[胎 動 篇]

序 章 Prologue of the Long Prologue 三人の〝父親〟

序 章 1 南北軍会盟

 険しい岩場をはい登る二つの人影があった。


 月はなく、山岳特有の冷たい夜霧が山肌を漂っている。

 奇妙なことに、腰に命綱を結んで引っぱるように先を行く者のほうが、ずっと小さくてきゃしゃな体格をしていた。


「なあ、待ってくれ。おまえの速さにはとてもついていけやしないよ」

 後から登っていく男が、あえぎながら訴えかけた。


「ぐずぐずしてると始まってしまうよ。このほうが早道だって言ったのは、そっちじゃないか」

「そりゃそうだけど、人には限界ってものがあるんだ。ぼくはもう一歩も動けないからな」

 だだっ子のようにすねた声で言う。


 上の人影はしかたなく動きを止め、下にむかってあわれむように言った。

「……あの人が言ってたよ。敵に追われながら、ブランカの絶壁を母さんと命がけではい降りたんだって。あたしを背負い、足かせの重い鉄球まで引きずってだよ。だけど、あの人が弱音なんか吐いたと思う?」

「ちぇっ。またあいつと比べるのかよ。だったら、命綱をほどいて勝手に先に行くがいいさ」

「一人で残したりしたら、登ることも降りることもできなくなるくせに」

 幼い声がおかしそうに含み笑いして言った。


「う、うるさい!」

「シッ……。じゃあ、ほんとに命綱を切るよ。岩にしがみついてて」

「お、おい。ウソだろ!」


 だが、無情にも切断された命綱の片端がパラリと落ちてきた。


 と思うと、霧を通して一〇メートルくらい上から別の声がした。

「そこにだれかいるのか?」

 小型の探照灯のにじんだ光が降ってきて、男の眼を直射した。

 頭上にいたはずの小さな人影の姿が消えている。

「答えろ。さもないと……」

 警告する声と武器を操作する音がつづいた。


「撃たないでくれ! けっして怪しい者じゃ――」

 男が言いかけたとき、弓の矢が風を切って襲来し、頭をすれすれにかすめて飛び去った。


 あわてて岩に身体を密着させたが、その直後にいきなり光が消え、カラカラと金属的な音をたててすぐ横を何かが転がり落ちていった。


 見張りがかかげていた探照灯だろうか……いったい何が起こったのか?


「一人で上がってこれる? こいつ、ロープ持ってないんだよ」

 つぎに聞こえてきたのは、小柄な人影がささやく声だった。


「も、もちろんさ!」

 男は必死の思いで手探りし、なんとか残りの距離を登りきった。


 岩場のむこうが赤く明るんでいる。

 そのほのかな光で、倒れた見張りの横に立つ小柄な人影が見え、歯をむき出して無邪気に笑っているのがわかった。


「そいつ、気絶しているのか? なんて無茶なことをするんだ。心配したじゃないか」

 自分のうろたえぶりをそっちのけにして、男が荒い息を吐きながら叱りつけるように言うと、相手は素直にうなずいた。


「ごめんよ。でも、あんたも無事でよかった」

「ちぇっ」

 舌打ちしたが、男のほうも悔しがっているというより、妙に嬉しそうだった。


 いったいどういう関係なのか、そのやりとりを聞いても不思議さが増すばかりの二人組だった。

 彼らが並んで岩の上にそっと身を乗り出すと、そのむこうには広々とした空間が開けており、ざわついていたその場がまさに静まりかえったところだった。


 谷間の中央に、二つの大きなかがり火がたかれていた。

 それを結ぶ線を境界にして、二つの軍勢が対峙している。


「とうとう長年の反目が終わるんだな……」

 横に身を伏せた男がつぶやくと、

「終わりなんかじゃないよ。これは……もっと大きな戦いの始まりなんだ」

 応えた幼い声の主のすばしっこく動く眼が、キラキラ光る大きな瞳でその光景を食い入るように見つめた。


 夜霧に濡れて、てらてら光る鉄製の面頬をかぶった黒づくめの兵士たちが、精強で知られた北方王国軍である。


 一方の南部諸州の軍隊は、同じ頭巾をつけるにしても、ある者は鉢巻きのように結んで余りを背中に垂らしているかと思えば、ターバンのように髪をすっかり包みこんでいる者もいる。

