第三章 4 聖域を侵す者

 ロッシュとアラミクの二人は、渇きと身体の火照りがしずまるとすぐ、ふたたび洞窟の中へと引き返した。


 今が何時なのか、洞窟に入りこんでからどれだけ時間がたったのかもまったくわからなかったが、岩壁の残りの一方の側だけを調べていけばよく、こんどはかならず換気口が見つかるはずだった。

 曲がりくねってはいても下り坂であり、一度通った道だというさほど根拠のない安心感もあって、探索の道行きは淡々と進んだ。


 奥深い横穴のひとつに、床がコンクリートで固められた平らな場所が見つかった。

 その中央に、やや目の細かい鉄格子がはまった四角い穴が開いていた。

 中をのぞくと内部の壁面は金属できれいに張られている。

 人一人がやっとはって通れそうな空間だが、そこからは、洞窟内を吹き抜ける熱気とはまったく異なる、つんとくる薬品のような匂いをふくんだ冷たい空気がただよい出していた。


「ここだな」

 汗をぬぐいながらロッシュがつぶやくと、アラミクは眼を輝かせてうなずいた。


 鉄格子は内部から固定されていて、せっかく持ってきた工具箱だったが、中のものはどれも役に立たない。

 アラミクにあずけていたバールを使って、周囲のコンクリートを強引に崩していくしかなかった。

 ガツッ、ガツッとにぶい音が洞窟内に響きわたる。

 その乱暴な音は、生命回廊にも反響していることだろう。

 アラミクは、静寂の中で眠っているはずの幼体たちのことを気づかってか、たまらず両手で耳をふさいだ。


 最後は足で何度か蹴りつけると、鉄格子は穴の中に激しい金属音をたてて落下した。

 ロッシュはただちに穴に飛びこんだ。

 だが、横穴をいくらも進まないうちにまたもうひとつの障壁にぶつかってしまった。

 通風管の全面をふさぐ巨大な換気扇だった。

 ここまで来れば、ロッシュにはもはやためらいはない。

 ゆっくり回転する換気扇にむかって無理やりバールをねじこんで羽の動きを止めると、通風口に仰向けに横たわり、両足で換気扇を思いきり蹴りつけた。


 ガキン!

 壁から引きちぎられた換気扇は、そのむこうをふさいでいた金網ごと吹っ飛び、広い空間が開けた。

 アラミクを洞窟から助け下ろし、静寂にかえった生命回廊に降り立った。


 粛然とした気持ちになるのは、スピリチュアルの聖地だと思うからだろうか。

 初めて眼にする生命回廊は、ロッシュを呆然と立ちつくさせた。

 最小限の照明が、輝度をほとんど最低に落としてどこからか全体を冷たく明るませている。

 暗闇になれきった眼には、それでも無数に立ち並ぶカプセルが細部までくっきりと見えた。

 一つひとつのカプセルにさまざまな成長段階の幼体が浮かんでいる。

 たち昇る細かい泡は、それぞれの幼体の息づかいのように思えた。


 頭上にずらりと並ぶ緑色の小さなランプが、すべてカプセルのありかを示していると気づいたとき、ロッシュは一瞬、軽いめまいのようなものを覚えた。

 これほど膨大な数のスピリチュアルの生命が新たに誕生してくるとしたら、これからの世界はいったいどのような様相になっていくことだろう。


 ロッシュの心の中を見透かしたように、アラミクは悲しげに首を横に振った。

「幼体は約三年間カプセルの中で養育され、臨月を迎えるとフィジカルの四、五歳ほどの幼児として誕生します。でも、この中から無事にそこまで生き延びてくれるのは、ほんのひと握りにすぎないのですわ」

「そうなのか……」

「はい。六か月未満の幼体は、育たなかったとしても埋葬の対象にはなりません。それが大部分なのですから、一人前のスピリチュアルとして認められずに消えていく哀れな生命の、なんと多いことか――」

 その悲しみを、寮母をはじめ、シスターたちはいっさいこの生命回廊から出さず、すべて彼らの胸に受け止めていたことになる。

 カナリエルもその中にいたのだ。


 フィジカルの胎児なら、かならず母親の胎内で育つ。

 母がいなければ、そもそも赤ん坊が生まれるということがありえないのだ。

 父親はなすすべもないのかといえば、身重の妻の心身の変化を見守り、いたわることによって胎児を保護する役目がある。

 ひとつの生命が現実の世界に出て生き延びていくためには、しっかりとした大きさと丈夫さを身にそなえるまで、守り育ててくれる者が必要なのだ。


 それに比べたら、スピリチュアルの親子関係は、ある日突然、結婚と誕生を同時に迎えることではじまる。

 いわば、誕生までのある意味もっとも大切な期間を、生命回廊という機関に完全にまかせてしまっていることになる。

 スピリチュアルの親子関係が、必要にせまられて便宜的につくられたものであることは、最初からわかっている。

 しかし、それがやはり偽物でしかないというか、いかにも簡略化されたものにすぎないことを、生命回廊が負っている役割の重さ、荘厳さを通してみると、どうしても感じざるをえなくなる。


