第五章 4 湖畔の乱戦
ゴドフロアが木を寄せていくと、ステファンはすがりつくように腕を伸ばしてそれにつかまった。
「あ、ありがたい。カナリエルといっしょに溺れ死ぬかと思ったよ」
カナリエルは血の気を失った青白い顔をして、眼をつむったままだ。
湖に着水した衝撃で気を失っているらしい。
ゴドフロアは木をつたってそのそばに近づき、顔を平手で乱暴に何度も叩いた。
カナリエルはやっと薄眼を開いたが、表情はまだ朦朧としている。
「眼を覚ますんだ、カナリエル」
ゴドフロアの声を聞いて、カナリエルはハッと眼を見開いた。
「みんな……助かったの?」
「ああ、今のところはな。おまえが思い切って飛び降りてくれたおかげだ。スピリチュアルのやつらは追って来られない」
カナリエルは岸壁のほうを見た。
やはり追跡隊は湖を迂回せざるをえなかった。
湖岸の木立の間をものすごい速さで走っていくのが見えるが、まだ崖を降りたばかりのところだ。
その崖の上にぽつんと人影がひとつ残っており、こちらを見下ろしていた。
「ロッシュ……」
カナリエルはつぶやいた。
とうとうロッシュの手を振り切ってしまった。
自由になるということは、ブランカを脱出するだけでは足りなかったのだ。
大きな重しが取れたこの感覚は、自分にとっていかにロッシュという存在が大きかったかということをつくづく実感させた。
だが、今は感傷にひたっているひまはなかった。
ゴドフロアが、その耳元に急きこんで言った。
「カナリエル、自分の力でしっかりつかまれ。おれとステファンは、木を引っぱって泳がなければならない」
「ゴドフロア、やばいよ。滝のほうに流されてる」
ステファンがふり返り、かん高い声で警告した。
「力いっぱい水をかけ!」
ゴドフロアに言われるまでもなく、ステファンは死にもの狂いで水をかき、脚をばたつかせて水を蹴った。
ゴドフロアは足かせのせいで片足がほとんど使えなかったが、思わぬことに背中のカプセルが水に浮いてくれた。
自分でもどういう格好で泳いでいるのかわからなかったが、そのおかげでとにかくなんとか水をかくことはできた。
最初は慣れない水の中にいること自体にとまどって、ゼイゼイと息を切らせていたカナリエルも、見よう見まねで手足を動かしはじめた。
広大な風景の中を泳いでいくのは、じれったいほど進んでいるという実感がなかった。
飛び降りた崖との距離と対岸の木立との距離を目測して、ようやく半分近くまで来たことがわかる。
だが、そのどちらよりも、滝の落ち口のほうが近く見えた。
「だめだ、どんどん引きこまれていってるよ!」
ステファンが悲鳴を上げるように叫んだ。
滝つぼで砕ける水音のせいで、今やふつうの声ではまともな会話ができなくなっていた。
「ステファン、リールをよこしてちょうだい」
カナリエルが呼びかけた。
「リール? ああ、これのことか。いったいどうするんだ?」
ステファンは片方の肩にかけていたリールをはずし、木の枝ごしに手渡した。
カナリエルはそれに答えず、木の幹の上に上半身を持ち上げると、リールからコードをすばやくたぐり出した。
「うまく狙えよ。チャンスは一度しかない」
カナリエルの意図を察して、ゴドフロアが声をかける。
水面はなめらかなままだが、周囲の風景の動きはあきらかに彼らのほうが流されていることを示していた。
しかもその速度は刻一刻と速まってきている。
木の向きも、ゆっくりとだが変わっていく。
カナリエルも、不安定な木にすがっているのでは体勢をしっかりと固定できない。
悪条件はいくつも重なっていた。
「今だ!」
ゴドフロアが怒鳴った瞬間、カナリエルの手からコードのカギが放たれた。
コードはゆっくりと、いかにも頼りなさそうな弧を描いて宙を飛んだ。
