終 章 2 さまざまな声、そして思惑

 ロッシュに手抜かりがあったわけではなかった。


 空馬を追跡隊の人数分引かせた騎馬兵を昨夜のうちに表ゲートから先発させ、夜明けと同時に街道から針葉樹の森に踏みこむように手配してあった。

 すぐにロッシュたちに合流することは無理にしても、逃亡者が逃走経路に馬を用意している場合への備えはしていたのである。


 しかし、騎馬の兵士たちは見通しの悪い森の中を思うように進めず、さらに巨岩がひしめく渓流を下ることは不可能だった。

 カナリエルたちに逃げられた追跡隊は、すぐさま後続の騎馬隊にむけて信号弾を打ち上げたが、騎馬隊は滝の下を大きく迂回せざるをえず、彼らが追いついて来たのは、湖畔での戦闘からすでに二時間以上が経過した後だった。


 草地を踏みつけた馬の足跡をたどり、それが別の大きな森の中に消えているところまでようやく追跡したが、そこで日が暮れた。

 スピリチュアルの眼でも、夜の森の深い闇を見通すことはできない。

 森の手前で野営せざるをえなかった。

 夜明け前にエルンファードが目を覚ますと、たき火をはさんだ場所に寝ていたはずのロッシュの姿がなかった。


「ロッシュ」

 森を前にして立ちつくしているロッシュを見つけ、エルンファードは声をかけた。

「眠れなかったのか?」

「いや……」

 どうともとれる気のない返事をしたきり、ロッシュは、黙って森を見つめている。


「ロッシュ。この後の追跡は、おれが引き受ける。おまえはブランカにもどれ」

「なにを、馬鹿な。カナリエルたちは、この森の奥にいるのだ」

「いや、おれたちはだいぶ引き離された。やつらはもう、森をどっちかの方角に抜けてしまっているかもしれん。この人数では、これ以上追うのは心もとない。ブランカに報告して、増援を頼んでくれ」

「エルンファード……」

 ロッシュは、疲れのにじむかすれ声でようやく言った。

「私に追跡をあきらめろと言うのか。カナリエルに捨てられ、しかも逃げられて、そのうえあきらめてしまえと言うのか!」

 ロッシュは、吐き捨てるように言った。


 エルンファードは、ロッシュらしくない感情の激発を見て、すこし間をおいてからふたたび語りかけた。

「そうは言わんよ、ロッシュ。しかし、このまま追ったとしても、手がかりはとぼしくなるばかりだ。まったく手詰まりになるかもしれん。そうでなくても意思統一が難しい臨時編成の部隊だ。意見の食いちがいや不満が出てきたら、どうにもならなくなる。そうなる前に、おまえ自身が決断を下すべきだ」


 ロッシュの思いどおりに成果を上げられてこその精鋭部隊だった。

 作戦成功の見こみが薄らいでいくほどに、彼らは御しがたくなっていくだろう。

 それは、ロッシュがいちばん恐れていたことだった。


「では、不平を言いそうなやつらだけ引き連れて、おぬしがもどってくれ」

 ロッシュは、これ以上心を乱されまいとするかのように、そっぽを向いて言った。

「おまえは、空しい結末にむかって、ひとりでやみくもに突き進むというのか? それこそ、二度とブランカに帰れなくなってしまうぞ」

 エルンファードの言葉に、ロッシュは応えなかった。


 けっきょく、追跡隊は、夜明けを待ってそのまま前進を再開した。

 カナリエルたちの足跡は、森の中を横切る川のたもとで途切れていた。

 川は曲がりくねっていたが、流れはゆるやかで、馬が歩けないほどの深みではなかった。

 下流へも上流へも向かうことができるし、また、ふたたびどこからでも上陸して森へ入ることができる。

 すくなくとも、正面の岸辺を馬が踏んだ形跡はなかった。


 ロッシュは、ついに決断した。

 三名ずつを四隊に分けて探索を続行するように命じ、それぞれを上流と下流、そして両岸の森へと向かわせた。

 その指揮をエルンファードにまかせ、ロッシュは残りの者たちを率いてブランカへ報告にもどることにしたのだ。

 ロッシュにとって、帝国軍人となって以来初めての戦果のない帰還となった。


 ともに帰還する七名は、もとの任務に早めに復帰しなければならない隊長格の者や、負傷して手当の必要があると判断された者などだったが、嫌気がさしはじめているのがうすうすわかる者もいた。

