第二章 6 異変は嵐とともに
山越えに必要な準備が簡単なことではないと、すぐにわかった。
例年ならゲオルたちの手が空いているときに少しずつ始め、最後の数日間はそれにかかりっきりになってようやく完了させてきた作業だ。
いくら人数が多くても、肝心なところはいちいちゲオルやフィオナの指示が必要だったし、羊たちの日常の世話を放り出しておくわけにもいかなかった。
食事は、各自の仕事が一段落したときや休憩をとるついでにできるように、窓のある居間の中央に大皿や鍋や水差しが並べられていた。
ゴドフロアは朝からずっと旅の途中で馬や羊たちが食べる干し草を束ね、荷車に積み上げる作業をしていた。
一休みするつもりで遅い朝食をとりにもどった。
ちょうどカナリエルとフィオナが保存用の固パンを大量に焼いているところで、フィオナがスープを温め直して持ってきてくれた。
「それにしても、やはり早くはないのかな」
「何がですか?」
「ここを引き払うのがだ。いくら高い山でも、あとひと月近くは初雪になるまい。羊の毛もまだ十分に生えそろっているようでもないしな。この時期に北方王国へ帰ると、むこうでも新たな放牧地が必要になるのじゃないか?」
「さあ。きっと、ゲオルには何か算段があるんじゃないですか。あなた方がいらっしゃるしばらく前から、あの人はしきりと早めに北へ帰ろうって言ってましたから。あたしは、村の知り合いの老夫婦に預けてきた子どもが恋しいんだろう、ってからかってましたけど」
「そういうことなら無理もないか……」
ゴドフロアはそそくさと食事をすませ、ふたたび外へ出ていった。
きのうまでのような晴天は、どうやら期待できそうになかった。生温かい風が南の方角から吹きつけはじめ、北の山々はしだいにぶあつい雲におおわれてきていた。
ステファンは、ケルベルク城の廃墟の上でふたたび見張りに立っていた。
ただでさえ人手が足りないというのに、ゴドフロアは警戒が必要だと言ってゆずらなかった。
視力のいいカナリエルのほうがその役にはうってつけだったが、今はフィオナの手伝いにかりだされているので、その間ステファンが代わりになったのだ。
ステファンは料理は得意だし、若くて気だてのいいフィオナとなら、楽しくおしゃべりしながらやれると思ったのだが、カナリエルが「ぜひやってみたい」と先に言い出した。
火加減だとか、分量のめやすだとか、味付けの仕方だとか、この際ついでに憶えておきたいと言うので、ステファンはしぶしぶその役をゆずった。
「ああ、見張りか。なんて退屈な仕事なんだ」
ステファンは、自分をおしゃべりの相手にすることにした。
「だってそうだろう。ずっとぼんやり眺めているだけなんだよ。だれかが訪れてくるのを待つっていうなら、まだいいさ。だけど、現れるとしたら、ぼくらを狩りたてるスピリチュアル兵以外にはありえないじゃないか。まあ、何事も起こらないにこしたことはないけど、変わりばえのしない風景が、そのまんまずっと変わりばえしないでほしいって願いながらじっと眺めているしかないなんてさあ……」
これほどステファンの性格に合わない仕事もなかった。
ブツブツつぶやきながら、城壁のむこうを眺めやった。
注意して見張っていなければならないのは、ほぼ自分たちがやって来たブランカの南側の山麓の方角に限られている。
そちら側には、姿を隠せるような林も繁みも岩場もない。
追跡隊が出現したらすぐに見つけられるはずだし、それに対処する時間は十分にあるということだ。
しかし、ステファンには、それがさらに退屈さを助長する種になってしまうのだった。
悪いことに、ポツリポツリと雨粒が落ちてきた。
「ちぇっ。ついてないな」
ステファンはうらめしげに空を見上げた。
灰色の雲がどんどん押し寄せてきている。
ブランカの山頂はもうすっぽりと雲に包まれていた。
いくらもしないうちに本格的な降りになりそうだ。
「まてよ……」
ステファンはふと思いついた。
これは、退屈な見張りを一時的にでも中断する口実になる。
マントを取りに行かなければならないのだ。
下の回廊に降りていけば、カナリエルやフィオナとちょっとくらいならおしゃべりすることができる。
さっきからいい匂いがただよってきているし、味見だってさせてもらえるかもしれない。
「そうだよ。それに――」
本降りになればここらあたりはすぐに霧にひたされるだろう。
ということは、わざわざ見張りをしている意味もなくなってしまう。
もちろん、雨だからといって出発の準備を放り出していいわけはないから、濡れながらほかの作業を手伝わなければならないかもしれないが、すくなくともひとりで見張りをつづけているよりはましに思えた。
ステファンは急に元気づき、すっくと立ち上がるとがれきの頂上から降りはじめた。
「あれ? あんなところにゲオルがいるよ」
城塞の北側には、崩れ落ちた大きながれきがごろごろ積み重なっている。