その先端はやっとのことで岩の間から生えている松の枝までたどり着くと、くるりと巻きついた。
コードはすぐにピンと張りきった。
「つかまって!」
ゴドフロアはカナリエルを抱えるようにして、その背中ごしにリールをつかんだ。
ステファンはその前でコードにしがみつく。
三人に見捨てられた格好の木は、みるみる滝のほうへと遠ざかっていく。
引きずりこまれるように最頂部を越えると、下方の滝つぼへと呑みこまれていった。
彼らのほうも松にからまったコードに引っぱられ、たちまちそちら側の岸壁にむかって押し流されていく。
ものすごい水圧が三人の全身にのしかかり、ステファンの肩では激しい水しぶきが上がった。
今も鏡のように静かな湖面は、すました表の顔にすぎなかった。
満々とたたえられた膨大な水がただ一か所のはけ口にむかって押し寄せてくる力は、想像を絶するものだったのだ。
リールの巻き取り機能は、水圧のせいでまったく作動しない。
コードの強度があとどれだけ耐えられるのか、あるいは三人の握力や体力がいつまでもつのか、いずれにしても限界は目前だった。
「ステファン、岸に登れ!」
岸壁に身体が押しつけられたところで、ゴドフロアは大声で呼びかけた。
その声は後方の瀑布から上がってくる轟音になかば吞みこまれてしまったが、ステファンとしてもほかに思いつく方法はなかった。
片手でコードにすがりながら、もう片方の手を伸ばして岩の割れ目に指を食いこませ、そろそろと身体を持ち上げていく。
コードから手を離すと、とたんに下半身が水流にさらわれそうになる。
それをなんとか持ちこたえ、やっとのことで岸にはい上がることに成功した。
ちょうどうまいことに、ステファンのすぐ眼の前に枝ぶりのいい松が生えていた。
水辺にせり出している一本の枝にぶら下がり、徐々に先端にむかって体重をかけるようにしてしなわせていき、水面の二人の頭上まで届かせた。
先にカナリエルをつかまらせ、その身体に腕を回してゴドフロアも枝をつかんだ。
「いくよ!」
ステファンが枝を離すと、魚が釣り上げられるように二人の身体が勢いよく水の上に飛び出してきた。
岩場の上に達すると、だれもが力つきてへたりこんだ。
すぐ先に滝の全景が見える。
水量のたっぷりある滝つぼにまっすぐ注ぎこんでいくような滝ではなかった。
岩がごろごろ積み重なった斜面を、水が激しくしぶきを上げながら流れ下っている。
そこに引きずりこまれてしまったら、あちこちの岩に身体を打ちつけられ、骨がぐずぐずに砕かれていたことだろう。
ステファンは足をよろけさせながら、コードを巻きつかせた松のところにカギを回収しに行った。
命綱となったリールの利用価値の高さにあらためて気づかされたのだ。
だが、すぐにあわてふためいてもどってきて言った。
「やつら、ものすごい速さで駆けて来るよ。渓流の出口をとっくに過ぎている。ぼくらも急がないと」
「そうだった。おれたちは、目標の岸辺からはかなり離れたところまで押し流されてしまったんだ。のんびり休んでるひまはない」
ゴドフロアは、すぐさまカプセルを背負って立ち上がった。
ステファンの先導で岩場を乗り越え、ふたたび岸へと出た。
対岸から見たとおり、滝の付近以外はこちら側の岸はずっと平坦になっている。
それだけスピリチュアル兵たちも走りやすいということだ。
疲れ果てていたが、ここでぐずぐずしていて捕まってしまったら、今までの苦労がすべて水の泡になる。
最後の気力をふりしぼった。
「あの岩の陰ね」
カナリエルが目ざとく馬を見つけた。
岸からすこし入りこんだ岩の陰に、二頭が並んでつながれている。
それと同時に、追跡隊の姿もはっきり視界に入ってきた。
その距離がみるみる縮まっていく。