 これが私的な追跡行だと断ったうえで依頼する形をとったように、ここでも率直な希望を聞いて、探索の続行からはずしたのである。


 ふたたび夕焼けに山々が染まりはじめたころ、もうじきブランカの表ゲートが見えてきそうなところで、ロッシュと同じ保安部のツェントラーが馬を寄せてきた。


「ロッシュ。はっきり言って、おぬしには失望させられたぞ」

 あまり早く言ってしまうと、道中ずっと気まずい思いをしなければならなくなると考えてそこまで黙っていたのだろうと、ロッシュには容易に推察できた。

 しかし、言わずにすますこともできなかったということだ。

「私的な追跡だというのは、それはそれでかまわん。だが、うまくいかないとわかったとたんに投げやりになったのは感心せんな。詰めも甘かった。三人ともに逃げられたのがその最たるものだ。私情をからませなければ、こんなことにはならなかっただろう」

 責めるというより、批評するような冷徹な口調だった。

 引きしめられた薄い唇からもれる低い声は、感情を容易に読みとらせない。

 だが、ツェントラーは、保安部でロッシュともっとも親しい間柄であり、エルンファードと同様に無条件でロッシュを支援してくれるものと期待していた相手だった。


「そうか。おれはロッシュを見直したがな」

 ツェントラーの反対側にいた青年が、風になびく金色の髪を気障な手つきでかき上げながら言った。

 守備隊の中隊長をつとめるバルトランだった。


 彼の意外な口ぶりに、ツェントラーばかりか、ロッシュも驚いた。

 バルトランはスピリチュアルの名流の出身者で、今までロッシュ嫌いを公言してはばからなかったからだ。


「冷静な眼で見ればわかるじゃないか。指揮官としての判断能力の高さ。指示も的確で、遅滞がなかった。相手のほうにつきがあったってことさ。逆に、それがわからないようじゃ、そいつ自身の程度が知れるというものだ」

 相手を小馬鹿にするような物言いだけは、いかにもバルトランらしかった。


 ツェントラーは挑発的な言葉に動じる様子もなく、そちらにまっすぐ向き直ると、ロッシュに対するのとまったく同じ真面目な態度で教え諭すように言った。

「わたしはそうは言ってない。姿勢の問題だ。指揮官は、つねに態度が問われるものだ」

「ツェントラーどのは手きびしいな。いや、お堅いといおうか。女に直接、しかもおれたちライバルの眼の前で、公然とふられたんだぞ。そんなとき、男が平気でいられるわけがないだろう。おれだったら我を忘れて怒り狂ってる。ロッシュは純情だから、ちょっとしょげ返っていたっていうだけのことじゃないか」


 バルトランがからからと笑うと、こんどは、後ろから別の声がした。

「おれも、バルトランに同感だな」

「ほう、ムスタークがか。きさまは、損得しか考えない男だとばかり思っていたがな。その証拠に、ブランカにもどりたい者はいるかと聞かれたときに、真っ先に手を挙げただろう。ロッシュの作戦行動にさっさと見切りをつけたくせに、同感とはいったいどういうことだ?」

 ツェントラーが、眼つきの鋭い黒髪の小柄な男をふり返り、軽蔑するように尋ねた。


 ムスタークは、ロッシュと大差ない下層の出身である。

 いくつかのきわだった能力を認められていたが、それよりも計算高いところが彼のいちばんの特徴だった。

 一見して立身出世主義者とわかるような男だが、目上の者や上官に媚びるようなまねはしない。

 尊大で、歯に衣着せない言動でも有名だった。


「いや、何もおかしなところはないさ。矛盾してもいない。おれは、最初からロッシュの才覚を見るのが目的で参加したんだ。皇帝の娘を連れもどすことがどれほどの手柄になるか知らんが、そんなものは全然あてにしてなかった。見るべきものは見た。それで十分だ。だから、さっさと帰ることにしたのだ」


 ムスタークは馬を前に進め、ロッシュとツェントラーの間に強引に割りこんだ。

「ロッシュ。おれは、小さいころからずっとおまえがライバルだと思ってきたが、おれも大人になった。どうやら、おまえに賭けたほうが得なようだ。おまえが勝ちつづけるかぎり、おれの協力をあてにしていい。おれはうそは言わん男だ」


