第二章 4 陰謀をかもす勢力

 ツェントラーは警備兵らしく壁面階段の一角に立ち、盛大で華やかだが意味の希薄な歓迎式典を、彼のいつもの冷ややかな眼差しで見つめていた。


 ウォークや壁面階段に鈴なりになって見物しているブランカ在住者たちの多くは、老人や女たち、そして最初の兵役から帰還したばかりの若い兵士で、そしていちばんにぎやかな歓声を上げているのが、帝都や大陸のどのような場所も知らない幼い者たちと年少者たち――幼年学校の生徒の群れだった。

 彼らは皇帝の姿を直接眼にし、その表情が自分たちと同じように笑みほころんだり、退屈そうに視線をさまよわせるさまを目撃することだけで、十分に満足そうだった。

 皇帝のかたわらに控えた軍の広報官が声高に最近の戦勝の報告を装飾の多い言い回しでするのを聞いても、ことさら耳新しい情報があるわけでもないのに、その意義の大きさが初めてわかったとでもいうように、感激の拍手をさかんに送っている。


 こういう茶番の上に帝国という社会が成り立っており、それに貢献し、それに強制されることで、ようやく自分が自分であるということを認識するしかないのだと、ツェントラーはずっと以前から気づいていた。

 あとはそれを受け入れる覚悟があるかないかだが、腹はそれなりに固めているつもりだった。

 しかし、スピリチュアルであるためにどうしても必要であるものと、そうでないものを明確に区別することだけは忘れていない。

 人生の無駄をそぎ落としてしまえば、その分さらに見えてくるものが多くなる。彼は徹底的に〝見る人〟だった。


 気がつくと、壁面階段を埋めつくす人々の後ろを、不自由な片足を引きずりながらゆっくり昇ってくる人影が見えた。

 岩壁に手をついたりしないのが、いかにもクレギオンらしい矜持だった。

 ツェントラーは足音を響かせないように注意しながら急いで降りていき、上がってくる長官を迎えた。


「追跡隊から連絡はあったか?」

「いいえ、今のところは、まだ――」

 クレギオンは鉄の手すりを握って身体をささえ、式典を見下ろしながらうなずいた。

 周囲の人々がクレギオンに気づき、あわてて場所を空けたのだ。


「皇帝陛下のご帰還とかち合ったために、新たな捜索隊を出動させる機会を逃してしまった。兵たちには軍装を解いて歓迎の列に加わらせてある。ご苦労だが、式典が終わったらまたただちに準備にかかるように命じてくれ」

 あたりをはばかって、クレギオンが小声でツェントラーに言った。

「かしこまりました。しかし、雲行きが怪しゅうございます。どうやら皇帝陛下は、中央盆地を吹き荒れた夏の嵐までお連れになったようです。何の目当てもなく出動させても、はかばかしい成果は期待できそうにありません」


「つまり、陛下のご機嫌をそこねないための言い訳にしかならぬということか」

「ロッシュが後を託してきた追跡隊は、警備隊長エルンファード以下一三名。わずか二、三人の逃亡者を追うには十分な人数です。名目上は私的な捜索を許したという形ではありますが、けっして閣下が手をこまねいていたことにはなりません」

 ツェントラーは、クレギオンの懸念の一端を明快に切り捨てた。


「それはそうだが……」

「新たな捜索隊がエルンファードたちと出会えないまま方々へ散らばってしまったりすれば、荒天のせいで信号弾は役に立たないでしょうから、いざまとまった兵員が必要になったときに集結させることもままならなくなります。あせってやみくもに兵を出してしまうことの愚は、軍事に精通された陛下ならきっとご理解くださるでしょう」

 クレギオンは小さくうなずいて命令を撤回した。


 眼下の小回廊の上では、赤絨毯に長い列をつくった幼年学校前の子どもたちが、それぞれ手にした色とりどりの小さな花束を皇帝に手渡しては、可愛らしいしぐさで挨拶していた。

 皇帝はにこやかにほほ笑みながら、いちいち頭をなでてやったりしている。


「あのご様子では、まだだれもご息女の逃亡をお知らせしてはおらんな」

「その点は、とくに注意して監視しております。へたにご注進におよんで式典を混乱におちいらせたりすれば、その者自身がとがめられましょう。それほど愚かな者はおりますまい。さすがに側近の方々全員にとはいきませんが、マドラン閣下には――」