馬のいる位置が双方の中間にあるのだから、それは当然だった。
「やばいよ。あの勢いだと、馬のところにたどり着く前に追いつかれちまう」
ステファンが声をうわずらせた。
相手も走りづめでそうとう疲れているはずだが、最後のところで背後から襲われたらひとたまりもない。
もう戦うしかなかった。
「カナリエル――」
ゴドフロアは声をひそめて呼びかけた。
「ええ」
「やつらの手前に大きな岩がある。あの陰に隠れろ。おれたちが戦闘に突入したら、横手の木立にまぎれて馬のところまで先に行くんだ。手綱を解いて待ってろ。いいな」
「わ、わかった」
カナリエルがうなずくと、ゴドフロアとステファンはその岩を乗り越えて平らな浜辺に降り立った。
「注意をこっちに引きつけるんだ。死ぬ気で戦わないと勘づかれるぞ」
ゴドフロアは、横を駆けだしたステファンに警告した。
「わかってるって。ぼくらが絶対不利ってわけじゃない。やつらにも弱点がある。ぼくだってこんどは得意の武器を使えるからね」
ステファンは片眼をつぶってニヤリと笑い返した。
能天気なくそ度胸かとも思えたが、まんざら勝算がないわけではなさそうだった。
追跡隊は二人が向かってくるのを眼にして、徐々に足をゆるめはじめた。
逃げ切れないとみて無謀な攻撃に出たのだろうと、薄笑いを浮かべている者もいる。
手に手にレイピアを抜き放ち、散開しながら接近してきた。
遅れるゴドフロアにかまわず、ステファンはそこに猛然と突進した。
走りながら、肩かけのかばんから丸めて輪にしたひものようなものを取り出す。
ひもはパラリとほどけて三メートルほどの長さになった。
なめした革ひもを何本も編み合わせたムチだった。
スピリチュアルの先頭とぶつかると同時に、ムチが鋭い風切り音をたてて襲いかかった。
「うわっ」
「ぎゃっ」
たちまち一人がレイピアをはね飛ばされ、一人が胸にまともに一撃をくらって倒れる。
ステファンは頭上でムチをぐるぐる回転させながら、敵のまっただ中に突入していった。
さすがにスピリチュアルたちは身軽で、つぎつぎと有翼獣のように数メートルも跳躍して逃れる。
しかし、整然とした隊列はあっという間に崩れた。
しかも、跳びすさった先が運悪く湖の中になってしまった者が何人もいる。
派手な水しぶきを上げ、ぶざまに手足をばたつかせている。
地上での勇姿はたちまち見る影もなくなった。
ステファンの奇襲で敵は完全に浮き足立った。
ゴドフロアはそこに鋭く斬りこんだ。
「くそっ!」
先頭の男はまだ体勢を持ち直せないところを襲われ、レイピアを構えるいとまもなく太い腕のひと振りで軽々とはね飛ばされ、湖に転落していった。
代わって斬りかかった男は、一合、二合とゴドフロアの短剣となんとか斬り結んだが、重い剣戟に圧倒されてずるずる後退する。
突き出された剣先をかわそうととっさに跳躍したものの、そいつが落下していったのはやはり水の中だった。
ゴドフロアのねらいもステファンと同じだ。
水の苦手なスピリチュアルたちを湖にたたき落とすことで、手っ取り早く戦力をそいでいくことだった。
三人めが片手で軽々と遠くの水面に投げこまれてしまうと、さすがに精鋭ぞろいの追跡隊はその意図に気づいた。
しかし、そうなると、湖を背にしたゴドフロアの前にうかつに踏みこんでいくことができなくなった。
隊列の最後尾まで駆け抜けたステファンは、ムチを巧みにあやつって残りのスピリチュアルと互角以上に渡り合っていた。
レイピアを構えた手をしたたか打ちすえられて取り落としてしまう者がいるかと思えば、ムチにレイピアをからみ取られ、湖に放り投げられてしまった者もいる。
単純な回転運動ならつけ入る隙もあるのだが、ステファンがあやつるムチはまるで生き物のように自在に動き回り、しなやかに宙を舞った。
