第五章 3 崖っぷちの三人

「ロッシュ……」

 カナリエルが、あえぐようにその名をつぶやいた。


 背後の木立の間から、長身の若者が悠然と現れた。

 身体にぴったりした濃紺の警備兵の軍装をしている。

 それにつづいて、木立のあちらこちらから、スピリチュアル兵士がつぎつぎわき出すように出現した。

 どこにも逃げる隙を作らない、いかにもロッシュらしい布陣だった。


「カナリエル、迎えに来たよ。もう気がすんだだろう。ブランカに帰ろう」

 ロッシュは、二人きりでいるかのように静かに語りかけた。

 高圧的なところも、あせったようなところもない。

 装っているのかもしれないが、ごく自然な態度を持している。


「あなたは頭のいい方だわ。もうわかっているでしょう。わたしは、ブランカの生活も、スピリチュアルとしての生き方もいやで、出てきたの。もどることはできないわ」

「カナリエル、私のことは言ってくれないのか? だれよりもきみを愛している。どうか、私のために帰って来てくれ」

「だめなのよ。あなたがいくら愛してくれていても、わたしは……」

「私に原因があるのなら、何でも――どんなことでもいい、言ってくれ。それをかならず直そう。そうするように、ありったけ努力する。きみが望む男こそが、理想のスピリチュアルなのだから」

「いいえ。あなたは、そのままでこそあなたよ。あなたは、完璧なまでに立派なスピリチュアルだわ。だからこそ、わたしはあなたにはふさわしくないのよ。わたしのことは忘れてちょうだい。そして、行かせてください。どうかお願い――」

 カナリエルの眼はうるみ、訴える声は涙声になっていた。

 しかし、顔をしっかりともたげ、気丈にロッシュを説得しようとした。

「だめだ。きみがあくまでも逃げようとするなら、私はどこまでもきみを追っていく」

 ロッシュは声をしぼりだすようにして言った。


「おい。おたがい、堅苦しいご挨拶はそれくらいでいいだろう。カナリエル、こいつにはっきり言ってやれ――」

 ゴドフロアが短剣を抜き、言いながらカナリエルをかばうようにズイッと前に出た。

 大男ぞろいのスピリチュアル兵たちが、無意識のうちに一歩後ずさってしまうほどの迫力だった。

「おまえなんか大嫌いだ、ってな」


 一瞬気圧されてしまった屈辱感と、男の乱暴きわまりない言葉に兵士たちがたちまち色めき立ち、いっせいにレイピアを抜き放つ。

「おまえがゴドフロアか。奴隷の分際で、よけいな口出しは無用だ」

 ロッシュの眼が細められ、冷たい光を放った。

「奴隷じゃない、傭兵だ。それに、よけいな口出しでもない。おれの役目はカナリエルをおまえたちから守ることだからな」

「そうか。では、よくぞここまで守ってくれたと礼を言おう。私の仲間をつぎつぎ出し抜いてきたこともほめてやる。――それから、そっちの若いフィジカルの男。どうやらおまえが現れたせいで、少々私の読みが狂わされたようだ。名は何という」

「ぼくは、ス――」

「馬鹿、黙ってろ!」

 ステファンが得意げに名乗ろうとするのを、ゴドフロアがさえぎった。


 ロッシュが笑った。

「そうだな。それがかしこい。カナリエルを引き渡してくれるなら、おまえたち二人は逃がしてやってもいい。ゴドフロアのほうは、今や全土が制圧された帝国のすみずみまで、重罪人として指名手配されるだろうが、おまえは人相書きだけですむ。その気取った長髪をばっさり切り落とせば、生き延びることも可能だ。どうだ、取り引きに応じないか?」