 ツェントラーは、皇帝の斜め後方に控えている執政マドランのほうを指さした。

 警備という名目で、保安部の者がぴたりと後ろに張りついている。


「あと、目端がきいて信頼のおける女性の式部官たちにも、不穏な噂を耳打ちするような者がいないかどうか、気を配るように指示してあります」

 白いシルクのトーガ姿の女性が、一定の間隔をおいて皇帝らの一行をとり巻いている。

 式典に華やかさと秩序をあたえる装飾のような存在だが、彼女たちが耳をそばだてているのなら、これほどおあつらえ向きの見張り役はいない。


「さすがにおまえだ、抜かりがない。だが、告げ口しようとする者は見つけられても、そこに割り込んで口を封じることまではできんぞ」

「たしかに、そのとおりですが……」

「その者は、陛下のお心を気づかう善意の通報者かもしれんし、単に口の軽い噂話好きにすぎないかもしれんのだ。紙にしたためて、だれかに頼んで渡すという手もある。いったん陛下に伝わってしまえば、だれがもらしたかなどもはや問題にならん」


「そこから糸をたぐっていけば、発信者にたどり着けるかもしれません」

「どうしてそこまでこだわる。要は、陛下が知ってしまうかどうかだろう」

「ですが、噂はまだ噂にすぎません。確証を持って逃亡の事実を報告することのできる者の数は、ごく限られています。ロッシュは立場上、強く命じることはできませんでしたが、追跡隊に加わって帰還した者たちには、私が重ねてくぎを刺しておきました。それでもあえて注進したり、騒ぎを大きくしようとする者がいるとすれば……」

「何だ?」

 ツェントラーは、低く抑えた声をさらに低めて言った。

「私には陰謀の匂いがします」

「陰謀……だと」

 クレギオンが眼をむいて、ツェントラーの長身を見上げた。


「以前、閣下に申し上げたことがありますね。帝国……いや、スピリチュアルの体制を、根本から変えてしまおうという勢力の存在を。スピリチュアルを、価値観や生き方までふくめて、自分たちに都合のいい方向に誘導していこうとしている勢力のことです」

「そうであったな。大陸を制覇したということは、莫大な富を手にしたということでもある。また、平和は戦時の強固な団結心を薄めることにもなろう。スピリチュアルの理想主義は独善へ、高い誇りは慢心へと変質し、高潔さはもはや時代遅れとなって個人の欲望に取って代わられるかもしれん。そうでなくても、フィジカルの国々の中心に位置する帝都アンジェリクに長く住まう者たちは、日に日に世俗化しておる。そういう勢力も出てこような」


「ええ。しかし、その種子は、そもそもの最初からはらまれていたのです。大陸に秩序をもたらそうという理想に燃えて外征に乗り出したとされていますが、同時に、もはや狭いブランカでは増えゆくスピリチュアルの人口を収容しきれず、それを養う食糧や必要な物資に限界が見えてきたという切実な側面もあったにちがいありません。支配し、略奪する欲望は、理想と背中合わせに存在していたのです」

「口をつつしめ、ツェントラー。祝賀の場だぞ」

 クレギオンは、ツェントラーに合わせるように声を低めてたしなめた。


「いいえ、このようなときだからこそ、やつらはついに頭をもたげはじめるのです」

「フィジカルなら、まさにそのとおりだろう。しかし、われらはスピリチュアルだ。強欲なフィジカルとは根本的にちがう」

「ちがうのは、肉欲をもって子を成し、名誉欲で地位をきずき、物欲で獲得した財貨をその子らに引き継がせようとする卑俗な望みに衝き動かされて生きるかどうか、それだけです。スピリチュアルがそのような堕落をまぬがれているのは、子がみずからの分身ではない、という事実のおかげでしかありません」