それに手を焼いたスピリチュアル兵たちは、飛び道具には飛び道具をと、背中のリールからコードを引き出しはじめた。
投げ縄のようにクルクルと回転をつけ、ステファンめがけてつぎつぎ投げつけてくる。
だが、ステファンのムチさばきはみごとなものだった。
先端のカギをつぎつぎねらいすましたように撃ち落としていく。
なんとかムチにからみついたコードも、もう一方の手に構えたナイフであっさり切断してしまう。
しかし、人数の優劣は決定的だった。
いったん水に落ちた者たちはすぐには回復しないものの、陸に上がればなんとか普通のフィジカル兵なみの能力は発揮できる。
一時は戦力が半分近くまで落ちこんだが、奇襲の効果が薄れていくにつれ、しだいに態勢を挽回してきた。
「離れるな。背中合わせで戦うんだ!」
ゴドフロアがステファンにむかって怒鳴る。
「わ、わかってるって。だけど……」
お互いが孤立してしまうことの不利は明白だったが、二人は人数をかけて取り囲む壁に隔てられ、あせる気持ちとは裏腹に分断されはじめた。
ゴドフロアは奪い取ったレイピアと短剣の二刀を構え、つぎつぎと襲いかかる敵の攻撃をはね返しているが、深追いしてこようとしない相手に手傷ひとつあたえることができず、いらだたしげに歯がみした。
ロッシュの副官格らしい長身の男が先頭に立ち、混乱した陣形を立て直し、細かい指示をあたえていた。
スピリチュアル兵たちは、重いカプセルと足かせをかかえたゴドフロアを疲れさせる作戦に切り換えたのだ。
一方のステファンは、包囲されるのを避けるためには、もう水中に逃げるしかなかった。
浅瀬に陣取れば、後方に回りこまれる恐れはない。
スピリチュアルは水に近づくのをきらって無謀な攻撃をしかけようとはせず、遠巻きにして隙をうかがっている。
これで二人は完全に引き離され、しかも戦闘は膠着状態になった。
時間が過ぎれば過ぎるほど、状況は悪くなるばかりだ。
(どうにか打開する手はないか……)
ゴドフロアは、スピリチュアルの波状攻撃をなんとかしのぎながら、左右にすばやく視線を走らせる。
そのあせりを見て取った副官格の男が、ゴドフロアの注意がわずかにそれた瞬間、思いきり高々と跳躍した。
空中でレイピアを大上段に振りかぶり、必殺の気合いをこめて斬り下ろそうとする。
ゴドフロアは、眼の端をかすめた影をかろうじてとらえ、ハッと顔を上げた。
そのとき、ヒュンと空気を切り裂く音がしたと思うと、男のレイピアに黒い細ひもがくるくると巻きつくのが見えた。
レイピアはあらぬ方向へ引っぱられ、宙を飛んでいった。
その柄をつかんだのは、馬にまたがった若い女だった。
二頭の馬が、包囲するスピリチュアルを蹴散らすように戦いの輪に割りこんできた。
「はやく乗って!」
暴れる馬体と手にしたレイピアで周囲を威嚇しながら、馬上のカナリエルが叫んだ。
ステファンはすばやく岸に駆け上がり、驚くスピリチュアルたちの間をかいくぐってカナリエルの背後に跳び乗った。
ゴドフロアは眼の前に来たもう一頭の馬の首にしがみつくようにして、なんとか身体を馬上に引き上げた。
カナリエルはみごとな手綱さばきで馬をくるりと回頭させると、一瞬の躊躇もなくその腹を強く蹴りつけた。
二頭はたちまち弓から放たれた矢のように駆けだした。
そのときになって、スピリチュアル兵たちは、ゴドフロアたちがあえて湖を泳ぎ渡った意図にようやく気づいた。
しかし、彼らも長い疾走と戦闘のために疲労の極に達していた。
すぐに追跡を再開することはできず、木立の間をみるみる遠ざかっていく三人の後ろ姿を呆然と見送るしかなかった。
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