 アラミクはうつむき加減に先を歩き、ロッシュは彼女に導かれて回廊を進んでいった。

(スピリチュアルの親子関係を保証している唯一のものが、〝刷り込み〟だ。しかし、親の顔を記憶していない者がいるとすれば、では、それはいったい何者なのか? そもそもスピリチュアルといえるのだろうか――)


 それでも、ロッシュには抑えがたい感動があった。

 実際には、この数日間だけでも何人めかの男にあたるのかもしれないが、気持ちの上では、まちがいなく自分が生命回廊に足を踏み入れた最初のスピリチュアル男性だという誇りと、本当の故郷に帰り着いたという混じり気のない喜びだった。


「寮母さまは、たぶん〝生命塔〟にいらっしゃいます」

 アラミクは通路が交差しているところを曲がった。

 カプセルの列は、広い空間に同心円状に何重もの輪をつくって並んでいることが、あらためてわかった。

 そこを、今踏みこんだ直線の広めの通路がつらぬいている。

 進んでいくにつれ、左右に弧を描く通路が、何本も整然と延びているのを見てとることができる。

〝生命回廊〟という名称は、この光景に由来するのだとようやく理解できた。


 二人が歩いている直線の通路は、同心円の中心に向かっている。

 正面には高い天井までとどく塔状の建物がそびえていた。

「ロッシュさま」

 アラミクが、声をひそめてロッシュの注意をうながした。

 建物の階段の下にひとつの人影があった。

 胸の下で自分の身体を抱きしめるように腕を組み、こちらが近づいていくのを微動もせずに待ち受けている。

 長い黒衣をまとったその人物は、やはり寮母だった。


「マザー・ミランディア……」

 アラミクはあえぐように呼びかけ、数歩手前でひざまずいて深々と頭を垂れた。

 マザー・ミランディアは、アラミクの後ろに立つ長身の男を見た。

「ロッシュ、やはりあなただったのですね……生命回廊を侵したのは」


 ロッシュが口を開く前に、アラミクがあわてて立ち上がり、寮母に訴えた。

「申し訳ありません……ですが、こうするしかなかったのです!」

 意外にも、寮母は皮肉っぽくわずかにほほ笑んだ。

「あなたが謝ることはありません、アラミク。それにしても、どうやって入ってきたのか知りませんが、あなた方、自分たちのひどい姿に気づいていますか?」

 ロッシュもアラミクも、あわてて自分の身体を見回した。

 放水を浴びてずぶ濡れになったあげく、長年すすやほこりが降りつもった洞窟の中をはいずり回ってきた。

 ブランカじゅうのどこより清潔に保たれた生命回廊には、いかにもふさわしくない格好になっていた。


「大変な目にあってきたようね。とにかく、二人とも生命塔の中にお入りなさい。熱いお茶でもいれてあげましょう。そしてアラミク、あなたは顔を洗って予備の清潔な仕事着に着替えること」