「ムスタークに見こまれたか。ロッシュにとっては、かえって迷惑かもしれんぞ」

 バルトランがまぜ返し、さらにロッシュにむかって言った。

「だが、おれはまだロッシュのライバルのつもりだ。女の取り合いのほうでもな。カナリエルのときは負けたが、つぎはそうはいかないぞ。どうだ、ユングリットは? どっちがものにするか、勝負しないか」


 そんな会話を、ロッシュは他人事のように黙って聞いていた。

 スピリチュアルの男たちは、おのおのが好き勝手なことをしゃべり、個性的な表情としぐさを見せるときこそ、群れたり強者にへつらうことしか知らないフィジカルとの決定的な違いが表れる。

 そこには、それぞれが持つ感情の奥深さが感じられる。

 えもいわれぬ優雅さや、人の心を寒からしめる冷酷さ、そして秘められた心の糸の複雑な織り柄が見えるのだ。


 カナリエルを取りもどすという目的とは別に、ロッシュは、追跡隊に参加した者たちに自分の能力をはっきり見せつけるという意図もあった。

 それによって、評価が高まる面もあるだろうし、かえって敵意や警戒心をあおることになるかもしれなかったが、将来の同志となれる可能性のある者を見極める手がかりを得られれば、と思っていたのである。


 ロッシュは、自分がつぎつぎ打った手の意味を、エルンファードのほかにはいっさい告げていなかった。

 エルンファードは戦士のタイプであり、最初からロッシュの作戦を批評的に見ようなどとは考えてもいないから気づかなかっただけで、他の者たちはやはり注意深く観察しており、見るべきところはちゃんと見て取っていたということだ。


 もちろんロッシュは、ムスタークやバルトランの言葉をそのままうのみにするつもりなどなかった。

 彼らはまだ、ロッシュに『注目しているぞ』と言ったにすぎない。

 それとは逆に、性格的にやや堅苦しいところはあっても、ツェントラーの謹厳で冷徹な人柄は捨てがたいものだし、彼の言葉は批判というより、年長者の率直な忠告として聞いておくべきだった。


 そんな会話を黙って聞いているうちに、ブランカに到着した。


 木材を組み上げたやぐらでできた物見の塔が二本、夕映えの風景の中に高々とそびえていた。

 歳古りた石組みなどではないが、それはそれで敵を威圧するには十分壮大な景観である。

 やがてその下方に、先端をとがらせた逆茂木をすき間なく立て並べた柵が、数百メートルもの幅で囲いを作っているのが見えてくる。


 ロッシュの一行は、表ゲートになっている物見の塔の間を抜けた。

 外部に対するよそよそしさを示すように、ブランカには、厳めしく重厚な石造りの城門も、麗々しく彫刻された大扉もない。

 すべてが実質的である。

 柵の内側には、軍隊が出陣と帰還時の閲兵を受けるためのがらんとした広場があり、その奥の岩肌にできた巨大な裂け目から、山の中心部へとつづく洞窟状の正面通路があるだけだ。


 成果のなかった秘密の任務を象徴しているかのように、ゲートの中には出迎える者の姿はひとつもなく、闇の先触れとなるブランカの頂上からの影に色濃くおおわれていた。


 無人の広場の中央で部隊に解散を宣言すると、ロッシュはツェントラーに馬を託し、沈鬱な表情のまま一人だけ正面通路にむかって歩いていった。


 残りの隊員たちは、三々五々ゆっくりと厩舎のほうへと馬を進めた。

 その中に一人、そっとふり返ってロッシュの後ろ姿に眼をやった者がいた。


(失恋の味はどうだ、ロッシュ? 今のうちにせいぜい甘い感傷にひたっておくがいい。皇帝の娘を取りもどせなかったことがいかに致命的な失態か、もうすぐ思い知らされることになる。醜聞どころではない。それは帝国の命運を左右するほどの重大事にかかわることなのだ。そして、きさまの運の尽きだということも……)


 悪魔の予言めいたつぶやきとかすかな笑みは、しかし、だれにも気づかれることはなかった。


                 [胎動篇] 完

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