「あ、いや、ぼくは、その……」


「こいつの甘い口車に乗るな。応じたら最後、この場でたちまちズタズタにされるぞ。そうなるのがいやなら、リールを使ってカナリエルといっしょに飛び降りるんだ」

 ゴドフロアが、うろたえるステファンにむかって怒鳴った。

「で、でも、あんたは――」

「降りる途中でコードを切られてしまったら、岩場に真っ逆さまだ。おれが盾になって守る。さっさと行け!」

「だめよ、ゴドフロア。あなた一人を置き去りになんてできない!」


 三人が内輪もめする様子を眺めながら、ロッシュは皮肉っぽく笑った。

「どうした。話し合いはまとまらないようじゃないか」

「うるさい。それはなあ……」

 ロッシュのほうへゆっくり向き直ると、ゴドフロアは謎めいた笑みを浮かべて言った。

「カナリエルが、おれに……惚れてるからなんだよ」

「なんだと?」


「おまえがのぞいた崖の途中の穴ぐらは、昨夜おれたち二人が抱き合って寝た跡さ」

「ゴド……」

 カナリエルの眼が、驚きに大きく見開かれる。

「馬鹿な。スピリチュアルの女は――」

 ロッシュのつねに落ち着きはらった声が、わずかにうわずった。

「もちろんさ。だから、こうやって手のひらを合わせて、それから口づけした。激しくて、そして全身がとろけるくらい、いい気持ちだったぜ」

「カナリエル……それは本当なのか?」

 ロッシュに鋭く詰問され、カナリエルは思わず後ずさった。

「言ってくれ。こいつの言葉が、真っ赤なうそだと言ってくれ!」


「……ほ、本当よ」

 あえぐように声を震わせ、カナリエルはやっとのことで言った。

「だから、わたしは、もうあなたのものにはなれないわ」

「うそだ!」

 ロッシュは激高して叫んだ。

「許して、ロッシュ……」

 カナリエルは、哀願するように両手を握りしめてつぶやいた。

「お別れよ。さようなら――」

 そう言うなり、くるりと背を向けたと思うと、あっという間に断崖から身を躍らせた。


「おおっ」

 すべての者が驚きの声を上げ、その場に凍りついた。

 ひと呼吸おいて、激しい水音が上がった。

 カナリエルは岩場を飛び越えたのだ。


 リールを手にしたまま、ステファンはどうしたらいいかわからず、ためらいがちにゴドフロアのほうを見た。

「カナリエルは泳げない。おまえも跳ぶんだ!」

「わ、わかった――」

 ステファンは短い距離でせいいっぱいの助走をつけ、虚空にむかって跳躍した。


 同時に、ロッシュがゴドフロアに斬りかかった。

 ギンッ――

 ゴドフロアの短剣が、斜めに鮮やかな弧を描くロッシュのレイピアを受け止めると、激しい火花が散った。

 ロッシュはさらに、眼にもとまらない速さで、二撃め、三撃めをくり出す。


 剣技を誇るスピリチュアル兵とは何度も対戦してきたが、そのゴドフロアが驚くほどのあざやかな剣さばきだ。

 恐るべき技量に加え、カナリエルを奪い返そうという強い執念がきゃしゃなレイピアに乗り移っている。


 ゴドフロアのほうも短剣とは思えない力強さで、一合、一合をはね返していく。

 ビュン――

 ゴドフロアの耳元で鋭い剣風がうなった。

 互角の勝負と見て、横合いからエルンファードが加勢の一撃を放ったのだ。

 ほとんど余裕のないゴドフロアはとっさに跳びすさって身をかわしたものの、足かせの重さのせいでわずかに体勢を崩した。


「死ねっ」

 怒りと憎悪をそのひと振りにこめて、そこにロッシュが撃ちかかった。

 ガッ――

 二本の剣が互いを咬み合うように衝突した瞬間、足かせをつけられたほうのゴドフロアの足がズルッと滑った。

 後ろには、支えとなる地面がなかった。

 ゴドフロアの巨体は、いきなり何者かの大きな手で引きずりこまれたかのように、あっという間に崖の端から消えた。


 エルンファードがまっ先に突端に駆けつけた。

 ゴドフロアは、崖の途中に生え出している小さな木にかろうじて片手でしがみついていた。

「どこまでしぶといやつなんだ」

 エルンファードが短刀を投げつけようとすると、ロッシュが横からそれを制した。

「岩場に転落するのは時間の問題だ。それよりカナリエルの行方だ」


 水面には波紋の広がりが見えるだけで、先に飛びこんだ二人の姿はない。

 じりじりするような時間が経過する。

 実際にはまだ一分もたっていないのだろうが、その何倍もの長さに感じられた。


「あっ、あそこに――」

 兵士の一人が指さした。

 岩場から一〇メートルほど前方の水面が割れ、若い男の頭が飛び出し、つづいてカナリエルの顔が見えた。

 男の腕に抱えられているが、眼は閉じられていて意識があるのかどうかわからない。

 若い男はカナリエルの身体をささえているのがやっとで、彼女の頭は力なく浮いたりもぐったりをくり返すばかりだ。


 と、そのとき、カッカッカッと何かを打ちつけるような音がして、ゴドフロアがぶら下がっている木がガサガサと揺れた。

 ゴドフロアが短剣を振るい、彼の腕ほどもある太い幹に斬りつけているのだ。

 何を意図しているのかだれ一人見当がつかないうちに、木はメキッと乾いた音をたてて根元から切り離された。

 それと同時に、ゴドフロアが、両足で壁面を力いっぱい蹴りつけた。

 その勢いで木を腕のわきに抱えたまま空中で一回転すると、岩場の先端をぎりぎりのところでかすめ、かろうじて湖面に着水した。


 銃を持った数名がすぐさまゴドフロアめがけて発砲したが、木の枝と葉にまぎれてなかなかねらいが定まらない。

「やめろ」

 エルンファードが銃身を下げさせた。

 木につかまったゴドフロアが、カナリエルたちのところまで泳ぎついたのである。

「やつら、対岸に向かう気だな。岸づたいに先回りしよう」

 隊長格のだれかが、ロッシュにむかって声をかけた。


「いや、こちら側からでは無理だ。あれを見ろ」

 無言のロッシュの代わりに、エルンファードが言った。

 指さす先には、森が途切れている場所があった。

 そのむこうに蒸気が上がっているように見えるのは水煙だった。

 裏ゲートの警備隊長だけあって、エルンファードはブランカ周辺の地理に精通していた。

 だれの耳にも何かずっと聞こえていたのは、湖から滝となって流れ落ちていく水の音だったのだ。


「湖を回りこんでいくしかない。もどるぞ!」

 ロッシュの命令も待たず、エルンファードが先頭に立って身をひるがえすと、兵士たちは今来たばかりの坂道を飛ぶように駆け下りて行った。

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