 階段を昇って建物に入ると、アラミクは急いでどこかの扉の中に消え、ロッシュは寮母の後について螺旋階段をさらに上へと昇った。

 最上階は仕切りがなく、窓が弧を描いてぐるりと取り巻く円形の広いスペースになっていた。

 そこからは、カプセル群の緑色の光が何重もの輪をなしてこの生命塔を取り巻いている様子が、眼下に一望できた。


 寮母が湯をわかしている間に、ロッシュは、ステーションと呼ばれるそのスペースをぐるっと一周してみた。

 医務局にあるような器材やさまざまな装置がそなえつけられているが、整理整頓がいきとどいていて、うっかり何かにつまずいたりする気づかいはまるでない。

 男臭くて雑然としていたムスタークの信号所とは、まるで正反対の印象だった。


 スペースの中央にある太い円柱のような壁面が何であるかにも、ようやく気がついた。

 ブランカを最上層から地底の発電所までつらぬく、昇降機が通る大支柱だったのだ。

 ロッシュたちが最初に着いたホールは、塔の内部のどこかあるにちがいない。

 そこを出発点として、ぐるりと気の遠くなるような旅をしてきたことになる。


 マザー・ミランディアは、ロッシュが反対側から近づいてくるのに気づくと、湯を注いだポットをゆっくり回して茶葉を蒸らしながら言った。

「カナリエルは、どこまで逃げられました?」

 いきなりそう切り出されて驚いたが、もはや隠し立てできる段階でないことは、マザー・ミランディアもさとっているにちがいない。

 へたに探るような遠回しな言い方をするより、単刀直入に娘の安否をたずねたほうが賢明だと判断したのだろう。


「無事かどうかとは、お聞きにならないのですか」

「怖くて聞けませんよ。あなたが追っていったのでしょう?」

 マザー・ミランディアは平静をよそおっていたが、声にはかすかな震えが混じっていた。


「はい。ですが、カナリエルはまだ保護されていません」

「ほんとうですか? 傷ついたりも?」

「ええ。現在、アラミクの許婚のエルンファードが捜索に当たっています」

「アラミクの……そうでしたか」

 カップに茶を注ぐマザー・ミランディアの肩から、わずかに力が抜けた。

 安堵の表情を隠しきれていなかった。

「では、あなたが、そのような格好になってまで生命回廊にやって来なければならなかったのは、どういうわけなの? あなたは、恨みごとを言いたいというだけでこんな強引なことをする人ではありませんよね」


 そこに、ちょうどアラミクが上がってきた。

 短い時間の間に急いでシャワーも浴びたらしく、着替えたばかりの清潔な白い仕事着の肩に、まだ濡れた髪がかかっていた。

「アラミク。あなたには結婚を約束した殿方がいるそうね。どうして早く教えてくれなかったの。ぐずぐずしていると、お相手はまた戦場に呼ばれてしまいますよ」

 いきなり切り出されて、アラミクはもじもじしてすぐには応えられなかった。

 ちらりとロッシュのほうを気づかうようにうかがってから、ようやく口を開いた。

「……カナリエルたちの結婚が先に決まっていましたから、ちゃんと祝福してあげてからにしようと、エルンファードと二人で相談したのです」

「いかにもあなたらしい心づかいだこと。彼の今の任務が終了したら、さっそく二人でわたくしのところにいらっしゃい。日取りを決めましょう」

「は、はい。でも、彼は……」

 エルンファードの任務の終了とは、カナリエルの捜索が何らかの形で決着することを意味するのである。


 アラミクのためらいを、何もかも心得ているというようにほのかな笑みを浮かべることで受けとめ、マザー・ミランディアは二人に茶のカップを手渡した。

「それを知らせるためだけに、わざわざここに来たわけではないのでしょう?」

 寮母は、あらためてロッシュに向き直った。


 ロッシュはうなずいた。

「皇帝陛下が、さきほどご帰還されました」

「えっ。陛下が……」

 マザー・ミランディアの眼が、みるみる大きく見開かれた。

 手にしていたカップが床に落ちて割れ、その音がステーションの清潔な静寂を破った。

 急変した表情を目にして、ロッシュは胸を強く突かれるようなショックを感じた。

 カナリエルの逃亡と皇帝の帰還という二つ出来事の重大さが、マザー・ミランディアの激しい反応ぶりを眼にしてあらためて実感された。


 アラミクがあわてて破片を拾いあつめようとするのを手を上げて制し、マザー・ミランディアは尋ねた。

「何のために?」

 ロッシュは首を振った。

「わかりません。……皇帝陛下のご意向とご動向は、つねに最高機密です。ぎりぎりになるまで発表されませんし、通信する場合などは、傍受される危険性がありますから、詳しい内容は伏せられます。今回の場合、悪天候のせいでその通信も遅れました。突然のことでブランカじゅうの住民が驚いていますが、クレギオン閣下をはじめ、保安部もその意図を察しかねて当惑しているのです」


「でも、キールで式典が執り行われる予定になっていたはずですね」

「七日後……つまり、私とカナリエルの結婚式の日と同日です」

 ロッシュは慎重に言い添えたが、マザー・ミランディアは別のことに心をとらわれているらしく、あらぬ方向を見つめながらうんうんと上の空でうなずいた。


 ロッシュはその思考を乱さないよう、静かにつけ加えた。

「クレギオン閣下は、寮母陛下に謁見の間においでいただき、皇帝陛下にお目通りくださるように求めておられます。そのことをかならずお伝えせよ、というのが、閣下から私へのご命令でした」