迷いこんだ羊がいるようには見えないし、馬や荷車はまるきり反対側の南の城門跡のわきに引き出されている。
ゲオルがなぜ、わざわざ城跡をぐるりと回りこんでくるような必要があったのか、ステファンにはさっぱりわからなかった。
ゲオルは、大きな石の上を跳びつたったり、重なった石を慎重に足がかりにしながら、城壁の中ほどまで登ってきた。
そこで左右をうかがうように眼を配ると、壁にはめこまれた石をそっとわきに取りのけはじめた。
(何をやっているんだろう……)
真上から見ているのではさっぱりわからなかったが、そこには穴ぐらのようなものがあったらしく、まもなくゲオルの姿が壁の中に吸いこまれるように消えた。
ステファンがじっと待ちつづけられる時間は短い。
まあ、後で聞けばいいか、と見切りをつけようとしたとき、ゲオルが穴からはい出してきた。
ゲオルは入っていくときには手にしていなかった小さな革袋を持ち上げ、その重さをはかるように左右に振った。
そして、取りのけた石をまたていねいに元どおりに積み上げていった。
一連の行動の奇妙さに、とうとうステファンは声をかけそびれ、ゲオルが足音をしのばせるような歩き方でもどっていくのを呆然と見送った。
異変が起こったのは、ステファンに替わってカナリエルが雨の中で見張りについているときだった。
やはりケルベルク城の周囲を濃い霧が取り巻き、山も草原もほとんど見えなくなった。
ステファンはもう見張りの必要はないだろうと主張したのだが、ゴドフロアは、こんなときこそ用心するにこしたことはないとにべもなかった。
カナリエルがステファンのマントを借り、ケルベルク城の頂上に立っていると、霧のむこうから牧羊犬がさかんに吠えているのが聞こえた。
フィオナが雨が本降りになる前に羊を集めてくると言って出ていったから、カナリエルは、たぶん彼女が急いで帰ってくるところなのだろうと思った。
だが、それにつづいて、まるで何かにおびえているような羊たちの鳴き声がたてつづけに上がった。
それにまじって「キャン」と悲鳴のような犬の声がひときわ高く聞こえたと思うと、吠え声はそれきりぴたりと止んでしまった。
後には、いかにも不安そうに鳴きかわす羊たちの声が、取り残されたように聞こえるだけだった。
胸騒ぎを感じて、カナリエルは坂を駆け下りていった。
ゴドフロアとゲオルは、城門のすぐ内側に作られた草ぶきの厩で、馬たちに背負わせる荷の仕分けをしているところだった。
「どうした?」
ゴドフロアが作業の手を止めてカナリエルのほうに顔を上げた。
「今の、聞こえなかった?」
「そういえば、犬の吠え声がしたな」
怪訝そうな表情を浮かべてゲオルと顔を見合わせ、カナリエルとともに城門を出た。
霧のむこうから、サワサワと草をかき分けて近づいてくるものの気配があった。
当然それは羊の群れのはずだったが、あきらかにちがった物音が混じっている。
「厩の柱に短剣がかけてある。取ってきてくれ」
ゴドフロアがカナリエルにささやいた。
短剣は間に合わせの革切れにくるんでひもで巻いてあった。
カナリエルはそれをつかむと急いでもどってきたが、あわてて自分の背中に隠した。
雨まじりの霧が風に吹き上げられたと思うと、そこから異様な風体の男たちが現れたのである。
不揃いながらものものしく武装しており、それがよけいに恐ろしく見えた。
「あっ」
ゲオルが小さく悲鳴を上げた。
頭を丸刈りにした先頭の男の手には、鮮血のしたたる戦場剣が握られていたのだ。
その後ろに、二人の男に両側から腕をつかまれたフィオナが、よろめくような足どりでつづいていた。
かなり抵抗したらしく、髪も服装も乱れていたが、さいわいなことに斬りつけられたような様子はない。
「犬っころが咬みつこうとしやがった。いいか、おまえらもあれと同じ目に遭いたくなかったら、おれたちに逆らうんじゃねえぞ」
男が言いながら大振りの剣をブンと振ると、雨ににじんでピンク色になった血がゴドフロアたちの近くまでしぶきとなって飛んできた。
不吉な風の勢いはいちだんと強まり、霧はもうもうと逆巻いた。
カナリエルはゴドフロアの背中に身を隠しながら、そっと短剣を手渡した。
だが、短剣を抜こうとしかけたゴドフロアの手は、つかを握ったところでピタリと止まってしまった。
怪しげな男たちは、その三人だけではなかったのだ。
逃げまどう羊たちを追いたてるように、あっちからもこっちからも、馬にまたがった男たちが霧の中からつぎつぎ現れ、カナリエルたちをぐるりと包囲して、城門のほうへじりじりと追いつめた。
丸刈りの男が剣をさやに収めると、代わりにほかの男たちが、いっせいに剣や銃を前に突き出して構えた。
「しけた出迎えだが、いないよりましか」
馬を前に進めてきたひげ面の大男が、不敵な笑みをただよわせて言った。
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