいよ。オレ突拍子もない女の子大好き」

 長崎くんがくすくす笑ったところで、テスト用紙を抱えた講師が教室に飛び込んできた。

 


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