「それで、アラミクと二人でここへ……そういうことでしたか」


 寮母はかたわらの椅子を引き寄せて腰かけ、そのまま考えごとにふけるかのように肘掛けに腕をあずけ、ほおづえをついた。

 アラミクは、寮母の眼を盗むように手早くカップの破片をかきあつめてどこかへ持っていき、代わりに手にしてきた布で濡れた床をふき取っている。

 ロッシュは二人の様子を見守りながら、その静寂の中にぽつんと取り残されたような、言いようのないいらだたしさを感じた。


 ロッシュは、ずっとカナリエルのことばかりにとらわれ、皇帝は単にその父親、寮母はその母親というふうに考えようとしてきた。

 他人にやっかまれるような意味でカナリエルの父母のことを意識したくない、という、見方によっては〝青臭い〟思いがはたらいていたのかもしれない。


 しかし、カナリエルの逃亡によって、こんどは逆に、皇帝である父親と寮母である母親に、特別な意識をもって対さなければならなくなった。

 屹立する二つの山嶺のように権力の頂点にある皇帝と寮母が対決することになれば、そこで何が問題にされ、何が起こるのか――重大な関心は、そこに移ったかに思える。

 ロッシュとカナリエルの関係は、今や単に破綻してしまったという事実だけが残り、それはもっと巨大なさまざまな思惑と動向の中に埋没していきつつある。


 ロッシュには、はたして弁明の余地は残されているのだろうか。

 そして、カナリエルを自分の手で取りもどしたいという希望には、ふたたび機会があたえられるのだろうか?

 ふと、ロッシュには、考え深そうにしたツェントラーの横顔が思い浮かんだ。

 その表情は、おそらくクレギオンにも共通するものである。

 それがロッシュ自身を素通りして、今やマザー・ミランディアにも重なっているように思え、無力感を誘った。


 ブランカの運命についてツェントラーと話し合った事柄をここで伝えるべきかとも思ったが、悩ましくほおづえをついていてさえ、マザー・ミランディアの聡明な美しさにはいささかの曇りも見えなかった。

 厳しく引きしめられた表情が、かえって全能の母神を思わせる荘厳な美をたたえている。

 ロッシュは、まるで自分が幼い子どもにすぎないかのように、今はじっと沈黙を守ってその横顔を見つめているしかないと感じた。


「……行きましょう。皇帝陛下と会いに」

 寮母は、ついに気持ちの整理ができたとでもいうように、決然と立ち上がった。


「アラミク。わたくしの執務机の上のものをここへ」

 アラミクが重そうにかかえてきたのは、革綴じの大判の書物のようなものだった。

「それを金庫に入れて、閉じたら鍵はそのままあなたが持っていなさい」

 差し出された鍵を、アラミクはおそるおそる両手で受け取った。


「でも、これは寮母さまの……」

「ええ、寮母だけが開け閉めを許された金庫の鍵。そして、その冊子もまた、寮母だけが閲覧と新たな書き加えを許された『育児日誌』です。金庫の中には、歴代の寮母たちが書きつづってきたものがまだ何十冊と保存されています」

 マザー・ミランディアは、壁に埋めこまれた重厚な金属製の扉を示した。

「わたくしの身に、もし……万が一何かがあったときには、あなたがこれを管理するのです。ひまを見つけて読むようになさい。そこに書かれていることをすべて学び、秘密はいっさいほかのだれにも教えてはなりません」


「まさか、では……」

「そうです。あなたが、わたくしのつぎの寮母となるのです」

「わ、わたくしが……本当ですか? でも、カナリエルが……ユングリットや、フランもいますし……」

「カナリエルが寮母を継ぐことはありません。ユングリットは優れた能力の持ち主ですが、寮母の職務をまっとうできるかどうかとなると……いえ、それよりも、わたくしは最初から、跡継ぎはあなただと決めていましたよ。あなた以上に寮母にふさわしいシスターはほかにいません。誇りをお持ちなさい」

「は、はい。光栄に存じます!」

 アラミクは顔を真っ赤にして深々と頭を下げ、腰を折った。


「でも、わたくしは、まだまだ寮母を辞するつもりはありませんよ。この数日、ここに閉じこもっている間に、じっくりと考える時間がありました。人まかせにはできない、わたくし自身の手でやっておくべきことが、いろいろ残されているようです。それらを片づけてしまわないことには……」

 ロッシュには、ミランディアがアラミクにかけたその言葉が、実は自分にむかって発せられたものだと感じられた。

 格闘の際にかわされた会話に対する回答ということなのだろう。


 寮母はロッシュにしばらく待つように言いおき、正装に着替えるためにアラミクをともなって下の階に降りていった。

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