「それが決定的なちがいではないか。子と、家族と、同胞と、国家を分け隔てなく愛し、身をささげることができるのがスピリチュアルだ」


「そのような理想を無条件に信奉することができるのは、ロッシュのような輝かしい未来しか見えぬ若者と、そして……」

「そして?」

 ツェントラーはにやりと笑い、クレギオンの顔をのぞきこんだ。

「あくまでも堅固な信念をつらぬこうとする、気丈な閣下くらいのものです」

「からかうな。そういうおまえは、学者にでもなって冷たい塔の中に閉じこもりたいか。いや、腹黒い政治家のほうが似合いかもしれん」

 クレギオンも苦笑してやり返した。


「世が世なら、それも悪くありませんが……わたしより似合いの者がいます。悪いことに、権力のずっと近くに」

 ツェントラーの視線は、皇帝を通り越してそのむこうにすえられていた。

「マドランだな。あの男が陰謀をたくらんでいると――」

「加担していることはたしかでしょう。保安部に内偵する権利と組織があれば、ブランカの内部からあぶり出していくことも可能なのですが」

「それはわしが禁じたはずだ」

「ええ、わかっています。しかし、そういう潔癖な閣下だからこそ、そもそも保安部の長官に指名されたのだとはお考えになりませんか」

「そこまで疑わなければならないのか……」

 ため息まじりの声で、クレギオンはつぶやいた。


「そろそろ式典もお開きのようだ。わしの足では、階段は降りるほうがつらい。ツェントラー、腕を貸してくれぬか。陛下をご居室までお送りせねばならぬのに、足のお速い陛下に置いてけぼりにされそうだ」

 そういう言い方で、クレギオンは見送りに同行するようにツェントラーに命じた。

 その途中で皇帝にカナリエルの失踪を伝えるつもりなのだろう。

「かしこまりました」

 ツェントラーはクレギオンのひじをささえて歩きだした。


 皇帝の満面の笑みを見れば、まだ息女について何も聞いていないことは確実だった。

 ツェントラーが同行することの意味は、クレギオンから直接皇帝に報告させまいとする妨害があった場合、それに対処することだ。


 クレギオンは皇帝をうながして停めてある昇降機のほうへ導こうとするが、皇帝はつぎつぎ出会う人々ごとに笑顔をふりまいて、なかなか歩みが進まない。

 ホールの手前でもう一度ふり返り、片手を大きくかかげて歓呼に応えると、ようやく昇降機に乗り込んだ。


「早朝からご苦労だったな、クレギオン」

 皇帝は疲れも見せず、空洞に面したガラス越しに外で見送る人々に相変わらず曇りのない笑顔を向けながら、深みのある太い声でねぎらいの言葉をかけた。

「恐れ入ります。陛下のほうこそ、長旅の直後でさぞお疲れでしょうに」

「いや、長らくブランカを不在にしてしまっていた。しかも、つねの帰還と今回とはわけがちがう。これほど盛大な歓迎を受けて、余はまた制覇の喜びを新たにしたぞ」


「わたくしのほうからも、あらためてお祝いを申し上げます」

「堅苦しい挨拶などいい。そちはいつになっても余の師だ。クレギオンから『よくやった』と言ってもらえるのが何よりうれしいのだ」

 その言葉どおり、皇帝は久方ぶりの再会を無邪気に喜んでいるようだった。

 クレギオンのほうも、いかにも旧交を温める顔つきになっている。


 昇降機に乗ったのは、ツェントラーを加えた三人のほかには、皇帝の左右につき従う二人の近衛兵のみだった。

 近衛兵といえども、だれの息がかかっているかわからない。

 クレギオンは慎重を期して、報告は居室に送りとどけてからにするつもりらしい。

 皇帝を乗せた最上位階級専用の昇降機はどこにも停まらず、一気に最上層へと上昇していった。


 扉が開くと同時に、外にひかえていた二人の近衛兵がサッと威儀を正し、交差させていた槍を解いて道を開けた。

 と、真正面に、紫色のトーガ姿の小柄な男が、こちらにむかってはげ上がった頭を深々と下げた姿勢で立っているのが見えた。

(マドラン……!)


 ツェントラーは自分の不覚を呪った。

 昇降機に乗るのに予想外に手間どっているうちに、マドランは別の昇降機を使って先回りしていたのだ。

「陛下、お待ちしておりました」

 マドランがゆっくりと頭をもたげて言った。

「わかった。――クレギオン、見送りはここまででよい。後ほどまた会堂で会おうぞ」

 皇帝は明るい声で言うと、あらかじめマドランと示し合わせてあったらしく、一人でするりとホールに歩み出た。


「お待ちください、陛下。大切なお話がございます」

 クレギオンの声には、切迫したものが感じられた。

「こちらも、大事な話し合いがあるのだ。接見の前にどうしてもすませておかねばならん。その話は後ほど聞かせてくれ」

「ですが……」

 言いかけた言葉は、皇帝につづいて昇降機を並んで降りようとする近衛兵たちの山のようにたくましい背中にさえぎられた。


 ツェントラーはとっさに、義足のせいで機敏に動けないクレギオンの横を抜け、ホールへ跳び出そうとした。

 しかし、無情にも槍が左右からすばやく降りてきて、胸の前でカンと音高く交差した。


 そしてつぎの瞬間、扉がゆっくりと閉じはじめた。

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