 服装も武器もまちまちで、こちらは総じて軽装の者が多かった。


 かがり火の間に双方から代表者が歩み出ると、それぞれが特徴のあるしぐさで友好の礼をとり、用意してあった協定書を交換した。


 期限が限られており、いくつもの付帯条件がついた部分的な連携にすぎなかったが、これが歴史的な同盟になることは疑いなかった。


 握手が終わると、北方王国の代表者が、感極まったように手にした協定書を自軍にむかって高々とうち振った。

 巨岩がひしめく谷間全体をどよもすような歓声があがる。


 それにならって南部代表も協定書を頭上にかかげてみせると、こちらからも口笛や笑いの混じった歓喜の声がつぎつぎあがった。


 パシッ!


 どこからか鋭い風音がしたと思うと、いきなり、南部軍の代表者の手から協定書が消えたように見えた。

 つぎの瞬間、ちぎれた紙束が、ヒラヒラとかがり火の赤い明かりの中を舞い飛んでいた。


「だれだ?」

 叫んだ代表者の男は、敵軍をにらみつけた鋭いまなざしをそのまま自軍のほうへもぐるりとめぐらせ、発砲した犯人を探した。


 もとより、この同盟に不満を持つ者が双方の軍にいることは承知のうえだった。

 ことに、南部諸州の軍同士の間には温度差があり、直前までねばり強く協議をつづけてようやくこの場にこぎつけたのだった。


「ぐわっ」


 横の岩肌に寄った方向で叫びが聞こえ、ドサッと地面に倒れる音がつづいた。

 そのあたりにたむろしていた南部軍から、たちまちざわめきが広がっていく。


「落ち着け! ここではまだ裏切り者呼ばわりはせん。何か言い分があるなら、正々堂々と名乗り出てくるがいい!」

 男の一喝は、凛として谷間に響きわたった。

 低く抑制された声には、動揺をしずめようという強い意志がこもっていた。


 だが、つぎの絶叫は北方軍の中から上がった。

 全軍の視線が、大波が返すようにいっせいにそちらに注がれた。

 同じ者のしわざとは思えない。

 方向の見当も、距離もちがいすぎる。


 全軍の当惑ぶりをあざ笑うかのように、その後もつぎつぎと悲鳴やうめき声が上がった。

 順序も位置もまったくでたらめだった。


 剣を抜き放つさや鳴りの音とあわてて銃に弾を装填する音が、やかましく交錯する。

 もはや統制も何もなかった。

 このまま混乱がひどくなっていけば、手っ取りばやく眼の前にいる相手の軍を攻撃の対象にしようとするだろう。

 成ったばかりの同盟はもろくも崩れてしまう。


「大将――ゴドフロア。かがり火から離れろ。ねらい撃ちされるぞ!」

 南軍の代表者に駆け寄った兵士が警告した。

 北方軍の司令官の姿は、すでに自軍の中にまぎれこんで見えなくなっていた。


 南部軍に大将という呼称はない。

 思わずそういう呼び方が口をついて出たということが、事態の異常さと一人ひとりの動揺ぶりを物語っていた。


 ゴドフロアと呼ばれた男は、それでもその場を動こうとしなかった。

 かがり火の中心に身を置いておけば、どちらの方向へも均等に眼を配れるし、陰になって見えない部分もなくなるからだった。


 その意図を察し、何人かの仲間がゴドフロアを防御すべく、盾をかかげて取り巻いた。


 そういう形になってもなお、ゴドフロアの長身は軽く頭ひとつ抜け出ていた。

 他の者と同じ頭巾が細いバンダナ程度にしか見えない。

 広い肩幅。

 両わきに伸びる腕は、その長さと胸の厚みのせいでさほどには見えないが、至近距離から見上げれば丸太のような太さであることが容易に見て取れる。


(何が起こっているのだ……)


 ゴドフロアは唇を噛んだ。

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