終 章 The End of the Day 成果なき撤退

終 章 1 つかのまの笑顔

「あいつら、油断してたね。まさかあらかじめ馬が用意してあったなんて、思ってもみなかったんだぜ」


 馬を軽快に走らせながら、カナリエルを鞍の前に乗せたステファンが、もう一頭に乗っているゴドフロアのほうにむかって得意げに言った。


「よく言うな。どうせならもっとすぐに乗れるところにつないでおいてくれればよかったんだ。それも、わかりやすくて憶えやすい場所にな」


 ゴドフロアは皮肉をこめて言ったのだが、ステファンのほうにはまったく悪びれる様子はなかった。

 それよりも、カナリエルと堂々と身体を密着させることができて、本人はすこぶる上機嫌だった。


「きみはもうすっかり自由の身だ。願いがかなってよかったね」

「ええ。あなた方のおかげよ。ありがとう」

「いや、おまえもよくやった。まさかあの場面で飛び出してくるとは、おれたちもふくめてだれ一人予想もしていなかった」

 ゴドフロアは、湖畔での絶体絶命の場面を回想するかのように眼を細めた。


 はにかむような微笑を浮かべたものの、カナリエルの表情は、しかし、けっして晴れ晴れとしてはいなかった。

 スピリチュアル兵たちの眼前を駆けだしたとき、湖のむこうの崖の上が最後に一瞬見えたのだ。

 そこにはまだ、一人で立ちつくしているロッシュの姿があった。


 三人を乗せた馬は丘を越えてまた深い森林に入った。

 その途中で突き当たった川の流れをさかのぼり、足跡の残らない石ころだらけの岸辺に上陸した。

 巨岩が林立する岩場を抜けると、とうとうブランカとはまったくちがう眺望が広がる台地に出た。


 案内役のステファンにはそれなりの目算があるらしく、途中で迷ったり、ためらって足を止めるようなことはなかった。


「ここまで来れば、もう大丈夫だ。やつらは追って来られないよ」

 馬を立ち止まらせると、ステファンは汗をぬぐいながら言った。


「まあな。そのかわり、街道ともずいぶん離れてしまったようだ。おれにはえらく遠回りをしているとしか思えないが」

 ゴドフロアは周囲を見渡し、山の形と太陽の位置を確認して言った。


「まずは追跡をまかないとね。心配しなくていいんだよ」

 例によって、ステファンはカナリエルにむかって言った。

「ちゃんと計画は立ててあるんだ。長い隊商暮らしはだてじゃない。傭兵なんかだったら、行けと言われるとおりに行軍すればいいし、食糧や水の確保だってほかのだれかにまかせとけばいいだろうけど、ぼくら旅の商人はそうはいかないからね。万全の備えをしとくのはもちろんのこと、うまく交渉をまとめるには機転をきかさなきゃいけないし、盗賊から身を守るすべだって、ちゃんと心得てなきゃならないんだ」

「ほう。頼もしげなことを言ってくれるじゃないか」

 ステファンの当てつけに、ゴドフロアが皮肉っぽい口調で応じた。


「ええ、頼りにしているわ。母上が腕を見こんで選んでくれた人のはずですもの」

「わかるものか。寮母はおじさんとやらに足元を見られて、役立たずだとわかっていながら、しぶしぶこいつで我慢したのかもしれないぞ」

「役立たず……って、ひどい言い方だなあ」

 ステファンが子どものように口を尖らせる。


「そうよ、ゴドフロア。あなただって感じていたじゃない。ロッシュは自分とほとんど同じことを考えているから、なかなか裏をかけないって。偶然が手伝ってくれたところもあったけど、結果的にはステファンのおかげで救われたとも言えるわけだから」

 カナリエルが、笑いながら助け舟を出した。

「そう、たまたま、な。うまくへまをやらかすなんてことは、そうそう平凡な人間にできることじゃない」

 ゴドフロアも、笑いながら皮肉のだめ押しをした。

「ま、いいじゃないか。戦いのときだけ活躍すればいい傭兵とちがって、商人は毎日が勝負だから、ちょっとくらいの失敗でいちいちくよくよしててもしようがないんだ。今日一日の儲けがちゃんと出ていたら、それで満足ってことにしなくちゃ」

 ステファンはへこたれず、あっけらかんと言った。

「なかなかいい心がけだ」

 ゴドフロアはうなずき、小さな言い合いにそれで決着をつけた。


「でも、ときどきこっそりわたしのお尻をさわるのはやめてね」

 カナリエルが、チクリと注文をつける。

「あ、ちがうって。きみが慣れない馬から落ちないようにと気をつかって――」

「おあいにくさま。幼年学校の騎行訓練では、わたしが女子で一番の乗り手だったのよ。わたしが後ろに乗って手綱を握ってあげてもいいくらいだわ」

「うん、それもいいな。きみの柔らかい胸が背中に当たる感触ってどんなだろう」

「懲りない人ね」

 カナリエルは、思わずプッと吹き出した。

「まったくだ」

 ゴドフロアが相づちをうつと、三人の笑い声が無人の渓谷にこだました。

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